国主の兄と翼人の妹 〜女盗賊ミランと盗賊団の黒蛇〜
「見舞いをさせていただけませんか?」
「え、いや、」
カの国、国主の長男ライアスが真っ直ぐな瞳を向けてくるのを見て、リンドバルクは少しだけ尻込みをしてしまった。自分より歳下ではあるが、まるで長男とは思えない熱い情熱を持つ、血気盛んな男だ。
「リンドバルク殿、私はティア殿に一目お目にかからねば、心配で夜も眠れません。どうか少しだけでも」
「い、妹は……ティアは貴殿にお会いできるほど体調が整っていない。申し訳ないが、今日のところはお引き取りくださらぬか」
「ティア殿のお顔の色を拝見するだけで良いのです。私はそのために、はるばる……」
「臥せっているのを無理矢理に叩き起こしては、可哀想だとは思わぬのか」
しつこく詰め寄ってくるライアスを、ぴしゃりと撥ね退ける。
「……ですが、」
「ティアはここ数日寝込んでいるのだ。遠路はるばるお越しいただいたものを申し訳ないとは思うが、お引き取り願いたい」
ライアスは、悔しそうな顔を隠しもせず、ではこれだけでもと言って、大きな花籠を置いていった。
(……一目惚れ、か)
若く、生き生きと生命力に溢れるライアスが、数ヶ月前リンドバルクに対して、それはそれは嬉しそうに頭を下げてきた。
「リンドバルク殿、美しい翼人……ティア殿に求婚することをお許し願いたい。私はあのように美しい女性を見たことがない。一目で恋に落ちてしまいました。どうか、ティア殿を私の奥方に」
何度も何度もこの宮廷にやって来ては、ティアへ会わせろと言ってくる。リンドバルクは最初の頃は、潔く気持ちの良い青年に好印象を抱いていた。
けれど、その訪問はカの国とリの国の友好のためと思っていたからだ。
だが、蓋を開けて見ると。
「ティア殿に、恋文を渡していただきたい」
「ティア殿に贈り物をさせていただきたい」
はあっと、大きな溜め息をついた。
実はティアは今、病気でもなんでもなく、ただ宮廷の奥の間で日がな一日を過ごしている。
花籠を抱える。
そして、長い廊下を歩いていき、着いた部屋のドアをノックしようとし、そして手を止めた。
「……ティア」
すでに、ティアの顔を見ない日が、十日も続いている。
リンドバルクは花籠を抱え直した。
(このように他人の手を借りなければ、お前に会えないとは……)
深呼吸し、心を決めると、数度ノックする。
はい、とくぐもった声がして、リンドバルクの胸が小さく鳴った。ドアのノブに手を伸ばす。ギギッと重いドアを開けると、すぐそこにティアが立っていた。
「あ、ティア、」
「兄様、」
沈黙が降りる。が、リンドバルクが慌てて言葉を続ける。
「これを……」
するとみるみるティアの顔色が、ぱあっと明るく変わった。両手を伸ばして、花籠を受け取る。
「兄様、ありがとうございます」
「あ、いや、違うのだ。これは、カの国のライアス殿がお前に、と」
ティアはその言葉を聞いて顔を曇らせると、それでも無理にも笑おうとし、口角を上げた。
「……そ、うですか」
その唇が、さらにぐぐっと結ばれる。その様子を見て、リンドバルクの胸は痛んだ。
「ライアス殿は……お前に一目会いたい、と」
伏せるまつ毛が、少しだけ揺れたように見えた。
「……はい、お会い致します」
「いや、今日はもう帰られたのだ。次回にでも、」
「はい、」
顔を上げ、笑う。
「では、次回にお会い致します」
「……ティア、」
リンドバルクは、胸の痛みを抱えながらも、前々から考えていたことを思い切って口にした。ティアがこうして自分の命令には、素直に頷いて了承することをわかった上でのことだ。
「……ハリアを、近衛兵団に戻そうと思う」
ティアがその瞬間、顔を強張らせた。ハリアの名前に驚きを隠せない様子が見て取れて、リンドバルクの胸はさらに痛みを打った。
「ハリアは今は軍の第一師団の団長だ。俺の間違った判断で、その昇進は遅れてしまったが、近衛兵を束ねる総帥を命ずるつもりだ」
リンドバルクはかつて、ティアとハリアの仲を嫉妬して、宮廷の内部を守る近衛兵団の団長だったハリアを宮廷の外の警備へと追いやった経緯があった。
そのハリアを、近衛兵団へと戻すと言う。
リンドバルクは、ティアの髪に触れた。滑らかな絹糸のような黒髪が指に絡まって、リンドバルクは堪らない気持ちになった。
「ハリアに守って貰えるならば、お前も安心だろう」
近衛兵団に戻れば、ティアと出会う機会も多くなる。そう理解している上での考えだ。
ここのところティアは、基本は奥の間にこもってはいるのだが、その範囲内にとどまってはいるとはいえ、廷内を色々と動き回っていた。
「リンドバルク様っ、ティア様にどうかご注意をいただけませんかっ‼︎ ティア様がお洗濯をすると言っては、女官のお仕事を取り上げてしまうのです」
「なんだと? どうしてそんなことを?」
「ミラン様との旅では、ご自分でお料理やお洗濯をされていたとか……信じられませんわ。そのようなことをティア様にさせるなどと」
リンドバルクは懐かしいミランの名を聞いて、苦く笑った。
「料理? 料理もか?」
「料理長がほとほと困っております」
そんな風に、このところのティアの様子をリンドバルクは近しい女官から耳にしていた。
けれど、かつての自分がそうしていたように、ティアを鎖で縛りつけるような生活はさせたくない。そんな思いから、リンドバルクはティアが洗濯や料理するのを見て見ぬ振りをし、そして許した。
だが、そのようにさせていたとしても、かつての自分よりは広い心を持ったと自負するのも馬鹿らしい。奥の間で囲っているのには、なんら変わりはないのだ。
(そうして、ここでティアを独り、朽ち果てさせるなどとは、到底できない)
「ハリアを呼び戻す」
もう一度、そう告げる。
ティアは眉根を寄せながら、はい、と小さく返事をした。
「ハリアが休暇の日には、い、……」
ぶわっと身体が熱くなり、舌が鉛のように重くなった。こうなるともう、自分の意思では思うように動かない。リンドバルクはそれをリセットするようにと、唾を数度、ごくりと飲んだ。
喉の渇きを感じながら、それでも無理をして口を開く。
「い、一緒に、出かけるといい。ハリアがどこにでも、馬で連れていってくれるだろう。好きな場所へ、行っておいで」
言い切ってしまえば、心の平静が取り戻せる。
「……お前の好きな季節の花がたくさん、咲いているから……」
髪を絡めていた手を引いて、踵を返す。
「はい」
背中で、小さな声を確認すると、リンドバルクは長い長い廊下をひたすら進んだ。
✳︎✳︎✳︎
「では、私のお母様は、本当は……」
言葉が続かなかった。ティアが翼人の里に一時的に戻った時、長老と呼ばれる老人の口から、聞いたことであった。
「ああ、リンドバルクの父君、すなわちサイゲルはお前の母リリスに一目惚れをしてしまったのだよ。そして、リリスもまた、サイゲルの熱い求婚にほだされていったのだ」
「お母様も、兄様のお父様を愛していたのですね。それで、お母様も私のような白い翼を?」
「いや、そうではない。わしらと同じ灰色の翼だよ。だが、リリスはお前をどうしようかと悩んでおった。白い翼など、盗賊から狙われるだけで、何の利もない。だから、自分を慕うサイゲルに、無理にでもお前を託したのだろう」
ティアは、そっと自分の翼を触った。純白の翼は、諸外国の要人の中でも評判が良かったし、この翼を広げて踊る舞踊は、宴席を盛り上げるにも一役買った。
そして何より。お前の翼は真っ白で綺麗だと、このような翼はこの世界に唯一無二だと、血の繋がらない兄リンドバルクにも褒められて、それだけで幸せだったというのに。
(この翼が、お母様を苦しめていたなんて……)
「白の翼は、薬膳の代わりに用いられたりする。お前の翼も狙われると言って、リリスはいつもお前の翼に泥を塗っていた」
長老の言葉が頭から離れない。
(そうだった。そう言われてみれば私、いつも泥だらけだった)
リンドバルクの父サイゲルに連れられて、リの国に連れてこられた時も翼は泥にまみれていた。
(……それを兄様が、……洗ってくれて)
「どうして、こんなに汚れているんだ?」
風呂場に連れてきて、そして女官が湯を用意している間、その時はまだ幼かったリンドバルクがティアに話し掛けてきた。
「こんなに白くて綺麗なのに、なんで隠すんだ?」
濡れ布巾で丁寧に泥を落としてくれた。自分の手や洋服が、汚れるのも厭わずに。
(兄様、お優しい兄様。きっといつかは、どこかのお美しい姫君とご結婚される。けれど、それまでは……こうして、一目でも見ることができたら)
宮廷の最上階にある廊下の小窓から、中庭を見つめる。
そして、その視線の先には。
リンドバルクが庭に咲いたバラを手折っている。
(……どなたかに、お贈りするのでしょうか、)
リンドバルクは数ヶ月前、すでに決まっていた、ハの国国主の娘との縁談を破棄したことを、ティアは耳に入れていた。それを聞いた時、ほっと胸を撫で下ろしてしまった自分を卑下したりもした。
(……兄様の、お幸せな姿を、妹として喜ばなくてはならないのに)
そして、リンドバルクはリの国の国主。結婚して、世継ぎをもうけなくてはならない。
「それに……兄様なら、きっと直ぐにでも、次の縁談が決まるはず」
胸が、ずきっと痛む。小窓に手をかけると、すでにそこにはリンドバルクの姿はなかった。
「それでも、兄様の側に……いたい」
真っ白な翼を広げると、自分を包み込むように丸め、そしてその中でティアはそっと涙を拭いた。
✳︎✳︎✳︎
「きゃあああぁぁ」
宮廷の奥で、ひときわ甲高い悲鳴が上がった。バタバタと足音が響く。その騒々しい雰囲気が気になり、リンドバルクは眠っていた目を開けた。
いや、実際は深くは眠れていない。ずっと寝不足の状態なのは、軍の団長ハリアを近衛兵団に戻した頃からだ。
(ティアとの仲を取り持ったのは、この俺だと言うのに……)
何度も二人、馬に乗って、出掛けていく姿を見掛けていた。そんな時はいつも、ハリアはティアを前に乗せ、大切そうにその両腕で包み込みながら、馬を操っている。
そして、その二人の姿を。ずっとずっと、真っ直ぐに伸びる道の先に消えるまで見送ると、リンドバルクは自室へと戻り、ベッドに倒れ込む。
眠気はやってくるが、寝つきはしない。いつまで経っても焦点の合わない天井をぼうっと眺める。
二人が戻るまでの気が遠くなりそうな時間を、そうやって過ごすうち、夜も眠れなくなってしまった。
夜の帳が下りる。目を瞑る。すると、ティアの笑顔が。
(いつか、気がふれるのかもな)
早くそうなって欲しい気もするし、一国の国主がそのようではと、自分を諌めてみたりする。
そしてこの日も、長い夜を迎えようとする頃、遠くで悲鳴が上がったのが聞こえたのだ。
「なんだ、どうした? 何があった?」
ベッドの傍に置いてあった剣を鞘ごと掴むと、リンドバルクは廊下に出た。
「きゃああ」
次には短い悲鳴。
その声は、廊下の奥の奥、ティアの部屋の方角から聞こえ響いている。
「ティアっっ」
リンドバルクは走り出した。
もちろん、以前に盗賊団メイファンの首領である黒蛇によって、ティアを連れ去られたこともあり、それ以降は近衛兵によって厳重な警備を怠ってはいない。
(それなのに、一体どうしたと言うのだっっ)
リンドバルクは廊下を走った。
ガシャンっと何かが割れる音。そして、ティアの部屋の前には、近衛兵や女官らの人だかりができている。
リンドバルクは、さあっと背筋が凍るような気持ちになった。
ティアに何かがあった、そう思うのが自然な状況だ。
「どけっ、どくのだっっ」
リンドバルクは人垣をかき分けて、部屋の中へ入った。
すると、そこには倒れたティアが、ハリアによって抱かれている。
「ティアっっ」
狂ったような声が出たが、リンドバルクの耳には届かない。
「どうしたのだ、何をしているっっ、ティアに何をしたあぁっっ」
がばっとティアの側に膝をつき、その身体をハリアから奪い取ると、リンドバルクはティアの顔を見た。
「ティア、どうした、ティア、ティアっっ」
もともと白い肌のティアに、血が通うような色はない。
何度呼んでも開かない目に愕然とし、ようやくリンドバルクは周りを見た。
あちこちに、白い羽根が散らばっている。
その量は半端なく多く、あちこちに散らばる大量の白い羽根がもし紅色ならば、それはまさしく凄惨な血の海となるだろう。
その凄惨な状況は、リンドバルクの血の気をさあっと引き連れて去った。
「あ、」
リンドバルクは一瞬、言葉を失った。
けれど、すぐに我に返り、声を上げた。
「医者を呼べ、医者を呼ぶんだっ」
誰かが走っていく音が、廊下に響く。
「助けてくれ、ティアを助けてくれ‼︎」
涙が、隈のできた色の悪い目に、みるみる溜まっていく。
「……ティアを助けてくれ、誰か、だれか……」
リンドバルクはティアを抱き寄せた。
その拍子に翼がぼろっと落ち、そして翼が壊れていく様は、リンドバルクをさらに恐怖のどん底に陥れた。
「誰かあぁ、あああぁぁぁ‼︎」
リンドバルクの慟哭が、宮廷中に響き渡った。
✳︎✳︎✳︎
「に、兄様」
「目が覚めたか、ティア?」
「ごめ、ごめんなさい、」
「何を謝るのだ」
「翼が、つ、つばさ、が、」
しーっと、唇に人差し指を当てる。柔らかいその唇に、初めて触れて、リンドバルクは堪らない気持ちになった。
「良いんだよ、大丈夫。お前さえ無事ならば、それで良いんだ」
ベッドに寝かされているティアの目に、涙が溜まった。リンドバルクがそれに気づき、そっと指で拭う。
「目が覚めて良かった。医者が今回の件は原因不明だと言っていた。だが、安静にしていた方がいい。あまり気に病むと、また具合が悪くなってしまうからな」
「でも、……翼がなくては、私はもう、兄様は、もう……」
「ん、」
リンドバルクがティアの額に手を当てる。そして、そのまま頬をその甲で撫でて、次には髪を撫でた。
「もう、私は何もできません。皆さまに翼を披露することも、踊りを踊ることも……もう、私は役立たずです……」
リンドバルクの表情が、さっと変わった。
「な、何を言うっ、ティア、役立たずなどと言わないでくれ」
「でも、翼がなくては……兄様のお役に立つことも叶いませ、ん」
「そんなことはない」
「兄様の、お荷物にはなりたくない、」
瞳が大きく開かれ、そして涙は溢れた。
リンドバルクは、ティアの肩口に頭を寄せた。軽く頭を乗せる。
そして、涙声で言った。
「ティア、ティア、お前の翼が白でなくとも、お前の翼が泥にまみれていても、……お前に翼がないとしても、俺はお前が生きてさえいてくれれば……ティア、愛しているんだ。お前に側にいて欲しい……」
「に、にいさま、」
「翼を失くしただけだ。お前が無事で良かった。良かった、良かったんだ」
うう、とティアが嗚咽を上げる。
「もうだめだ、もう我慢はしない。お前を誰にもやりたくない。お前を失いたくないんだ……ティア」
「兄様、」
「お前を、愛しているんだよ」
何度も繰り返し呟く声に、熱がこもっていく。
「に、いさま、」
ティアの掠れた声に、リンドバルクが顔を上げた。そこには濡れた瞳でじっと見つめるティアがいる。
「兄様、私も……愛しています」
見つめ合う。見つめ合いながら、リンドバルクはもう一度、ティアの頬を撫ぜた。
そして、血の繋がらない兄と妹は、いつまでもお互いの名を呼び続けた。