その22(遥)
苦しみが長引いても一緒にいたいと願うアイオライトを前に、わたしは何をどうしたらいいのか解らなくなっていた。この世界はとても不思議な、わたしが生まれ育ったのとは異なる異質な世界。奇跡でも起きないかと、牢の内側で絶命した灰色の蛮族に視線が行きかけると、それを阻止する様にアイオライトが名前を呼ぶ。
「ハルカ様、処置するのを手伝っていただけますか。」
「わかりました。」
氷も、切断した腕を保存するための清潔な袋もない。わたしの常識が通じない世界で頼れるのはアイオライトだけだった。どうしたらいいのかと指示を仰げば、彼のベルトを抜くように言われる。
「それを腕にきつく巻きます。」
「こんなに上を?」
「肩を超える前なら生きていられますから、ぎりぎりまで待とうと思います。」
「そうですね。きっと来てくれる。」
自分自身に言い聞かせるように何度も何度も来てくれる、間に合ってくれると呟きながら腕の付け根にベルトを巻く。まだ時間があるので血の流れが滞らないように、だけど急変に備えてすぐにきつく巻けるように備えて。今の所手の甲が紫を帯びた茶色に変化しているだけだ。
「もしかしたら近くに来ているかも。捜しに行ってきます。」
このままじっとしていられなくて、少しでも早く誰かに助けを求めたくて右も左もわからない世界に飛び出そうとする。だけどアイオライトがわたしの腕を取ってぐっと引き寄せた。
「ここはグロッシューラ王女が戯れに遊ぶ場所です。捕らえた蛮族に人間を与え、苦しみ死ぬ様を観賞して楽しむような場所なのです。」
「え……」
楽しむってなんだ、頻繁にこんな訳の分からないことをしているというのか。わたしの中に残されていた美しく微笑む王女の姿が完全に消え去り、血を流すサードを見下ろして猟奇的に微笑む姿へとすり替えられる。サードやわたしが見ていた王女様は偽りで、対して王子様は本質的なものをしっかりと理解していたのだ。
「私も同席し、幾度も幾度も目撃してきました。時に蛮族に触れ、王女の魔法使いより治療を受け傷のないこの姿を保ってきたのです。」
「ちょと待って。それって魔法の治療効果が下がっているってことじゃないの?」
「そうですね。腕を落とした場合、どの程度の治療が可能かは分かりません。ですがこうしてハルカ様と同じ時間を過ごせるのなら、腕一本失ったとて惜しくはないのです。」
「冗談言わないで、すぐに人を呼んでくるわ!」
「いけませんよ、それだけは許しません。」
「アイオライトさん!」
引き止めるアイオライトの腕を振り払おうとしてもびくともしない。具合が悪そうなのに片腕一つで抑え込んで、立ち上がることすら許してくれなかった。
「言ったでしょう、ここはそういう場所です。誰かに会えたとしてもそれは良からぬことを企む輩です。若い娘など攫われいいように弄ばれた後、生きていれば売られるか、死ねばそのまま放置され獣の餌になる。オブシディアンは美しい世界ですがそういう闇も存在するのです。」
近くに人がいてもまともな人間じゃないと、自分を置き去りにしてわたしだけを心配するアイオライトを前にどうしようもなくなる。わたしは堪えきれずについに涙を零してしまった。
「それじゃあどうしたらいいの。わたしはアイオライトさんから腕を奪いたいんじゃない。わたしのせいでっ、わたしのせい。本当に、本当にごめんなさい!」
償えない出来事に混乱して、どうしようもないのに謝罪の言葉が漏れる。許して欲しいわけじゃなくそれ以外に言葉が出なかったのだ。
「申し訳ありません、ハルカ様を苦しめたいわけではないのです。」
「どうしてあなたが謝るのよっ……」
誰か助けてと、アイオライトの腐りかけた右腕に縋る。まだ時間はあるけど、痛々しい傷跡が確実に彼を浸食している様子が窺えた。
「わたしに何かできることはないの?」
魔法が使える訳じゃない、ただ泣いているだけの存在。本当ならわたしが蛮族に犯されていた。わたしじゃなくアイオライトが無事なら危険と解っていても外に飛び出して対応できたのに。役立たずな我が身が呪わしかった。
「ハルカ様。貴女が断れないと知っていて頼みたいことがあります。」
「なんでもする。何でもするから言って!」
「どうか抱き締める栄誉をお許しください。」
「え―――?」
泣きそうな、苦しそうな、何とも表現しがたい表情を浮かべたアイオライトが正面からわたしを見つめていた。
「なん……なんて?」
「両腕で、この腕で貴女を抱きしめたいのです。」
「アイオライトさん?」
「もし腕を無くしたらこの願いは永遠に叶わないことになる。だからどうかこの腕にハルカ様を抱く栄誉をお許しください。この様な状況でハルカ様が断れないと解ってあえて願います。どうか―――」
「アイオライトさん!」
何もかも言い終える前にわたしから飛びついていた。アイオライトの太い首に縋りついてぎゅっと抱きしめると、耳元で驚いたように息を呑む音がした。それから間を置いて、ゆっくりとアイオライトの逞しい腕がわたしの背に回される。
「大丈夫、絶対に大丈夫だから……絶対に大丈夫。」
たとえ間に合わなくても、腕を失ってもアイオライトの腕は再び元に戻るに決まっている。王子様は世界一の魔法使いなのだ。わたしの無理難題にも応えてくれる天才なのだ。だからきっとアイオライトの腕も繋いでくれるに決まっている。
「ハルカ様、大丈夫ですよ。本当に大丈夫なのです。だからどうか、自分を責めないで下さい。」
「全部わたしが悪いの。ごめんなさい。あなたが怖くて拒絶したわたしが悪いの。どうして信じなかったのか、今更後悔しても何もかも遅いのに……本当にごめんなさいっ。」
謝っても謝ってもアイオライトを拒絶した後悔は拭えなかった。あの時どうして一緒に連れて行かなかったのか。どうして王子様にだけ責任を取らせることに拘ってしまったのか。アイオライトの全てを王様の命令だと拒絶して、信じて自分が傷つくのが怖くて受け入れようとする柔和な心を持てなかった。どうしてどうしてと後悔ばかりが押し寄せる。何もかもが今更でどうしようもないのに悔やまれてならなかった。
そんなわたしの心を悟って吐き出させてくれる。わたしのせいじゃないと目の前の全てを受け入れて、断れないのを承知で願いを押し付けるというのだ。だけど少しも無理じゃない、ただわたしを楽にするためにアイオライトは自分が狡いのだと告白する。なのにその狡さも我儘にもなれないような小さな願いで、アイオライトの心遣いがわたしの心をきつく締め付けて余計に辛かった。
「怖い、怖いよ。」
「大丈夫ですよ、何も心配することはありません。貴女が側にいてくれる、この今があるだけで私はとても幸福なのですから。だからハルカ様が怖がることも、怯える必要もありません。それに私は一般の人間よりも痛みを感じ難いのです。だから安心してください。」
「何が安心なの、馬鹿なこと言わないでよ!」
このままわたし達は時間を忘れていつまでも抱き締め合っていた。アイオライトは後悔して泣き続けるわたしをひたすら慰めてくれる。
けれど無情にも時間は過ぎ、手の甲だけだった傷はゆっくりと、けれど確実にアイオライトを浸食して行った。腐敗臭はない。だけど黒っぽい緑色に変色した腕は確実に生きた人の物ではなくなっていた。その腕をアイオライトが自ら落としたのは、明り取りの窓から長い日が差し込む時間になってからだった。
わたしはアイオライトが腕を落とす様を逃げずに直視した。壁にそえた腕に剣を当てて体重をかけたアイオライトが苦痛にのたうつのを押さえつけ、出血が増えるのを阻止する。落とされた腕はドレスのスカート部分を破って包んだ。氷とか清潔な袋とか考えたけど、王子様が落とした腕を浄化するとか言っていたのを思い出して、この世界ではわたしの知識なんて無駄なんだと実感させられた。
わたしは鉄格子に背を預けると、膝の上にアイオライトの頭を乗せて助けが来るのを待つ。きつく縛った腕からの出血は止まることはないけど、思ったよりも大量ではなかった。麻酔や痛み止めはなくて、切り落として暫くは痛みに呻いていたアイオライトだけど、今はわたしの膝の上に頭を預けて静かに横たわっている。意識だってしっかりしているし精神力も強いのだろう。今は痛みを感じていないみたいだけど疲れ果てているのは間違いなかった。
「ハルカ様。」
よく耳を澄ましていないと聞こえないような声。だけどここは町の喧騒も鳥のさえずりもなくて、どんなに小さな声でも聞き漏らすようなことはなさそうだ。
「うん、なに?」
「異界の方に故郷を思い出させるような質問をすることは禁じられているのですが。」
「悲しませないためね。そう言えばこっちに来て名前と年齢以外のことは聞かれた記憶がまるでないわ。いいわよ、何でも聞いて。」
人より痛みを感じないと言っていたけど、痛くないわけじゃないだろう。だけどわたしを安心させるだけの言葉でないならいいのにと思い、先の無くなってしまた腕に視線を落とす。
「貴女があちらの世界でどのように生きていたのか、それが知りたい。」
「普通だよ。っていうか、こっちからしたら普通じゃないのかな。」
この世界では働く女性は珍しい。見かけるけど、男性のように朝から晩までではなく、働いている女性がいても短い時間だけだ。
「家族は両親と弟で、親元を離れて一人暮らしをしていたわ。仕事は保育士。保護者が仕事をしていて子供の面倒を見ることができない間、その子供たちを預かる施設で働いていたの。預かっていたのは生後二か月から六歳までの子供よ。朝から日が暮れるまで気を張って大変だけど、可愛い子供たちと過ごす時間はとても幸せだったわ。」
懐かしいと思う程度にはこの世界での時間を過ごしてしまっていた。もう一年半を過ぎてそのうち二年になる。あきらめるには早いけど、わたしはもう王子様に向かって元の世界に帰せと吠えるようなことはしない。
「結婚は、恋人などはいらしたのですか?」
「夫も恋人もいない。高校生になったばかりだから十六の時かな。その時に付き合った人がいたけど、半年くらいで別れちゃってそれ以来一人だな。」
その時の彼氏とは手を繋いだだけで終わってしまった。彼が夏休み中のバイト先で別の女の子と仲良くなってふられてしまったのだ。
「弟は二十で学生よ。」
「ハルカ様の世界は勉学に力を入れているのでしたね。」
「知ってたの?」
「ある程度ですが、任を頂戴した時に知識として与えられました。」
この世界の成人は十八歳だけど、平民と言われる人たちのほとんどが十代前半で仕事を始める。
「アイオライトさんは何時から騎士としてやってるの?」
「見習いとして十二から始め、騎士の叙勲を受けたのは十五の頃です。その二年後に王女にお仕えする栄誉を授かり今に至ります。」
「王女様はその……仕えるのに相応しい人だった?」
駄犬と呼んだあの王女様の話をしてもいいのか迷ったけどつい聞いてしまった。アイオライトは特に何も感じていないようで淡々と答える。
「王族にお仕えするのは騎士としての誉です。私は騎士の家系でありましたので、誠心誠意お仕えすることだけが役目でした。」
「あの……婚約してたでしょ?」
「グロッシューラ王女が決められたので従ったまでです。陛下が反対されましたが、結局はお認めになられましたので、陛下が認めたのならそれが全てです。」
「そう。」
婚約は王女様が言い出したことだったのか。それを受けたアイオライトは命令と認識していたのか、王女様に対する愛情の欠片も垣間見えなかった。二人の間にあったのは忠誠と、そして服従させる支配欲。それ以外に何があったのだろうかと、王女様に仕えたアイオライトの十年を知るのが怖い。
「話が変わるけど、いつからちゃんと記憶があるの?」
アイオライトには今いる場所や周囲の状況が分かっているし、自分の中に王子様の魔力が入っているのも知っている。魔力に関しては不快感を感じるらしいのでそれで解ったのかも知れないけど、わたしの中にもあると予想できていた。
「昨夜、でしょうか。ハイアンシス王子が術を解いている途中に気が付きました。ですが完全に解けるまでは自由にならず。サードを刺してハルカ様を悲しませたのも分かっています。」
「サードも精神拘束の魔法がかけられないようにしてもらったの。そのせいで殺されたりしないよね?」
「貴女だけにではなく、サードにもですか。グロッシューラ王女がサードを望んでいたようなので恐らく大丈夫でしょう。それにしてもハルカ様以外を気にかけるとは、王子も変わられたのですね。」
王子様については、傍若無人な駄目王子だった様子を垣間見ることができた。アイオライトにかけられた魔法を解いてくれたのも、わたしの頼みというよりも自尊心からで、自分がどれほど優れているかを見せつけるための割合が大部分を占めていたように思わる。とても生き生きとしていて、わたしの知らないはつらつとした王子様だった。あれが常時なら嫌われるかもしれないけど、人に危害を与えなければお城でも上手くやって行けるのではないだろうか。
この後少し話して、疲れたからとアイオライトが瞼を閉じた。左腕は鎖で鉄格子と繋がれたままでまるで罪人のようだ。
「こっちは外せなかったのかな。」
牢の鍵は開けてくれたけどアイオライトを拘束する鎖はそのまま。わたしのことばかりでここまで気が回らなかったのかも知れない。
冷たい鎖で拘束された左の手首に指を当てる。膝の上に頭を乗せているので息をしているのは解るけど、脈を打っているのもちゃんと確認したかった。
「脈、ちょっと速い。」
熱も出てきている様だ。苦しいのだろうなと思うと申し訳なさでいっぱいになり再び涙が溢れてくる。信じているけどもし助けが来なかったらどうしよう。辺りが暗くなり不安で怖くてたまらなくなってきた頃、砂地を踏む音がして思わず振り返った。すると暗くなってしまった小さな窓から橙色の光が入って来る。助けだろうか、それともその辺りをうろついているろくでもない人たちだろうか。怖くてアイオライトの左手をぎゅっと握りしめた。




