第86話薙沙の話をしますか?
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響のいう「ナギ姉」というのは、とある女性の呼び名だった。
桜井薙沙。女性の本名というのはそれで、さらに苗字で察する者も多いだろうが、彼女こそ「さくらい」の施設長である。
以前――つまり、時間遡行前の世界で、袈刃音は薙沙の存在を僅かながら知っていた。
雑に染めたのか、金色とその中に交じる黒髪。高い背と鋭い瞳。
そして、響に薙刀を教えた師であるという事。
だが、今挙げた情報以外は声も性格もよく分かっていない。
彼女は袈刃音と出会う数日前に亡くなっていたのである。
響によれば、恐ろしく強い女性だったという。
精神的にというよりも、無論、武力という意味合いでだ。
そんな人がどうして死んでしまったのか、それは一旦頭の隅に置いておくとして。
袈刃音はふと疑問に思った。
「あれ?そういえば、その人、施設にいなくないか?」
「ナギ姉はゲームが始まった時、出掛けてたからね。でも、あの人強いから、どれだけ遅くても一週間後くらいには会えると思う。……うん、未来ではそのはずなんだ」
自分へ言い聞かせるように言う響は眉間へ微かに皺を寄せ、曇った表情になっていた。
「どうした?」
袈刃音が訊くと、彼女は少年の方へ顔を向けた。
「いや、ちょっとね。変でさ。私、時間が巻き戻った後、記憶が本物だって確信してもナギ姉には連絡しなかったんだ。ナギ姉は、前の世界と同じ様に動く方が安全だと思ったから、余計な事したくなくて」
「……それで?それがどうかしたのか」
特におかしな話ではない。
少年はそう思ったが、響は首を横に振る。
「【守護者】、あいつ等の所為でゲームの進行が早まったでしょ?だからそれを知った時、不安で私、ナギ姉に電話したんだよ。早く施設に帰って来て欲しいって。メッセージにゾンビの情報も乗せてね。既読も直ぐについた。……けど、テラの結界を抜け出してからは全然駄目。ほら、これ見て。何回もメッセージを送ったり電話を掛けてみたりしてるけど、返事が返って来てないでしょ?」
言いつつ、携帯をこちらに向けられる。
「07/16 13:34
ひびき:通話が終了しました
07/16 13:36
ひびき:ゾンビは音に反応するし、【ポイント】を消費して手に入れた武器じゃないとダメージないからね。気を付けて、絶対噛まれないように!【ポイント】は、初期ボーナスとして皆100ずつ配られてる。あと、ゾンビを倒しても手に入るよ
既読
07/16 13:36
ナギ姉:わぁった。直ぐそっちに向かう!
07/16 13:37
ナギ姉:待ってろ!
――ここから先は既読がついていません――
07/18 20:23
ひびき:こっちは大丈夫、そっちは?
07/18 20:30
ひびき:電話、いつでもして
07/19 08:11
ひびき:通話 応答なし
07/19 08:13
ひびき:通話 応答なし
07/19 08:15
ひびき:何かあった?
07/19 12:07
ひびき:今、電話しても大丈夫?
07/19 12:30
ひびき:3時に電話するね
07/19 15:00
ひびき:通話 応答なし
今日
07/20 08:41
ひびき:通話 応答なし
07/20 08:44
ひびき:また12時に電話するけど、いつでもかけて来ていいからね」
記録を見る限り、返事どころか、薙沙は響の送ったメッセージすら読んでいなかった。
いや、もしかすると読めなかったのかもしれない。
「敢えて未読無視する理由なんてないし、単純に電池切れしたとか。ほら、ゲームが始まってからもう七日目だし、携帯の充電ってそこまで持たないだろ?」
「それは、確かにそうだけど……」
響は複雑な表情のまま、その翡翠色の瞳を再び携帯画面へ落とした。
「そうだけど、心配だ」と言いたのだろう。
響の胸の内を察するのは、そう難しい話ではなかった。
幾らもっともらしい根拠を並べ立てても、桜井薙沙がまだ戻って来ていないという事実は、頭の隅で残り続ける。
それに、未来の情報も既に確実とは言えない。
不安に思わない人間など、余程の楽観主義者くらいだろうし、聡明な彼女がそうであるはずはなかった。
「探してみようか?響、桜井さんを」
「え?」
「この後、外に出るから、そのついでにさ。どうする」
袈刃音の問いかけに、響は顔を上げた。
「いいの?」
「大丈夫、全然問題ない。で、どうす――」
「うん、お願いっ。ぜひお願い」
「はは、分かった分かった。近いって顔。……じゃあ、直ぐに出発するから、その間は拠点の守りは任せるな?」
「りょーかい、任せといて。っと、そうだ。一応、ナギ姉に袈刃音が迎えに行くって――えっ?」
響がメッセージ文を打とうと携帯の画面を見ると、彼女は驚いたような顔をした。
「どうかしたか」
「既読がついてる。メッセージに既読が……」
液晶画面に映る表示を食い入るように凝視する響。
直後だった。それまで静寂を徹底していたデバイスが、突然振動し、大きな着信音を鳴らし出した。
数舜、響は固まった。
当然である。電話をかけて来た相手は、桜井薙沙。
たった数秒前まで音信不通、かつ行方の知れない人物だったのだから。
しかし、響は思い出したように着信に応じ、スピーカーモードへと切り替えた。
「っ!も、もしもし。ナギ姉、良かった。あぁ、ホントに……そうだ、今どこにいるの?迎えに行くから――」
『はァ、はァ……何とか繋がったか。よぉ、元気、そうだな響……よかった』
想像よりも高く、少しハスキーな女性の声音。
恐らく薙沙のものだろう。
だが、携帯を通して聞こえる声は息切れしており、袈刃音には酷く疲れているように聞こえた。
「う、うん。元気だよ、全員元気」
『はァ……はは。そうか、全員無事か。だ――ザザ――たら、もういいや』
何か様子が変だった。
響もそれを感じ取ったのか、眉を顰める。
安堵したような、それでいてどこか吹っ切れたようでもある声音。
「いい、って……何が?どうしたの、ナギ姉」
「――ザザ――……」
「ナギ姉?」
返事がなかった。
耳には通話の最中交じった雑音だけが残り、袈刃音と響の胸をざわつかせる。
「ナギ姉。今、どこにいるの?」
「さてな、ど――ザッ――だか」
「ちょっ、冗談言う時間じゃないよ。いいから、どこにいるのか教えて!」
叫ぶように言った響だが、薙沙は一向に自分の居場所を答えようとしない。
何だ。一体、何がどうなっている?
響が顔に焦りを滲ませる一方で、袈刃音は一種の混乱に陥っていた。
だが、状況を飲み込めないままに、事はどんどん先へ進んで行く。
「……教え――ザザ――馬鹿。それよか満実に――ザザ――えとけ響。あ――ザザ、ザ――任せるぞってなぁ」
「っ?」
「ま――ザザ――たら――ザザザ――からよ」
「な、何て?ナギ姉、聞こえないよ。ナギ姉、ナギ姉!」
「チッ、気付かれ――ザ――!く、こンの――ザ、ザザ、ザザザ――ガシャン!――ザザザ――ガン、ガン――ザ――カン――ザザザ、ザザザザザザ、ザザ、ザ…………ッ。ッ」
「えっ。ナギ、姉……?」
通話が途切れたのは突然だった。
先程までスピーカーから届いていたあの荒々しい音が、まるで嘘だったように静かになる。
代わりに、周囲で鳴いていた蝉の声が、嫌にうるさく聞こえ始めた。
ジジジ、ジジジ、と他の音全てに――世界に置き去りにされたようなその鳴き声だけが、けたたましく。
暑い、暑い、夏の朝。
呆然と立ち尽くす少年と少女は、自身の体から血の気がサーっと引いて行くのを感じた。
響が青くなった顔を袈刃音に向け、震える声で、呟くように言った。
「……な、ナギ姉が、危ない――」
予定通り熱が出て、寝込んだっていう、ね……。
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