その11(遥)
世界の東の端で新しい生活が始まった。
クリソプレーズから東西南北でどこがいいかと聞かれた時に北は寒そうなので止めて、朝日が一番最初に昇る東を選んだ。東なら異世界人にはぴったりの地域があるというので、細かいことは全部クリソプレーズにお任せした。何もかもを任せるのは相手の都合のいいようにされる不安もあったけど、何も知らない異世界では信じるしかなく、クリソプレーズもわたしの期待を裏切らずに手を尽くしてくれた。これはクリソプレーズなりの気遣いと、王子様を教育できなかった償いと尻拭いを兼ねた一環でもあるらしい。
クリソプレーズが選んでくれたのは東の端にある小さな集落から少し離れた一軒家だ。歩いて一時間程の場所にはわりと大きな町もあるのでそれほど不自由はしないだろう。人目がない場所でないとわたしと王子様の組み合わせは目立つので、人が集う場所で生活するよりも田舎の方がずっといい。小さな集落の人たちからは怪しい人間が引っ越してきたと思われているようだったが、挨拶したら返してくれるのでそのうち交流も持てるような気がしていた。
住まう場所もだが、わたしがこの世界で最も求めたのは闇を照らすための光だ。何しろ電気がないので闇夜はわたしにとっては恐ろしかった。日の出とともに起きて日が沈むと寝る生活をすればいいのだろうけど、長年の習慣はそう簡単に変えることができないし、蝋燭やランプの灯も趣があっていいのだけど不便だ。だけどそれに関しては世界一の魔法使いを自負する王子様を連れてきたので不安はない。
王子様はわたしの身なりを変化させる魔法を毎朝かけてくれる。一度かければ数日はもつのでそれほど頻繁には必要ないけど、万一があってはいけないからとお願いして綻びた部分の魔法を繕うのが王子様に与えられた朝一番の日課だ。勿論それだけではなく、生活するうえで必要になった道具や状況を改善するために奮闘してもらっていた。正確には快適な生活を送るため王子様をこき使っているのだ。負い目のある王子様はわたしからの断れないお願いを二つ返事で受けては次々と叶えてくれている。
「こんな使い方をする日がこようとは……」
王子様が何処までも黄緑色が続く大自然を唖然と見つめながら呟く。虫を寄せ付けない魔法を作り出して、簡素な作りの二階建ての家屋を中心として見えない魔法の幕を張ってくれたのだ。
昨夜わたしの肌を蚊が刺した。皮膚はぷっくり腫れて耐えられない痒みが襲ったけど薬がなくて王子様に魔法で癒してもらったのだ。たかが虫刺されを偉大な魔法使いに癒してもらう。贅沢だなと思いつつ、刺される前になんとかできないかと蚊取り線香について説明したのだ。そうしたら今朝には王子様が新しい虫よけの魔法を作り出して、生態系に問題がない家の周囲にだけ魔法をかけてくれた。
「これってわたし自身にかけることもできる?」
「人体に影響がないよう改良しよう。」
「期待してるわよ。」
プレッシャーをかけたかなと様子を窺うと、わたしに逆らえないと刷り込まれている王子様はどことなく嬉しそうにしていた。世界一の魔法使いを自負し、傍若無人で誰からも嫌われていた王子様。出来て当たり前の彼はこうして感謝される言葉を貰ったことがなかったのかも知れない。クリソプレーズも言っていたように周囲の人たちを馬鹿にしていた嫌われ者の駄目王子は、彼を取り巻く者たちが作り出してしまったものともいえるのだろう。
わたしの髪は白金で瞳の色は深い海の底を思わせる青だ。日本人の平坦な顔にこの色は全く似合わないけど、この世界で黒い髪を曝していると周囲を不安にさせるので仕方がない。それに素性が知れ特別視されるのも嫌だった。王子様と同じ色に抗議したのを覚えていた王子様はいつの間にか他の色も作れるようになって試してくれたけど、どれにしても似合わないので結局は一番やりやすいという王子様と同じ色で落ち着いている。
同じ色を選んだのは、わたしと王子様を姉と弟という設定にしているのも理由の一つだ。顔つきが全く違っているので無理があるのは承知だけど、少年を囲っている女と悪評を立てられるより、綺麗な弟を持った平凡以下の可哀想な容姿の女として見られる方がましだろう。
成長期とは凄まじいもので、十六歳になった王子様はわたしの身長をすっかり超えて見上げるほどになっていた。今もわたしをもとの世界に帰す方法を考えていて、徹夜をすることもあるようで目の下にクマが刻まれているけれど、食事もちゃんととれるようになったお陰なのか、成長と共に体の厚みも出てきて見目麗しい物語の王子様が出来上がっている。傅かれる生活に慣れているくせに、わたしに引き込まれた田舎の不自由な生活に不満を感じている様子はまるでなかった。お城にいると世界を崩壊に導く不手際を犯した王子様として風当たりも強かったのだろう。わたし同様に王子様も色々な物から解放されているのかも知れない。
慣れるまでに少しかかったけれど、わたしも田舎暮らしは性に合っている様だ。お城では何もすることがなく、ただ自分の置かれた立場を嘆いて不健康な生活を送っていた。今は手を汚して畑仕事をして、舗装されていない道を歩いて買い物に出て体を動かしていると、慣れない住処でもぐっすり眠れるようになっていた。必要な道具は王子様に言えば大抵のものは作ってくれて家事にも苦労しない。香辛料は様々な物があるので色々試して好きな味を見つけて、自炊してたくさん食べて体重も戻って来ていた。本当は王子様に炊事をさせようと思っていたけどあまりにも下手糞だったのでわたしが引き受けたのだ。『下手糞、不味い』と眉間に皺を寄せて言い放てばものすごく落ち込んでいて、その後は魔法で料理ができないかと色々やっていたようだけど全てが失敗に終わっている。料理は手を使った方が上手く行くようだ。
王子様に料理をしてもらわなくてもご機嫌でいられる理由があった。それはこの地方にお米があるからだ。クリソプレーズが異世界人にぴったりと言ったのはまさにお米のことだ。この地方の特産品だけど世界には出回っていない貴重なお米。召喚される度に慣れない食事に戸惑う相手にお米を差し出して感激される、そんな小細工にも使われるお米だ。当然お米を差し出すのは見目麗しい騎士様だけど、わたしは時期外れの召喚だったのでお米の準備がされていなかったらしい。勿論あの状況でアイオライトや他の騎士にお米を差し出されても靡くはずがないが、出されたら出されたで気分の浮上は見込めただろう。それほどに偉大なお米だ。
初めて焚いた時は水加減に失敗してお粥のようになった。次に炊いた時には硬すぎて真っ黒な焦げまでできていた。上手く炊けなくて泣きそうになっていると、王子様が色々話を聞いてくれて自動で炊き上げる魔法を鍋にかけてくれたのだ。一度失敗したけど改良された鍋にはふっくら艶やかに炊かれた真っ白なお米。大感激して心から礼を述べてしまったけど後悔はない。それ以来簡単にご飯を炊くことができるようになったけど、栽培される量が少ないので貴重であることには変わりなく、三日に一度ご飯を炊く以外はこの世界で普通に食べられる硬めのパンが主食となっていた。
「其方は私の失敗を責めないのだな。」
食事中に王子がぽつりと漏らして匙を置く。さすが王子様で食べる姿はとても綺麗だ。簡素な平民の服を着て粗末なテーブルと椅子に座っていても様になるが、粗末なものをあえて選んだのはわたしだった。贅沢はさせないという意味で選んだ小さいけれど二人には十分な広さの家と、使い古された中古の家具。何一つ文句を言わずに従っている王子様が匙を置いてもわたしは行儀悪く食べながら答える。
「わたしをこんな世界に引っ張り込んだことは恨んで責めているわ。その他は責めるようなことじゃないけど、そういう趣味なら責めてあげようか?」
「責められるのが好きと言う訳ではない。だが、出来なければつけ入られる。それなのに其方は私が出来なくて失敗しても笑って許したのだ。それがとても……不思議でならない。」
罵り責め続けていた女が急に優しくなったと感じたのだろうか。確かにお米をがふっくら炊きあがった時は何もかも忘れて浮かれていたなと思い出す。それが何かを企んでいると思われて対策を練られると危ないかもしれない。
「本当はね、わたしだって王子様と二人で住むなんて嫌だったのよ。だけどあのままお城にいてもすることがないし、奥さんや子供までいる男の人をあてがわれていると知ったらもう仕方ないじゃない。この世界の人間じゃないわたしを隠すには魔法が必要で、関係のない人を巻き込んで隠居みたいな生活させるのも悪いでしょ。だから王子様に責任を取ってもらうことにしたの。若い身空でこんな田舎に引き籠って、煌びやかな世界に生きていた王子様への当てつけでもあるんだけど?」
気付いていないのかと首を傾げると、気付いていると答えて王子様は匙を握った。王子様も心身的に落ち着いてきているので突然錯乱するようなことにはならないと思っていたけど、相手は世界一の魔法使いだ。いつ何が原因で形勢逆転となるか解らない。なのでわたしから逃れるために精神に作用するような魔法を作ろうとか思われないよう注意するのは必要だ。自分の為にもちょっとくらい王子様に優しくする必要があると思うし、同時にこんな風に育てられてしまった王子様を哀れにも感じていた。
「そうか。よいのだ、私は許されると思っていない。」
そう言ってスープをすくった王子様が匙を口に運ぶのをじっと見つめる。最初は額を大理石の立派な床にすりつけ、泣きながら許してくれるよう懇願していたあの王子様が許されてはいけないと気付いたのか。それとも言葉通り、わたしの怒りが激しくて許してもらうのをあきらめただけなのか。それにしては妙にすっきりしているように感じて首を傾げる。
わたしは生涯王子様を許すことはできないだろう。でも彼を罵り傷つけて生き続けることは自分の為にもならないと分かってしまった。王子様は一生わたしに対する罪悪感を持ちながら過ごすことになるだろう。その位の責めは担ってもらわないと、ちょっと昔風の外国に旅行に来たとは思えない状況を受け入れられないのだ。だけど今のわたしを安定させているのは、この世界にわたしを攫ってきた王子様だ。他の誰でもない、彼に責任を取らせるのは間違っていないと思う。
許したわけでもないし、帰るのをあきらめきれるわけじゃない。わたしの心は時々不安定になって側にいる誰かを責めたくなる。側にいるのは自分で選んだ王子様一人で、その王子様が作り出す魔法への恐れは、無暗矢鱈に罵り非難してしまわないための抑止力にもなっていた。
いっそのこと精神を支配された方が楽かもしれないと落ち込むこともある。眠れない夜は気持ちを落ち着けたくて部屋を出ると、王子様の部屋から明かりが漏れていて複雑な心境にかられるのだ。
いつもいつも頑張っている。わたしを帰すために様々な方法を探している王子様の部屋は、お城から持ってきた古めかしい本で溢れていた。今では読める人も少なくなった古代文字で書かれている本を、一文字も逃さないように読み進めるその内容は全て召喚に関するものだ。世界で一番の魔法使いで努力を惜しまないその姿勢は、彼が素直に育っていたなら誰からも愛されたに違いないことを示していた。
許されるとは思っていない―――そう言った王子様がいつかわたしを帰してくれるのだろうか。少しずつでも時間が流れてわたしは見知らぬはずの世界を経験して学んでいく。いつまで続くか解らないここでの生活を続けて、帰れるとなった時に未来のわたしはどう判断を下すのだろう。
「一年ちょっとか……」
この世界に来た時は二十二歳だった。仕事を終えて疲れて帰宅した一人きりの真っ暗な部屋。なんとなくなった保育士と言う仕事は気を抜くことができなくて、だけどとても幸せな職業であると感じていた。いつか自分も結婚して子供を持てるのだろうと、漠然と信じていたあの平凡な毎日を懐かしいと感じてしまう。それほどの時間をこの世界で過ごしてしまったのだと、夜空に浮かぶ星を見上げてため息が漏れた。
「知ってる星座が一つもないなんて。王子様にお願いしたら作ってくれるかな。」
王子様はわたしを恐れているので無理を押し付けても首を横に振らない。王子様にとってわたしは間違いなく暴君だ。しかも世界を人質にとった最高にたちの悪い暴君。
わたしの人生を狂わせたのは王子様だから、王子様自身に責任を取ってもらうのは当然だと思うし、王子様もそれに関しては納得している様だ。
本当はクリソプレーズの言うように、王子様の様な存在を作り出したのが彼を取り巻く大人たちなら、王様に責任を取ってもらうのも必要なことだったかもしれない。だけどこの世界の常識が立ちふさがった。王様にしたら世界を守るために必死だろうし、大切な人がいればなおのこと命令された男たちも必死でわたしの気を引こうとしたに違いない。彼らも八方ふさがりでわたしの機嫌を窺い続けていたのだ。そのせいで壊れてしまう家庭があるのだと知って、そんなこと知ったことじゃないと見知らぬふりは出来なかった。
だからわたしは王子様の魔法を恐れながらも、その魔法に頼って田舎に逃げてきた。この世界で生涯を終える覚悟はできていないので、天才的な魔法の才能を持っている王子様に僅かな望みを持ち続けている。
見知らぬ夜空を見上げるのをやめ、地面に座って膝を抱えた。保育士をしていたのに虫が苦手だけど、座った場所は王子様の魔法で防虫が施された場所なので安心して座ることができた。膝を抱えて体を震わし、声を抑えてすすり泣く。故郷へ帰りたい気持ちと、意味もなくこんな場所に連れて来られた怒り。そしてこの世界にたった一人の異物である孤独に苛まれて無性に寂しくなるのだ。
それでも冷たい真っ白なお城で飼い殺しにされるよりましだった。嘘で固められて疑心暗鬼になって自分で自分の心を壊してしまうより、虫が沢山出て灯りもまともにない田舎の方がよほどましだ。わたしをこんな世界に連れてきた元凶に頼ってしか生活ができなくても、その位背負ってもらって当然と思った方がすっきりしていられる。