その41(遥)
喜怒哀楽がはっきりした人ではない。だけどアイオライトの恐ろしい姿を目の当たりにするのは初めてだ。
無表情と言っていいだろう。特に笑顔でも怒っているでもない、まさに無表情。だけどそこから溢れる怒りはひしひしと伝わり、思わず背にした寝台に腰を落としてしまう。空気を震わせるような見えない怒気に中てられひっくり返りそうになるのを、寝台の主である騎士に支えられかろうじて体を起こしておくことができていた。
「どうしました、鋏を捨てないのなら殺意があるとみなして対処いたしますよ?」
包帯で半分顔を覆っているものの、美しいとしか表現できない顔が鋏を手にしたシェルを覗き込む。寝台に身を起こしたアイオライトがシェルの腕を取り、シェルは大きく目を見開いて身動き一つできずにいた。
「アイオライト、やめないか!」
わたしを支えてくれた騎士が声を上げるが、アイオライトには聞こえていないのか、表情一つ動かすことなくシェルを鋭い視線で捕らえ続けている。唸った騎士がわたしの耳元で囁いた。
「あの掴み方では彼女は指を動かすことができません。」
「えっ?」
そんな掴み方があるのか。いやそれよりも、鋏を捨てろと言いながら捨てさせないようにしているとは。どうやらアイオライトはシェルに生き残る選択をさせないつもりのようだ。教えてくれた騎士である彼には分かるのだろう、表情を変えることなく鋭い殺気を放つアイオライトを前に、同じ騎士である患者の助言でわたしはようやく見えない束縛を解いた。
「アイオライトさん、駄目です。彼女を傷つけては駄目!」
「この者はハルカ様に危害を加えようとした。それだけで万死に値します。」
騎士というものは弱い人の味方ではないのか。アイオライトがわたしを守ってくれているのはわかるけど、これは明らかにやり過ぎだ。冗談だろうと見過ごすことができない雰囲気を纏ったアイオライトは、素人のわたしにも分かる殺気をシェルに向けていて、けして冗談ではなのだと語っていた。
「女の子ですよ、守るべきオブシディアンの民です!」
「ハルカ様に刃を向けたのですから蛮族と同等……いや、それ以下ですね。」
「駄目です!」
シェルから「ひっ」と声にならない悲鳴が漏れる。ゆっくりと鋏が彼女の喉元に向かって進んだ。
「駄目っ!」
これはいけないと、震える足を無理矢理前に出して飛び込んだ。寝台と寝台の距離は近かったので二人に向かって倒れる様に縋りつき、恐怖で真っ青になったシェルとアイオライトを無理やり引き離す。アイオライトは寝台からずり落ち、シェルは声にならない悲鳴を上げて失神した。周囲はアイオライトの殺気に震え唖然と立ち尽くしている。
どういう訳かわたしはアイオライトを下敷きにしてしまっていた。慌てて上から退くとアイオライトも意識を失ってしまっている。
「誰か手伝ってください!」
一人では抱えあげて寝台に戻すことができなかった。誰か手伝ってと周囲に視線を向ける。
「誰か!」
思わぬ事態が起きて動けなくなっている誰かに向かって声を上げると、気を取り戻した女の子が二人駆けつけて手伝ってくれた。倒れたシェルは他の女の子達が引きずって建屋の外に運び出す。
三人がかりでようやくアイオライトを寝台に戻すと一時的に意識を取り戻した。「ハルカ様」と小さな声で呼ばれ、言葉を聞き逃さないために耳を寄せる。
「ハイアンシス王子に私の体を調べてもらって下さい。」
それだけ言い残すとアイオライトは再び意識をなくして眠りについた。調べるという意味がわからなかったけど、言われた通りに王子様に伝える。やって来た王子様は建物の中の雰囲気がおかしいと察して説明を求めた。簡単に説明したら大変なご立腹で、シェルの所に駆け出して行きそうになったのを慌てて引き止める。
「アイオライトさんが体を調べて欲しいって。」
「どこを怪我した?!」
「わたしじゃなくてアイオライトさんよ。」
なんだそうかと呟いてほっとした様子の王子様は、横になって意識のないアイオライトを見下ろす。
「調べるとはどういう意味だ?」
「わからないのだけど、王子様にも分からないのね?」
「これが私を頼るとは、其方に関わることで何かあるのだろうか。取り合えず調べてみよう。」
そう言って王子様は魔法を使ってアイオライトの体を丁寧に探ったけど何も見つからない。アイオライトは何を言いたかったのか。王子様にも思い浮かぶ節がなく目を覚ますのを待つことにしようとなった所で、女の子が薬の時間だとアイオライトの分を恐る恐る差し出してきた。王子様のことを恐れているのか、それともあんなことをしでかしたアイオライトを恐れているのか。恐らく後者だろう。守ってもらったとは言え、わたし自身も衝撃が大きい。
女の子が差し出した薬を受け取ったのは王子様だ。薬包紙を開いて粉にされた薬をじっと見つめている。指先に取って一舐めしたけど特に異常はなさそうだ。
「ただの造血剤だな。」
問題ないと包み直そうとした所で王子様の動きが止まった。どうしたのだろうと横顔を見つめていると、王子様の眉間にどんどん皺が寄る。
「造血……既に二月は飲み続けているはずだが、この回復の遅さは何だ?」
何かに気付いた王子様が再びアイオライトを調べ始めた。顔に巻かれた包帯を外して閉じられた左目を無理矢理こじあけ瞳を覗き込む。真っ赤に充血したそこには本来ある筈の瞳が見当たらなくて思わず顔を反らした。
「成程な、これは面白い。」
「なにが面白いの?」
事件のせいで重くなってしまった場の雰囲気とは異なり、王子様はとても楽しそうに満面の笑みを浮かべていた。
「これは其方の騎士を降りようとしたらしいな。」
「騎士を降りる?」
「案ずるな、其方が悲しむ故に降ろさせはしない。それに私を頼ったということは降りるのをやめたのやも知れぬが、まぁ良い。」
アイオライトは騎士を続けられない程の怪我を負っているのではないのか。魔法で無理矢理治療できる状態でもないので、騎士の職業に戻れるかどうかはわからない。王子様の言っている意味が解らなくて自然に眉が寄ってしまう。
「私に任せておけ。これを見ていたという女は何処だ、知っている者は案内しろ!」
先ほど薬を渡してくれた女の子が「わたしが」と手と声を上げた。王子様は一つ頷くと笑顔でわたしを見下ろす。
「ハルカ、全て私に任せておけ。これに貸を作るのは今後の為になるので全力でやるぞ。叔父上もこの類には厳しく対応するだろう。全て上手くやるからな、楽しみにしておけ。」
「ちょっと待って、意味が分からないんだけど?!」
「直ぐに解るぞ、楽しみにな!」
まるで高笑いでもしそうなほどご機嫌になった王子様は、先を歩く女の子の後ろで心躍るのを隠しきれず、隠すつもりもないのだろう。場にそぐわない、まるでスキップでもしそうな態度で建物を出て行った。見送るわたしは訳が分からず、とても不安で浮足立ってしまう。王子様を追いかけたかったけどアイオライトの側を離れこともできなくて、嫌な予感を抱えたまま過ごすことになった。
アイオライトは目を覚まさない。ずれた顔の包帯を元に戻して大きく息を吐き出すと、ちょんちょんと肩を突かれて振り返る。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。さっきはありがとうございました。」
そうだ、わたしは彼の世話をしている途中だったと思い出して向き直り続きをしようとしたが、自分でできるからと遠慮されてしまった。
「それより驚きましたね。アイオライトがあれほど怒るのを初めて見ましたよ。」
「わたしもです。」
正直怖かった。だけどわたしの為にあんな風になってくれて嬉しいという気持ちもある。アイオライトを知る人が初めて見るという位、極めて珍しい光景だったのだろう。それほど思ってくれているのだろうか。
シェルがしようとしたことは犯罪だけど、それを止めたアイオライトはもっと悪い。だけどわたしの為に、わたしだけの為にと思うと、とても嬉しいと感じる想いが心の奥から溢れて止まらなかった。
「貴女はアイオライトを好いているのですね。」
意識が飛んでいたので、急に問われてはっと顔を上げる。
「それは……」
「違いますか?」
「ちが……わないと、思います。」
これはあの時と違って同情でもないし、解らないと戸惑う気持ちでもない。ここに来て側にいるのにまともに話すこともできなくて、本当ならわたしが側にいてつきっきりで看病したいくらいなのに、シェルにその立場を取られてしまっていた。わたしのせいで沢山の人達が怪我をしたり死んでしまったりしたという現実もあり、本当のことを隠して償うように必死に頑張って怪我をした人たちの介助や付き添いをこなして。だけど本当は、こんな状態でもアイオライトの側を他の誰にも渡したくなかったのだ。
わたしは眠っているアイオライトに視線を向けた。穏やかな寝息を立てる様子から、抵抗できない女の子を脅していた様子も、まして本気で殺そうとしていた様子も窺えない。未だに全身を包帯やガーゼで覆って回復している様には見えなくて、いったいどれだけの怪我を負っていたのかと心が苦しくなる。全て私のせいだと思うけど、そのせいでアイオライトに心を持って行かれているのではなかった。
「あの……わたし、態度に出ていましたか?」
「出ていましたね。世話をしてくれている途中もアイオライトに幾度となく視線が。」
「それは、ごめんなさい。」
意識していたこともあったけど、何度も視線を運んだ記憶はない。アイオライトを気にしていたのは事実なので、無意識でつい見てしまっていたのだろう。
「ですが貴方は、王子の瞳と同じ色のピアスをしているから。もしかしたら王子のものなのかと。」
「わたしが王子様の?」
「貴女の瞳と同じでもありますが、王子が同じピアスを右の耳に。貴方は左耳にしているので、王子と貴方が出来ているというのはその、彼女たちが噂していましたね。」
最後の方は声を潜めて、他の患者の世話にあたる女の子たちに視線を向ける。ああ、もしかしたらそういうのもシェルの気に障っていたのかも知れない。確かにこのピアスは王子様とお揃いなのだ。王子様と出来ているのにアイオライトにまで気を向けるなんて、二股と取られていても仕方がなかったのかも知れないなと、外すわけにはいかないピアスに触れる。
「事情があって、王子様から魔力を分けてもらっているんです。」
「外すわけにはいかないなら、アイオライトも悩ましいでしょうね。何しろあんな風に怒るくらいですから、アイオライトにとっても貴女は特別な存在だ。」
「こういうのって男性は気にしますか?」
「女性は気にしませんか?」
「しますね。」
アイオライトも気にして妬いてくれたりしたのだろうか。貰った時は色なんて考える余裕はなかったけど、同じものを分け合っている状態だから王子様と何かあると思われても仕方ないだろう。それにしてもわたしと王子様は七つの歳の差があるというのに、わたしの世界では犯罪でもこちらでは違うのだろうか。
この日アイオライトが目を覚ますことはなかった。動いたせいで体を壊したのではないかと心配になったけど、王子様も姿を現さなくて見守るしかできなかった。そして翌朝、朝食を配達しているとシェルが両手を後ろに拘束された状態で馬に乗せられるのを認める。
目が合うと憎悪に染まった視線で強く睨まれた。腕を後ろに拘束されて不安定な状態で馬が歩いて行くのを唖然と見送る。
確かにシェルはわたしに鋏を向けたけど、アイオライトのお陰で傷一つ負っていない。彼女には思うことが沢山あるけど、あんな扱いを受けるほどなのか。世界が違うので罰の与え方が違ってもおかしくないけど、驚き過ぎて椀を乗せた盆を持ったまま足が地面から離れなくなってしまった。そこへ王子様がやって来てわたしが手にした盆を受け取ると、近くにいた人に「頼む」と言って押し付けてしまう。わたしは言葉もなく王子様を見上げた。
「其方が気に止むことなど何もない。」
「でも……ちょっと酷くない?」
「酷くなどあるものか。あの女はな、アイオライトに必要な薬を与えず睡眠薬を盛っていたのだぞ。」
「睡眠薬?」
確かにアイオライトはいつも眠ってばかりいたけど、それは睡眠薬の効果だったのか。だけどどうしてシェルは必要な薬ではなく睡眠薬なんて。アイオライトのためを思うなら、必要な薬はちゃんと飲ませるべきだし、彼女はアイオライトと恋仲になりたかったはずだ。その相手をまともに看病しないなんていったいどうしてなのか、盛っていたとの言葉も気になり自然に眉が寄ってしまった。
「長く患わせ、最後に薬を与えて回復した所で感謝されるのを狙ったらしいのだが、お粗末なものだな。愛の力がどうとか意味の解らぬことも叫んでいたぞ。何にしてもあの娘の父親が有力者であろうと罪は重い。騎士個人に大した権力はないが、任命は王の名において行われる故に、騎士は王に付属する物として取り扱われる。それに薬を盛ればどうなるか。王への反逆だ。」
シェルはアイオライトに必要な薬を与える所か、睡眠薬を勝手に飲ませていた。毒ではないが、不必要な薬が勝手に盛られたのだ。眠らせるという行為をどうとるかによって変わるが、今回は長期にわたって必要な薬を与えずに睡眠薬を盛ったと判断された。これによってアイオライトの回復は明らかに遅れており、王の持ち物である騎士にシェルは危害を加えたと判断されたのだ。
「彼女が自白したの?」
「叔父上立ち合いのもと、精神束縛の魔法をかけ事実のみを吐くよう命令した。調書にも取られこれから正式な裁きを受けるが、強制労働は免れぬだろう。」
精神束縛の魔法は相手を自由に操ることができる。必要な立ち合いをもって術をかけての取り調べが行われたのだ。精神束縛の魔法をかけられるととても苦しいという。
「あの女は苦しみから逃れるためあっという間に自白したぞ。叔父上も薬物を使った犯罪の解明として術の使用を許した。後はそうだな、気付いていて放置していたアイオライト自身にもなにか罰が下るやも知れぬな。」
アイオライトにまで罰があるかも知れないと聞いて不満に思う。だけどすぐに疑問が浮かんだ。アイオライトが気付いていたのだとしたらどうして黙っていたのか。もしかしてわたしから離れる為ではとの思いが脳裏に過る。不安になったわたしは咄嗟に駆けだした。




