第一章:始まりの足音2
「そうゆうわけだから、明日から頼む。」
マシューは、ちょっと泣きそうな位情けない顔をしながら、私の前に頭を下げた。
「嫌だって言っても無駄なんでしょう?」
「イデル様の家は、うちのお得意様なんだ。」
「仕方ないわね。どうせすぐ飽きるでしょう。」
私は、ため息をついた。私の過去の事情は、マシューに関係ないことだし、いつもよくしてくれるマシューの顔に泥を塗りたくない。
「何が嫌なのよ、キティ。玉の輿のチャンスじゃない?」
ポーラは、信じられないという様子で、私の肩を掴んで揺すった。
「貴族は、嫌いなの。」
「そりゃ単純明快な回答ね。」
間髪いれずに答えると、ポーラは、肩をすくめた。
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夕日を受けてキラキラと光る海は、どこまでも広がっているかのように見えた。
切り立った崖の上に立つと、時々強い風が吹いて、体を海に引き寄せる。
そのままイデルを突き飛ばして、海のもずくにしてくれればいいのになどと考えていると、イデルが、振り返った。
「見苦しいからその仏頂面やめろ。」
ギラギラした鷹の様な目で、海を見下ろしていたイデルが、こちらを見ずに口を開いた。
「最初からこんな顔です。」
「お前は、元貴族か?」
「お答えする義務はありません。」
イデルは、私の言葉を無視して続ける。
「庶民特有の訛りがない。」
「・・・。」
「顔もどこかで見たことが、ある気がする。あ、そうか。お前は、」
もしイデルが、こちらを向いていたら、私の動揺を見抜いたかもしれない。
私は、押し黙ったまま、唇を噛んだ。
母の身分が低いために、公式の式典にも舞踏会にも出ていなかったから、私の存在を知る貴族は、ほとんどいない。
イデルは、私を知っているのだろうか。
何でぶった叩いて逃げようなどと物騒なことを考えながら、馬鹿みたいに輝くイデルの金髪を眺めた。
「お前は、王党派の貴族だろ?あらかた革命の後、貴族の身分を剥奪されたってとこか。」
「・・・。」
内心の安堵が、顔に出ないように下を向いた。
「何か言え。」
「・・・お察しの通りです。」
言った後に自然と唇を噛んだ。
この町に来てからいったい何度、こんな風に平然と嘘をつける自分を憎らしく思ったことだろう。
「家族は、どうした?」
「別れて暮らしております。皆どこかで生きているでしょう。」
「寂しくはないのか?」
イデルは、そばにあった岩に腰を下ろすと、不思議そうに私を見た。
その尋ね方は、無神経で、しかしあまりにも自然だった。
「もちろん、初めて内はありました。でも、今の生活に不満は、ありません。性に合っているのでしょう。」
「淡々としているな。」
「よく言われます。」
「俺は、今の暮らしを失うのが、怖い。」
イデルの言葉に私は、少し驚いて言葉を失ってしまった。
俯くイデルは、幼く見え、どこか悲しそうだった。
「失う予定でも?」
「いいや、そういうわけではないが。」
イデルは、しまったという風に口ごもった。
「案外大したことは、ありませんよ。少なくとも私は、ここで幸せです。」
「ここは、住みよい町か?」
「ええ、とても。」
「そうか。」
イデルは、もうそれ以上話そうとせず、私も特に何も言わなかった。
貴族なんて嫌いだけど、なぜかイデルの金色の髪を撫でてやりたいと思った。
いや、実際に触れたら、ついでに毛を二、三本引っこ抜いてしまうかもしれないけれど。
私は、この時、イデルの中に幸せに生きている貴族の本心を垣間見た気がした。
幸福ゆえの不安。
王制の崩御は、すなわち貴族身分の終わりも暗示している。
このまま、次の王が立たないのであれば、貴族も身分を剥奪されるだろう。
実力のないものが淘汰される時代になるのだろうか。
必要ないものが失われる時代になるのだろうか。
歴代の王が作り上げた美しい王都を思い出した。
王座に胡坐をかいて、浮ついた生活を送っていた父でさえ、絵画の中に至上の美を追求させた。
幼い頃に一度だけ見た、父の宝であるあの絵。
前皇后を描かせた「チェルメンの貴婦人」を見た時、まるで今にも動き出しそうな感覚に襲われたのを覚えている。
王が失われた。
貴族も失われる。
芸術も失われのだろうか。
目の前に佇むイデルを通して、ぼんやりとそんなことを思った。
けれど、私は、悲しいとも寂しいとも思わない。
全ては、時代の終焉によるものだから。