その20(遥)
暗闇に慣れていないわたしは王子様の腕にしがみ付く様にして慎重に進む。先頭を歩くサードに迷いはなく、王子様はサードを見失わずにしっかりした足取りで歩いていた。
アイオライトの部屋はサードが確認済みだ。忍び込むのに便利な魔法でも使うのかと思ったけど、王子様がこれまで送って来た生活では不必要だったのでないらしい。だけど精神拘束の魔法をかけられたアイオライトは就寝中、こちらが敵意を出さない限りは眠りから覚めることはないだろうと王子様は予想していた。心ではどうであっても命令に忠実で、それ以外は人形のように動かないのが精神束縛の特徴なのだそうだ。
アイオライトの部屋には鍵がかかっておらず音もなく開く。暗い室内に目が慣れないけど、サードと王子様にはアイオライトが眠っているのが確認できていた。暗すぎて見えないわたしの為に小さな光を灯してくれる。豆電球よりも小さな光は闇しかなかった世界を照らして、寝台に横たわるアイオライトの姿を浮かび上がらせた。
横たわるアイオライトはまるで死んでいるようだった。怖くなって触りたくなったけど起こしたらいけないのでぐっとこらえる。すると王子様が眠るアイオライトの枕元に腰を下ろして、何の迷いもなく額に手を置いた。
「サード。」
王子様に呼ばれたサードが寝台を探ると、中から鞘に収められた剣が出てきた。アイオライトがいつも腰に帯びている剣だ。
「目を覚ました時に咄嗟に傷つけられないように、念のためですよ。」
サードが安心させるように説明してくれる。ゆっくりと深く頷いたわたしだけどできることは何もない。ただ一人で置いておかれるのが怖くてついて来ただけだし、術を解く王子様をサードが部屋まで案内するので一人残して行かれる選択肢もなかった。
狭い部屋の中、壁際に立って成り行きを見守る。王子様が眠り続けるアイオライトの額に手を乗せたまま何時間も時間が過ぎて、途中で立ったままでいるのが無理になって眩暈を起こしそうになったわたしは床に座り込んでいた。そろそろ夜が明けるんじゃないかと思っていると、目を開けたアイオライトが突然起き上がったので飛び上がるほどびっくりしてしまった。王子様はすぐに腰を上げて距離を置き、サードはわたしを庇うように前に立った。突然起き上がったアイオライトはじっとサードを見つめている。
「殺気を立てるな。」
王子様の声が低く闇に溶けた。サードが息を吐き出すとアイオライトの視線がふっと外れ、まるでわたしたちの存在などないように身支度を始める。まるで、ではなく、アイオライトは侵入者なんて気にしていないのだ。最後にサードの前に立ったアイオライトは、サードが手にしていた自分の剣を手に取って部屋を出ていく。一連の様子を口を押えて見ていたわたしは緊張から解けて汗が一気に溢れ出した。
「あれ何?」
サードと視線を合わせたのは間違いない。だけど本当に気にもしないでまるっと無視したのだ。命令に忠実で他は人形のようだというけど、目の前に人がいてもまるでお構いなしなんて。
「指示されておらぬから無い物と判断されたのだ。」
「魔法は解けなかったのでしょうか?」
サードの言うようにアイオライトが元に戻っていたならあんな態度を取るわけがない。
「八重に拘束の魔法をかけられていた。七つは解いたが最後の一つは時間不足でできなかった。しかし一つを解除する度に私の魔法で覆っていたからな。これ以降は重ねて精神拘束の魔法をかけるのは無理だ。もし出来るとしたら国王陛下くらいだろうが、私の魔法を破るのは困難だろう。」
アイオライトは何重にも魔法をかけられていた。王子様はそれを一つずつ解いてくれたけど、時間不足で最後の一つは出来なかったようだ。
「これ以上の魔法が重ねがけ出来なくても、王子様が手を出したのはわかっちゃうんじゃないの?」
「解るだろうな。だが罪を犯していない王の騎士を無断で拘束しているのだ、誰にも文句は言えぬ。しかもアイオライトの精神は壊れてはなさそうだ。故に一枚如き、そのうち自ら打ち破るだろう。グロッシューラはその時が来るのを恐れながら日々を過ごすことになる。実に愉快だな。」
「少しも愉快じゃないわよ、今もアイオライトさんは苦しいんでしょう?!」
八つが一つになっても魔法をかけられているのに変わりはない。王子様が王女様を嘲笑ったりするのは見ないふりが出来ても、その愉快がアイオライトにも関わるのだから黙っていられなかった。そんなわたしの様子に王子様は慌てて先を繕うかに説明を続ける。
「幾重にもかけられた魔法で閉ざされていた視界が明瞭になったのだ。其方を目にしたら苦しむだろうが、それもまた自ら拘束を破る糧となる。」
「完全に魔法を解くのにどのくらいの時間が必要?」
「半時程だな。明日になれば更に容易い。」
「それじゃあ今夜も泊めてもらう?」
また今夜アイオライトの部屋に忍び込めば精神束縛の魔法は完全に解ける。重ねがけ出来なくなったので解かれるのを恐れて追い出される可能性もあるなと考えていると、王子様は仮眠をとったら公爵家を出て東に帰ると言い出した。
「なんで?!」
「追加で魔法をかけられないのだから解放されるのは時間の問題だ。そなたを目にして苦しむより多少時間が必要であろうとアイオライトの為だ。」
「そんな……」
ちゃんと魔法が解けて無事な姿を確認するつもりでいたのに。わたしを前にすることで本当にアイオライトが苦しむなら王子様に従うのが一番だ。落ち込むわたしにサードがそっと耳打ちした。
「王子はアイオライトにハルカ様を会わせたくないのでしょう。」
「じゃあ王子様の言ったことは嘘なんですか?」
「ハルカ様を認識しても、自分の思い通りに動くことを許されないのですから嘘とも言えません。」
だったらわたしはここに居ない方がいいのだろう。ちゃんと魔法が解けて後遺症がないか確認したかったけど、王子様が帰るというならそれに従って後はサードに任せるしかない。
「東には王子様と二人で戻ります。サードさんはアイオライトさんのことを。どうかよろしくお願いします。」
王子様と二人でも無事に戻ることができるし、距離を取って護衛と言う名の監視のような人たちがついてくるのだ。サードさんとはここで別れることにしたけど、朝食の前に公爵が自らやって来た。
「陛下より登城する様にと知らせがきています。」
「何のためにだ。」
「私にはどうにも。王子の近況を確認する為ではないでしょうか。私とグロッシューラ、王子の三人で登城せよとのご命令です。」
「成程、解った。」
少し考え込んだ王子様が了承すると、公爵はほっとしたように胸を撫でて部屋から出て行った。
「帰るのが遅れるが陛下に確認したいことがある。姉がいないなら心配ないだろうが、念のために気を付ける様に。ハルカを頼むぞ。」
「承知いたしました。」
確認したいこととはアイオライトについてだろう。どうして希望を却下して王女に与えたのか。そのせいでアイオライトは精神束縛の魔法をかけられてしまったのだ。王様が臣下をどう思っているか解らないけど、王子様が訴えることでわたしの気持ちも伝わるかもしれない。そうしたら王様は世界の為にわたしの感情を最優先して、二度とこんなことにならないような気がした。
王子様と公爵が同じ馬車に、続く二台目に王女様と護衛のアイオライト、そして魔法使いのヘリオドールが乗り込む。王女様がいないので何かされる心配はないと王子様は言っていたけど、このお屋敷で何か問題が起きれば公爵と王女様の身も危うくなるのだ。性格の悪い傍若無人な王子様を知っている公爵はいつも汗をかいて怯えているのだから、特に心配することもないだろう。二台の馬車を見送ったわたし達はお屋敷を自由に散策していいと言われていたけど、うろつく気分でもないので取りあえず借りている部屋に戻った。
王子様が戻ってくるまでどの位かかるのか解らない。わたしもサードもほとんど寝ていないのもあるし、うろつくのではなくお茶を入れて寛ぐことにした。わたしにお茶を入れさせるなんてと狼狽えるサードを無視してさっさと手を進める。お茶を入れて座るように促すと、わたしが腰を下ろした後でようやくサードも前に座ってくれた。わたしの様子から庶民で傅かれることになれていないと解るだろうに、騎士様は硬い人が多いのか、それとも融通をきかせるのが苦手なのか。それでもお茶を口にしたサードがようやくほっと息を吐き出した。
「王子から頼むなど初めて言われました。」
サードにとっては衝撃だったのだろう。力を抜いて瞳を瞬かせる様から、ようやく騎士でない普通のサードを前にしたような気持になる。
「公爵様や王女様とのやりとりを見ていると、頼むなんて言いそうにないというのがよく解りました。だけどわたしの前では結構素直ですから、わたしが抑止力になって上手い具合に変わってくれたらいいなと思います。」
「王子を手放されるおつもりですか?」
「それは王子様ですからね。生活の基盤がしっかりして、一人でも大丈夫となったら返さないといけないって思っています。だってクリソプレーズさんはお見合いから逃げているみたいだし、他に有力な王様候補がいないのなら、世界一の魔法使いをいつまでも独占しているのは問題ですよね。」
サードはカップに指をかけ、底を掌に載せたまま僅かに俯いて息を吐いた。
「ハルカ様は大変な目に合われたというのによく周囲を見ておられる。そして自分の為だけでなく、人の為にも心を尽くして下さり感謝しています。私はハルカ様のお気持ちを利用してこんなことに引き込んでしまいました。どう償ってよいのか。うら若い乙女を騙そうとしただけでなく利用してしまい、私は騎士としてもどうあるべきなのか自信が持てずに迷いが生じるのです。」
真面目なのだなと、頭を下げぽつぽつと呟くように吐き出すサードを前に苦笑いが漏れる。このまま話を聞いていると謝罪の後に騎士を辞めてしまうのではないかと不安だ。
「サードさん、そういうのはやめましょう。起きてしまったことは仕方がないんです。償いは加害者である王子様にしてもらっています。サードさんたちは王様の命令に従っただけだって分かっていますし、もう充分ですから。それにわたしに何かあったら無理難題でも断らずに受けてくれるでしょう?」
わたしはけして心の綺麗な人間じゃない。欲や狡賢い所だってちゃんとある、何処にでもいる普通の人間なのだ。アイオライトのことが心配で王子様に動いてもらったけど、今回のことはサードに恩を売ったのだというのもちゃんと分かっている。
「困ったことがあったら頼みに行きますから助けて下さい。その時の為にとは言いませんが、これからも精進してくれたらと思います。サードさんが騎士として出世してくれたらそれこそお願いが通りやすくなるし。本当に無理難題を持ち込むかもしれませんから、いつかの為に覚悟してくださいね。」
「ハルカ様―――」
薄紅色の瞳に薄っすらと幕を張らせたサードが、手にしたカップを投げる様に取り落として中身が零れる。それが床に落ちる前にサードの手には抜身の剣が握られて、カップが音を立て割れると同時に扉が開いて何かが飛び込んできた。
アイオライトだ。
認識した瞬間にはわたしもカップを取り落としていた。物凄い速さで侵入してきたアイオライトとサードの剣が金属音を奏でて交わる。突然やって来て部屋の中で剣を交え始めた様に唖然としていると、更に二つの影が侵入してわたしは驚きと共に声を上げていた。
「王女様っ?!」
お城に向かったはずの王女様が薄っすら微笑んでいて、その後ろには真っ白いローブを纏いフードで顔を隠した魔法使いの姿。王女様は剣を交えるアイオライトとサードを認めた後、ゆっくりとわたしに視線をうつして「ごきげんよう」と笑った。
「やめて、止めさせて!」
声を上げて止めようと足を踏み出した瞬間、アイオライトの剣がサードを貫く。ぐっと唸ったサードが膝を付くと剣が抜かれ、刺された腹部から真っ赤な血が溢れ出した。
「サードさんっ!」
駆け寄ろうとしたわたしを返り血を浴びたアイオライトが捕らえる。片腕で腰を掴まれもがいても逃れられず、蹲って血を流すサードに魔法使いが音もなく歩み寄る。
「それは陛下の騎士だから殺しては駄目よ。使えるようにすればいいから、解っているわねヘリオドール。」
了解したとばかりに魔法使いが頷く。王女様の言葉からサードが殺されないと解ったけど、無事では済まないというのも理解できた。
「グロシューラ様、ハルカ様は……」
苦しそうにしながらもサードはわたしの安全を確保しようとしたのだろう、素性を口にしようとした所で倒れ込んでしまった。ぴくりとも動かない様子にわたしは恐怖で慄き声が出ない。やめて、サードを助けてと王女様に視線を向けて更に言葉を奪われた。
王女様は赤い唇に弧を描き、腹から血を流すサードを恍惚とした表情で見下ろしていた。鮮やかな緑色の瞳を輝かせて、三日月形に細めてうっとりとしているのだ。弧を描いた唇から白い歯を覗かせ、愛らしい桃色の舌先が上の歯を撫でる。その様はとても猟奇的だった。




