その26(遥)
王子様はずっとお城で作業をしていたらしい。眠る王子様の伸びすぎた前髪をそっと撫でると、白金の長い睫毛に縁取られる瞼が震えた。
サードは王子様の怪我の様子を確認するために東にやって来たのに、いらぬことを言ってわたしを危険な目に合わせた責任を取らされて謹慎中だ。前のわたしなら彼らがお咎めを受けても何とも思わなかった筈なのに、事を公表できないので表向きには休暇として取り扱われるにしても、アイオライトの為に動いたサードが可哀想な気持ちになる。だからってわたしが口出ししても良くないので結局は何もできない。子供の相手ができると言ったサードの言葉だけが救いだ。
なのでクリソプレーズに頼んで誰にも見つからないように内緒で連れてきてもらった。わたしの髪も目も魔法が解けて元の色に戻ってしまっている。
魔力を使い果たした王子様はお城にある部屋でずっと眠り続けていた。アイオライトのことを聞きたかったけど、この数日で何度か訪ねたのに王子様は瞼を閉ざして眠っているのだ。サードとアイオライトの治療だけでなく、王女様の処遇を任された彼は寝る間も惜しんで努力して、王女様に罪を突きつけたのを最後に眠りについた。
今回の件は全て王女様に仕えた魔法使いの仕業として処理された。魔法使いは力量を超えた魔法を使い続けたことによって命を落とし、事に加担したとはいえ蛮族に落とされると脅されて協力させられた公爵と王女様は謹慎というのが表向きの処罰。だけど実際には主犯である王女様は王子様が無理矢理書き変えた『誓約』の効力で、二度と表舞台には姿を現すことができない処遇を受けているという。
王子様は王様にしか出来ない筈の誓約を書き変えて、王女様にどんな償いをさせたのだろう。王女様のことは許せないけど、彼女が宿していたお腹の子供のことが気になって仕方がない。重罪にしてと声を上げたくても、お腹にいる子供のことを考えるととても声に出来なかった。
クリソプレーズに聞いても王女様がどうなったのか知っているだろに教えてくれない。全ては王になるべき王子様が通るべき道と、知りたければ王子様自身に聞く様にと言われた。そうだよね、次の王様ってやっぱり王子様じゃなければいけないのだ。
この世界で最も力の強い魔法使いである王子様。性格に問題がなければ彼こそが誰もが認める未来の王だ。この前サードにも話したけど、そんな王子様をこのままわたし一人で独占し続けるつもりはない。
王子様は誰もが恐れる身勝手な王子様だった。わたしの前ではそんなことはないけど、王女様とのやりとりを見ていると高飛車な態度があるのは確かだ。多分大丈夫、だけどと不安になる。王子様は王女様のお腹の子に罪がないと気付いてくれただろうか。見た目はすっかり大人だけど、心は十分に育っているとは言い難い。環境が王子様から幼少期を奪ってしまったのが大きな原因なのだろう。
本当なら一生こき使ってやるつもりだったのだ。加害者として罪を償ってもらうつもりでもいた。だけど王子様が今こうして倒れているのはわたしの為だと解っているから、わたしは牙を失くしてしまった様にすっかり大人しくなってしまった。
「ねぇ王子様、空が落ちてきてるって知ってた?」
返事がないのは解っているのに、意識のない王子様の髪をなで、柔らかな感触を楽しみながら問いかける。
「どうやらわたしは今が一番辛いみたい。王子様に召喚されて絶望して、泣き叫んでいたあの時より今の方がこの世界に絶望しているんだって。信じられないよねぇ。」
可笑しくて喉の奥で笑った。
「王子様のことあんなに口汚く罵ったのに、色々ありがとうって感謝している今の方がよっぽど絶望してるなんて。わたしの心っていったいどうなってるのかしらね?」
だってアイオライトを想うと辛いのだ。彼にどうやって応えるのか、自分がどうしたいのか解らない。そして命の危険があるのに、危険と微塵も思わないでわたしを元の世界に帰そうとする王子様のことも心配で不安でたまらない。この前倒れた時と違って血を吐いたりはしていないけど、今回だってかなりの努力をしてくれたに違いないのだ。ちょと見ない間にすっかり痩せてしまっているのはかなり無謀なことをしたからだろう。いつか死んでしまうのではないかと思うと心配で目が離せなかった。
「ああそうか。きっとこの二つなんだ。」
天が落ちてくるのはきっとこのせい。わたしが二人を心配して不安でたまらないからだ。アイオライトのことも王子様のこともその他の人たちも含め、わたしのせいで誰かがどうにかなってしまうのが怖いのだ。この世界で生活をしていくうちに誰かに捕らわれるのが怖かったのは、わたし自身が捕らわれて引き返せなくなるのが怖かったに違いない。泣いて恨んで憎らしくて罵って。罵声を浴びせていられた時が一番楽だったのだ。
それなのにわたしはこの世界で生きるために、加害者だからと大人になれていない王子様を引き込んだ。縋るように熱い視線を送っていたアイオライトを突き放した。そのせいで二人が肉体的な苦痛を伴って、それを自分のせいだと思ってしまう日を恐れていたのだ。だってこんな現実がやってきたら、わたしは間違いなくこの言葉を口にしてしまうから。
「帰るのやめる―――」
これはあきらめじゃない。ずっと、ずっとずっと怖くて帰れなくなるのを恐れていたのだ。この世界を知って、慣れ親しんで、誰かが傷つくのが怖くなってしまうのを恐れていた。優しい偽りの世界が偽りでなくなるのがとても怖かった。
見た目はすっかり大きくて、出会った当初よりも背が伸びてしまった王子様。褒められると恥ずかしそうにそっぽを向くのとか、認めて欲しくて努力する様子とか。そんな王子様を一人でお使いに行かせるのは未だに心配で。憎むべき相手なのに、恨んでいたはずなのに少しずつ世界が変わっていくのが怖かった。
そしてもう一つ、アイオライトの眼差しが真実であることを知るのもだ。彼に捕らわれるのが怖くて、彼の人間離れした美しさを理由に何一つ信じず、拒絶して自分自身を守ろうとしていた。
見目麗しい騎士であるアイオライトは、わたしに与えられた目的を自分自身で理解している。アイオライトは盲目的にわたしに惹かれていたんじゃない、だって始めは間違いなく感情を向けていなかったのだから。だけどいつからか解らないけど、彼の中で何かが変わったのだろう。選別されてアイオライトが残されたのだとばかり思っていたけど、他の騎士達だって顔を見せなくてもずっと側にいたのだ。サードが勘違いしたように、私がアイオライトを好きだと思って彼らは邪魔をしないように姿を見せなくなった。自分からはそんな態度を取った記憶はないから、きっとアイオライトがそう見える様に操作したに違いない。
アイオライトがわたしを得て得になることなんて何もないのに、過去の彼を知らないばかりにずっと傷つけていたのだろう。クリソプレーズは世界の為に蛮族と戦って、顔に酷い傷跡が残って手足を失ってしまったけどそれを当たり前と受け入れている。アイオライトは動かない右腕を、わたしの為に当たり前と思って受け入れているのだ。
わたしだけの為に……王女様の為だったらどうしていただろう。そうやって比べてしまう程に、わたしはアイオライトに惹かれているということなのか。それともやっぱり自分のせいでとかの後ろめたさや同情なのだろうか。
「あ……」
ふと気づくと王子様が深い青の瞳でわたしを捕らえていた。慌てて王子様から手を離そうとしたら素早く手首を取られる。
「どういうことだ?」
王子様はわたしの手首を掴んだまま身を起こした。そして怒ったような、とても真剣な眼差しでわたしを捕らえて離さない。
「帰るのをやめるとは、どういうことだ?」
身を切ってまで真剣に取り組んでいたから怒ったのだろう。七つも年下の少年である王子様の迫力に押され身を引こうとしたけど、手首をしっかりつかまれて離れることができない。
「私は役立たずか……もういらないのか?」
「そんなんじゃないよ。」
「ならば何故っ!」
震える声がわたしを責める。苦しそうに息を吐いた王子様を寝台に押し戻そうとしたけど拒まれた。
「研究は続ける。私は天才だ、必ずできる。其方を召喚したのは私だ、帰還させられない訳がない!」
絶対にわたしを元の世界に帰してやると叫ぶ王子の怒りは凄まじかった。これは出来ないことを指摘されて怒っているんじゃない、わたしがあきらめることを、そのせいで自分が放り出されることに対して不安に思い恐れを抱いている。まるでわたしと同じだなと思って、怒鳴る王子様の主張を受け止めた。
「きっとできるよ、だって王子様はこの世界で一番の魔法使いだから。」
「そうだ、絶対に帰す。だからあきらめるな。」
「帰るのやめるっていうのは、あきらめたとは違うんだよ。王子様にわたしを戻す努力をやめて欲しいって、わたしはそう願ってるの。」
わたしの告白にとても衝撃を受けたようで、王子様は怒りと悲しみが入り交じった表情になって固まってしまった。
「お払い箱というやつか?」
「それも違う、王子様は不要になってないから。」
「其方には不要なのだろう、同じことだ!」
「わたしがこの世界で生きていくなら、事情を知ってる王子様が王様になるべきじゃない?」
「何を訳の分からぬことを言っているのだ?」
「きっとこの世界で次の王様になれるのは王子様だけなんだよ。クリソプレーズさんは王様にはなれない。だって失格なんでしょう?」
次の王様をクリソプレーズの子供に限定する必要はないのだ。まだ生まれてもいない子供に期待を託すのは、その間に王子様の成長やわたしの許しを望んでいるからではなく、クリソプレーズでは駄目だからというのが一番の理由。自分にできることがなんであるのか悟ったクリソプレーズは早々に城から去って蛮族と戦っていた。王族自らが先頭に立って危険を犯していたのは、魔力が弱いクリソプレーズに王家の人間として民に貢献できる場所がそこしかなかったからだ。
「だから叔父上の子がっ。」
「絶対に大丈夫なの、クリソプレーズさんの子で?」
「それは―――」
「この世界で大切なのは魔法による力なんでしょ、だから王子様は何をしても許されていたのよ。」
そうでなければ人を人とも思っていない王様が納める世界が成り立ち続けられるわけがない。もっと荒んで酷い世界になっていてもおかしくないのに、クリソプレーズやわたしに与えられた騎士たちはまともだった。対して王様に近い位置にいる王子様と王女様のなんと異様なことか。王女様はともかく、王子様は力を持っているからこそ何もかもが許されていたに違いないのだ。そして王様の行いも、王様が力のある魔法使いだから許されている。まともなクリソプレーズではいけない理由で考え付くのは魔法しかない。
世継ぎ問題なんてわたしには関係ないと思っていたけど、王子様を預かっている限り関係のあることなのだとようやく分かった。王子様は一番手、二番手は存在しない。作り出すには時間が必要で、必ず現れるとも限らないのだ。クリソプレーズだって努力をしているだろうけど、彼を迎え入れてくれる女性が現れなければどうにもならない。手足がなくて怖がられているのかと思っていたけどきっと違う、手足じゃなくて顔に残る火傷のような傷跡だ。持ち上がって膨らんだ傷跡は、わたしがあの地下で目の当たりにした蛮族のぷくぷくとした皺のある顔を連想させるから。
もしかしたら王様は、王子様とわたしがどうにか上手く行けばと考えているのかも知れない。わたしが王子様を恨んでいるのを知っているけど、二人で生活することを選んだからもしかしたら王子様の子供を産むかもしれないと。だけど確実じゃないからクリソプレーズのお見合いは続いていて、他にも手立てを考えているだろう。王様だって王子様が一番いいというのは解っているのだ。だけどとんでもない失態を犯した王子様に王位を譲ることに迷いを持っているのもあるし、過去の行いを考慮すると王位に就けるのは沢山の人の為にもならない。何よりもわたしが許さないと思っているに違いなかった。だけどわたしは、わたしの知る王子様なら大丈夫なのではないかと、王子様の過去を知り尽くしていないせいで思ってしまう。
「わたしが許すと言えば、この世界を愛していければ、王子様は王様になる権利を取り戻せるんでしょう?」
「私を王に据える為にあきらめるというのかっ!」
ものすごい剣幕で怒鳴った王子様だったけど、とても悲しそうな表情を前にしてちっとも怖くなんてなかった。わたしは違うと、ゆっくりと首を横に振る。
「違うわよ、それはこの世界の人たちの勝手な理由。」
王位継承問題はあくまでもこの世界のことで、わたしが意見してどうにかするべき事じゃない。だけどわたしが許せばきっと王様は再び王子様を王太子という地位につけるだろう。王様は人の心の内なんてまるで考えない人だらから、わたしが許すならそれでいいに決まっているのだ。
「わたしはね、王子様に血を流させてまで元の世界に帰りたいって思わなくなっちゃったのよ。わたしにとってはその程度には、王子様のことが大切なのよ。」
この王子様を一人にしたらきっとまた多くの人に優しくない、恐ろしい魔物になってしまうだろう。関わったからには放棄できない、見た目は大きくても中身は愛情に飢えた小さな子供なのだ。こんな子を放っておけるわけがなく、大人としても見捨ててはいけないと思っている。王子様は何もかもに恵まれているようで、最も大切なぬくもりを得られずに育った子供だ。子供を育てるのは大人の役目で、実の親が駄目なら周囲が手を差し伸べなければならない。そして王子様に手を差し伸べて受け取ってもらえるのは、きっとこの世界でわたしだけだろう。
「今すぐには無理だけど、いつか立派で心優しい王様になりなよ。わたしの為でもいいから、この世界で愛される王様になってよ。この世界で一番の魔法使いが王子様なんだからしょうがないじゃない。」
「私は其方から離れぬぞ!」
「いいよ、側にいてあげるから。」
その時は東の端からでてこっちに引っ越してくるよ。お城は駄目だけど近くに住んでもいい。
「ねぇ王子様、空が落ちそうだよ。わたしはこの世界が滅べばいいなんて思ってないよ。だから空が落ちるのを王子様が止めて。王子様がわたしの不安を解消してよ。」
王様になるならないは今すぐに決める必要はない。だけどわたしを帰すために無理をしないで欲しい。王子様に命までかけて欲しくないのだ。正直にいうと人の命を背負わされる覚悟なんてない。もういい、帰れないのならしょうがないんだから。帰ることよりも王子様が傷ついたり、命を落としたりする方が嫌なんだと教えたのに、王子様は唖然としたままわたしを見つめて返事をしてはくれなかった。




