その15(アイオライト)
オブシディアンにおいて現在最も尊い存在であるのはハルカ様だ。彼女の言葉は世界を統べる王よりも優先させなければならない。
当然ながら尊い存在であるハルカ様に私は傅いた。王族に傅くことに慣れた私は感情を殺して、世界で最も大切な方にお仕えした。けれど誉であるとは思わない。ただそれが役目であったし、そうあるべきだからそうしたまでだ。
けれど感情を露わに泣き叫び、尊い存在で大切にされることが決められているのに警戒心が強く、あらゆるものを拒絶するハルカ様に私は捕らわれた。私がお守りするのだと、美しいものを与えて大切に大切にするのだと決めていたのに。
『自分の人生を歩いてください―――』
その言葉を残してハルカ様は、憂いの原因であるハイアンシス王子を伴い東の彼方へと旅立ってしまった。
膝を付かずに職務を全うしろと告げたハルカ様の言葉が胸の中に渦巻く。この命令は膝を付き爪先に唇を落とせと命じ、忠誠を誓えと述べた王女とはまるで異なる命令だった。違う、ハルカ様の場合は命令ではなく、まるで懇願のようなものだったのではなかっただろうか。
「跪かずに自分の人生を。」
声に出したが確実な答えは浮かばず、それがどういう意味なのかとずっと考えていた。好きなように生きろと言われてしまったら私は何をしたらいいのか解らない。ただ生まれてより騎士になるのだと決まっていた人生を歩めとのことなのか。それとも騎士を続けなくても好きなことをしてよいということなのか。私の関心は全てハルカ様にあるが、それを別にしたら何も残らなかった。けれどそれがハルカ様の望みなら遂げなければならない。
「私の人生―――」
ハルカ様を失った後の私は、自分のやりたいように生きるという初めての決断に戸惑ってしまった。
これまでは命じられたまま、それに付随する役目を忠実に全うしてきただけなのだ。自由にして良いというのなら何をするべきなのかと考えて、その先に思い浮かぶのはいつもハルカ様の面影だった。ハルカ様をお守りしたい、側に侍りたいとの思いだけが込み上げる。ハルカ様を悲しませたにも関わらず側にいることが許される王子を憎く、そして羨ましく思った。
「ハルカ様は私を避けておられた。だが、それが私の人生とするなら、これからも側に侍ることが許されるのだろうか。」
ハルカ様は私の行動すべてが王の命令と思っている。確かにそれは間違いないが、私はハルカ様の側に仕えることができて幸せだったのだ。これは十年の月日を王女の元で過ごしていながら、一度とて感じたことのない思いだ。そうだ、私はハルカ様の側にいるだけで幸せなのだ。ならば私のやるべきことはただ一つ。彼女の側にいたいと思うのを、拒絶されたからと言ってあきらめる必要はない。
国の存亡にかかわる秘密を知る我々には多くの褒章が与えられ、新たな勤務地の希望を問われた。私は多くの騎士が望む誉ある王族の側ではなく、東の地にある騎士団の駐在所への勤務を願い出る。そこはハルカ様の住まう辺境に最も近い町だった。ハルカ様の元へ直接押しかけても追い返されるだけだと解っているので、せめて最も近い場所で、何かあった際にはすぐに駆け付けられるようにしておきたいと考えての結論だ。
私の願いを知ったクリソプレーズ殿下が手を貸して下さり受け入れの許可が下りた。体の一部を失う傷を負い、顔にも大きな傷跡が残る殿下をハルカ様は重宝していたようで、仲睦まじそうな姿を羨ましく感じ、その瞳と信頼を私の物にしたかった。けれど私は初めからハルカ様の信頼を得られる立場になかったのだ。護衛として与えられたことによりハルカ様の懐に入る栄誉は失ってしまい、クリソプレーズ殿下とハイアンシス王子を伴うハルカ様を成す術がなく黙って見ているしかできなかった。腕を、そして足を失い顔に酷い傷を負ったなら私を見て下さるだろうかと、馬鹿な考えに捕らわれ真剣に思い悩む。しかし手足を失ってはハルカ様を守ることが難儀になると決断できなかった。敵に頼るのは嫌だったが、それでもハルカ様の側に近付くことが叶うならとクリソプレーズ殿下に膝を折る。
「本気で惚れているなら無理強いはするなよ。」
「惚れるとは心外な。私にとってハルカ様はそのような言葉で片付けてよい存在ではありません。」
愛や恋など不確かな俗世の毒とは訳が違う。盲目的に愛するなら連れ去り奪って誰にも知られない場所に閉じ込めてしまえばいいだけだ。だが私はハルカ様に低俗な感情を押し付けるつもりはないし、私の想いはそんな壊れやすい安物ではない。ただあの方の側で危険から、あらゆる醜い物から守りたいだけなのだ。危険があればハルカ様に届く前に刈り取る。その役目を他の者に譲るのは耐え難く、だからこそ少しでも側にと願い、クリソプレーズ殿下に頭を下げる。
そんな私をクリソプレーズ殿下は憐れむような、仕方のないものを見る様な目で見ていた。心外だが相手は王弟殿下であり、ハルカ様の側に侍るために必要な方でもある。これ以上の口答えは良くないと口を噤んだ。
そうして準備を整え出立しようとした私の前に、純白のローブを纏った魔法使いを従えるグロッシューラ王女が立ちふさがったのだ。ハルカ様が東へ立つ前に公爵家へと降嫁されたので既に王女ではないが、彼女は私の前に立つと全てを従える女神の如く振る舞う。
「醜女、でしたわね。」
美しく優雅に微笑む王女の目は冷たく蔑みに満ちている。私が仕え心を捕らわれたハルカ様を罵る言葉に膝を付くことも忘れ押し黙って返した。
「お前、わたくしの元を離れて目を患ったのではなくて?」
王女は美しい物しか許さない。恐らく、王女お気に入りの姿をした私がハルカ様に捕らわれていると知って怒り心頭なのだろう。確かにハルカ様はこの世界において珍しい容姿をしているが、けして醜女と罵られるような姿はしていない。人前に出る時にはハイアンシス王子の魔法で髪と瞳の色を変化させていたが、ハルカ様が本来持つ色は艶やかでとても美しく、ハルカ様の世界の特徴である薄い顔立ちをとてもよく引き立てているのだ。私からすれば艶やかな黒髪を纏うハルカ様こそが最たるものである。オブシディアンが選び抜き招き入れた至上の造形ともいえよう。
「失礼いたします。」
王女を前に膝を折らなかったのは初めてだ。ハルカ様の言葉が膝を折らない選択肢を私に与えてくれていた。しかし王女も黙ってはいない。すぐ横を通り過ぎる瞬間、首にちりっとした痺れが刺し薄く血が滲むのを感じる。
魔法使いによる攻撃が私の首を襲ったのだ。致命傷どころか首の皮一枚を裂くだけの浅い傷。それでも滲んだ血に王女は満足そうに目を細めると、磨かれた爪先を血の滲む傷に滑らせた。
「やっぱりお前が一番ね。他の物では臭くてかなわないの。」
ふふっと笑った王女が指先に付いた血を私の頬に塗り付ける。跪くようにとの合図だ。しかし私はそれを無視し、王女を一瞥すると歩みを進めた。
「お待ちなさいアイオライト、お前はわたくしのものと言ったでしょう?」
「陛下より私は新たな主を与えられたのです。私の主はグロッシューラ王女、貴女ではない。」
「クリソプレーズの書簡は取り下げさせました。陛下はお前をわたくしに許すとお決めになられたの。」
「そのような話は伺っておりませんが。」
「だって先ほど陛下と公爵とで話し合って決めて頂いたのだもの。」
どういう意味かと無言で問えば、珍しく王女は心の底から嬉しそうに微笑んで優しく私の腕に触れる。
「公爵のお子を宿したら何でも願いを聞いてくれるというの。だから魔法による誓約を交わしたのよ。相手が元婚約者であっても受け入れるしかないわ。」
「魔法による誓約は陛下にのみ許された事柄です。そもそも公爵ごときに使いこなせる秘儀ではないはず。」
魔法による誓約とは何があろうと破られることがない約束事だ。もし違えれば誓約を交わした者同士が蛮族に落ちるため、王が臣下に対して重要な事柄を確約するときにのみ用いる約束事である。誓約に関わる魔法も王ご自身にのみ伝えられる秘儀とされているはずだ。それを何故王女が知っているのか。
「だけど使ったのよ。破れば蛮族に落とされるとなれば、陛下も許すしかないもの。やった者勝ちともいうわね。」
どういう訳か王女は王にのみ許される秘儀を手に入れ、己の魔法使いを使って公爵と契約を交わしたようだ。そんな馬鹿げた約束を公爵という身分にある者が何故交わしてしまったのか。禁を犯すほど公爵は王女に執着があったのか、それとも王でない者の誓約を無効と考え軽く受けてしまったのか。
王女にとって公爵はけして側に置きたいと思うような姿をしていない。醜いわけではないが王女の眼鏡に適う姿でないことは確かだ。その公爵を拒絶し続けた王女は子を孕むことを条件に、夫となった公爵からすると間男となる私を側に置く許しを得た。
誓約を信じずに実行したのだとしたら公爵はさぞや慌てただろう。王に泣きつき、また王も王だけが知るはずの秘儀が漏れたことの隠蔽をしなければならない。また公爵と王女を蛮族に落とすことを避けるためには私が必要だ。
「そこに私の意思はないのですね。」
「飼い犬は飼い犬でしょう、馬鹿なことは考えなくて良いのよ。お前はわたくしの可愛い犬、ずっと前からそう決まっているのだから。」
「お断りいたします。」
公爵と王女が蛮族に落ちようと私の知ったことではない。ハルカ様も関係のない者は引き込まず、加害者である王子だけを伴い旅立ったのだ。王女も自らの行いは自らで拭うべきなのである。
私が王女の元に戻らなければ誓約は成されない。王女が腹に公爵の子を宿しているなら最後の仕上げである私を得るための期限はいかほどか。王族に逆らえない習性をもつオブシディアンの人間ではあるが、今の私の最優先がハルカ様である以上、再び王女の手の内に捕らわれるようなことにはならなかった。
「ヘリオドール。」
王女が魔法使いの名を呼んだ。純白のローブに身を包んだ魔法使いが目深に被ったフードを外すと灰色の髪が現れる。
蛮族と同じ灰色の髪はこの世界で迫害の対象だが、ヘリオドールの瞳は蛮族の白ではなく薄い黄色。王女の魔法使いである立場と瞳の色がある故に城の内で迫害されるようなことにはならないが、ヘリオドールが素顔を曝すのは滅多にないことだ。
知っているはずなのに蛮族と同じ髪の色を認め一瞬怯んだ。その僅かな怯えが大きな失敗となり、ヘリオドールの瞳に捕らわれてしまう。
いけないと悟った瞬間には自由を奪われていた。肉体と精神を操る高度かつ危険な魔法。この魔法を跳ねのけられるのは術者よりも勝る魔力を持った者だけだ。術を使った魔法使いもかなりの魔力を消費するらしく、身の丈に合わねば命の危険も伴う。ヘリオドールはその場に蹲り、苦しそうに肩で大きく息をしていたが、私の方も術者を構っている暇はない。何とか抜け出そうと持っている魔力で抗うが、魔法使いのそれとは雲泥の差がある。到底敵うものではなかった。
「アイオライト、お前は誰の物?」
私の前に出た王女が楽しそうに笑って長い裾から足先を出した。抗うも頭の中を撫でまわされ、心に無数の棘が突き刺さる感覚に耐え切れず跪き首を垂れる。
「グロッシューラ王女、貴女様だけが我が愛しき主に御座います。」
思ってもいない言葉を発すると更に苦しみが深くなった。肉体と精神を操る魔法は拷問に使われるのが通常だ。個人の意思に反した行動をとらせ精神を痛めつける。肉体の痛みなどとうに失ってしまった私だが、意に沿わない行動を取らされ、無理矢理に服従させられるせいで体を絞られるような苦痛を伴う。
心に反して肉体が命令に従い、抗おうとすればするほど痛みと苦しみを伴った。精神に与えられる苦痛が度重なると、どれほど意志が強い者であっても衰弱してやがて屈服する。解っているがそれでも抗いハルカ様を思い浮かべると、首を絞められた感覚に陥り息が出来なくなった。
「さぁ、どうすればいいか解っているでしょう?」
王女の足先が跪いて首を垂れる私の顎を叩く。必死に抗うも心と逆に肉体は動き王女の爪先に唇を寄せた。
「いい子ねアイオライト。今はこれで許してあげるから、壊れる前に戻ってきなさい。」
鋭い爪先が慈しむように頬を撫でる。望む人ではない感覚に偽りと気付くも、王女とかの人の影が入り乱れ酷く酔った気分に陥り視界が揺らいでいた。
※13話にて、ハイアンシス王子が王女を妹と言っておりますが、姉の間違いでした。訂正しております。グロッシューラ王女はハイアンシス王子の二つ年上です。