その42(遥)
アイオライトが眠っているはずの寝台は空っぽだった。隣の騎士に訊ねると「さっき出て行った」と教えてくれる。どこに行ったのかまでは解らないけど、寝たきりだったアイオライトが何事もなかったかに突然歩き出して彼も驚いたそうだ。
「ふらふらしていたので危ないから動くなと止めたのですけどね。解っているとだけ言って出て行きましたよ。」
「ありがとうございます、捜してみますね。あ、手伝いが必要ですか?」
包帯をした手に椀と匙を握っていたので声をかけたが、一人で大丈夫ですからと遠慮された。本当は手伝うべきなのだけど、アイオライトのことが気になって構うことが出来なくなっていた。
建物を飛び出すと王子様に腕を掴まれる。
「どうしたのだ?」
「アイオライトさんを捜しているの、いなくなっちゃって。」
「あの状態で動けるとは驚きだな。」
「危険な状態なの?」
本来必要な薬ではなく睡眠薬ばかりを飲まされていたのだ。いつも眠っていたのはそのせいだったのだと思い至る。弱った体では睡魔に抗えなかったのに、昨日は鋏を手にしたシェルを止めてくれたのだ。
「内部の修復に失敗はないが、血が足りていないからな。傷を受けてから血量がほとんど回復していない状態では体の回復は出来ていない。が、死ぬようなことにはならぬぞ。」
「良かった、王子様のお陰ね。ありがとう。」
「まあな。いや、この程度は容易い。」
「アイオライトさんを捜してくるわ。王子様はお仕事頑張ってね!」
命に危険がないだけでもほっとした。わたしは話を続けようとする王子様を置いて駆け出しアイオライトを捜してまわる。何処に行ってしまったのか、見当たらなくて空を仰ぐと、高く築かれた砦の上に人影を認めた。じっと目を凝らすとアイオライトの背中だと解り、急いで階段を探して駆け上ると壁の向こうには砂の大地が果てしなく広がっていた。
石造りの砦はかなりの高さがあり風が吹いていてスカートがたなびく。広がり過ぎないように手で押さえて、想像したよりも幅が狭い足場を注意しながら歩いた。
砦に立ち風を受けるアイオライトは何処までも続く砂の大地を見つめていた。頭に巻いた包帯は外しているせいで銀色の髪が風に流れている。側に寄ると体をこちらに向けた。左目は充血して真っ赤になり瞳の色までもが判別できなくなっていたけど、右の瞳は変わらず綺麗な青緑のままだ。ここに来た当初クリソプレーズは目が見えないとは言っていなかったのでそのうち良くなるのだろうか。
「もう動いても大丈夫なんですか?」
「長く臥せっていたので体力がすっかり落ちてしまっていますが、この程度なら動いても大丈夫ですよ。」
「肺が一つ駄目になったと。辛くはありませんか?」
「息苦しくはありますが、鍛えれば生活するには問題なくなるでしょう。」
「そうですか……」
やっぱり騎士としての復帰は無理なのか。アイオライト自身も解っているようだけど、大丈夫だろうかと心配になる。
「風が強い。万一があっては危険ですので座りませんか?」
「そうですね。」
突風で吹き飛ばされて落ちたりしたら助からない高さだ。腰を落とすとアイオライトも隣に座った。
「久し振りにここに立ちました。あの時は蛮族の死体で覆い尽くされていたのですが、綺麗に片付けられていますね。」
この高さから眺めた戦場はどんなものだったのか。二度と立つことのない場所になってしまって、思うこともあるだろう。わたしは恐る恐る訊ねた。
「騎士に戻れないから、薬をすり替えられていると解っていて何も言わなかったんですか?」
十二の頃から見習いとして騎士の職を手にしたのだ。剣を振るったり体を鍛えたり、死線を超えたりするにはそれなりの思い入れがなければやってられない。それが突然続けられなくなってしまうのだから、自棄になることもあるだろうと思ったけど多分そうじゃない。アイオライトが一番に考えるのは何時だって自分のことではないのだ。
「それとも……傷の残る姿をわたしに見せたくなかったから?」
ゆっくりと横を見るとアイオライトもわたしに視線を向けていた。
「どっち?」
「ハルカ様にとってどちらが好ましい答えですか?」
「本当の答えならどちらでもいいです。」
アイオライトは「そうですね」と呟いて視線を砂の大地に戻した。
「どちらも、でしょうか。」
一つ溜息を落としたアイオライトは、何かを隠したい様子もなく淡々と話し始める。
「騎士でなければ貴女を守り続けることはできません。この様な姿になり、貴方の前に出るのはとても苦しいと感じました。だから与えられる薬が違っていると知っても、特に何かを訴えたいとは思わなかったのです。」
与えられたものを受け入れる性質なのか。王女様との十年も、わたしに与えられた時も、命じられるままを受け入れていたのがアイオライトだ。そんな彼が唯一望んだのは、いつの時もわたしに関することだけだった。
「もともと刺し違えるつもりで蛮族の懐に飛び込んだのです。命があると知りほっとするよりも、生きながらえたことに絶望しました。」
蛮族との戦いを終わらせるために命を張って、幸運にも生き残った。だけどアイオライトにとっては絶望するほどのことだったのだ。
前回はわたしの身代わりで蛮族により傷をつけられた。腕を落としてしまったけど、王子様につないでもらってようやく元通りになったのに。今のアイオライトには全身に傷がある。女の人みたいに体に傷が残ったからと悔やんでいるのではない。彼が絶望するほど悔やんでいるのは、体に醜い傷が残ったのをわたしに見せて悲しい思いをさせてしまうことだ。わたしは綺麗な物なんて望んでないのに、どうしてアイオライトからは何時まで経っても綺麗な物でわたしを囲っていたいという考えが消えないのだろう。
「貴女の側にいられないのなら、このまま生きていても仕方がないと思っていました。だからといって死のうと考えたわけでもありません。ただハルカ様がこの姿を見て、自分のせいだと嘆く姿を想像すると、向かい合う気持ちにはなれませんでした。」
いつも綺麗な物でわたしを包み込もうとするアイオライトらしい考えだ。だけどわたしは綺麗な物に囲まれて生活することを望んでいる訳ではないのに、どうしたら解ってくれるのだろう。蛮族の侵攻だって、わたしのせいで起きたことだと誰も責めないし、わたし自身誰かに告白してしまう勇気もない。わたしはこんなに狡いのに、アイオライトはまるで全てを自分のせいにするように心に溜め込んでしまっていた。
「こうなったのはハルカ様のせいではなく、グロシューラ王女に仕えた頃よりの因縁によるもの。自業自得なのです。」
だからあのまま睡眠薬だけを口にして、夢と現を行き来している間になるようになればいいと望んでいたとアイオライトは告白する。
「そんな中、ハルカ様が怪我人たちを世話する様を認め驚きました。貴女がするような仕事ではないのに。そんなことをさせてしまっている状況に、止められない自分自身に憤りを感じていたのですが……それがいつの間にか、ハルカ様の慈悲が他の男たちに向けられるのに浅ましくも嫉妬の念を抱くようになったのです。」
そう言ってアイオライトは正面を見つめたまま、膝の上に乗せた拳を握った。
「私のハルカ様に対する気持ちはもっと高潔なはずだった。なのに他の男たちを甲斐甲斐しく世話する様を認め、それが私でないことに強い嫉妬の念を抱いた。以前クリソプレーズ殿下に惚れていると言われて否定したのです、私の思いはそんな言葉で片付けられるようなものではないと。ですが同じでした。私は相手が誰であっても貴女の側を譲れない、全ての立場を譲りたくない。このように汚らわしい姿になろうと、貴女の側に有りたいと願ってやまず、隣に立つのが他の男であることが許せないのです。」
握りしめた拳を開いて、巻かれた包帯を迷いなく解く。出てきたのは火傷のような傷跡で、クリソプレーズの顔にあるそれとよく似ていた。
「蛮族の血を受けた跡です。すぐに洗い流せば軽く済むのですが、そのような状況にありませんでしたので。これと同じ傷が体中に散らばっているでしょう。顔の傷もこれ以上の回復は見込めません。」
左の目の周囲は薄く痣になっている。それよりも充血して瞳の状態も解らない目の方が心配だ。
「目はどうなんですか?」
「そのうちに戻るでしょうが、視力の回復は何処まで可能か解らない状態です。」
蛮族の血は人と同じで赤くても、触れると有害なのだそうだ。すぐに洗い流せば問題ないけど、戦場で戦いながらとなるとそうはいかない。目にも相手の血が入り込んでしまったのだと教えてくれた。
「お見苦しく申し訳ありません。」
アイオライトはそう言って、本当に申し訳なさそうにうつむき加減に目を伏せる。わたしはアイオライトにどう言えば通じるのだろう。
「アイオライトさん、わたし一度でもクリソプレーズさんの傷を見て、気持ち悪いとか醜いと言ったような意味の言葉を言いましたっけ?」
「ハルカ様はそのようなことを仰る方ではございません。」
「そうよね、一言だって言ってないもの。だって思ったことすらないから。でも今回のことは自分のせいだと思う。アイオライトさんだけじゃない、沢山の人が蛮族と戦って傷を負って死んでしまったのは、わたしのせいだって本気で思ってる。」
「それは違うと申し上げています。ハルカ様を地下牢で襲った蛮族を取り戻しに一団となって押し寄せたのです。ハルカ様のせいなどではない、王女を止めなかった私の責任です。」
「そうかもしれませんね。でも、蛮族が沢山押し寄せた原因の一部にはわたしが関わっているんです。落ちた空が証明だわ。」
あれ以来落ちることはないけど、元に戻ることもない、少しだけ低くなってしまった空。わたしがこの世界に絶望し悲しんだせいで滅亡の片鱗を見せた。この状態で止まっているのはアイオライトが王女様の束縛から逃れて戻って来てくれたから。サードや王子様、その他にも沢山の人が関わって助けてくれたからだ。けれどそこに至るまでの悲しみは事実として残っている。
「わたしは自分のせいだって思っています。」
「そうではありません、絶対にハルカ様のせいではありません。」
「全部じゃないかも知れない。だけど空が落ちて、蛮族の動きが活発化したのは間違いなくわたしのせいです。」
はっきりと言い切るとアイオライトの眉間に皺が寄った。納得できないのだろう。彼にとってわたしは綺麗なまま、綺麗な物に包まれていてほしい存在だから。でもそんな人間なんている訳がないと、いたらおかしいのだとアイオライトは知らなければならない。
「アイオライトさんが自分のせいだと思うように、わたしも自分のせいだって思うんです。なのにそれを公表して謝罪することもしない。わたしは召喚された人間だって言って、本当の自分を曝してこの世界で生きていく勇気のない狡い存在なんです。」
自分でも召喚されたことを公にして何を怖がっているのか解らなかった。だって公表すれば蝶よ花よともてはやされて大切にされるはずなのだ。時期違いの召喚であるから特に、誰も彼もが傅いて機嫌を取ってくれるだろう。それこそ女王様のように振る舞うことだって夢でない現実となる。だけど与えられる優しさが全て本物とは限らない。触れてはならない化け物のように見られるかもしれないのは、かつての傍若無人な王子様の比ではないだろう。それこそ偽りの世界で覆い尽くされて、流され甘んじて壊れるのが怖いのかも知れない。
「狡いんですよ、わたしは本当に狡いんです。」
「そんなことはありませんよ。ハルカ様は貴い方です。なのに私は手を伸ばしてしまいたくなる。夢を望んでしまうほど、貴方は強く私を惹きつけるのです。」
それならと、わたしは隣に座るアイオライトの腕を掴んだ。衣服越しに強くならないよう、けれど逃げられないようにしっかりと掴んでアイオライトと視線を合わせた。
「それなら、わたしと一緒に生きてくれませんか?」
「ハルカ様?」
これだけではちゃんと意味が伝わらなかったのだろう、アイオライトはわたしの言葉に戸惑いを見せる。
「わたしはいつかこの世界を滅ぼすかもしれない。その時、最後の時に誰と一緒にいたいかといえば、それはアイオライトさん、あなたです。」
いつかまたこういうことが起きるかもしれない。空が落ちたり蛮族が活発化したりなんてことは、わたしの考えではどうにもならない、止めようのないことなのだ。だからってこの世界で生きて行かなければならないのだから、わざわざ不幸が起きて欲しいなんて思わない。それでも世界に最後の日があるとしたら、わたしは何もかもを知っているアイオライトと一緒にいたいと願う。
「罪を背負って一緒に生きませんか。アイオライトさんと一緒ならきっと乗り越えられるから。」
蛮族によって傷ついた人たちがいる。取り返しのつかない命が消えた人がいる。その罪を背負うのは辛いけど、同じように自分のせいだと言ってのけるアイオライトと一緒なら、たとえ乗り越えることが出来なくてもその日その日を暮らしていくことは出来る気がするのだ。
「あなたが一緒にいてくれたら、これ以上空が落ちることがないと思えるんです。」
全ての感情が愛や恋といった甘いもので完全に支配されていないけど、わたしにとってアイオライトは必要な人だ。これは同情や責任からの言葉じゃない、わたし自身にアイオライトと言う一人の男性が必要なのだ。




