その27(遥)
息をするのも忘れているんじゃないかと思えるほど、王子様は瞬きひとつせずに目を見開いていた。まったく動かなくなってしまい何か変だと心配になってきた所で、時間が来たとクリソプレーズの代わりにジェイドが呼びに来てくれる。
「あれ、王子がどうかされましたか?」
わりと気さくな感じの人らしいジェイドは戸惑うわたしの隣に立ち、ひょいっという感じで王子様を覗き込む。途端に王子様がお腹を抱えた。
「腹が痛い!」
「えっ?!」
お腹を抱えて痛みを訴える王子様を前にわたしは慌てたけど、反してジェイドは冷静に口を開く。
「王子に癒せないなら誰にも治せませんよ?」
世界一の魔法使いなのだから全くその通りではあるけど、傍若無人な王子様を知る筈のジェイドの態度がどうも王子様を相手にしている物とは異なって違和感を覚える。するとジェイドは「ああ」と白い歯を見せて微笑むと目を細めた。
「ハルカ様がいらっしゃる限り王子が昔に戻ることはない、恐れる必要はないとクリソプレーズ殿下が仰っていたのです。」
確かに王子様はわたしがいるせいで驚くほど人に優しくなっている様だ。実際に王子様は苦虫を潰したような顔をしているけど、ジェイドに文句を言ったり貶したり威圧する気配がまるでない。
「王子様、お腹は?」
「痛いぞ。」
痛くはなさそうだけど、痛い気持ちなのだろう。気を引きたいのだとすぐに理解したわたしは、迎えに来てくれたジェイドには悪いけどもう少し王子様の側にいることにした。
「ねぇ王子様。わたしが言ったことはちゃんと理解してもらえたかな?」
「私が失敗などせず完璧なら帰りたいということなのだろう?」
「そんなことが可能じゃなさそうだから怖いのよ。」
「この前の実験できっかけが掴めたような気がするのだ。手放せば余計に難しくなる。其方はそれで本当に良いのか?」
確実なことはわからない。あとで後悔して泣く日が来るかもしれないけど、王子様のあんな姿を見せつけられたら継続を望む勇気なんて微塵も無くなってしまったのだ。王子様はどんな苦痛を伴ってもわたしを元の世界に帰す方が楽になれるのかも知れない。だけどわたしの考えが間違っていなければ、王子様は初めて敵わない相手であるわたしに対して依存傾向にあるように思えるのだ。
きっと心の奥底では自分と対等に渡り合ってくれる人を望んでいたのだろう。それは王子様の力を恐れない人であれば魔法という力のでなく別でもいいのだ。王子様にとってわたしは真正面で叱りつけ誉めてくれる、これまで知らなかった、得られなかった存在なのではないだろうか。わたしの役に立つことで誉めてほしくて、同時に自分の力を誇示する欲求も得られる状況でもあるせいで、王子様自身も人の情に飢えていることに気付いていないのではないだろうか。
「困ったら助けて欲しい、だけど無理して怪我までする必要はないの。だからわたしを帰す方法は探さなくていいよ。あきらめられなくてむかついていたから絶対に帰せって怒鳴ったけど、あの頃と今は違うの。王子様が憎くて憎くてたまらなかったけど、時間の経過って怖いわね。あんなに憎かった王子様に情が移っちゃったのよ。」
見知らぬ世界にたった一人なのも変わらない。だけどその孤独を差し引いても王子様がわたしを帰すために怪我をするのは我慢ならないのだ。場合によっては命を落とすかもしれない。もし奇跡的に帰ることができても、王子様の無事が確認できない限り心配し過ぎてわたしの心は病んでしまうだろう。残念なことにわたしは王子様に対してその程度の情を持ってしまったのだ。
「正直にいうと帰りたいわよ。だけど王子様に怪我をされてまでといえばそこまでじゃない。わたしは自分の世界に大切なものを沢山置いてきているわ、未練もある。だけど人の命に関わるようなことまでして帰りたいかと言えば、今はもう違うのよ。」
わたしは加害者である王子様に責任を取らせようとして失敗したのだ。じっと王子様を見つめて正直に告白すると、王子様はわたしから手を離すと瞼を震わせ俯いてしまった。
「私は本当に取り返しのつかない酷いことをしてしまったのだな。すまない、本当にすまない。」
頭を下げた王子様の髪を大丈夫だと勇気付ける様に撫で付けた。自分が許されたいのではなく、本当にわたしにすまないと思ってくれる王子様に「許す」と告げる。本当はこの世界に連れて来られたことを許せるわけないし、納得もできていない。だけど王子様が努力してくれる様子を目の当たりにして、許せない気持ちよりも王子様の命の方が優先順位が高くなってしまったのだ。
こういうのを絆されるというのだろう。放っておけない子供だった、本当にクソガキだった王子様の成長に、保育士として子供たちに接してきたわたしが喜びを感じないなんて有り得なかった。王子様は十六の少年だけどわたしの前では園児と同じなのだ。
王子様が本当に後悔してすまないと思っているなら、隠れて研究を続けてしまうことも考えられる。暫くは目が離せなくなるだろうけど、一緒に住んでいるからその辺りは注意すれば大丈夫だ。夜の闇の中に突然落ちてきて、血を吐いて意識を失うようなことが起きたら脅してでもやめさせる。だけど王子様は人を寄せ付けて来なかった分、自分に正直で他人の影響をあまり受けていないからきっと悪いようにはならないだろう。逆に側にいる大人であるわたしがお手本を示さなければならない、とても責任重大だ。
「取りあえずは王子様もゆっくり休んで。腹痛が良くなったら一緒に東へ帰りましょう。」
「あ、ああ。そうだな。」
まだ一緒にいられると呟いた王子様は本当に捨てられそうな気分に陥っていたようだ。きっと可愛い園児たちの中にいても違和感なく……精神年齢的な点では違和感なく溶け込める気がする。
ああでもこの調子なら明日には腹痛が良くなっているだろうから、一応念を押しておかないと。だけど魔法を使って体力が消耗していることを指摘すると意地を張るかもしれない。
「アイオライトさんの様子も気になるから、もう少し病院でお世話になるかもしれないわ。」
今の所わたしの仮住まいは騎士団が所有する病院の個室になっていた。沢山部屋は空いているので遠慮なく使わせてもらっているけど、アイオライトとは同じ病院内にいるにも関わらずあの日以来会っていない。彼の動かない右手を見て落ち込んで、わたしのせいじゃないと言われるのが辛いのもある。
「何故アイオライトなのだ。あれの治療は完全に終了しているぞ?」
「あ、でも。動かないのよ。」
「そんな訳があるか。腐った腕の浄化も接合も完璧で落ち度はない。私の魔法は絶対だ。動かないではなく動かさないのだろう。」
自分の魔法に絶対的な自信のある王子様は胸を張るように治療は完璧だと言い放つ。だけどアイオライトさんの腕は現実に動かないのだ。
「己の失態を隠したくて言っているのではない、本当に動かないのならアイオライト自身が完治を拒絶しているのだ。受け入れるつもりがないから私の魔力が馴染まないだけで、本来ならあ奴の腕はとっくに繋がって機能している。」
いくら完璧に繋ぐことができても、一度離れたということもあって心因的な要因もあるのかもしれいない。だけどわたしは『完璧だ』と絶対的な自信のある王子様の言葉に光明を見出し心がほんの少しだけ浮上する。そうだ、王子様は天才なのだ。王子様の言葉を信じるなら治療だけは完璧で、後はアイオライトに王子様の魔力が馴染めば動くということなのだろう。これを伝えたらちゃんと動くかもしれないと期待に胸を膨らませていると、「あっ!」と静かにしていたジェイドが声を上げた。振り返るとしまったとでも言うかに口を大きな掌で覆っている。
「どうした、何か心当たりがあるのなら遠慮なく言え。」
「あ、いえ……」
「言え。これは命令だぞ。」
「はぁ……その。」
ジェイドは周囲を気にする様に首を巡らせると、僅かに距離を詰めて気持ち身を屈めた。
「以前ハルカ様が、ハイアンシス王子とクリソプレーズ殿下を伴い城下に降りた時がありましたよね?」
「それが何だ。」
わたしが初めてお城の外に出た時のことだ。もう一年以上前の出来事ではないだろうか。それがどうしたのだろうと思い、王子様の急かす声を聞きながら続きを待つ。
「私もハルカ様をお見送りする場に影ながら控えていたのですが。お三方が行かれた後に、ハルカ様の好みが殿下のような方だったのだなと話をした記憶が。」
「其方の好みは叔父のような男なのか?」
「そういう訳じゃないけど?」
どこかでクリソプレーズのような人が好きだとか言葉にしたことがあっただろうか。記憶にないなと思って首を傾げていると「そうではなく……」とジェイドが再び辺りを気にしながら口を開いた。
「いや、やはりそうなのかな。」
「はっきり言え。」
「恐らくアイオライトはその時、殿下のような見かけの人にハルカ様が惹かれると思われたのではないかと。つまり腕のない状態の姿に惹かれていると、私の言葉を勘違いして解釈したのではないでしょうか。」
「其方は腕のない男が好きなのか?」
「腕のない人だから率先して好きになるとかないわよ!」
腕がないのはしかたがないけど、あるなしで好き嫌いに発展するようなことはない。普通そんな風に勘違いしないと思うのだけど……というか。アイオライトは本気でそんな風に考えてしまったのだろうか。
「治療が完璧で動かすのに支障がないのなら王子の仰る通り、アイオライト自身が動かなくて良いと思っているからでしょう。それで思い当たるとするとあの日の会話なのですが……ハルカ様をお守りするには腕は必要ですが、失えば失ったで他の可能性が見えてくる。」
「このまま腕を失ってしまえばハルカ好みになれると考えたのか。病は気からというのもあるしな。」
魔法がある世界でもわたしの世界と同じ言葉があるようだ。だけど手足のない男性が好みの女ってなんだ、そんな人がいたら流石に人間性を疑うべきだと思う。ジェイドもそのような意味ではなく、綺麗な見た目よりも野性的な感じが好みだったのかとのつもりで口にしたらしい。それをアイオライトが言葉と見た目通りの意味で解釈してしまったのだろうと予想する。
「ハルカの性格を理解しての無意識なのだろうか。」
「もしそうならハルカ様次第で動く動かないが決まるということでしょうか?」
様子を窺うようにジェイドの視線がわたしへと移り、王子様が「気にするな」と強い口調で言いのけた。
「治療は完璧なのだから、奴の腕が動こうが動くまいがどうでもよい。」
「完璧なら動いてもらった方がいいよね?」
「いいや、私は自分の魔法が完璧なら後は気にならないぞ。」
王子様にとって治療は完璧に成功して終了しているらしい。アイオライトの腕が動かないのはアイオライト自身の責任だからと、わたしにも関係のないことだと諭すように言い聞かせていた。
サードはアイオライトの心がわたしに向いていると信じていたから、おかしいと気付いて東にまでやって来たのだ。アイオライトもわたしを抱きしめたいと言って……自分に自信のないわたしは戸惑いが勝り視線を彷徨わせた。
だって相手はアイオライトだ。神がかり的ともいえる美貌にそれなりに慣れはしたけど、直視すると恥ずかしくなってまともに視線が合わせられなくなる時がある。そんなつもりじゃないとか言われたら、恥ずかしいを通り越して痛い女だ。本気にしたのか、別に愛情じゃなくて異世界からきた大切な人だからと言われたら二度と顔を会わせられない。
だけどアイオライトをこのままにしては置けない気持ちも強かった。だってわたしのせいで腕を失うことになってしまったのだから。それが治るのをアイオライト自身が拒絶していて、原因がわたしにあるのなら、その原因を取り払うことができるのはわたしだけなのだ。
ちょっと誰かに相談したい。ここに居るジェイドと王子様では駄目だ、きっとサードがいいと思う。けど彼は謹慎中なので相談できない。わたしの言葉は絶対だ、自分の気持ちが確定していないのに迂闊なことを口にしたらいけないのはクリソプレーズからも忠告されてちゃんと理解していた。ではどうすればいいのか。
「ハルカ様次第ですね?」
面白そうに目を細めたジェイドが恨めしく思えた。アイオライトのことで頭がいっぱいになっているわたしの袖を王子様が引いて現実に戻してくれる。
「其方は大丈夫なのか?」
「王子様にならわかるでしょう、わたしならこの通り大丈夫よ。」
王子様が診察してくれたのは聞いているし、何処から見ても元気に見える筈だと答えるとそうではないと返された。
「召喚された時よりも今に絶望しているのだろう?」
「聞いてたの?」
眠っているとばかり思っていたけど、どうやら王子様はわたしの独り言を聞いていたらしい。
「其方が私に空を落とすなと願うなら、私は其方を幸せにする努力を惜しみはしない。其方の心の憂いが私に関することだけなら、実験に失敗した直後に空が落ち始めていてもおかしくなかった。だが落ち始めたのは最近だ。其方をこのようなことに引き込んだグロッシューラには罰を下した。他に罰して欲しい輩はいるか?」
誰をどう罰して欲しいとかわたしが口にしていいことじゃない。だけど王女様だけはどうしても許せなかった。誓約の書き換えをしたというけど、誓約に関する契約不履行の罰は蛮族に落ちることだ。恐らく王子様が手を尽くしたのはわたしに関わることだから。わたしはこの罪を王子様にだけ背負わせていい訳がないと、勇気を出して口を開いた。
「赤ちゃんは……王女様のお腹の子はどうなったの?」
牢の中の恐怖を、アイオライトと抱き合っていた時の不安を、そして彼が自ら腕を落とした時の声をわたしは忘れない。わたしと一緒にいたいとの願いを口にして、禁じられた問いかけを投げかけたのも、アイオライトが腕だけじゃなく命を失う覚悟もしていたからだ。わたしを安心させながらも、アイオライトは少なくとも死の覚悟をしていたに違いないのだ。暗く湿った地下牢で起きた恐怖は生涯わたしの心に残り続けるだろう。それを含めて全て、あんなことを引き起こした王女様をわたしは絶対に許さない。
だけど王女様はお腹に赤ちゃんを抱えた母親だ。どんなに残酷で酷い母親であったとしても、お腹の中にいる命に罪はないのだ。生まれたら産声を上げて、鼻を鳴らしながら乳を探して必死で飲んで、何物にも代えられない宝物だ。
「赤ちゃんはどうなったの?」
わたしはずるいから、王女様が許せなくてもお腹の子のことを考えたら罰なんて下せない。それを王子様がしてくれたのだ。何もかもを人任せにするんじゃなく、知らないで済ませていいことではないと再び訊ねる。
「グロッシューラは処分した、方法は聞かないでくれ。ただ生きているというのは伝えておく。子は借り腹をしたので無事だ。生まれたら男女どちらであろうと公爵家の跡取りとなる。」
「借り腹?」
なれない言葉に聞き返すと、この世界では妊娠中に子を失った母体の子宮に胎児をうつすことが可能らしい。
「前に其方の部屋に移動した時にも応用した術だ。私にも出来ないわけではないが、あの時は魔力が不足していたので処置は専門の魔法使いに行わせた。問題なく終了したのでちゃんと育っているはずだ。」
母体から他の人の子宮に胎児をうつすなんて言われて唖然とする。腕を繋ぐ魔法があると知った時以上の衝撃だ。
「それで他に罰して欲しい輩はいるか?」
「いないわ、王女様だけ。他の人は相応の罰を受けているみたいだから……」
胎児をうつす。
どうやるのだろうと想像していたら生々しくて頭がふらつく。十分に休んだけど色々なことがあったので本調子ではなかったのだろう。何しろ空が落ちてくるほどなのだから。情けないことにわたしは強烈な船酔いのような感覚に襲われて姿勢を保てなくなり、そのまま王子様の寝台に体を倒して意識を失ってしまった。




