第三章:海の向こうから
「ねえ、キティ。シャンリ様が、いらっしゃっている時もそばにいてくれる?私、あなたがいないと不安だわ。」
婚約者の来訪を三日後に控えて、落ち着きなさげなエミリーは、長い睫毛に縁取られた大きな瞳をパチパチと動かした。
「いいえ、エミリー様。私のような使用人がそばにいるのは、相手の方に失礼です。それから、必要以上に瞬きをしたり、目をキョロキョロと動かしてはいけません。東方の作法で大切なのは、相手の目をきちんと見て、はっきりと発言することです。こちらように、扇で顔を隠したり、遠まわしな発言は、東方では、無作法に当たりますから、気をつけて下さい。」
やや緊張した面持ちで私を見つめながら頷くエミリーを見ていると、不思議な感覚に捕らわれた。
つい数年前までは、耳にたこができる程聞かされていた台詞を今では、私が、エミリーに言い聞かせている。
興奮に頬をバラ色に染めたエミリーは、とても魅力的でかわいらしい。
そういえば、幼い私は、エミリーと違って、婚約に期待も興奮もしていなかった。
ただ、父の命令を受け入れて、他国に嫁ぐという行為に過ぎないと認識していた気がする。
物事は、捉え方ひとつですっかり意味が変わるらしい。
東方の王子の妻になることをもっと前向きに考えればよかったのかもしれないと今に思う。
そうすれば、あの小さな王子にもう少しましな笑顔を見せてあげられたかもしれない。
こうして、過去の後悔を思い悩むのは、結構馬鹿馬鹿しいのは、自分でも分かっている。
けれど、そうした馬鹿馬鹿しい思考さえも今の私には、必要な気もするから、不思議だ。
私は、エミリーの細い肩に手を添えて、空色の瞳を覗き込んだ。
「大丈夫ですよ、エミリー様。あなたは、とても優秀な方です。自信を持って下さい。そうすれば、何も心配することはありません。お兄様もそばにいてくださいますし、何かあったら、すぐに助けてくれますよ。シャーレン国は、小国ですが、伝統のある国です。王家の方も実直で聡明と名高い方ばかりです。あなたが、誠意を持って接すれば、シャンリ様も必ず応えて下さいますよ。」
「あなたが、そういってくれると大丈夫な気がするわ。キティって、すごいのね。ありがとう。大好きよ。」
そう言って、エミリーは、ピンクの唇を私の頬に寄せた。
驚いて、熱くなった頬に手を当てると、エミリーは、悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ。キティって、とってもいい匂いがするのよ。私、一度でいいから、キティにキスしてみたかったんだ。」
先ほどまでの緊張した面持ちは、どこへやら、無邪気に微笑むエミリーを見て、ため息をついた。
「あら、いやだ。そういうことは、シャンリ様にするべきですよ。女同士なんて、非生産的ですよ。」
歌うように滑らかな声と同時にドアが開かれて、ポーラが入ってきた。
両手にいっぱいに美しいドレスを抱えたポーラは見るからにご機嫌だ。
ポーラは、一週間ほど前から、婚約式のために臨時でこの屋敷に働きに来ている。
イデルが、侍女を探していると聞いて、すぐさまポーラを推薦した。
ポーラのことを友人だと紹介した時、イデルは、やけにうれしそうだった。
後で、問いただしてみると、友人を自分と引き合わせるということは、私が、イデルを受け入れ始めた証拠だと言った。
「ここを鬱陶しいとか居心地悪いと思っていたら、友人を誘わないだろう?」
イデルが、あんまりにもうれしそうに言うので、私もつい頷いてしまったが、自分でもよく分からない。
ポーラを推薦したのも東方系の容姿の彼女を侍女にしていた方が、シャーレン国の一行の心証もよくなるかと思ってのことだった。
ただ、最近、色々なことを楽しいと感じるし、ポーラも一緒だったら、もっと楽しいだろうと考えたのも確かだ。
「見て、キティ。どちらがいいかしら?エミリー様は、こちらのピンク色の方が、映えると思うんだけど。」
オシャレ好きのポーラは、エミリーを着せ替え人形のように何度も着替えさせている。
王宮にいた時、私もよく着せ替え人形にされたけれど、ものすごく嫌だったのを覚えている。
「私もピンクがいいかな。でも、こっちのゴールドの縁取りのドレスも捨てがたいわ。どうしよう、キティ。」
エミリーは、両手にドレスを持って、何度も鏡を覗き込んでいる。
・・・エミリーは、私と違って、楽しんでいるようだ。
「どちらもふさわしくありません。ピンクの方は、レースが多すぎます。ゴールドの方は、袖が膨らみすぎです。東方のドレスは、皆シンプルです。エミリー様は、シャーレン国に嫁ぐのですから、東方のしきたりに慣れていただかなければ。」
ぴしゃりと言うと、二人の少女は見るからにしょんぼりした。
「別によいだろう。俺もエミリーには、ピンクのドレスがいいと思うぞ。」
自信たっぷりな声が、背後に響いた。
「女性の部屋には、ノックをしてから入ってきて下さい、イデル様。あなたには、この国もマナーさえも守るのが、難しいようですね。」
「別にいいだろう。お前こそ、一々うるさいぞ。若い内はいいが、年を取ったら、厄介者扱いだぞ。」
イデルは、まったく悪びれもせず、部屋の中につかつかと入ってきた。
「厄介者で結構です。あなたこそ、その気まぐれで身勝手な性格を直した方がよろしいのでは?将来、頑固じじいだなんて言われますよ。」
「俺の性格は関係ないだろう!」
「あなたが、先に私の性格をとやかく言い出したんでしょう!」
二つの怒声が、部屋中の響く。
「ふふ。」
いきなり、エミリーが、笑い出した。
隣で必死で笑いをかみ殺していたポーラもとうとう吹き出した。
「あははは。何だか最近、お兄様とキティは、仲良しね。」
エミリーは、小鳥のような可愛らしい声でクスクスと笑うながら、言った。
「私もキティにここまで突っ掛かる男性は、初めて見ました。イデル様って、とっても面白い方ですね。」
ポーラもなぜか楽しそうに頷く。
「「仲良し?」」
揃ってしまう声が、腹立たしくて、イデルを睨みつけると、イデルも怪訝な顔で私を見ていた。
エミリーとポーラの笑い声は、一層大きくなった。