名前のない花束を君に
人生の大一番を明日に控えた、前夜。
エドワードは宿屋のベッドで仰向けに寝転がっていた。
天井をぼんやりと眺めている。
職業冒険者、歳のころは二十歳。
白みがかった銀色の髪が目を引く、中性的で整った顔立ち。
理知的で思慮深さを思わせる、深い紅色の瞳。
その容姿はいかほどかと世の若い女性十人に問えば、きっと十人全員が美男子だと答えるであろう。
「白銀騎士」の呼び名に嘘偽りはない。
やがてエドワードは睡魔に襲われ、うつらうつらと夢の中に落ちていく。
そうして脳裏に浮かばせたのは、名前のない白い花が一面に広がる花畑と、その中に独り寂しく佇む一人の令嬢の姿だ。
雲が薄く棚引く空の下、彼女は独りでいる。
たった独りきりで。
『私はここでずっと待ってるの。私の騎士様が迎えに来てくれるのを』
そう言った令嬢の横顔は美しくも儚く、当時九歳だったエドワードを虜にした。
◆
今より十一年前。
エドワードはリヴァルという名の町で暮らしていた。
王都から遠く離れた辺境の地にある、小さな町だ。
人口も五百人と少なく、町民の全員が顔見知りといった狭い町だった。
そんなリヴァルの町で、エドワードは孤児として生まれ育った。
親兄弟の顔は知らない。
赤子のときに孤児院の前に捨てられていたそうで、優しいシスターの院長に保護されて育った。
町同様、孤児院も小さく、そこで暮らしていたのは三人のみ。
エドワードとシスター、そしてレッカという名の同い年の少女。
レッカはシスターの一人娘だ。
父親こそ早くに病で亡くしてしまっているが、エドワードと違って孤児ではない。
母親譲りの薄桃色の髪と同じく薄桃色の瞳をもつ、目鼻顔立ちのはっきりした少女であり、明るく活発な性格をしていた。
そうして三人仲良く、慎ましく暮らしていたある日。
リヴァルの町に一人の令嬢がやってきた。
令嬢はモンターギュ侯爵家の息女で当時十七歳。
どうやら王都の学園で揉め事を起こしたことから婚約者に婚約破棄を言い渡され、この町に追放されてやってきた、などという噂話も流れた。
だが九歳のエドワードにとってはまったく興味のない話だった。
その令嬢は町外れにぽつんとある屋敷で住み始めた。
ただ町中にその姿を見せることは一度としてなく。
王都から連れてきた数人のお供とともに、屋敷の中でひっそりと暮らしているようだった。
彼女が越してきてから立つこと少し。
エドワードはレッカを連れて白の花畑に遊びに出かけた。
白の花畑という名前は、名前のない白い花が一面に咲いていることに由来している。
地面から生やしたひょろ長い茎の先に、ほんの小さな白い花弁を咲かせる花。
そんな珍しくもなければ価値もない、みなから雑草扱いされているような花がたくさん咲いていることから、二人はそこを白の花畑と呼んでいる。
その白の花畑は、令嬢の住む屋敷から近い場所にある。
屋敷の裏手から山のほうに向かって五分と歩けば着く。
もともと町中から離れたところにあり、名前のない白い花が咲いているだけの花畑であることから、普段から人も寄りつかない場所だった。
孤児院からも近いことから二人の格好の遊び場であった。
そこでエドワードは初めて彼女の姿を見た。
白い花が一面に広がる花畑で、独り寂しそうに佇むその姿を見た。
そして一目で恋に落ちたのだ。
その輝くような金色の髪に。
その雪のように白い肌に。
その憂いを帯びた可憐な横顔に。
この世のものとは思えないほどの美しさに。
エドワードは一瞬で目を奪われ、心を奪われてしまった。
「わぁすごくきれいな人がいる! こんにちは!」
立ち尽くすエドワードを尻目に、レッカが彼女に元気よく声をかけた。
「こんにちは」
「初めまして! 私はレッカです! あっちはエドワード! お姉さんのお名前はなんていうの?」
「ユイよ。よろしくね、レッカちゃん」
そう言って微笑んだ彼女――ユイに、エドワードの胸は大きく高鳴らされた。
どくんどくんと激しく鳴る鼓動の音。
耳にまで届くその音の理由をエドワードはすぐに理解した。
自分はユイを好きになってしまったのだと、幼いながらにはっきりと理解した。
その日を境に、三人は白の花畑でよく遊ぶようになる。
もっとも遊ぶといっても、声をあげて走り回るエドワードたちをユイが静かに見守るといったような形で、三人揃って無邪気にはしゃぐようなことはなかった。
エドワードとレッカが遊ぶ様子をユイはただ、微笑ましいものを見るような目で眺めていた。
またエドワードたちが遊び疲れたら、三人並んで座り、たくさんお喋りをした。
基本的にはレッカを中心にお喋りをすることが多く、エドワードとユイは聞き役に回ることが多かった。
好き放題に喋るレッカの話をユイが丁寧に拾っては広げ、エドワードは聞き役に徹する、といった形だ。
そんな中、ユイが自分のことを話すことは滅多になかった。
聞かれたことにはちゃんと答えてくれるものの、彼女自身のことについては話をやんわりと濁されてしまい、どうも話したくはなさそうであった。
それはエドワードとレッカの二人も、彼女と過ごす中ですぐ気づいたこと。
だから二人も、楽しい時間を壊さないように、彼女をいたずらに傷つけてしまわないようにと、幼いながらに気を遣って無理に聞き出そうとはしなかった。
「ユイちゃんはこの白いお花が好きなの?」
ある日、レッカが何気なくユイに聞いたことだ。
「好きに見える?」
「うん。だっていつもこのお花畑にいるから。好きなのかなって。違うの?」
それに対する答えが冒頭のもの。
「そうね……ごめんね、ちょっとずれた答えになっちゃうけどいい?」
「うん」
「私はね、ここにいたいからいるの」
「ここに?」
「ええ、そうよ? 私はここでずっと待ってるの。私の騎士様が迎えに来てくれるのを」
その美しくも儚い横顔に、エドワードは改めて虜にされ、こうも思った。
騎士様を待っているのなら自分が騎士になろう。
そして彼女を迎えに来てあげよう、と。
ただ口にして伝えることは難しく。
その後もお喋りを続けるユイとレッカを横目に、エドワードはもじもじと思い悩んだ。
言うべきか、言わないべきか。
もし言ってしまえば、あなたのことを好きだと伝えるようなものだ。
さすがに恥ずかしい。
でも、しばらくすれば自ずと決心はついた。
恥ずかしいと思う気持ちよりも、ユイを喜ばせてあげたいと思う気持ちが勝ったからだ。
心優しい彼女なら、自分の好意を優しく受けとめてくれるとも思った。
きっと喜んでくれると思った。
「じゃ、じゃあ僕が騎士になって迎えに来るよ!」
勇気を振り絞り、顔を真っ赤にしてエドワードは言った。
なおユイを直視することはできず、目は少し先に咲く白いの花に向けられたままだ。
「な、なな、なに生意気なこと言ってるのよっ! エドワードのくせにっ!」
「あらあら」
なぜか頬を赤らめて怒るレッカ。
口に手を当ててくすくすと笑うユイ。
そんな二人へ、エドワードはこそばゆい気恥ずかしさを感じながらも笑みを返した。
その日から、エドワードの騎士を目指す日々は始まった。
では、どうすれば騎士になることができるのか。
シスターを始めとする大人たちにエドワードが手当たり次第に聞いてまわったところ、現実的なものとして三つの答えが返ってきた。
一つ目は、戦争で武功を立てて国王から騎士爵を叙勲してもらう。
二つ目は、各地の領主を主君として仕えて騎士爵の叙任を受ける。
三つ目は、騎士の家系に養子入りして騎士爵を世襲する。
ただ九歳のエドワードでは、それら三つの選択肢をよく理解できなかった。
もっといえば、まず騎士爵そのものが一体何なのかわからない。
金属の鎧を着て剣を手に戦う騎士の姿は想像できても、身分の違いや爵位云々といった小難しい話はさっぱりであった。
それでもわからないままではいられない。
エドワードは、話しかけられる大人の中で一番に騎士っぽい衛兵の男性に、どうすれば騎士になれるのかとしつこく食い下がった。
「坊主もしつけぇなぁ。だから早い話が強くなりゃいいんだよ。まぁ坊主はあれだから冒険者にでもなってみたらどうだ? 最高位の冒険者にでもなりゃ引く手数多だろ。きっとどこぞの領主様に騎士として取り立ててもらえるはずだぜ?」
そんな風に返ってきた答えに、エドワードはかけた。
一番に騎士っぽい衛兵さんが言うことだから間違いないだろう。
そう信じて自分の進む道を決めた。
とにもかくにもまずは冒険者になって強くなり、いずれ騎士になる。
そして騎士になることができたとき、ユイを迎えにこの町に帰ってくる。
まるで夢物語のような道だ。
進むべき道が見えたのなら、あとは行動に移すのみ。
エドワードはその身一つで冒険者ギルドがある最寄りの町――交易都市ロックベルに旅立った。
町に訪れた商人に粘り強く交渉し、ロックベルまで馬車に乗せてもらう約束を取りつけ、わずか三日後には出立したのだから驚くべき行動力といえよう。
レッカやシスターが引きとめる暇もないほどであった。
だが心意気やむなしく、待ち受けていたのは厳しい現実だった。
若干九歳、なんの取り柄もない孤児の少年。
そんなエドワードが冒険者になれるはずもなかった。
冒険者ギルドで冒険者登録をしようにも取りつく島もなく追い返されてしまったのだ。
厳つい壮年男性の受付職員から「十年後にまた来いや」と言われ、冒険者ギルド内に併設されている酒場で酒をあおっている冒険者たちからも笑われた。
なぜ笑われているのかと戸惑っているうちに、冒険者の一人に「坊主、また十年後に会おうな」と背中を優しく押され、外へと追い出されてしまった。
では、そんな扱いに対してエドワードがどう出たかといえば。
彼は再び冒険者ギルドの中に突入するや、「好きな人を迎えにいくために騎士になりたい」と、聞かれてもいない決意をみなに向かって公表してみせた。
これには冒険者ギルドの一同も盛大に大笑いした。
目に涙し、腹を抱えて笑うものが続出する始末。
ただの少年が冒険者を通り越して騎士になりたいなどとぬかし、その理由が好きな女のためだというのだから、さすがにおかしくてたまらなかった。
身の程知らずにもほどがあり、かつ、純粋にも不純にもどちらにもとれる恋心が動機だというのだから、誰もが笑わずにはいられなかった。
ただ中には世にも珍しい変わり者もいて。
「気に入った。ガキ、俺がてめぇを騎士にしてやるよ」
そう言ってにやりと笑ったのは冒険者ギルドのギルド長その人だった。
幸運にも、ロックベルの現領主の弟である彼の目にとまったことから、エドワードの冒険者としての生活が始まった。
といっても始めは雑用ばかりをして過ごした。
全身に謎の重りをつけさせられ、町のゴミ拾いやドブ掃除など、任せられる仕事に冒険の要素は一切なく。
訓練場ではギルド長自らによる指導によって死ぬほど扱きぬかれた。
毎夜ユイの顔を思い浮かべることで辛い日々を耐え抜いた。
あっという間に三年が経ち、町の外での活動を許されるようになってもそれは同じ。
全身に謎の重りをつけさせられたまま、ほかの冒険者たちの荷物持ちをさせられるばかりで、先陣をきって冒険するようなことはなく。
訓練場ではギルド長自らによる指導によって死にたいと思うまで扱きぬかれた。
毎夜ユイの寂しそうな顔を思い浮かべ、心が折れてしまいそうな自分を奮い立たせた。
さらに三年が経ち、十六歳になってようやくいっぱしの冒険者として認められた。
いまだ全身に謎の重りをつけさせられたままではあったが、一人で依頼をこなすことを許され、また成果を収めていった。
相変わらず訓練場でギルド長に扱かれる日々は続いていたものの、死にたいと思うことはなくなった。
毎夜ユイを想い、彼女の笑う顔を想像してから、来る明日に備えて眠った。
また三年が経ち、いつの間にか上級冒険者の域に足を踏み入れようとしていた。
謎の重りをそれほど重くは感じなくなり、思い描くに近い剣を振るうことができるようなり、討伐が難しいとされている魔物を倒すことができるようになった。
このころになるとギルド長との訓練も辛くはなくなっていた。
毎夜ユイを想うことは変わらず、彼女の夢が見れますようにと願ってから眠った。
そうしてまた二年が経ったとき、エドワードは最高位の冒険者になっていた。
謎の重りを外す許可を得てからは、未踏破であった迷宮を攻略し、単独でドラゴンを討伐してみせるなど、怒涛の躍進劇を巻き起こした。
ギルド長との訓練も楽しめるまでになり、彼と勝負しても勝つことが多かった。
毎夜ユイが自分を出迎えてくれたときの顔を夢想し、顔をにやつかせながら眠った。
「騎士爵が欲しけりゃ俺の養子になれ。くれてやる」
日課の訓練のあと。
ギルド長から唐突に言われた言葉に、エドワードは身を震わせた。
ついに騎士になる日が来たのだ。
あれから十一年もの歳月を経て、ついにユイを迎えにいく準備が整うのだ。
万感の思いに身を震わせずにはいられなかった。
『私はここでずっと待ってるの。私の騎士様が迎えに来てくれるのを』
彼女はまだ独り寂しく白の花畑に佇んでいるのだろう。
迎えに来てくれない騎士様を想っているのだろう。
自分を待ってくれているのだろう。
夢の中、あのころと何一つ変わっていない彼女をエドワードは想った。
募る想いを巡らせた。
◆
「もう朝だぜエドワード。さっさと起きろよ。今日は大事な用があるんだろ?」
扉の向こう側から聞こえる宿屋の主人の声。
いつの間にか寝入ってしまい、朝を迎えたようだ。
エドワードが横に目をやれば、木窓の隙間から朝日が室内に差し込んできていた。
手早く身支度を済ませ、階下に降りていく。
食堂で用意された朝食に手をつけていると、宿屋の主人を始めとするみながこちらを見てにやにやしている。
ぽっちゃりとした体格の女将が近寄ってくるや、無言で頭をぐりぐりと撫で回してくる。
されるがままにエドワードは食事を終え、宿屋をあとにした。
十一年ぶりに帰ってきたリヴァルの町はあのころと少しも変わっていない。
背が伸びて視線の高さは変わっても、目に入る風景はあのころのままだ。
生まれ育った故郷はなんにも変わっていない。
「ほらエドワード。しっかりやんなよ」
雑貨屋の女主人からあの白い花で作られた花束を受け取る。
昨日頼んでおいたものだ。
真っ白な包装紙に巻かれて作られた花束は見栄えがよく、花弁の白さをきれいに映えさせていた。
これならば、とエドワードも納得の代物だった。
「あっ、エドワードの兄ちゃんだ! 頑張れよ!」
「エドワードさん頑張ってね!」
通りを歩けば顔見知りの兄妹が声をかけてきた。
自分より二つ下と三つ下の兄妹だ。
幼いころの面影を残す懐かしい顔の二人に軽く手を振り返しつつ、エドワードは通りを歩いていく。
「エドワード! あの子ならあの場所で待ってるわよ!」
「幸せにしてやんな! 絶対に泣かせるんじゃないよ!」
「しかしあの坊主がなぁ……よかったなエドワード!」
「おめでとさん! お前さんは男の中の男だぜ!」
酒場の娘に、買い物籠を提げた主婦に、中年の衛兵に、鍛冶屋の親父。
通りを歩けば、見知った顔のものたちが次々に声をかけてくる。
「うおぉぉ! ついに迎えに行くのかエドワード!」
「本当にねぇ。よかったよかった、やっとこの日が来たんだねぇ」
「いやぁめでたい! 本当にめでたい日だ!」
「死ぬ前に立ち会えてよかったわい。わしはこれだけが心残りだったんじゃ」
さらに人が人を呼び、わざわざ家から出てくるものも加わって、通りの左右にはたくさんの人たちが立ち並んだ。
誰もが笑顔で見送ってくれている。
喜び、祝ってくれている。
参ったな、とエドワードは顔には出さずとも恥ずかしく思う。
雑貨屋の女主人に花束を注文したときに話が広まることを覚悟したものの、まさかここまで注目を浴びることになるとは思ってもいなかったのだ。
みなの気持ちは嬉しいには嬉しいが、実際のところ、やはり恥ずかしくてたまらなかった。
正直、穴があったら入りたい気持ちでいっぱいだ。
向かう目的地はもちろん白の花畑。
みなの声援をその背に受け、エドワードは逸る気持ちのままに歩いていく。
ようやく彼女に会える日が来た。
ようやく彼女を笑顔にしてあげられる日が来たのだと、逸る気持ちは抑えられない。
歩くことしばし。
町外れにある屋敷の前に着いたとき、ついにエドワードは彼女の姿を目にした。
「もしかしてエドワード君……?」
ユイだ。
正門の前に立つ彼女は、こちらを見て自信のなさそうな声で問いかけてきた。
エドワードの記憶にある彼女よりもいくらか大人になっているものの、その美貌に陰りはない。
白の花畑にいるのではなかったのか、という一瞬抱いた疑問も、すぐに頭から消し飛んでしまうほど美しいままだった。
「はい、エドワードです。お久しぶりです。あの、そちらの方は……?」
ただユイの横には正装をした見知らぬ男性が立っていた。
年のころは三十前後だろうか、鮮やかな金髪が目を引く見目麗しい男性だ。
さらに彼の後ろ、少し離れた場所には貴族のものと思しき高級馬車があり、馬に乗った騎兵が八騎控えてもいた。
「私はアレス・オルレアン。彼女の婚約者だ」
「え……? 婚約、者……?」
「正確には元婚約者というべきかな。それでも、彼女の許しを得ることができたいまは――」
言いかけてアレスが横に立つユイを見やれば、
「ええ。婚約者で構いませんわ、アレス様」
それこそ花の咲いたようなというべきか。
とにかく、エドワードがかつて見たことがないほどの、眩しいまでの笑顔をした彼女がいた。
ぐらりと、エドワードは立ちくらみのような感覚に襲われた。
ユイが目の前にいる手前、無様に倒れるわけにはいかないものの動揺は収まらない。
なんとか平静を装うので精一杯だ。
その後、場の流れでアレスの口から聞かされる話もよく頭に入ってこない。
かつて王都の学園に転入してきた女子生徒にアレスは魅了されてしまったこと。
そのせいで婚約者であるユイに不当な婚約破棄を言い渡し、無実の罪を着せて追放してしまったこと。
その後、女子生徒とアレスは婚約および結婚したものの、ふとしたことをきっかけにいまになってようやく魅了魔法が解けたこと。
正気とユイへの想いを取り戻した彼は、元女子生徒と離婚し、彼女のもとに許しを請いに訪れたこと。
そして最後に。
ユイは謝罪を受け入れ、アレスからの求婚に応じ、彼の妻になりたいと望んだということ。
「そう、ですか……」
エドワードは動揺から立ち直れないまま、絞り出すように口にした。
ただはっきりわかったことが二つある。
一つは、ユイはアレスと結婚する、ということ。
もう一つは、ユイの待っていた騎士様とはアレスのことだった、ということだ。
あの日、騎士様を待っていると言った彼女の言葉。
その言葉通り、騎士爵を持った男性の迎えを待っている、と受け取ったエドワードの解釈は大きな勘違いであった。
そうして、エドワードは自分が失恋したことを理解させられた。
突然、突きつけられてしまったこの現実は、けっしてすんなりと受けいれられるものではない。
むしろ受けいれるどころか、生に対する絶望感すら抱かせるくらいだ。
十一年間もの間ずっと募らせてきた想い、そしてこれまでの努力が音を立てて崩れて消え去り、もはや生きる意味すら見失ってしまうような絶望感を抱かせてならなかった。
ただそれでも――
「おめでとうございます」
エドワードは祝った。
想い人が幸せを手にしたというのだ。
祝ってあげたい。
待ち望んでいた本物の騎士様がやっと迎えに来てくれたというのだ。
祝うべきだろう。
祝って、辛く寂しい日々を過ごしていただろうこの町から送り出してあげたい。
そう思ったから、エドワードは懸命に笑みを取り繕ってみせた。
願わくば、あの悲しみ一色であった日々を貴方が忘れますように。
この十一年間を忘れてしまえるほど、これから先の貴方の人生が幸せなものでありますように。
そんな気持ちを込めて、祝いの言葉を心から紡いだ。
「ありがとう、エドワード君」
最後に向けてくれた笑みは、かつて向けてくれたどの笑みよりも輝いていた。
それでもアレスに向ける笑みとは比べ物にならない。
彼女が誰を想っているのか、はっきりと思い知らされてしまうような、美しくも残酷な笑みだった。
「さようなら……」
彼女を乗せて去りいく馬車を見送る最中、口からぽつりとこぼれ出た別れの言葉。
やがて馬車が完全に視界から消えたとき、その意味をエドワードはしみじみと理解させられた。
これは失恋という名の今生の別れであり、きっともう二度と会うことはないのだろう。
ぽっかりと穴が開いたような胸の傷に、その意味は痛いほどに染みこんできた。
「ちょっとエドワード! いつになったら迎えに来るのよ! いい加減に待ちくたびれたんだけど!」
頬を膨らませて現れたのはレッカだ。
腰に手を当て、こちらにずんずんと詰め寄ってくる。
記憶にある少女がそのまま大きくなったような、あのころと少しも変わったように見えない姿。
そんなレッカの姿を見て、エドワードは胸の痛みがふっと和らいだ気がした。
変わらない彼女を見て、妙な安心感を覚えてしまい、自然と口元は緩んでしまった。
「なに笑ってんのよ! あんたわかってるの!? 私は怒ってるのよ!?」
「ごめんごめん」
「なに半笑いで謝ってるのよ! 全然気持ちがこもってないじゃない! 大体あんたね、私が何時間あそこで待ってたと思ってるの!? さっさと迎えに来なさいよ! あ、花束はもらっておくわね」
「あっ」
「でもまぁ、この花束で喜ぶ女の子なんて私くらいなものでしょうね……ってそうそう! あのときのことだって私は許してないんだからね! なんで私に断りもなく町から出ていっちゃうのよ!?」
当分は終わりそうにないお説教を聞き流しつつ。
エドワードは花束を手にしたレッカと二人並んで孤児院へと歩いていく。
あの美しくも儚い横顔を、いつか忘れる日が来るのだろうか。
彼女がきっとあの悲しみの日々を忘れてしまうように、自分も彼女を想った日々を忘れてしまうときが来るのだろうか。
この失恋の痛みを忘れることができるのだろうか。
そんな答えの出ないことを思いながらエドワードは歩いていく。
耳にうるさいレッカのお説教を聞きながら。
失恋した直後の気分は思ったより悪くなかった。
◆
……でも、失恋したからといって慣れないヤケ酒をしたのは良くなかった。
酷く酔ってしまったせいか、ヤケ酒に付き合ってくれたレッカと一夜の過ちを犯してしまったのだ。
さらには、一体どうしたものかと距離感を計りかねているところに、「あの日が来ないんだけど!」とのお言葉をいただいてしまった。
そうなったらもう責任を取るよりほかない。
レッカのお腹の子が大きくなる前にと、二人は急ぎ結婚式を挙げた。
町民全員から祝われた結婚式は、エドワードの貯蓄を大量につぎ込んだ結婚式はそれはもう盛大なものであった。
それでも同じときを過ごすうちに自然と夫婦の愛は育まれていくもので。
幼馴染だったレッカへの親愛の情が、異性・恋人・妻といった女性に対する恋愛の情に変わるまでにそう時間はかからなかった。
あれから三年の月日が流れるように過ぎていく中、気づいたときにはレッカを好きになっており、そして誰よりも愛していた。
また、だからこそエドワードはレッカと誠実に向き合いたいと思った。
彼女を心から愛していることを、あの日をやり直して伝えなければならないと思った。
「ほらエドワード。しっかりやんなよ」
あの日と同じように、雑貨屋の女主人からあの白い花で作られた花束を受け取る。
無事に産まれて今年で三歳になる娘を義母のシスターに預かってもらい、向かう先は白の花畑。
彼女を待たせているあの場所へ、今日は見送る人のいない通りを一人で歩いていく。
やがて着いた白の花畑。
少し先の場所にいる妻は、こちらを見て笑みを浮かべている。
花の咲くような、なんて華やかなものではない。
まるで幼い子供がするような、無邪気な笑みを満面に浮かべている。
あの日、名前のない花束を君に渡してしまった。
だから今日、改めて花束を渡しなおす。
愛情という名前をつけた花束を。
お読みいただきありがとうございました!