その38(遥)
この世界に来てもうすぐ二年になる。三か月前に蛮族の侵攻を止めるために西へ立った二人は未だに帰ってこない。
待つのはとても辛いものだった。仕事があるのですることはあるけど、一人になって考えるのはいつも二人のことだ。もし何かあれば騎士団を通して連絡があるので、音沙汰がないのは無事ということだと駐在所の隊長が教えてくれた。王子様に関してはピアスへの魔力供給が絶たれていないことが一つの不安を拭う役目を担ってくれている。
西から戻ってきたのは騎士が一人だけ。魔法による治療が断念されたために、これ以上戦えないと判断され戻ってきたけど他の人達はそれきりだ。戻った騎士に会って話を聞いたらアイオライトと王子様は無事だと教えてくれた。アイオライトは後方で弓を打ち、王子様は怪我人の治療にあたっているという。二人の様子が知れてほっとしたけど、クリソプレーズの情報は持っていなかったので、彼は無事だろうかと不安で胸が締め付けられた。
わたしの国では戦争なんて過去のものだった。外国では銃を持って戦う人たちがいるけど、わたしにとっては知らない国の出来事だった。この世界には戦闘機や銃といった武器はないけど、それでも命が一瞬で絶たれてしまう場所にいるのは間違いない。アイオライトに王子様、そしてクリソプレーズ。他にも知っている人が戦場に立っているかもしれないと思うとたまらない気持ちになる。連絡だってすぐにできる状態じゃない、ここでは手紙を書いても蛮族と戦う砦までは届けられないそうだ。確かにそうだろうな、命のやり取りをしている中に郵便配達をしてくれるわけがない。
寂しくて、怖くて胸が締め付けられて泣きながら眠りにつく毎日だった。そして朝がやって来て空を見上げ、変わらない高さにあるのを確認してほっとする。もし彼らが空を見上げて落ちてきているのを認めたら、きっと心配してしまうだろうから。いらぬ心配をかけて、それがきっかけで身を危険に曝すようなことになったら謝っても謝り切れない。わたしのせいで狂ってしまった世界を元に戻そうと、わたしを守ろうと旅立ったアイオライト。そして王子様。体が傷だらけでも戦場に立つクリソプレーズ。災いしか呼ばないわたしは彼らの無事を信じて、安全な場所でのうのうと生きていくしかないのだ。
それでも時が過ぎていつかはやって来る。早めに仕事場に足を運んで就業前の掃除をしていると、汗で額を濡らしたババラチアが丸い体を揺らし、真っ赤な顔で息を荒げながらやって来た。
「はっ、ハルカさん!」
扉に張り付いたババラチアはぜぇぜぇと荒い息をして倒れてしまいそうだ。慌てて手を貸し椅子に座らせると胸を押さえていた。心臓発作でも起こしそうで心配になる。
「大丈夫ですか、お水持ってきますね。」
「待って、お水は欲しいけどちょっと待って。」
離れようとしたわたしをババラチアのぷっくりとした手が伸びて引き止められる。掌までぐっしょり濡れた彼にハンカチを差し出すと、「自分のがあるから」とポケットから取り出して顔を拭った。
「戦いが終わった、騎士たちが戻って来たよ。」
「えっ?」
「彼らも一緒かも知れない。仕事は良いから行っておいで。」
「ありがとうございます!」
お礼を言い終わる前に飛び出していた。途中ですれ違った同僚が驚いた顔をしていたが「ババラチアさんにお水をお願いします」と頼んで駐在所を目指す。王子様は違っても騎士団に所属するアイオライトは駐在所付けなので一緒に戻って来ているはずだ。アイオライトが一緒なら王子様も一緒に違いないと、わたしは邪魔な長いスカートをたくし上げ、足が見えるのも構わずに全力で走った。
鍵のかかっていない駐在所の扉を開くと誰もいない。戻ってきた騎士たちで溢れているだろうとの予想に反し、しんと静まり返った空間。わたしは見知らぬ異世界に迷い込んだ感覚に陥った。
「あれ?」
泣きそうになって後ろを振り返ると町の喧騒がある。何が起きたのか解らず、ただここに来ればアイオライトと王子様がいると思い込んでいただけに、落胆よりも戸惑いが大きく、やがて何とも言えない恐怖が体の奥から込み上げてきた。
立っていられずにその場に蹲った。動悸が激しいのと息苦しいので体が痺れる。冷や汗が体を伝って耳鳴りが響いていた。何もかもに見捨てられたような気がして暫く蹲っていたけど、よく意味が分からないまま立ち上がってふらふらと歩きだす。
「なんで、なんでいないの。帰って来たんじゃなかったの?」
生まれ育ったわけじゃないけど知らないわけでもない町。毎日歩いて見慣れたはずの町なのに、何故だかわたしの知らない第三の世界の様に感じた。
別の世界の王子様が召喚したのだろうか。もしくは全く別の人が、新たな世界にわたしを引きずり込んだのか。周囲を馬鹿にするような響き渡る高笑いも、青色の空間もない。行き場を失くした迷子のようにふらふらと歩いていると、目の前に肩を揺らしたババラチアが立っていた。
「ハルカさん、捜したんだよ!」
「ババラチアさん、本物?」
「どうしたの、大丈夫?!」
ふらふら歩いているうちに一日が過ぎて辺りはすっかり暗くなっていた。ババラチアは一向に戻らないわたしを心配して行方を探してくれていたのだ。わたしは名前を呼ばれたことで見知らぬ世界じゃないと分かり、安心した途端に体の力が抜けてしまった。ババラチアが慌てて受け止めてくれたけど、受け止めきれずに二人して地面に転がってしまう。
「あ、ふわふわしてる。」
「わぁ、くすぐったいよ!」
「良かった、ババラチアさんだ。アイオライトさんと王子様も絶対どこかにいるわね。」
「え、ハルカさんしっかりして。王子様ってアイオライト殿のことかな?」
ババラチアの存在を確かめる様に、ふわふわした脇腹のお肉を摘まむとババラチアが身を捩る。王子様のことをアイオライトと混同しているけど、そうか。身分のこととか知らないから仕方ないのだと思っていたら、いつの間にか思考が遮断され、遠くに聞こえていた声も無くなって闇に落ちて行った。
目が覚めると仮住まいの薄暗い部屋の中だった。
家に戻って寝た記憶がない。夢でも見ていたのかと起き上がると、寝台の脇に置かれた椅子に座ったババラチアが舟を漕いでいた。
どうして彼がここにいるのか。すっかり夜も更けているし、招き入れた記憶もないと思いながら、こっくりこっくりと大きく舟を漕いで今にも椅子から落ちそうなババラチアに手を伸ばす。
「あの……ババラチアさん?」
肩を揺らすとすぐに目を開いてくれて、「ああ、気が付いたね」とほっとしたような笑顔を浮かべた。
「私が慌てたせいでハルカさんには悪いようになってしまったね。ごめんね、謝るよ。」
本当に悪かったと頭を下げたババラチアは、あの後に隊長がわたしを訪ねて役所にやって来たのだと教えてくれた。
「戻ってきた騎士は数人だけで、後はまだ砦で養生しているということなんだ。良くなり次第戻って来るらしいけど、重傷者もいて動かせない人たちは迎えに行くんだって。それでその……」
言い淀んだババラチアに「教えてください」と続きを求める。最初にアイオライトと王子様のことを話してくれなかった時点である程度のことを予想していた。
「落ち込まないで欲しいんだけどね。あの子は魔法使いだから治療の為に暫く現地に残るよう、砦の責任者に言われているそうなんだ。」
無意識に左耳のピアスに触れる。良かった、王子様は無事なんだ。責任者はきっとクリソプレーズだから彼も無事。クリソプレーズの側なら文句言わずに沢山の人を助けてくれているだろうと、不遜な態度の王子様が脳裏に浮かんだ。
「アイオライトさんは?」
「それがね、彼は動かせないくらい重傷なんだって。だから迎えに行っても連れて帰れないし、いつこの町に戻って来れるかもわからないそうなんだよ。」
「重傷……」
わたしは息を詰めて掌で顔を覆った。
よかった、生きてる。ちゃんと生きていると解っただけで緊張が崩れて一気に体の力が抜ける。重傷ってことはちゃんと生きているってことだ。大きな怪我をしているのだろう、魔法でも治療もできなくて動けないのだろうけど、ちゃんと生きていてくれる。
「生きてる、良かった、良かった……」
ずっと怖くて怖くてたまらなかった。腕を失った時の比ではない。危険な場所に出向いた先のことがまるで解らなくて、ずっと不安で壊れそうだった。ババラチアが震えるわたしの背中を撫でてくれる。
「それでね、ハルカさんをここに運んでくれたのは隊長なんだけど、その隊長がね、明朝……というか、もうすぐ朝だね。ハルカさんが間に合うなら一緒に連れて行ってくれるそうなんだけど、騎士が一緒でも女の子の旅は危険だから私は反対なんだ。」
「行きます!」
即答したわたしにババラチアは「だけどね」と、丸い目を少しだけ厳しくしてじっと見た。
「ハルカさんが倒れたのは心労なんだ。こんな状態で旅は辛いと思うよ。」
「でもアイオライトさんはいつ戻って来れるか解らないんですよね。だったらわたしが行かないと会えないってことじゃないですか。行って何が出来るか解らないけど、これ以上一人で待っていたって辛いだけです。」
「そういうけどねぇ……」
「お願いババラチアさん、仕事を途中で投げ出すなんて大人のすることじゃないのは十分解っています。でもここで待つのはとても辛いんです。お願いします、行かせてください。」
「う~ん、大丈夫かなぁ、心配だなぁ……」
心配心配と呟きながらもババラチアは納得してくれた。王子様からくれぐれもと言われて預かったからとの責任もあるだろうけど、わたしを一人の大人として認めてくれているから、行かせたくなくても隊長からの伝言をきちんと伝えて選択させてくれたのだろう。
朝まで時間がない。急いで準備を整えると何かあった時の為にババラチアに家の鍵を預けた。この世界ではいつ何がどうなるか解らないので、もしわたしが戻ってこれなかった時のことも考えたからだ。出発の準備をする隊長たちに頭を下げて同行の許しを得る。乗馬での旅を覚悟していたけど、怪我人を乗せて帰って来るので幌馬車が準備されていた。馬なら十日程の距離を更に時間をかけて進む。騎士たちの行程は基本野宿なのだが、わたしのために宿に立ち寄ろうとするので必要ないと断りを入れた。幌馬車もあるし、騎士たちを襲うような野党もいない。正直に言えば体はきつかったけど、一時でも早く西に着きたかったので不便さに文句はなかった。一緒に行く選択肢をくれた隊長には感謝しかない。
国境というべきなのか。蛮族が住まう世界が近づくにつれ景色が変わっていく。薄い空に黄緑色の木々が立ち並ぶ美しい景色が少しずつ濁った色に変化していた。
まるで病気にでもなったような茶色や灰色に変わった草木に、空の色はどんよりと曇っている。気温は過ごしやすいはずなのにうすら寒さを感じる景色に身をさすった。ガタガタと揺れる幌から顔を覗かせると、高く築かれた壁が何処までも続いていて、人と蛮族の住まう世界の境界を示していた。砦の前にはいくつかの建物と沢山の天幕が据えられている。幌馬車もいくつか見られ、他の場所からも怪我人を迎えに来ているのだと解った。
幌馬車が止まると騎士が腕を伸ばして下ろしてくれる。足をつくとじゃりっと音がする砂地だ。見渡すと地面には幾つも穴が開いていた。
「地面を掘って蛮族が侵入してきた跡らしいですよ。」
何の穴だろうと覗いていたら、一緒に旅した騎士の一人が教えてくれて思わず後ずさった。穴の奥は塞がれていたけど、蛮族というのはまるで土竜のようだ。ずっと地面を掘り進めて、遠くまで突き進むことができるかもしれないと想像したら途端に怖くなる。どこかにいるような気がして首を巡らせると、隊長とクリソプレーズが話をしているのが目にとまった。
そうだった、二人は知り合いだったのだ。二人の視線がわたしに固定されているので隊長が説明してくれているのだろう。暫く二人で話していたが、隊長が同行した騎士たちを呼ぶのに合わせ、クリソプレーズが空の袖を揺らしながらこちらに歩み寄って来た。
わたしも彼に歩み寄りながら状態を観察する。魔法がかけられているのか義足は音がないのに歩き方に違和感を覚えた。
「やっぱり来たな。」
こんな所に来るんじゃないと叱られるのも覚悟していたので、笑顔を浮かべての対応にほっとすると同時に、きちんと謝らなければと両手を合わせて頭を下げた。
「今回は、わたしのせいでこんなことになってしまって。被害を受けた方々にもお詫びのしようがありません。」
沢山の怪我人と死者も出た。自分自身が招いてしまったこととはいえ取り返しのつかない状況だ。自分の力を誇示する為だけにわたしを召喚した王子様の悪行なんて可愛い悪戯と思えるほど、今回の惨劇は償えるようなことじゃない。
いったいどうしたらいいのか。この世界のためにわたしができることは自分が幸せになることだ。でも死んだ人たちまでいるのに、事の原因であるわたしが笑って生涯を終えて許されるわけがない。でもそれならどうしたらいいのか。償い方が解らないわたしは何時までも頭を上げられずに砂の地面を見つめ続けた。
下を向いた頭に大きな硬い掌が乗って、それだけで衝撃を受けたような感覚に陥る。下を向いたまま乗せられた腕の重さに、彼がもう一つの手を失わなくて良かったとの気持ちが込み上げた。もしそんなことになっていたら、わたしは二度とクリソプレーズの前に姿をみせられない。
「これはな、お前の心によって引き起こされた事態ではない。」
「でも、わたしのせいです。」
「それが違うんだよ。」
そう言ってクリソプレーズはわたしの肩を押して顔を上げさせた。
「蛮族は蛮族で、心は人だったってことだ。」
「ひと?」
もとは同じ人だったのは知っている。けれど世界が終わりに近づいて召喚が遅れた時代に人が姿を変えて蛮族という存在が誕生したのだ。触れるだけで人を腐らせる特殊な力を持った、白い眼の灰色の存在。
「お前を襲った女性体の蛮族がいただろう、覚えているな?」
クリソプレーズの言葉に忘れることができない光景が蘇る。灰色の肌に紺色の入れ墨を頭部から足先まで施した、顔にはぷっくりとした奇妙な皺がある、体は若い女性だろう蛮族の姿。わたしは怖くて逃げることしか出来なくて、必死に助けを呼んでアイオライトが応えてくれた。あの時もわたしは全部をアイオライトに押し付けたのだ。
「かつてない規模でここに蛮族が押し寄せたのは、あの女性体の蛮族を取り返すためだったとの考えが最も有力視されている。」
「取り返すって、あの蛮族を?」
「蛮族はどうやら国といえるものを築いていたようだ。恐らくあの女性体は有力者に関わりのある者だったのだろう。それを取り返しに攻め込まれた。敵将を討った翌日から蛮族の侵攻が治まったのは、将にとっては大切な存在だったのだろうが、他の奴らにとっては違ったということだろうな。」
どれだけ多くの蛮族を殺しても侵攻は止まらず、圧倒的な数の差で追い詰められていた所、一際大きな体をした蛮族が姿を現し、それを討つとようやく戦いは収まったと説明してくれる。
「他の奴らは命令に従うだけで、現在の所は奥深く考えるだけの思考力を持っていないと思われる。指揮する者がなくなった途端、これまでの蛮族に戻ったからな。これからも警戒は必要だが、恐らく大丈夫だろう。だから今回の原因はお前には全く関係がない。誰のと問うならまた我々王家の責任と言うことだ。」
王女様が楽しむためにあの地下牢に連れてきた蛮族。見世物の主役はあの蛮族とわたしだった。あの場でわたしを助けるために蛮族に止めを刺したけど、そうしていなくても結局は処分されたのだろう。蛮族というものはこの世界でそういう扱いを受ける存在なのだ。
だけどあの女性の姿をした蛮族にも、彼女を思う親や兄弟がいたのだとしたら当然取り返しに来る。クリソプレーズも今回の件で蛮族に対する認識を改めなければならないと言葉にした。奇妙な姿をして触れるだけで人を腐らせる能力を持っていても、人と同じ心の動きをして、知性があると解れば対応も変えなければいけないだろう。もとは同じ人という存在だったのだ。
あの女性体の蛮族を誘拐して人を襲わせ見世物にしていたのが事の原因だと、クリソプレーズは慰めの言葉をくれる。だけど自分に全く責任がないかといえば違う気もした。わたしがこの世界に召喚されなくても王女様が女性体の蛮族を使って見世物を楽しむことは避けられなかっただろう。それでもあの場にいて関わりのあったわたしは、何の責任もない被害者だと言えるだけの確証を掴めない。
「お前をこの世界に引き込んだのは私たち王族の怠慢だ。オブシディアンにおいて起きる出来事は全て我々の責任なんだ。」
慰めの言葉に胸が痛い。だけど長く拘って自分のせいと主張しても困らせるだけだ。
「ありがとうございます、少し、心が軽くなりました。それでクリソプレーズさん、お怪我は?」
「ああ、腹をやられてな。先ほど抜糸したんだが刺されるより痛かったぞ。」
そんなことがあるわけないが、にこやかに何でもないことのように言って和ませてくれているのだろう。話しに合わせて口角を上げる。上手く笑えただろうか。
「アイオライトの話を聞いたか?」
「重傷だと。」
「敵将を討ったのはアイオライトなんだが相打ちになった。意識が戻らず命が危ぶまれたが目を覚ましたからもう大丈夫だ。お前の姿を見たらあいつも喜ぶだろう、会ってやってくれないか?」
「いいんですか?」
「その為にアイオライトの状態を知らせるよう伝言させたんだ。男たちと旅をさせることにハイアンシスは反対したんだがな、足を運んでくれて感謝するよ。」
わたしが砦にくるよう仕向けたのはクリソプレーズのようだ。「こっちだ」と建物に向かって歩き出す彼の後を追った。




