その18(遥)
グロッシューラ王女はとても美しい女性だった。
ふっくらしたお腹に手を添え、母親になる前の穏やかな顔つきで優しく微笑みを浮かべている。王子様と同じ白金の髪を緩やかに後ろでまとめて、派手さはなく清楚な感じだ。けれど鮮やかな緑色の瞳は好奇心に満ちた輝きを放ってわたしを見ている。十八歳というけど少女の面影はなく、一回り年上の公爵と並んでも凛とした大人の雰囲気を纏っていて、同じ空間にいるだけでこちらが恥ずかしくなる程だ。
立派なお屋敷のそれはそれは豪華な部屋で公爵夫妻と顔を会わせる。お決まりの文句なのだろう、王様の不興をかって島流しにあったとは思えない王子様が偉ぶった挨拶をすると、大人な公爵様は儀礼通りの挨拶をしたあとで、姉弟で積もる話があるだろうからと早々に部屋を出て行った。
公爵と入れ替わりに真っ白なローブを纏いフードで顔を隠した、色はともかくいかにも魔法使いといった人と、続いて同じく真っ白な騎士服を着たアイオライトが部屋にやって来た。
魔法使いは長椅子に座る王女様の後ろ、そしてアイオライトはわたし達に一瞥もくれずに王女様の足元に膝を付いて小さく頭を下げる。そのまま顔を下げていくので何をするのだろうと見ていたら王女様が制止をかけた。
「いいのよ、お前もヘリオドールと同じように後ろで控えていて頂戴。」
柔らかそうなアイオライトの銀髪を王女様がひとなですると、アイオライトは上体を起こして薄っすらと微笑みを浮かべて王女様を見つめた。
「御心のままに。」
すっと立ち上がったアイオライトは王女様の後ろに回って、ヘリオドールと呼ばれた魔法使いの隣に直立不動の姿勢をとる。正面を見据えた青緑色の瞳は何も映していない、冷たく血の通っている人とは違うような感覚を覚えて思わず息が止まってしまった。これは気安く声をかけられる様な状態じゃない。
確かにサードの言ったように何かが違う。表情というより生気がないのだ。際立った容姿も相まってまるで人形のようだと感じた。
隣に座る王子様がどうしているかと見てみると、長椅子に背を預け足と腕を組んだまま顔を背けて壁を見つめていた。アイオライトをちゃんと見て欲しいのにやる気があるのだろうか。公爵が部屋を出た途端に会話が無くなりどうしたらいいのか解らない。こういう時ってわたしが話を続けて場を持たせないといけないのだろうけど、王子様どころか護衛として後ろに立っているサードも頼れなくていったい何を話したらいいのかすら分からなくて焦った。
そんなわたしに助け舟を出してくれたのは穏やかに微笑む美しい王女様だ。
「弟が無理矢理あなたを手籠めにしたとか。」
だけど爆弾発言。
「まさか、そんなことにはなっていません!」
なにが手籠めだ、いったいどんな噂が流れているのかと驚きを隠せない。慌てるわたしを王女様は心配そうに見つめる。
「本当にただの同居人なんです。」
「そう言えと命じられているのではなくて?」
「何と言いますか、迷惑をかけられたというのがありまして。王子様がその償いをしてくださっている途中という所でしょうか。色々な噂があるようですが、王子様との間に男女の問題があるわけではないんです。」
物凄く説明が難しい。王女様は本気でわたしを心配しているようなので、せめて手籠めとかとんでもない噂は消滅させたかった。王子様とわたしの年齢差は七つもあるし、王子様はこちらの世界でも未成年。成人するまで一年ちょっとある。
焦るわたしの隣では王子様が興味なさそうに壁に視線を向けたままだ。あの壁に珍しい染みや模様があるのだろうか。わたしも探していいかな、間違い探しは得意だとか話を変えられないかと考えていると、ほっと息をついた王女様が胸をなで下ろした。
「父は弟を矯正するためにあなたに託したのかしら。随分と穏やかに、人らしくなったように見えるわ。ねぇアイオライト、ハイアンシスは随分と大人しくなったとお前も思うわよね?」
「我が主の仰られる通りです。」
直立不動でただ正面を見つめたまま、高揚のない声でアイオライトが答えた。あまり表情豊かな人ではなかったけど、決してこんな風に感情のない人ではなかった筈だ。明らかにおかしいと感じたサードは正しいと思う。わたしだって見ただけでこれ程の違和感を感じるのだから。なのに王子様は相変わらず壁を見つめたまま口を開こうとすらしない。わたしには王女様相手に会話する能力なんてないのを解っているはずなのに役立たずと心の中で目いっぱい罵っていると、それからしばらくしてようやく王子様が口を開いた。
「姉上。今夜は此方に滞在させていただく。」
「そう、構わなくてよ。お城には帰れないのだもの。好きなだけどうぞ。」
優しく微笑んだ王女様の言葉に初めて棘を感じたけど、そんなのはほんの少しだ。それよりもそっぽを向いたままの王子様に激怒しない王女様を尊敬してしまう。
また夕食でと、アイオライトと魔法使いを引き連れて王女様が部屋を出て行くと、今度は執事のような人が客室へ案内するとやって来た。それをしばらく後でいいと王子様が部屋から追い出す。
泊まって行くなんて予定になかったことだ。何か考えがあるのだろうかとサードと二人顔を見合わせて王子様の言葉を待っていると、物凄く不機嫌そうな顔に微笑みを浮かべた。綺麗な顔に浮かんだ微笑みがあまりにも怖くて思わず顔を反らしてしまう。
「これは私への挑戦か。」
違うと思いますっ、分からないけど!
不敵な笑みを浮かべた王子様がようやく壁から視線を外して組んでいた足を解いた。
「グロッシューラめ、己が無能であると悟ったのは褒めてやるが、無能を補う為にとんでもない魔法使いを飼っているぞ。」
どこまでも口悪く王子様は王女様を罵る。
「一見様子は変わらず何時ものアイオライトだったが、サードの言う通り精神束縛の魔法をかけられ操られている。それも幾重にもだ。だが私の敵ではない。綺麗さっぱり解除して突き返してやろうではないか。」
人形のようなあれが何時ものアイオライトなんて信じられない。でも王子様の知るアイオライトは間違いなく今のような感じなのだろう。
不敵な笑みを浮かべる王子様はとても怖かった。多分、絶対これが皆に嫌われていた王子様の自己中心的で人を人とも思わない傍若無人の片鱗だ。
アイオライトは間違いなく精神束縛の魔法をかけられている。その魔法の本質を探るために王子様は全神経を集中させていたそうだ。ただこの場所にいるのが嫌で壁を眺めて染みを鑑賞していたのではなかったらしい。だけど王子様にかかればちゃんと解除できるそう。それから突き返すというのは、アイオライトに使われている魔力を失うことなく綺麗に引き剥がして、術者であるあの魔法使いに突き返すのだそうだ。それにより術者は相応の攻撃を受けた状態になるらしい。ヘリオドールと言う魔法使いは王子様の予想以上の力を持っていたらしく、上手く隠していたと腹を立てつつ不敵に微笑み続けている。もしかして久し振りに人を踏みにじれるのが嬉しいのだろうか。
別にあの魔法使いは王子様を挑発するために術をかけた訳じゃないだろうけど、自分への挑発と取って俄然やる気になっていた。徹底的にやっつけて再起不能にしたいらしい。アイオライトのことがあるので暫くやりたいようにやってもらうけど、危険そうだったら止める必要があるなと思いながら、わたしはアイオライトが消えた扉をじっと見つめ続けた。
「どっちがアイオライトさんを好き勝手に操っているのかな。」
婚約者と別れさせられた王女様が命じたのか、それともお仕えする王女様を慮って魔法使いが勝手にやったことなのか。
「そんなことは知らぬ。だが術者はヘリオドールで間違いない。」
来る前はまるで興味がなく不貞腐れているような態度を取っていたのに、ここに来て本来の王子様が出たのだろう。アイオライトにかけられた術を解きたいと願うわたしやサードに反して、王子様は術者を負かすことに興味をそそられている様だ。悪い王子様に戻られても困るし、王女様と険悪になって追い出されることになっても困るので、取りあえず注意しながら様子を見ることにする。わたしはサードと無言で会話し、お互いにこのままで良いのだとしっかりと頷いた。
「アイオライトは幾重にも術を重ねがけされている。そのお陰で記憶も取り出せぬ状態だろうな。」
「ではハルカ様の秘密は守られているのですね?」
「かなりの抵抗をしたであろう、幾重にもかけられた術はその結果だ。世間に知られたくないと願うハルカの願いを懸命に守ろうとしたのかも知れぬ。」
王子様とサードの会話が理解できなかったので聞いてみると、アイオライトが王様の命令でわたしの側に置かれたことは王女様も気付いているはずだという。なのでわたしがどんな女なのかを知るためにアイオライトから情報を引き出すのは当然だと。けれど王女様のわたしに対する態度は、異世界から召喚された世界の命運を握る存在に対する物ではなかった。王女様は王子様と違ってしっかり勉強をしてるだろうから、時期外れの召喚の意味をちゃんと学んで理解しているはずなので、公爵が退席した後も普通に接している様子からわたしがお城でお世話になっていた理由を知らないのだと思われる。
「だけど召喚されたことが知られなかったのは本当に良かったのかな。王女様に知られたら困ることになるかも知れないけど、アイオライトさんがそのせいで苦しんでいると思うと辛い。」
「あれに秘密を握られたら利用されるに決まっている、だからこれで良いのだ。代わりに私が術を解いて助けてやるから安心しろ。だがアイオライトを捕まえて術を解くだけだがそれが厄介だな。公爵が居らねば常に従えている状態のようだから、接触するなら夜か。」
ハルカと、王子様に呼ばれたので見上げると額に掌が当てられた。
「なに?」
「其方の秘密が露見していないのはよかったが、この屋敷にはヘリオドールがいる。其方の精神が束縛を受けぬよう念のため私の魔力を入れておく。其方には魔力がない故に害はない、大丈夫だ。」
他人の魔力が体内に入ると不快な感覚がするらしいけどわたしは何も感じなかった。同じようにサードもしてもらっていたけど、彼には魔力があるのでちょっとだけ不快感があるらしい。でもこれでこっちが精神を操られる魔法に怯える心配はなくなった。あのヘリオドールと言う純白のローブを着て顔を隠していた魔法使いより王子様の方が力があるので、あらかじめ王子様の魔力を体に仕込んでおくと、王子様よりも力の弱い魔力は弾かれるそうだ。効力はそれほど長くないけど一日くらいは持つ。
最後に部屋を出る前、王子様はサードさんを前にして真剣に言葉を述べた。
「任を解かれはしたが、お前は陛下よりハルカに与えられた選ばれた騎士だ。何があろうとハルカを守れ。例え私の命が危ぶまれようと誘いに乗らず、ハルカの安全だけを最優先しろ。」
「承知致しました。」
胸に手を当てたサードが王子様に礼を取る。王子様とか騎士様とかの破壊力もあるけど、撃破されずに何とか持ち堪えた。だって王子様の変貌に成長を感じる。出来ない子が出来た瞬間に立ち会ったような気分になって涙が出そうだ。
自分のことばかりで、床に額を擦り付けて泣いていた王子様。わたしに罵られて言いなりだった王子様が、少しばかり目的はずれているかもしれないけど、自分の意思で立ち回りアイオライトを助けようとしている。その為に必要な対処を施して、最後にはサードにしっかりと礼まで取られているではないか。
「王子様……凄いよ。成長してくれて本当に凄く嬉しい。」
出来ない子の急成長を見ている様だ。つい声に出してしまったら、王子様は「そんなことはない」と否定しながらそっぽを向いてしまったけど、白金の髪から覗く耳がほんのり赤く染まっていた。誉められることに慣れていない王子様は照れている様だ。