その8(アイオライト)
王弟であるクリソプレーズ殿下とハイアンシス王子を伴い、城下に向かうハルカ様を見送る。ハルカ様が召喚されてより半年、最初から今日までの時間を最も長く共に過ごした私は共に向かうことを許されなかった。
「ハルカ様はああいうのが好みだったのか。学者たちが過去の資料をひっくり返して検討したというのに大した役には立たなかったようだな。」
陰に隠れていたジェイドが隣に立ち、あきらめきれずに見送り続ける私の肩を慰める様に叩いた。ハルカ様が召喚された当時、私同様に呼び出しを受けたジェイドとはそれ以来の付き合いだ。ハルカ様が他の男に靡くのは恋人のいるジェイドには喜ばしいことだろうが、私にとっては悔しくてたまらない現実だ。ハルカ様の目には内面だけではなく、たとえ外見であっても醜い部分をもつ輩を近づけたくはなかったというのに。辛く悲しい思いをしたハルカ様には美しい物だけを与え、心安くなるよう慰め、愁いを解いて差し上げたかったのだ。
半年前、王の命令で呼び出された私たちは、時期を違えた異世界からの召喚が行われ、それにまつわる世界の理を説明された。過去の資料から召喚された娘は見目麗しい騎士を好み伴侶に迎える傾向があると解り、様々な場所から該当する騎士が集められ極秘事項を説明されたのだ。
集められた騎士の所属は様々で、置かれた立場もまた一人ずつ違っていた。中には結婚して子供が生まれたばかりの騎士もいたが、世界の崩壊を免れるために必要な存在として選出されていた。もし彼が選ばれた時は職務中に殉職した事として処分され、集められた騎士の中でも最も見目の良い私がその妻と子を誑かし、遠い地へと赴くよう筋書きまで用意されている。
見た目のせいで選出され、秘密を知ることになった私には身分違いの婚約者がいた。それは王女であり、王の許しを得て結婚も間近に控えていた。しかし極秘任務を受け婚約は解消されることが自動的に決まっていた。相手が王女であることと、わたしが大きな秘密に関わる任務を受けたことの双方が作用しての婚約解消だ。
わたしの見た目を気に入って身分違いの夫に迎えると決めていた王女は怒るだろうが、命令を下した王が何とかして下さるだろうと当時の私は特に何も考えていなかった。そもそもこの話を聞かされた時点で断る選択肢などないのだ。その後の対処は全て王がして下さる筈と、自分よりも妻や子、そして恋人を裏切らなければならない立場に置かれて断れない騎士たちをただ不憫だなと感じていた。
私は身分違いの婚約者である王女に対して何の感情も持っていなかったが、王女は私に執着していたので常に愛と忠誠を要求され続けていた。私にとってその相手が王女から異界の娘へと変更する程度の出来事だ。生きることに未練のない私は世界の崩壊も特に重要なこととは思っておらず、ただ命令に従いハルカ様に仕えることになる。
異世界から召喚された彼女は何時も泣いていた。声を上げて喚き散らし嘆き悲しんでいるのが常で、ぷっつりと糸が途切れたように倒れた時には決まって失神しているのだ。
ハイアンシス王子の自己満足の為に召喚された哀れな女性。この世界にない漆黒の髪をした、不思議な顔立ちの彼女は寝ても覚めても悲鳴を上げている。それでも時に冷静になり、私たちを受け入れているようなそぶりを見せながらも強く拒絶している様は明らかで。単調な毎日をただ与えられたものに従い生きるだけだった私は、感情をむき出して泣き叫ぶ彼女に小さな興味を抱いた。
婚約者であった王女は決して荒ぶる態度を見せない。けれど内に秘めた情熱を静かにぶつけるような人だ。しかしハルカ様は泣き叫んで感情をむき出しにしながらも、けしてそれを側に仕える私たちにぶつけるようなことはなさらなかった。
表には出さないものの、ハルカ様は美しく甘い言葉を拒絶している様だった。王よりハルカ様に取り入り、愛を得るよう命令されている。感情の伴わない上辺を感じているのか、ハルカ様が私たち騎士を見る目は冷たく、大きな見えない壁があるのを強く感じていた。恐らく彼女は私たちの甘言に惑わされることはないだろうと思いながら、それでも私達は忠実に命令に従いハルカ様を女神のように崇拝する様を演じていたのだ。
私は女性に対して覚めた感情を持っていた。特に何かを期待した記憶はない。王女の婚約者になったのも乞われ、臣下としてそうあるべきとの念から否定しなかっただけだ。身分の違いから許されないだろうという思いがどこかにあったのも確かで、解放されるまでは王女に付き合うのが私の役目と思ってすらいた。与えられたものはそうするべきと育ったせいもある。騎士の家系だから騎士になるべきと育ち、王女に出会い乞われて側に仕えるようなった。それから時が過ぎて愛を差し出すように言われたからそうしたまでだ。王女のすることに否を唱えるなど騎士としてあってはならず、あるとするならそれは絶対権力者である王が命じるときだけだ。
流されるまま、与えられるまま、そして命じられるままだった私に心の動きが生じたのはハルカ様に出会ってからだ。
嘆き悲しみ、こちらの思惑に飲まれないよう必死で生きている彼女を、いつの間にか自分の意思で守りたいと思うようになっていたのである。それを実感したのは彼女がハイアンシス王子からの謝罪を受けると覚悟を決めた時だった。
ハイアンシス王子と顔をあわせるということはハルカ様に変化が訪れるということだ。私はそれがどうしても嫌だと感じた。
見目麗しい騎士たちに囲まれ、ほだされないよう必死だった彼女に新たな世界が広がる。私ではなく、あちらに興味を持たれるのはどうしようもなく嫌だった。同時に会って謝罪を受けても彼女が傷つくだけだと解っていたので尚更だ。あの我儘で傍若無人なハイアンシス王子が改心したなど信じられるわけがない。あの王女と同じ血を分けた王子によって、私と同じように傷つけられるのではないかと思うと心は恐怖で支配されてしまう。ハルカ様は私のように無関心で、与えられるものが全てと受け入れるようなお方ではない。涙を流して苦しまれる様は私の心に痛みを伴わせる。心など痛んだためしのない私にとって、その痛みは体を捥がれるよりも苦しいものとなっていた。
不本意ながらハイアンシス王子とハルカ様を引き合わせると、予想通りハルカ様は酷く取り乱された。ハルカ様を案じ王子から引き離さなければと手を差し伸べると、初めてハルカ様自ら私の胸に縋り助けを求められた。私はハルカ様を苦しめる王子に怒りを覚えると同時に、縋られる喜びに心を震わせる。けれどハルカ様が私に縋って下さったのはこの一度だけで、部屋に戻るといつもの壁が再び築かれることになり、至らない自分自身に落胆し心が締め付けられた。
続いて現れたのがクリソプレーズ殿下だった。そうしてハルカ様は私でなく二人を、王女と同じ血を受けた王家の二人を選んでしまう。いつか私のように首輪で繋がれ抜け出す機会を失うのだと思うと、奪って逃げだしたくなる劣情に駆られた。あなたを守りたいのだと、私のように悲しい世界に身を置かせたくないのだと暴露したかったが、そんなことを知ってもハルカ様の心を乱すだけと解って口を噤むしかなかった。
「この調子ならお前もグロッシューラ王女の元に戻れるんじゃないか。」
今の所、騎士の中では私が最も気に入られていると思われているが、それは私がそう見えるよう振る舞っているに過ぎない。実際の所は避けられて、それでも惹かれて王命を理由に縋りついているだけだ。
「どのような結果になろうと王女の元へ戻るつもりはない。王命に関係なく、私はハルカ様に命を捧げる覚悟をしている。」
「けど王女様はお前をあきらめていないって噂だぞ?」
「王女は公爵家に降嫁されると決まった。私のように何の身分もない男などより余程ましだろう。」
「それはそうかもしれないが……」
王女と結婚すれば相応の位を得るが、生まれ育ちが平民である私に王女という存在は手に余ると納得したのか、ジェイドはそれ以上なにも言わずに離れていく。訓練場にでも行くのだろう。私も女々しくハルカ様の消えた先を見つめているだけでなく、いざという時に備え鍛錬を積むためジェイドの後に続いた。手足を片方ずつ失ったクリソプレーズ殿下と比べられ、私の方が強いと即答できなかったのが悔しくてならない。堂々と宣言できていたならハルカ様と街に降りる栄誉を許されていたかもしれないと、王家の二人に強い嫉妬心を抱いていた。しかし訓練場へと続く道を急いでいると、行く手を阻むように純白のローブを纏い、目深にフードを覆った魔法使いに行く手を阻まれる。長年の付き合いとなる魔法使いの出現に思わず眉間に力が入った。
「グロッシューラ王女がお呼びだ。」
枯れた男の声が私を現実へと引き戻し、あるはずのない首輪を感じて息苦しさを覚えた。守るべき女性は二人の王族を従え城を離れている。守るべき人のいない状況で、取り残された私を王女が呼んだなら応じない選択肢はない。表情が削がれ研ぎ澄まされるのを感じながら、王女の元へ向かうのを誰にも邪魔されぬよう全てを拒絶する為に鋭い雰囲気を纏い足を踏み出す。王女付きの魔法使いに導かれた先には想像通りの待ち人がいて、綺麗に紅の引かれた唇に弧を描き、鮮やかな緑色を放つ瞳が私を捕らえていた。
「久しぶりねアイオライト。突然消えたと思ったら他所に女を作っているなんて、わたくしも随分と舐められたものですこと。」
ふふっと笑った王女がドレスの裾から足先を出すと、私は条件反射のように跪き、覗いた王女の爪先へと唇を寄せた。
「お前には生涯わたくしの犬であり続けるよう命じたはずなのに、本当にどうやってお父様に取り入ったのか。駄犬に躾けたわたくしの自業自得なのかしらねぇ?」
膝を突いて頭を下げる私の正面に王女がしゃがむと顔を上げて王女を見つめた。すると王女は慈しむように柔らかな掌で私の頬を包み、長く整えられた鋭い爪を突き立て抉る。爪がぐっと頬に食い込み赤い血が流れるが、表情一つ変えずに受け入れる様子を王女は満足そうに眺めていた。
「お前はわたくしのものなのよ。必ず取り返してみせるから楽しみにしていてちょうだい。」
王女が血濡れた指先を私の口元に差し出したので、舌で舐め綺麗にぬぐい取る。満足そうに笑った王女は想像したより早く私の前から姿を消した。すかさず王女付きの魔法使いが私の傷を癒して王女の後を追う。王女は私の姿を大変気に入っており、傷ひとつでも残っていると魔法使いが標的にされるのだ。これが十年、王女が私を気に入り側に置くようになってより続いている行為である。
私は平民の出身で、もとはクリソプレーズ殿下同様に蛮族を相手に戦う騎士の一人となるべく鍛錬を積んでいた。それが十年前、王女が八つの頃に見初められ側に侍るように命令を受けたのだ。傷を負い魔法による耐性がつくのを避けるため危険な任務から外された私は、常に王女の側に侍ることを定められるようになった。
王女は私を甘やかし、様々な物を与えてくれた。同時に機嫌次第で肉体的な折檻を受ける。王女の歪んだ特性は王家に時折現れるものであるが、ハイアンシス王子のように表沙汰になっておらず、専属の魔法使いによって器用に隠され続けていた。彩の少ない世界で流れる真っ赤な血肉は王女の何かを突き動かすようで、目に止めるとそれで満足して気性を穏やかにされるのだ。色の薄いこの世界で濃い色をした血肉は、恐らく王女にとっての精神安定剤のようなものなのだろう。
それが十年、王子による異世界召喚が行われ、ハルカ様の心を捕らえる役目を与えられるまで続いたのだ。幼い頃より続く王女の行いは、今回のように爪で頬を抉る生易しい物だけではない。時には鋭い針のついた鉄製の首輪をかけられ、鞭で打たれ、真っ赤になった火掻き棒を押し当てられたこともある。その傷全てが魔法使いによって癒されるので痕跡は何一つ残っていないが、度重なる痛みに慣れた私は身を守る為なのか、痛覚を失って肉体的には痛みを全く感じなくなっていた。
オブシディアンにおいて王は絶対的な存在だ。逆らうのは命を失うことを意味する。いずれは絶対的な権力者となるハイアンシス王子が傍若無人な振る舞いをしていようと、誰一人として止める術がなかったのはそのような理由があるからだ。そして同時に命に興味のない私ですらも、王女を前にすると逆らうことなどできない。それは全てオブシディアンに生まれた人間がもつ性だろう。
けれど異界より召喚されたハルカ様は違った。控えめながら王に意見し、世界を崩壊に導く力があるが故に絶対的な権力者である王すらも従える事が出来る力を有している。それでも凶暴性を孕んだ王家の血をもつ二人を選んだハルカ様が心配で、同時に選ばれた二人に強烈な嫉妬心が湧き上がるのだ。
ただ王家の血を引いているだけでハルカ様にとっての特別な存在になり得てしまう。どのような理由があろうと側に侍ることができるというのは憎い程に羨ましく、私では切望しても得られない場所だった。同時に王家の二人によってハルカ様の心が更に傷つけられ、犯される恐怖に私の心は震えるのだ。叶うなら、私だけがハルカ様の心を穏やかにできる存在になりたいと、艶やかな漆黒の髪に触れることが許されるただ一人の存在になりたいと願う。