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第8章

続きです。

どうぞ宜しくお願いします。

次の週末、丁度休みの夫の運転でみさは自転車を取りに、再びあの店を訪れた。

「こんにちはぁ~…」

店内から聞こえてきたピアノの邪魔にならないように、みさは夫と静かに入ってきた。

「ああ、いらっしゃい…この前はどうも…奥さん、あれから大丈夫でしたか?…わはははは…今日はご主人も一緒で…まぁ、どうぞどうぞ…あっ、そうだ…自転車…ちゃ~んと直りましたよ…」

「そうですかぁ…あの…先日は本当にありがとうございました…家内がすっかりお世話になったそうで…」

夫と共に深々と頭を下げたみさはバッグからおもむろに封筒を取り出し、カウンターに差し出した。

「…あの…これ…どうぞ…受け取ってください…」

「はて?…」

きょとんとしている店主は封筒を受け取るも、すぐさまみさに返して寄越した。

「あ~…いやいやいやいや…奥さん…こういうものはいただけませんよ…」

「あっ、でも…こちらの気持ちですから…ほんの僅かですけど…ご主人、どうぞ受け取ってください…そうじゃないと、私どももこれからちょいちょいこちらに伺えなくなってしまいますんで…どうぞ、収めてください…お願いします…」

「そうですかぁ…では、遠慮なく…ところで、あの…お二人、コーヒーか何か飲んでいきませんか?…専門店ほどではございませんが、そこそこ美味しく入れますんで…あ、どうぞ、お好きな席でお待ちください…」

「ありがとうございます…」

軽い会釈の後、みさは夫と共に前回訪れた時の窓際の席に向かった。

夫の祐二だけ席に腰掛け、みさは店の置くにある古いピアノを弾いているリヒトの傍に進んだ。

斜め後ろに人の気配を感じたリヒトは、手を止め振り向いた。

「ああ、ごめんなさい…邪魔しちゃって…リヒト君、この間はありがとうね…」

「ああ、おばさんかぁ…こんにちは…」

「あっ、こんにちは、挨拶が後になっちゃったわね…ところで…リヒト君、ピアノ上手ねぇ…外にも聞こえてたけど…ホントに素敵ねぇ…」

うっとりした笑顔で率直な感想を言ってくるみさから、リヒトは照れて目線を逸らした。

「…ああ…いや…そうでもないですって…えへへへへ…あっ、あの方、旦那さんですか?」

照れながら頭をかいていたリヒトは、自分から話を逸らした。

「ええ、そうなの…車に自転車積んでいこうってことで…あっ…ごめんなさい…演奏の邪魔しちゃって…どうぞそのまま続けて続けて…あたし達のことは構わずに、どんどん弾いて!…リヒト君の演奏、もっと聞いていたいから…」

ピアノの練習を再開したリヒトは、少しだけ顔が自然とほころんだ。

みさは夫と一緒に海岸が見える素敵な店で、ゆったりと美味しいコーヒーを飲んでいる今がとても豊かで幸せな時間だと思った。


「ごちそうさまでしたぁ…また、来させていただきます…あ、そうそう、それと自転車、本当にありがとうございました…では、失礼しま~す。」

心配していた自転車は、ちゃんと車に乗せることが出来た。

みさと夫は外まで見送りに出てくれた店主とリヒトに笑顔で頭を下げ手を振ると、静かに出発したのだった。

「…はぁ~…いい店だったなぁ…」

運転している夫がしみじみと呟いた。

「…でしょう…また、今度行きましょうよ…そうしましょう、ねっ!ゆりが帰った時も連れて行きたいわねぇ…あっ!お姉ちゃんとも来ようっと!…お母さんは…う~ん…どうだろう?」

嬉しそうに興奮して話すみさの姿に、夫は心から安心したのだった。

それからほどなくして、みさは姉とも一緒に店を訪れた。

最近ブログを始めたという姉は店をたいそう気に入ると、すぐ店主に「ブログに写真を載せて、店を紹介してもいいか?」と聞いた。

店主の達男はみさの姉、千鶴の言っている意味をきちんと把握しないまま、笑顔で「いいですよ。」と返事をしてしまった。

千鶴が店の写真や紹介文をブログに載せると、後からそれを見たという客がじわじわと増えていった。

渋い店主目当ての客もいれば、若いリヒト目当ての客もいた。

わざわざ飛行機でここまでやってくるお客までいた。

夏以外の閑散とした季節は、イタリアからのワインの収入で食いつないでいたけれど、季節を問わずに客が来るようになってからは、店主もリヒトも嬉しいような何とも言えない気分だった。

「…なぁ…たっちゃん…ここも、急に忙しくなっちまったなぁ…」

達男の命の恩人でもある常連のとみおは、変わらないはずのこの店が何となく少しだけ変わってしまったような気がして、ちょっぴり淋しくなった。

「…ああ、忙しいのはありがたいんだけど…なぁ…人手が欲しいかなぁ…ってところだ…今すぐって訳じゃあないけども…俺も年だし…」

「…そうかぁ…求人でも出すのかい?」

「…いやぁ…そこまでは…まだ、考えてないけども…あっ、リヒト!ドリアできたから持ってってくれ…ここだけの話…最近体の調子がなんだか…」

「医者には診せたのかい?」

「いや、そこまではまだなんだが…忙しいから…疲れてるだけかもしれないし…」

「…そうかい?それならいいけど…でも、なるべく早いとこ医者にかかった方がいいぜ…俺達も年寄りになっちまったからよ…」

「…そうだなぁ…」

達男は忙しく動かしていた手を止めると、深いため息をひとつついた。


「はぁ~…今日も忙しかったなぁ…リヒト、そこ拭いたら、こっち頼む…」

そう言って店主の達男はゴミを出しに外に出ると、手の甲に冷たいものが落っこちてきた。

ふと頭上に目をやると、真っ暗な空から桜の花びらのような雪がひらひらと静かに舞い降りてきたのだった。

「どうりで寒いと思った…」

息が目の前で真っ白に膨らむと、ゆっくりと地面に落ちていった。

寒い中ぼんやりと降ってくる雪を見ていた達男は、不意に息が苦しくなるとその場で蹲った。

ゴミ棄てに出たまま、なかなか戻らない達男を心配してリヒトが外に出ると、胸を押さえて倒れている達男を発見した。

「じいちゃん!じいちゃん!しっかり!しっかりしろっって!じいちゃん!…」


救急車で運ばれた達男は、そのまましばらく入院することになった。

店主がいないままの店は、リヒト一人で賄っていた。

常連のとみおも少しだけ手伝ったが、やはりそれだけではなかなか上手くはいかなかった。

そんな週末、ふらりとみさ夫婦がやってきた。

「ああ、おばさん達、いらっしゃい…ちょっと混んでるけど…空いている席にどうぞ…」

忙しく動いているリヒトの様子を見たみさは、「リヒト君!おばさん、手伝うから…ちょっとエプロン借りるわよっ!…あっ、パパも…ぼけっと突っ立ってないで、手伝って!手伝って!」

そう言うなり、みさはテキパキと店の手伝いを始めた。

リヒトはそんなみさの姿を「頼もしい」と思った。


「ええっ!おじいさん、入院してるの…そう…そうだったの…」

店を閉めてからカウンターでゆっくりコーヒーを飲みながら休んでいたみさと夫は、リヒトから事情を聞くとたいそう驚き、そしてリヒト達を心配した。

「…一人で大変でしょう?…リヒト君、大丈夫?よかったら、おばさん、手伝いに来ようか?…もし、嫌じゃなかったらって話だけどね…いいわよね?パパ…あ、だけど、おじいさんの了承ないとリヒト君だけじゃ決められないわよね…あっ、でも遠慮しないでね…おばさん、暇って訳でもないけど、手伝えるから。全然大丈夫だから…」

「…ありがとうございます…明日、じいちゃんに聞いてみます…今日は、本当に助かりました…おじさんもおばさんも帰り、気をつけてくださいね…」

優しいリヒトの言葉に、みさも夫も温かい気持ちになった。


「…でね、おばさんさ、ほら…自転車パンクの…あのおばさんがね、店の手伝いしてくれるって言ってくれてるんだけど…じいちゃん…どうしようか?…」

「…う~ん…そうかぁ…」

「おばさんさ、すごく手際がよくて、お客さんにもいっつも笑顔でさ…この間、俺、すんごく助かったんだよね…正直、一人で厨房で注文の飯作って、それを持ってって…だからさ…折角来てくれたお客さん待たせるの、ホントに悪いなって感じで…とみさんも昼間の1時間ぐらいは手伝ってくれてさ…たまに勝代さんも来てくれて…」

「…そうか…そうだよなぁ…今まで、海水浴のシーズンぐらいだったもんなぁ…まさか、あんなにお客が来るなんて…そうかぁ…あの奥さん、手伝ってくれるって言ってくれてるのかぁ…リヒトは?あの人に手伝ってもらうの嫌じゃないのか?もし何だったら、求人出して新しい人雇うでもいいんだぞ。」

6人部屋の病室の窓際のベッドの横で、洗って持ってきた達男の着替えを引き出しにしまいながら、リヒトは少し考えた。

「…う~ん…求人かぁ…でもさ、出してもすぐに良い人来るって訳じゃないじゃん…それに…俺、あのおばさん、案外好きだよ…話しやすいし…お母さんみたいで…」

目を伏せてそれだけ言うと、リヒトは膝の上で組んでいる自分の指を見つめた。

その親指の付け根辺りにポトンと10円玉ほどの水滴が落ちた。

小さく震えているリヒトの頭を、ベッドに座っていた達男は優しくぽんぽんした。

あんな形で死に別れた母を思い出しているリヒトのことを思うと、達男は切ない気持ちでいっぱいになった。

「…そうか…じゃあ…あの奥さんに手伝ってもらおうか?…明日にもすぐ来てもらえるか、聞いてみないとな…リヒト、お前、連絡先わかるか?」

服の袖でさっと涙を拭うと、リヒトは顔をあげた。

「…しまったぁ…聞いてなかったぁ…あっ!だけど、家はわかるわかる…そだ、帰りにちょっと寄って聞いてみるよ…店のこと…さ…」

「…そうか…すまんな、リヒト…じいちゃん、もうすぐ退院できるからさ…もうちょっとだけ辛抱してくれな…」

 

次の日から、みさは達男とリヒトの店を手伝うことになった。

雪が積もったこともあり、みさはもう自転車で通うことは出来なかったが、その代わりにリヒトが毎日店の食材の仕入れや、ワインを卸している酒屋やレストランに向かうついでに迎えに来てもらい、達男の病院に洗濯した下着などを届けるついでに送ってもらうことで、すんなり事は解決したのだった。

みさは「バイト代は受け取れない。」と頑なだったが、達男とリヒトが「それじゃどうしても…」と強く言うので、いただいたお金でみさは夫や姉と店で食事をすることでありがたく使わせてもらうことにした。

短い入院の予定だったが、検査、検査の毎日で達男の退院は徐々に延びてしまっていた。

それでもみさが手伝いに来てくれてので、リヒトは一人でもしっかりと店を開けることが出来た。

「…なぁ、とみさん…何となくなんだけどさ…毎日じいちゃんのとこ行くだろ?そんで…何となくだけど…じいちゃん、前よりも顔とか黄色くなってる気がするんだぁ…検査ばっかりなんだけど、時々点滴してたりしてさ…まだ、詳しいことはお医者さんから聞いてないんだけど…」

昼間の混雑が少しだけ解消された時間、手伝ってくれていたとみおにリヒトはそう話した。

「…あっ、俺らもこの間行ったけど…そう言われてみれば…そんな気も…う~ん…」

配膳をしながら二人の会話を聞いてしまっていたみさは、父の最期の辺りを思い出していた。

「黄疸」が出ている。

リヒトがそれがどういうことなのかわからないでいるのだとわかっていても、みさはどうしてもそのことを話せなかった。

話すことが残酷なのか?

話さないことが残酷なのか?

その葛藤でみさは口をつぐんだまま、ジッと黙って配膳作業に没頭した。

「…ちょっとごめんなさい…」

席を外し、さもトイレを我慢していたかのような動作で、ささっと慌ててトイレに向かった。

用を足しながら、涙が勝手にこぼれた。


それから程なくして、リヒトは病院から呼び出された。

こんなことは生まれて初めてだった為、みさに付き添いをお願いした。

不安がるリヒトの背中をポンポンと軽く叩くと、みさもまた動揺しないように気を引き締めた。

達男の担当は30代半ばぐらいの穏やかそうな男の先生だった。

リヒトはそこで達男の今の体の状態の説明を受けた。

「…」

予期していなかった訳ではなかったものの、医者から告げられた達男の検査結果に、リヒトは声を失った。

腰掛けていた椅子からずるずると滑り落ちると、床にぺたんと尻餅をついた。

隣に座っていたみさは、驚くと同時に慌ててリヒトに駆け寄った。

「…リヒト君!しっかり!しっかりするのよ!…リヒト君っ!」

みさはそれしかかける言葉が見つからなかった。

達男は末期の肺がんと診断された。

これから手術や抗がん剤治療もできないほど、病気はかなり進行しているそうだった。

そして、ドラマや映画の一場面のように、達男の余命を宣告されたのだった。

当然、達男本人にはそのことを告げる訳もなかった。

すやすやと静かに眠っている達男をちらり見て、洗った洗濯物とこれから洗う洗濯物の交換を済ませると、リヒトとみさは病院を後にした。

すっかり冬になった外に出る時、みさはあることに気がついた。

達男と同じ病室の患者さん達が、やはり黄色い顔をしていたこと。

何とも説明できない匂いがする病室だったこと。

それら全てがみさの記憶から、父の壮絶だった最期のことばかり勝手に思い出させるのだった。

「リヒト君…大丈夫?…辛いし、哀しいだろうけど…あなたがしっかりしないとね…だけど、それでもやっぱりしんどいか…でもね、あたし達がついてるから…リヒト君、一人じゃないからね…いつでも何でも相談してね…遠慮なんかしないんだよ…良かったら、家でご飯食べていかない?今日は、疲れちゃったでしょ?」

「…ああ、みささん…ありがとうございます…でも、俺、今日はとりあえず戻ります…じいちゃんの洗濯もあるし、明日のこともあるから…」

いつも通りみさを家まで送り届けると、リヒトは一人店に戻った。

雪のおかげで夜でもいくらか明るかった。

日中、お日様がきらきら雪に反射して眩しいほどだったけれど、家に着く頃雪の降りが強くなってきていた。

車を降りて空を見上げると、頭上からガーゼの切れ端のような冷たい雪がどんどん顔にかかった。

「つめてぇ…」

顔の温度で解ける雪と目から流れた涙が混じった。

それでも構わずリヒトはしばらくその場に立ち尽くした。


達男が余命いくばくもないと知ってしまうと、リヒトは昼間の賑わいをまるで忘れたかのような、がらんとした店内にあるピアノの前に腰掛けた。

「…そういえば…じいちゃん…ここんとこ、よく咳き込んでたっけ…てっきり喘息だと思ってたんだけどなぁ…まさか…そんなのないよ…誰か、誰か嘘だって言ってくれたら…」

涙のまま、リヒトは達男が一番好きな曲を弾き始めた。

それは、写真と達男からの話でしか知らない、アーニャとの思い出の曲。

リヒトはピアノを弾きながら、ここに来た頃のことを思い出していた。


達男に助けてもらった後、身寄りのないリヒトはこの家に来た。

そして、よく知らない達男とここで生活することになった。

リヒトは、消息不明の両親のことや、手放した犬のシロのことなど小さな少年には抱えきれないほどの悲しみや苦しみを一気に背負い込んでしまった為、笑うことを忘れてしまっていた。

通い始めた新しい小学校でも、リヒトはなかなか馴染むことができずにいた。

笑わず、誰とも喋らず、時折両指をピアノを弾くかのように動かしているリヒトを、同級生達は気味悪がった。

「なんだぁ~!お前!…指、ちりちりって動かして!気持ちわりぃ~…」

誰かがそう言ったのをきっかけに、リヒトは同級生の男子からいじめられるようになった。

「何睨んでんだよっ!てめぇ…黙ってねぇで、なんか喋れよっ!…お前!喋れんだろっ!…」

徐々にエスカレートしていくいじめの中にあっても、リヒトは自分の命の恩人でもある達男には絶対にそのことを悟られまいと、小さな胸で決めていた。

なので、どんなに殴られようが、蹴られようが、リヒトはジッと耐えた。

ランドセルに足跡をつけられても、教科書やノートをビリビリに破かれようが、濡らされようが、リヒトは達男にだけは心配と迷惑をかけられない。

これ以上、迷惑をかけてしまえば、この温かい家にいられなくなるに違いないと思うと、いつか止むであろういじめにジッと耐えるしかなかった。

そんなある日の帰り道、リヒトはいじめっこ数人に追いかけられ、家の近くの海岸まで追いかけられていた。

「はぁはぁはぁ…待てよ~!リヒト~!…はぁはぁ…待ってって!…」

「はぁはぁはぁはぁ…」

追いかけてくるいじめっこから必死に逃げていたリヒトは、途中で転んでしまった。

履いている半ズボンから出ている膝から下の部分を激しくすりむき、地面についた手に細かく尖った石が刺さり、おまけに右足もくじいた。

痛みで上手く走れないけれど、それでも容赦なく追いかけてくるいじめっ子達から、リヒトは必死に逃げた。

そうしている間に、埠頭の端まで追い詰められた。

端っこまでじりじりと歩み寄るいじめっこから後ずさりしていたリヒトは、母と飛び込んだあの日を思い出し、苦しくて涙が出た。

ここはあの埠頭とはまるで違う場所だけれど、リヒトの中にあるあの日がいっぱいに膨れ上がると、堪らず大きな声を出した。

「…はぁはぁ…やっ…やめて…はぁはぁはぁ…こっち…来ないで…」

「…えっ?なぁに?リ~ヒ~ト~君!何言ってるか、全然聞こえませ~ん…」

「お願いだから…こっちに来ないで…お願い…」

「ああん?お前、何言ってんの?声、ちいせぇ~んだって…」

「なぁ、リヒト!お前さ、そのまま海に落っこちるか、こっちに来て俺らにぼっこぼこにされるか…どっちがいい?なぁ、どっちにする?それともぼっこぼこにされてから、海に放り込まれる方がいいか?あははははは!」

「…やめて…やめてください…お願い…お願い…」

埠頭の端ぎりぎりまで追い詰められたリヒトはその場にへたり込むと、いじめっこ達に向かって両手を合わせて命乞いをしたのだった。

捨てられた子犬のように小刻みに震えて泣くリヒトの姿を、いじめっこ達は面白そうにニヤニヤと笑いながらゆっくりと近づいていった。

「もう駄目だ…」

リヒトは固く目を瞑ったその時、いじめのリーダー、岡田健一の声が聞こえてきた。

「わああああああ~!何だよ!助けてくれ~!降ろしてくれ~!なんだよ!ちくしょー!こんにゃろー!

健一の声がそこいら中に響き渡ると、今度はリヒトを一緒になっていじめていた周りの悪い仲間達が怖がって逃げて行く声と足音が聞こえてきた。

「?」

目を閉じている間、何が起こっているのか知りたい気持ちがいっぱいになると、リヒトはゆっくりと両手の指の間からそうっと目を開けた。

「わああああ~!降ろせって!降ろせってば!この野郎!…ちくしょー!…」

悪態をつきながら泣いている健一が、大きな男に担がれていた。

「おいっ!お前、大丈夫か?…怪我は?…」

健一を担いだまま、その男はリヒトのことを心配してくれた。

「…えっ?あの…大丈夫…僕は…大丈夫です…」

ポカンとしたままリヒトは、男が健一を怒鳴りつけながらゆっくり下に降ろすのを見ていた。

「お前っ!なんでこいつをいじめる!…サイテーだなっ!…いいか、よく聞け!今後一切こいつに手ぇだしやがったら、俺が容赦しねぇからな…憶えておけっ!いいか!…なになに…岡田健一?…そうか…お前の名前しっかり覚えたからな!行け!さっさと行けって!」

男がそこまで言いかけていると、ようやく下に降ろしてもらった健一は、泣きながら慌てて逃げていった。

「…あのっ…ありがとう…ございました…あの…あの…」

リヒトが助けてもらったお礼をもじもじしながら言うと、男は優しく笑った。

「なぁに、そんなの…いいって…それより、お前、大丈夫か?怪我してるじゃねぇか…」

男に言われてから、リヒトは急に足が痛いと思った。

「あっ…」

よろよろとやっと立ち上がるも、全身にズキズキと痛みが走った。

「大丈夫か?ほらっ…家まで送ってやる!」

そう言うなり、男はリヒトの前で背中を向けてしゃがんだ。

「えっ?」

戸惑うリヒトに、男は「ほらっ!遠慮すんなって…」と声をかけた。

「…あっ、ありがとう…」

申し訳ない気持ちいっぱいで男の背中におんぶしてもらうと、リヒトは達男の背中に似ていると感じたのだった。

家まで送ってもらうと、ようやく自分を助けてくれた男が誰なのかわかった。

「おう!おかえりぃ~!って、あれっ?幸也、お前どしてまた…」

常連のとみおがいつものようにカウンター席でコーヒーをすすりながら、自分を助けてくれた男にそう話しかけるのを見て、驚いてしまった。

「ああ、父さん…また、母さんと喧嘩か…はぁ~、全く…よく飽きもしないで…毎度毎度…達男さん、いつもすいませんです…」

「ああ、そんなの…それより、リヒト…送ってくれて…すまないなぁ…」

達男は幸也に両手を合わせて拝むと、涙の後が残るリヒトの前に屈みこんで優しく頭を撫でた。

「…大丈夫か?…怪我…痛かっただろう?…」

達男の問いかけに、リヒトは黙って下を向いたまま首を左右に振った。

「…そうか…じゃあ、手ぇ洗っておいで…ジュースとおやつ、用意しておくから…」

くしゃくしゃとリヒトの頭を撫でると、達男は優しく微笑んだ。

「…あっ!そうだ…幸也君…なんか色々ありがとうなぁ…今、コーヒー入れるから飲んでって…」

全てを察した達男は、すぐさまカウンター奥に戻ると、手際よくコーヒーを入れた。

店と繋がっている自宅部分の自分の部屋にランドセルと置くと、リヒトはすぐに洗面所に向かった。

細かい石が刺さった手のひらは、洗うと痛みが生じた。

洗面台の鏡で自分の顔を見ると、涙で汚いと思った。

リヒトは達男たちにそんな顔を見せる訳にはいかないと、今度は丁寧に顔を洗った。

風呂場で膝下も洗うと、傷口が信じられないほど沁みた。

折角、洗った膝の傷口から、再び血が滲んできた。

みんなのいる店の方に戻ってきたリヒトと入れ違うように、コーヒーを飲みきった幸也は立ち上がると、リヒトの頭をちょっと撫で「また、今度な!」と言い、店を出て行った。

達男は沈んでいるリヒトの傷の手当てをした。

「…痛いか?」

リヒトは静かにこくんと頷くと、涙も少し出た。

「…そうか…でも、ちょっとだけ我慢な…リヒト…偉かったなぁ…」

リヒトがいじめに遭っていることを薄々感じていた達男は、幸也から何か聞いた訳でもないのに、全てわかってしまった。

 

その夜、自分の部屋に戻る前、リヒトはテレビを見ていた達男の傍に来た。

「…もう、寝るのか?…ゆっくりおやすみ…」

こくんと頷いたリヒトは、そのままもじもじと何か言いたそうにしていた。

「…どした?…体、痛いのか?大丈夫か?リヒト…病院、行こうか?今だったら、救急やってるから…待ってな、じいちゃん、すぐ仕度するから!」

達男が慌てて立ち上がると、今まで挨拶と「うん」と「ありがとう」ぐらいしか喋らなかったリヒトが、口を開いた。

「…あっ…あのね…おじいちゃん…あのね…あの…違うの!…僕…体はまだちょっと痛いけど…そうじゃなくって…その…病院は…大丈夫なの…そうじゃないの…」

この家に来てやっと自分から話し始めたリヒトの、次の言葉を達男はジッと待った。

「…あのね…今日の帰り…僕ね…埠頭まで追いかけられたの…」

「…そうか…」

「それで…それで…海に…海に飛び込むか…あいつらにぼこぼこにされるか…っくっく…どっちか…しかなかったの…っくっく…」

話し出してすぐに泣き出してしまったリヒトを、達男はぎゅっと抱きしめた。

「…そうか…そうだったのか…辛かったなぁ…そうか…リヒト…辛かったんだなぁ…」

リヒトの心情を察した達男は、もうそれ以上無理に話さなくてもいいと言った。

けれども、リヒトは涙を流しながらも、自分の言葉で一生懸命続けた。

「…それでね…それで…僕、お母さんと飛び込んだ時…思い出したの…それで…怖くて目をぎゅって瞑ったの…そしたらね…いじめてたやつの声がしたの…っくっくっく…」

「…そうか…」

「…っくっく…でね…僕、恐る恐る目を開けてみたの…そしたらね…あの人があいつを抱えててね…」

「…」

「僕…っくっく…そのまま、あいつを海に放り込んじゃうんじゃないかって…っくっく…思ったの…ひっくっく…だけど…あの人…っくっく…そんなことしなかった…」

「…」

「それよりも…っくっく…今度、僕をいじめたら…っくっく…容赦しないからって…っくっく…いじめっ子に言ってくれたの…っくっく…それでね…僕、足、怪我しちゃったから…っくっく…あの人がおんぶしてくれたの…っくっく…」

「…そうか…」

涙でしゃくりあげながらも、リヒトは頑張って達男に自分の気持ちを伝えたかった。

「っくっく…ごめんね、おじいちゃん…っくっく…それでね…っくっく…僕が言いたいのは…あの人…」

「…ん?ああ、幸也君か?」

リヒトはこくんと頷いた。

「…っくっく…そうなの…幸也さん…っくっく…とみおじさんの息子さんって知らなかったから…っくっく…」

「そうかぁ…幸也君…あの子はいいやつだぞぉ~…」

達男はしみじみそう言った。

「…っくっく…そうだね…っくっく…幸也さん…かっこ良い人だね…っくっく…僕、尊敬しちゃった…」

「そうか…あはははははは」

達男はリヒトを自分の胸に引き寄せると、笑いながら横に揺れた。

まだ涙のリヒトは、達男の胸が温かいと思って安心したのだった。


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。

お話はまだ続きますが、よろしくお願い致します。

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