その34(遥)
蛮族の動きが活発化したことに対してわたしが責任を感じているように、王子様もわたしを召喚して現在があるのだと責任を感じているのだ。わたしを元の世界に帰したくても方法を探すのは困難で、王子様が大きな怪我を負ったり命を落としたりすることが怖くてわたしが禁止した。あきらめたわけじゃなかったけど、王子様の命と元の世界とを天秤にかけたら王子様へと傾いてしまったのだ。だから帰らないと決めたのに。
「これじゃぁどっちにしても一緒じゃない……」
手足を片方ずつ失っているクリソプレーズは、蛮族との戦いにおいて十年以上の実績と経験がある。アイオライトは蛮族と戦うための訓練を受けた、命のやり取りをする騎士だ。けれど王子様は世界一の魔法使いだとしても、安全なお城で守られているような存在なのだ。人を守るとか戦うという経験もない。わたしを帰す術を見つけるための実験で怪我をするのと、蛮族を相手に怪我をするのはどちらが危険か解らないけど、どちらを選んでも同じじゃないか。
そんな危険な場所に、責任を感じているからって十六歳の子供を行かせるわけにはいかない。もうすぐ十七だとか、成人に近いとか王族とか男の子とか、アイオライトは十五で騎士になっていたとか、クリソプレーズが蛮族と戦っていたとかそういう問題じゃなかった。この世界で被害者と加害者として二人で生活を初めて、王子様が怪我をして心配してしまった時点で気付くべきだった。王子様はわたしにとって大切な家族になっていたことに。この見知らぬ世界で唯一の、本当に小さな弟のような存在になっていたのだ。わたしにとって王子様は十六歳の、見た目に反して内面的には何時まで経っても年下の小さな子供なのだ。
「ハルカ。」
王子様の呼びかけがすぐ側で聞こえた。顔を上げるといつの間にか椅子に座るわたしの側に膝を付いて、手は台の上にあるわたしの拳を包んだままでいる。こうして跪いて下から見上げるのはアイオライトの役目だった。なのに王子様までわたしを守ろうとして膝を付いているなんて。
わたしは王子様に一般的な常識を身に着けてもらいたかったのだ。立派でなくても優しい王様に、人の心の解る人間になってもらいたかった。出会った時は罵声を浴びせて恨んだけど、王子様の身勝手な傲慢が幼少期にまともな大人に対応してもらえなかったと解って、わたしが育て直したのだ。
「わたしは育て方を間違えたのね。」
一番に自分の命を大切にすることを教えるべきだった。わたしを帰すために大怪我してもまるで気にしていない王子様に危機感を覚えた時点で、ただ禁止するのではなく、何よりも自分の命を大切にするように教えるべきだったのだ。蛮族というものの存在を知っていたのに、あの頃はまるで経験がなくて危険さに気付いていなかった。触れられると腐ると知識として与えられていても、身を持って経験して、アイオライトが腕を切り落とすまでどこか遠い場所の話でしかなかったのだ。クリソプレーズが腕と足を失くしていたのに、王子様の魔法で滑らかに動く義足をみて感心するくらいで、わたし自身が平和な世界に生まれ育って、この世界でも沢山の人たちに守られて、何一つ気付けていなかった。
「其方は何一つ間違っておらぬ。何の目的もなく、責任も取れないと気付きもせずに其方を召喚してしまったが、私にとっては何よりも必要なことだったのだと思っている。其方にはとんでもなく迷惑な話だが、其方がいたからこそ私は人になれた。其方がいなければ他人を蹴落とすことでしか自らを肯定できず、いずれはオブシディアンを不幸な世界に変えていただろう。」
あのままの王子様だったら人を人とも思わない、傍若無人な権力者が一人誕生しただけだ。でもそれのどこがいけないのか。沢山の人が迷惑を被るのは目に見えているけど、王子様は蛮族と向き合うことなく無事でいられたのだ。
「ハルカ、其方は一つ大きな間違いをしている。」
何もかもが間違いだ。この世界に来てしまったのも、王子様を教育したのも間違いだ。わたしの為に蛮族と戦うなんて言い出すように育ててしまったわたしの間違いだ。
王子様はおもむろに立ち上がると、わたしの頬を両手で包み込んで腰をかがめ顔を寄せた。白金の長い睫毛が形の良い目を縁取っている。青い瞳はとても綺麗に輝いて、怯えても迷ってもいない、落ち着いた眼差しを向けていた。
「おう―――」
「静かに。」
瞼を閉じた王子様の顔が認識できないほど側に寄ると、わたしの唇に王子様の唇が押し当てられた。とても柔らかで温かいと感じるのはわたしの体温が低いからだろう。瞳を閉じている王子様に対して、わたしは幾度か瞬きを繰り返し、これってキスじゃないのかと頭の中に大量の疑問符が浮かび上がった。
あれ、でもキスってこんな風にするものなんだっけ?
混乱していた頭が少しづつ冷静になってくる頃、長く押し当てられていた唇が離れて行く。唖然とするわたしに対して王子様は穏やかに微笑んでいた。
「私は男だぞ。」
「え?」
「其方からしたら子供やも知れぬが、私はれっきとした男だ。」
それが大きな間違いだと笑った王子様は、わたしの頬を両手で包んだままもう一度唇を押し当てた。
「ちょっとっ!」
驚いたわたしはようやく反応し、王子様の胸を押す。思ったよりも容易く離れた王子様は高い位置から座ったままのわたしを見下ろしていた。
「何して……」
二十三、いやもうすぐ二十四になるが、この年で初めての経験に思考がついて行かない。だけど何をされたのかはちゃんと分かっていた。
「血の繋がらぬ弟は子供ではなく男だということだ。其方はそれを忘れている。」
「それとこれとは話が違うわ。」
「違わぬ。」
王子様が蛮族との戦に行くといいだしたから、わたしは行かせたくないと話をしていたはずだ。なのにどうして男だとか弟だとかの話が出てくるのか。思わぬ所でキスまでされて、混乱した頭をなんとか落ち着けようとした。
「弟は永遠に姉の歳を超えられぬが、いつまでも子供ではないということだ。私は男の子ではなく、男だ。望めば其方を拘束して組み敷くこととて容易い。やらぬがな。」
驚きのあまり抗議の声を上げようとしたところで、王子様がぱっと両手を耳の上まで上げて降参のポーズをとった。
「こんなことしなくて言葉にすればいいのに!」
「其方は言っても解らぬようであったからな。それに暫く離れるのだ、異性に対して危機感を持たねばなるまい。教えるのは私の役目と思ったが?」
「王子様のは不意打ちでしょ、教えられなくても危機感くらいあるわ!」
「アイオライトにも容易く許したではないか。」
「あれはっ。」
慌てて額を手で押さえたら王子様は声を出して笑った。
「其方にとって私は永遠に弟なのだろう、それでもよい。」
「どういう意味?」
「そのまま、私は其方と家族だという意味だ。」
「そうよ家族よ。だから行って欲しくないのよ!」
王子様が別の意味で急成長したように見えてしまい、わたしは顔が赤くなるのを誤魔化すように声を上げた。キスされたのは物凄く驚いたけど、王子様の言うようにわたしは王子様を家族同様に、この世界では家族として一緒に暮らしてしまっていたのだ。子供だからとかが理由だけじゃない、その家族である王子様が危険な場所に自分から赴こうとするのが嫌なのだ。
「責任と言ったのが悪かったか。王族だからとか様々な理由はあるが、最もなのは其方の為に行きたい、行くと決めた。悔しいがアイオライトと同じで、私は其方の為になら自ら動いてしまうようだ。私には出来る力がある故、行かぬ選択肢は既にない。」
「王子様まで行ったら泣き暮らすわ。そんなことになったら今以上に空が落ちてくるかもしれない、それでいいの?」
「其方が空を落としたのはアイオライトの心が身勝手に扱われたからだ。心を痛めたとしても本質は異なる。其方は恨み悲観するではなく、私たちの無事を祈るであろう。」
違うかと問う王子様を前にこれ以上言葉を紡げなかった。
何をどう並べても王子様もアイオライトと同じように、わたしを守るために行くと決めてしまったのだ。こんな風に守られるような人間じゃない。わたしは自分がアイオライトと王子様にどうやって影響を与えてしまったのか全く分からなかった。
「行かないでよ……」
前に立つ王子様の腕を取ってぎゅっと掴む。俯いた途端に涙が落ちて床に染みを作った。
引き止めることは出来ないような気がしたけど簡単に納得できない。そうなんだ、じゃあ行ってらっしゃい気を付けてねと、簡単に送り出せる薄い関係じゃないのだ。わたしの為に行くというのなら、わたしの為に行かない選択をして欲しい。だけど王子様が行くと選択した大きな部分は、魔法による治療が困難になっていると思われるアイオライトのせいだろう。アイオライトが無事に戻って来れるように、わたしが辛い思いをしないように、オブシディアンの為ではなくわたしだけの為に行こうとしているのだ。
「安心しろ、無茶はしない。それこそ指揮する叔父上の命令をしっかりと聞いて動く。」
「安心なんて出来る訳ないでしょう!」
行かないでと腕を掴んで振り動かす。王子様は黙ってされるがままだった。
本当に王子様の中では何もかもの準備が済んでいた。町や村から離れた一軒家に一人置いておけないからと町に部屋を準備して、一人では寂しいからと週に一度の仕事量を王子様が戻ってくるまでの期間だけ週に五日と詰め込んでいた。引っ越しの手伝いも駐在所の隊長に依頼済み。発明してもらった家事道具で魔力の補充が必要な物はその必要がないように改良されている。そしてわたしの髪と瞳についても既に考えられていた。
髪と瞳の色を変えるのは簡単な魔法で王子様以外でも可能だけど、時期外れに召喚された存在を知られることになるので、事情を知らない魔法使いに頼むわけにはいかない。新たに知られるのは蛮族の侵攻が盛んになっていることもあり、危険があるかも知れないからと王子様も不安だったようだ。その代りに偉大な魔法使いは新たな道具を作り出していた。
王子様の瞳と同じ色をした小さなピアス。澄んだ青い石には魔力が込められていて、このピアスを身に着けている間は髪と瞳の色を変えておくことができるのだ。
「少し痛むだろうがすぐに魔法で処置する。」
王子様が左の耳たぶに針でピアス用の穴をあける。ちくりとした痛みを感じたけどすぐに魔法で痛みが取られ傷口の処置がされた。空いた穴にピアスが差し込まれると、これまで感じていなかった僅かな重みを受ける。王子様も同じものを右の耳につけていた。石に魔力が無くなっても離れた場所から同じピアスを通じて魔力を送れるそうだ。何とも便利な品物を作ってくれたけど、離れることを可能にしてしまう品に嬉しい気持ちなんて湧かない。
この世界に召喚された当初はこんなことになるなんて少しも思っていなかった。アイオライトのことも王子様のこともだ。恨んで嘆いて狂ってしまうんじゃないかとすら思っていた。なのに蓋を開けてみれば権力者の身勝手で人権が無視されたことに怒りが湧いて、怖い思いをして、誑かされないと警戒していた騎士たちに心を開いてしまっていたのだ。それどころか加害者と憎んでいた王子様が危険な世界に飛び込むことに恐ろしさしかない。クリソプレーズは何も言わずに危険な場所に身を投じていて、何も言わずに行ってしまった彼の思いやりに恨み事を言ってやりたいくらいだ。知らないで危険な場所に旅立たれては不安しかない。何も言わずに行かれてしまったら置いて行かれたようで心にぽっかりと穴が開いてしまう。だからアイオライトはちゃんと話してくれたのだろう。黙って行ってしまってわたしが後を追うことを恐れて、だからちゃんと蛮族の話をしてくれたのだ。わたしが蛮族に対する恐怖心を抱いているというのを、あの時一緒にいたアイオライトはちゃんと理解していた。
決意した王子様を止めることはできなかった。大切な物だと懐にしまったのは何時だったかわたしが描いた絵だ。王子様と、アイオライトとクリソプレーズの高校生男子と教師の姿。遊び心を持って描いたあの絵を、王子様が大切にしていたことを知って涙が零れた。




