その28(遥)
目が覚めると王子様が心配そうにわたしを覗き込んでいた。
「あれっ?」
王子様の様子を見に来ていたはずなのに寝転んでいるのはわたしで、おかしいなと思いながら体を起こすと、肩から滑り落ちた髪が白金に変わっていることに気付く。どうやら王子様が魔法をかけ直してくれたようだ。
「大丈夫か?」
心配そうにわたしを覗き込んだ王子様に大丈夫と頷く。眩暈を起こして倒れてしまったようだ。王子様は魔法を使い過ぎて休んでいたのに、寝台を占領してしまったことに気付いて申し訳なくなった。
「ごめんなさい、王子様だって辛いのに。すぐに退くから。」
「良いのだ、このまま休んで構わない。」
「ありがとう、でももう大丈夫よ。色々あって眠れなかったりしたせいかな、今はもうすっきりしてるわ。」
かなりの時間眠っていたようで、窓から差し込む光が茜色に変化している。調子も悪くないので、引き留めようとする王子様に何度も大丈夫だと言って寝台を降りた。
「わたしが寝ちゃったから。シーツ変えた方がいい?」
「このままでよい。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。もう戻らないと。ジェイドさんは……」
部屋を窺うが姿が見えない。わたしが倒れて心配ないと解ってから部屋を出て行ったらしく、面倒をかけてしまったなと反省した。
「私も特に問題はない。其方が大丈夫なら早々に東に戻らないか?」
早く帰りたがるのは置いて行かれる不安があるからだろうか。今ここで縋って来る王子様を見捨てるようなことをしたら、恐らく生涯に渡って人を信じられない人間に成長してしまうだろう。被害者であるわたしが加害者である王子様のことをこんな風に気にする日がくるなんて思いもしなかった。
「だけどアイオライトさんのことが気になるからもう少し。」
「あ奴のことなど放っておけ、其方の気を引こうとしているのだろう。」
「そうはいかないよ、わたしを助けてくれたんだもの。」
蛮族に襲われて、アイオライトの腕を切り落とさなければならなくなって。受け止めることができたのは王子様への信頼があったからだ。そうでなければあの時のわたしはアイオライトの腕を切り落とすことに反対しながら、腐っていく様に恐怖して泣いてわめいて混乱して、落ち着くことなんてできなかった。
王子様に大人のような狡賢さがあったなら、何かと言い訳をしてアイオライトの治療を拒否することもできただろう。良くも悪くも正直で真っ直ぐな王子様。彼の変化は本当に万人に対しても光明となるに違いない。人に心があると解っていない王様に、あまりにも自分勝手で人の命すらおもちゃにした王女様。これ以上は二人に関わることはしたくないけど、何かに気付いてくれることを心のどこかで願っていた。
暫くするとジェイドが迎えに来てくれた。わたしと王子様の前で堂々と、先ほどのやり取りを王様に報告してきたと告げる。
「これも仕事なんですよ。聞かれたくないことは人払いをされるようお勧めします。」
意地悪ではなく気を付ける様にとの忠告なのだろう、これまでもお城にいた時は見張られて全てを把握されていたのだ。王子様との話は知られても困るようなことではないし、王子様をお城に戻す可能性があることを王様も知っていた方がいいかもしれない。わたしが直接王様と顔を会わせたいと思わないので、そういう気持ちがあることをジェイドが報告してくれたのは良いことでもあった。王様と顔を会わせて話をしたらますます空が落ちてくるような気もする。
クリソプレーズは取り込み中らしく、お見合いかも知れないと勝手に想像しながらジェイドに伴われてお城を後にした。その足でアイオライトと話をしたくて訪れた病室は無人で、全ての寝台には寝具がなく、確かにそこにいた人の痕跡はまるでなくなっていた。
「腕が動かない以外は回復していましたから宿舎に移ったのでしょう。」
「宿舎って女人禁制だったりする?」
「一応、女性の立ち入りは禁止ですがハルカ様なら許されますよ。」
誰も文句は言えないというけど、今のわたしは黒髪ではなく王子様と同じ白金で瞳も青だ。見つかったら一緒にいるジェイドさんが叱られるのだろうな。
「ですがアイオライトは真面目ですからね。動けるならじっとしていないでしょうから訓練場かも知れません。」
どうされますかと問われたので訓練場に案内してもらうことにした。
ジェイドの言うようにアイオライトは真面目な騎士だ、腕が動かないからいつまでもじっとしているという姿はまるで思い浮かばなかった。利き腕を失くして剣が握れないなら左腕で努力する精神力を有している。どうやってわたしの役に立とうかと呟いていたアイオライトは、予想外の出来事に怯えるばかりのわたしなんかより、よっぽどしっかりしていて前向きだ。
腕を無くしたらまず落ち込むという常識はここでは通用しない。クリソプレーズも言っていたけど、彼らにはそれだけの覚悟があるのだ。腕を繋いだり、お腹の胎児を他の人の子宮へ異動させたり。不思議なことが起きる世界だけど、その不思議を利用できなかった時の受け入れ方まで誰かに教わるのだろうか。
ジェイドの予想通り、アイオライトは病院から少し離れた訓練場にいた。低くなった空は夕日に染まって周囲を茜色に染めている。空と一緒に太陽と月も迫っているのに体の軽さは感じない。この世界では重力なんて関係ないんだなと思いながら背を向けるその人の名を呼んだ。
「アイオライトさん!」
「ハルカ様?」
振り返ったアイオライトは無表情で、けれど瞳はちゃんと輝いていてほっとする。そしてだらんと垂れた袖の先には灰色に変色した手が覗いていて、はっとしたわたしは思わずその手を凝視してしまった。
「見苦しい物を、申し訳ございません。」
視線に気付いたアイオライトは手にしていた剣を地面に置くと、白い手袋を取り出して動かない手に嵌める。ぎこちない動きで一つ一つの指に通される手袋が灰色に変色してしまった手をすっかり隠してしまった。
自信満々に完璧な治療をしたと王子様は言っていたし、それを信じている。けれどアイオライトの腕は何日経っても灰色で動かずに繋がっているだけのものになってしまって。アイオライト自身はどう思っているのだろう。慣れない左腕に剣を持っていた彼が悲観している様には見えない。それならどうして彼の腕は動かないのか。彼の姿を前にするとどうしてもあの地下での出来事を思い出してしまい、自然と頭が下を向く。
体に力を入れて食いしばり俯いてしまったわたしの顔を見るためだろう、アイオライトは膝を付いて覗き込むと真っ直ぐに視線を合わせた。
「気分を害されたようで申し訳ございません。二度と目に触れぬよう気を付けます。」
「そうじゃない。そうじゃないって言ってるでしょ、その手を見苦しいなんてほんの少しも思ってないわ。」
「では……如何なさいましたか?」
なんでも仰って下さいと、アイオライトは騎士らしく主の命令を待つ。けれどその瞳はグロッシューラ王女に向けたものではなくて、わたしにだけ向けてくれるいつもの瞳だ。彼女とわたしは違うとの僅かな優越が勇気を与えてくれるような気がした。
「アイオライトさん。」
彼の名を呼んだわたしは、アイオライトと同じように膝を付いて視線を合わせた。そしてアイオライトのだらんとした右腕を取ると、嵌められたばかりの手袋を外して手を握る。
とても冷たい、血の通っていない灰色の手。だけど腐ってはいない。どうしてなのだろう。病は気からと言うのは本当なのだろうかと、わたしはアイオライトの右手を握りしめて唇を噛んだ。
「ハルカ様―――」
「アイオライトさん!」
気にするな、わたしのせいじゃないと言いかけたのだろうが、わたしはアイオライトの声を遮って顔を上げる。同じように膝を付いているけど少し高い位置にある青緑に輝く瞳を偽物の碧い瞳で捕らえて。
アイオライトの少し困ったような、悲しんでいるようなそれはそれは美しい顔を至近距離で捕らえてわたしは―――逃げる為じゃなく。自分の為かもしれないけど、罪の意識から逃げる為じゃなく、本当に心からもう一度動いて欲しいと願いながら、恥や外聞、そして迷いを吹き飛ばして口を開いた。
「傷が治ったらまた……もう一度だけでいいです。この傷が治って動く様になったらどうか、アイオライトさんの両腕でもう一度わたしを抱きしめて下さいませんか?」
音もなく青緑の瞳が見開かれる。自分で言葉にしたけど口にした途端に物凄いことを言ってしまったと気付いた。真っ赤になっているだろうわたしは、その綺麗な輝く瞳に自分が映り込むのが恥ずかしくて視線を外した。
「ハルカ様?」
問うように名を呼ばれて視線を外したまま下を向く。そうしたらもう一度名前を呼ばれた。
「これは命令とかじゃなくお願いだから、駄目ならそれでいいんです。」
「ハルカ様。」
「ごめんなさい。」
「ハルカ様、それは私の夢であり、願いであり、そして望みです。」
彼の言葉を正直に受け取っていいのだろうか。忠義を尽くすものとしての言葉かもしれないけど、とんでもないことを口にしたわたしは恥ずかしすぎて真っ当な返事が出来ずにいた。
「もう一度ハルカ様を腕に抱く栄誉を与えて下さるというのですか?」
「栄誉じゃなくて、これは……単なるお願いです。」
本当に栄誉とか、真面目にそんなことを言うのは勘弁して欲しい。
ここに来た当初は冷たい心で受け止めて、屑か何かのように毛嫌いして簡単に聞き流せた言葉は、彼らを疑うことを止めたわたしの心にある意味恐ろしいまでの破壊兵器となって攻撃を仕掛け、精神的な部分に恐ろしい程の衝撃を与えてくれていた。
「あのっ、わたしばかりじゃ何ですからアイオライトさんにもお願いがあれば何でも言って下さい!」
耐え切れず誤魔化すように声を上げたわたしに対して、冷静ないつもの声でアイオライトが思わぬ質問を投げかける。
「ハルカ様はパオというものを御存知ですか?」
「パオ?」
見知らぬ言葉に真っ赤になっていた顔を上げてしまう。すると先程とは打って変わって、柔らかな微笑みを浮かべたアイオライトがわたしを見つめて「オブシディアンの伝統的な料理です」と教えてくれた。
「ごめんなさい、知らないわ。お城で出されたことがあったのかな?」
「ハルカ様に出されたことは御座いませんでしたね。」
「その料理がどうしたの?」
わたしからすると物凄く恥ずかしい告白をしたようなものだ。どの面下げて『抱き締めて』だと言ってしまったのか。アイオライトのファンに聞かれていたら袋叩きにあうようなお願いだろう。そこへ伝統料理の話が加わって、わたしは突然の思わぬ問に少しばかり心を落ち着けることができた。
「私の腕が癒えたらお作りしますので、その時はハルカ様に食べて頂きたいのですが?」
如何でしょうかと僅かに顔を傾けたアイオライトの微笑みが眩しくて、立ち直りかけたわたしは慌てて視線を外して直視を避けた。
「ぜひ食べさせていただきます。」
激辛とかの罰ゲーム的な料理でなければいいけどと思いながら、ふと気が付くとアイオライトの右腕を握り締めたままだったのを思い出し、わざとらしくならないように、自然に見える様に外した手袋を嵌めてからそっと手を離す。掌に凄い汗をかいていたけど感じないらしいから気付かれていないだろう。多分。
最後になってジェイドがいることを思い出したわたしは、忠告されたばかりだというのにすっかり人払いをするのを忘れていたことに気付いた。
今のやり取りも報告されるのだろうかと、立ち上がってアイオライトから離れながら視線で問うと、面白そうに微笑みながらも人差し指を口元に持って行ったので秘密にしてくれるらしい。




