その12(ハイアンシス王子)
城を出ると決めたハルカが私を同行させると知った時には心の底から驚いた。
彼女をこの世界に連れ去って悲しい思いをさせている元凶である私などと一緒にいたい、側に置きたいとどうして思うことができるのか。不思議でならなかったが、彼女の希望が穏やかに暮らしたいと知り納得がいった。
ハルカの姿を隠すために魔法使いが必要なのだ。それほど難しい魔法ではないのである程度の実力があれば他の者でも良かったが、ハルカは関係のない者を巻き込むことを拒絶し、責任を取らせるために私を指名したのだ。彼女の考えは最もなことと理解し、私は研究に必要な書物を片っ端から手にして城を出る準備を整えた。
叔父が世間を知らない私とオブシディアンを知らないハルカを伴い街へと繰り出す。城を出たら自分のことはすべて自分でしなければならない。言葉で言われてもよく解らない私にハルカは仕方のないものを見る目を向けていた。
水を飲みたいと思ったら水差しからではなく、井戸から水を汲まなければならないことから学び始めた。ハルカに迷惑をかけてはいけないと思い、自分で着た服の洗濯の仕方まで学んだ。これは思いもよらぬ重労働でとても疲れたが、共に学んでいたハルカも酷く疲れたようだった。
「洗濯機が欲しいわね。」
そう呟いた彼女に叱られるのを覚悟で『せんたくき』なるものが何なのかを問うと、勝手に洗濯してくれる箱と怒らずに教えてくれた。事細かに話を聞くととても便利なものだ。私はどうにか『せんたくき』を作り出せないかと思い魔法の術式を考案すると、東にある住まいとして与えられた粗末な家屋に到着して早々に盥に陣を描き細工を施した。
「乾燥させるまでには至らぬのだが、この盥に石鹸を溶いた水を入れ衣を浸せば汚れが落ちる。水の浄化の魔法も組み込んである故に水を変える必要もない。」
「すごい……王子様って本当に天才だったのね。」
妬みを含んだものではなく、称賛を含んだそのままの意味で『凄い』を聞かされたのは始めてだった。てっきり乾燥まで行きつけない無力さを罵られると思っていたので返事が出来ずにいると、「ほめてるよ?」とハルカの私と同じ色に変えられた瞳が不安そうに揺れているのを認め、私はハルカの上辺だけしか見ていなかったかもしれないとの予感が湧く。
出来て当然、少しでも足りないと付け入る隙を与える。だから私は他者を貶め続けたが、私が出来て当たり前のことをしただけで、本当は彼女の望み通りではなかったというのに最良の点を与えられた。ハルカにとって私は憎い相手であるのに何故なのだろうか。不思議に感じているとハルカは眉間に皺を寄せて家の中に入ってしまった。
私はまた何か失敗したに違いない。けれど怒鳴られたり付け入られたりしなかったことに安堵を覚えながら彼女の消えた先を見つめ続けた。誉められたように感じたのは間違いで、実際にはハルカの私に対する評価は変わらず最悪なようだ。その最悪の状態で少しできたから評価されただけだろう。それでも嬉しいと感じた私は自分自身に戸惑いを覚える。
叔父の采配により庶民の生活というものを学んだが、覚悟を決めて出向いた先では想像したよりもかなり楽な生活となった。それはハルカの提案がとても大きい。彼女は魔法のない世界に暮らしていたが、ここよりもずっと便利で楽な暮らしを経験していたので、彼女が望む物を作りだせばそれだけで生活の向上が見込める。しかも次々に道具を生み出すことで凄いと驚かれ、辛そうにしてばかりいたハルカからは笑みが零れるのだ。
泣くでも罵るでもまして嫌味を言うでもなく、ただ嬉しそうに感激してくれる。本心では私を恨んでいるのだろうが、それでも自分の生きた世界と同じような物が側にあると心が軽くなってくれるようで。だから私は彼女が望む物を率先して作るようになっていた。それで彼女が満足してくれるならとの思いもあったが、喜んでいる姿を認めるとやる気が湧き起るのだ。魔法に関してできて当たり前の私が、当たり前をして喜ばれたりしたのは初めてだった。そのやる気を糧に彼女を元の世界へ帰す研究もやる気が出てくる。彼女の笑顔の為ならオブシディアンが召喚した者を手放しはしないという常識も覆せるような気がしていた。
だが浮上したやる気もすぐに暗い気持ちのやる気に変わる。夜になるとハルカは外に出て地面に蹲り、故郷を思ってすすり泣いていた。
知られぬよう、声を押し殺して泣く彼女に気付かぬふりで部屋に戻る。これまでの私は自分が救われたくて、許されたくてハルカに従い、ハルカを元の世界に戻さなければと必死だった。けれど痩せた体を小さく丸めて震わせる姿を認め、自分の為ではなくハルカの為に帰り道を探さなければならないと強い思いを抱くようになる。彼女は隠れて泣くような思いをしているというのに、城にいた頃よりも居心地の良さを感じていた我が身が呪わしかった。
私を罵れば楽になるだろうに、最近は全くと言っていいほど胸を抉られることがない。私に罪悪感を抱かせる唯一はハルカがひっそりと夜に泣く姿だけだった。夜が明けるとハルカは何事もなかったように一日を始める。私を罵るではなく自らが耐え忍ぶ姿を見ても私にはどうして良いのか解らない。だから少しでもハルカが笑顔になるようにと、彼女の言葉を拾い形にしていく。
「ハンカチは?」
「持った。」
「お金は?」
「持った。」
「落とさないように気をつけてね?」
「案ずるな。」
懐を撫でた私をハルカは不安そうに眉を寄せて見つめている。私と同じ瞳の色だが、彼女には本来持つ黒と見紛うこげ茶色の瞳が似合うと考えながらハルカの不安に受け答えた。
「やっぱりわたしも一緒に行こうか?」
「子供ではないのだ。それに町まで一本道、迷いようがない。」
初めての一人歩きを不安に感じているのはハルカだけだ。城の中でばかり過ごし、外に出る時には多くの護衛に囲まれていた身であるが、叔父の教えを受け世間の常識を知った。身分の高い者が独り歩きをすると『追い剥ぎ』と呼ばれる賊に遭遇することがあるが、衣服は庶民の纏う粗末な物しか着用せず対処法は万全だし、この辺りは治安が良く婦女子が一人で出歩いても特に問題はない。近くの集落を超え街までの一本道を歩いて行き、用を済ませ戻って来るだけだ。それなのに何故ハルカはこれ程までに案じるのか。小さな子供ではないという不満は起こらず、ハルカに案じられているという状況はどことなく恥ずかしくあると同時に嬉しくもあった。
「拾って食べたりしちゃ駄目よ?」
「地面に落ちたものなど口に入れぬ。私が食するのは其方が作ってくれる物だけだ。」
良家の子女が落ちぶれて流れ着いたことになっている。多少の貴人風は抜けないものの、地面に落ちたものまで拾って口に入れるような芝居までするつもりはない。庶民とて落ちたものを拾って食べたりするような者はいないのではないか。ハルカの世界ではそうだとしたら、便利ではあるがよほど困窮した食生活を送っていたのかも知れないと思い哀れに感じた。
「人に声をかけられてもついて行っちゃ駄目よ。ここはお城じゃないんだから、わたしじゃ助けに行ってあげられないんだからね?」
「私が魔法を使えることを忘れるな。」
「王子様だから心配してるのよ。本当に大丈夫かな、一人歩きはまだ早いんじゃない?」
「私に不安はない。それに私からすると其方を残して行く方が不安だ。」
ここでの生活を始めてよりハルカは食料の保存を悩んでいた。長閑な地域ではあるが余所者に対しての視線は強く、私たちがどんな人間なのかと様子を見に狩りをして得た肉を持ってきてくれた男がいたのだが。その肉が二人で食べるには多すぎて燻製にして保存の方法を取ったが、冷やしたり凍らせたりすることができればよかったのにとハルカが悩んでいた。要するに生肉を腐らずに保存したかったらしい。燻製以外の方法で腐らせずに保存できれば、狩りをしてすぐに食べずともいつでも柔らかい肉を調理できるのだ。
死肉の保存は可能だが、人が食して問題ないようにするには少しばかり難しい。並みの魔法使いなら上手く行かずに失敗するだろうから天才でよかったと思うが、そのせいでハルカをオブシディアンに引き込んでしまったのだからと取り返しようのない失敗を思い出し落ち込む。だが落ち込んでいるよりもやるべきことを先にやらねばと、精神を集中させるために瞼を閉じた。
凍らせるよりも時間を止めた方がいいだろうと三日三晩考え辿りついた解決法は、やはり私が得意とする魔法を使ってだ。少しばかり特殊であるので『せんたくき』と同様に盥に陣を刻むだけでは無理だった。
魔法を定着させるために丈夫な器が必要だ。平らである程度の大きさがある質の良い御影石がいいだろう。御影石がないなら他で代用できるものがあるか、その場で石に陣を刻むことができるなら仕上げて持ち帰りたいからと、私は街に出向いて石工を訪ねることにしたのだ。
たったそれだけのことにハルカを煩わせる必要はない。彼女は彼女で私の不得意な家事を受け持ってくれているだけでなく、下着を洗われるのが嫌だからと面倒な洗濯もやってくれているのだ。彼女も忙しいし、私が行かない選択肢もなかった。
私は特に問題があるようには思えない。だから一人で行って帰ってくるなど容易いというのに、まるで幼子を見送る母親のようにハルカは不安そうにしている。
「気を付けて。もし迷ったら道を戻ってくればいいから。」
「案ずるな。」
策なく純粋に心配される行為を嬉しく感じながらようやく出立する。舗装されていない道を馬車でもなく自らの足で歩くのにも慣れた私は喜ぶハルカの顔を思い浮かべながら足を進めた。しばらく行くと小石を踏んで駆け寄ってくる音が耳に届いて振り返る。そこには額に汗したハルカがいた。
私が歩みを止めるとハルカは息を切らせ胸を押さえていた。走ったせいで息を整えるのに時間がかかるようだが静かに待つ。
「一緒に行くわ。」
「其方は忙しいだろう?」
掃除や洗濯、料理まで。私も当然手伝うが、世界が違っても私よりハルカの方が要領よく家事をこなしている。決して楽な仕事ではないのに私に押し付けるようなことはしなかった。私が最初で失敗たのも原因の一つであることは解っているが、私が無理してやると余計にハルカを煩わせると解ったので勝手はしないようにしている。
「一日くらいさぼっても大丈夫よ。心配して待ってるよりずっと楽だし。」
能力の面でいうなら私は間違いなくオブシディアン始まって以来の、世界一の魔法使いだ。しかしハルカがいう所の常識がなく、一人歩きが許されるほど大人でもないらしい。私が至らないせいでハルカの機嫌が悪くなるのは嫌だったが、心内に抱えて不快に感じている様子はなかったので一先ずほっとした。
十件程の集落を超え歩みを進めると町に出る。城下と違い小さな町だが、生活するうえで必要なものを揃えるのに問題はない。騎士団の駐在所も置かれており立ち寄って石工のいる場所を訊ね教えられた場所へと向かった。
「いらっしゃい、どのような用件で?」
「この様なものを作りたいのだが。」
「これは……あんた魔法使いかい?」
出迎えた二十代半ばと思われる若い男に紙に書いた設計書を見せると驚かれる。この町に魔法使いがいないとは思えないが、数が少ないのかも知れない。
「そうだが生業にはしていない。趣味のようなものだ。」
私達は隠居のように暮らしている。あまり多くの者たちと関われば秘密を隠しきれなくなるので、ハルカに嫌な思いをさせてはいけないと思い魔法を仕事にしていないと答えた。頼られて多くの者に押しかけられても困るからだ。
「石は限りなく水平に磨き隙間なく組み立てたい。出来るだろうか?」
「それはまぁ出来はしますが……魔法陣ですか。掘るには時間がかかりますし、間違えてはいけないので、お客様にはこちらに通ってもらう必要があります。」
「陣に間違いがあっては困るからな、付き添うつもりでいた。通うのは問題ない。」
「結構なお値段になりますよ?」
構わないと言いかけた時、静かにしていたハルカが私の腕を引いて前に出た。
「お幾らですか?」
「そうだな……」
石工は少しばかり思案すると値を提示する。それで良いと思ったがハルカは難色を示した。
「もうちょっと安くなりませんか?」
「これでどうだろう?」
次に提示された金額にも迷っていたようだが、小さく唸った後でハルカは了承の意味を込め深く頷く。
「前金として半額入れれば?」
「疑う訳じゃないがそうしてくれると助かるよ。」
支払いの仕方は私も理解しているが、私よりハルカの方が流暢だ。石を見てから詳細の確認を済ませ、前金として半額支払い工房を出ると昼を少し過ぎた頃になっていた。
「せっかく町に来たことだし、お買い物して帰ろうかな。」
そう呟いたハルカに従った。ハルカは無駄遣いしないが、欲求を我慢して倹約に励むこともない。だからと言って女が好む装飾品や衣装に金銭をつぎ込むのではなく、暮らしに必要な物を買う程度だ。布と紙、絵描き用の鉛筆に食材を購入してから露店で昼食を済ませる。席につかずに手に持って食べるのにも慣れた。
「保存庫、ちゃんと成功するかな。出来たら生肉沢山買って帰れるものね。便利になるんだけどなぁ。」
帰路の途中、白い空を見上げたハルカが独り言のように呟く。購入した荷物を両腕に抱えた私は、彼女の為にも絶対に失敗しないと己に誓っていた。心待ちにしている彼女は面相のせいもあり年齢よりもずっと幼く感じられ、出来て当然という腹の底に秘めた嘲りは垣間見えない。誰かの為に魔法を使うことがこれほど心地よいとは、ハルカと共に暮らすようになるまで知らなかった。
私はハルカのお陰で知らなかった多くの知識や体験をしている。城にいる頃に比べてずっと楽で快適だと感じていた。対して私がハルカに与えられる物はあまりにも少ない。保存庫もせんたくきも虫よけも、ハルカがもとの世界で所有していた物で、私は再現しているに他ならない。全てを奪ったのは他でもない私なのだ。
当初は罪悪感から逃れたいためだけに必死で帰還方法を調べつくしていた。けれど今は自分の為という気持ちは少しもないように思える。ただ私は彼女が最も望むもの、それを叶えてやれないことに悔しさを覚えるのだ。
私のしでかした愚かで大きすぎる罪。それにハルカを巻き込んでしまい心からすまないと後悔している。そんな私に許されるのは謝罪ではない、ハルカをもとの世界に帰すという行為だけだ。出来なければただの愚かな存在で価値のないまま終わってしまうだろう。私はハルカの為に、何としても彼女を帰してやらなければならないのだと実感する。