第7章
続きです。
書き終えたらまとめますんで…よろしくどうぞ。
アーニャはモスクワから車でおおよそ3時間ほどかかる、貧しい農村の出だと聞いた。
極寒の痩せ細った土地で畑を耕している両親と小さな妹や弟達に祖父母の12人家族。
アーニャはまだ幼い兄弟達の面倒を見ていたが、冷夏が数年続き畑の作物の出来が悪くなると当然の如く、家族の生活はどうにも立ち行かなくなった。
そこで年頃になったアーニャを、ここよりは幾分景気が良かったこのイタリアに出稼ぎという形で出したそうだった。
本当は上の学校で色々なことを沢山学びたいと思っていたけれど、アーニャの家はそれができるほどの余裕はなかったとのこと。
だからといってアーニャは両親に反抗したり、ふてくされることもせず、笑顔で応じたそうだった。
少しづつ自分のことが出来るようになってきた小さな妹や弟、年を重ねるごとに徐々に弱っていく優しい祖父母、そして何より自分を産んで今まで大事に大事に育ててくれた両親を思うと。アーニャは家を出ることに何の不安も不満も感じなかったと聞いた。
家族の為なら、自分に出来るどんなことも頑張ろうと決めたらしかった。
そして、自分が少しでも愛する家族の役に立つなら、志半ばで命を落としたとしても本望だと言っていた。
達男はアーニャのそんな強さにどんどん惹かれていった。
それと同時に達男は、恵まれている自分を恥ずかしいと感じた。
あの日から仕事終わりにキャバレーに通いつめようやく親しくなると、達男はアーニャの屈託のない笑顔の裏側にある、切ない事情をようやく知ったのだった。
「…タツオはいつまでここにいるの?いつか日本に帰ってしまうの?」
長いまつ毛がびっしりと生えた綺麗なエメラルド色の瞳に大きな涙の玉が膨れると、達男は行き場のない切なさでいっぱいになった。
「大丈夫…まだ、もう少しだけ、僕はここにいるから…」
少女の面影が残るアーニャに見つめられると、達男はこのまま時が止まればいいと本気で思った。
それから達男はアーニャの下宿先であるキャバレー3階の古くて狭い屋根裏部屋で、朝まで一緒に過ごすことが増えた。
部屋にひとつだけの小さな窓から、二人で星空を眺めて語り合った。
「…今日でここの仕事も終わりか…」
この村の特産品のワインの原料である葡萄の収穫が終わると、達男は長いようで短かったここでの生活を振り返り、途端に名残惜しい気持ちになった。
それと同時にここでの作業が終わるということは、アーニャとの別れを意味しているのだと思うと堪らなくなった。
その反面、いっそこのままこの土地に留まって、アーニャと所帯を持とうかとも真剣に悩んだ。
作業が無事に済んだことと一緒に仕事をしてくれた仲間を労って、農家の主人ジュゼッペさんは庭で盛大なパーティーを開いてくれた。
奥さんを始めとする女達はテーブルに乗り切らないほど、沢山の料理を作った。
ジュゼッペさんは去年まで作ったワインの樽を惜しげもなく出し、皆に振舞った。
子供達には色とりどりの甘いお菓子が配られた。
そこに近所の方や遠くからの親戚、更には縁のある街の人も集まって、お祭りのような賑やかな会となった。
このパーティーの後、自分の国に戻る人、ここを出て違う土地に向かう人、そのまま引き続きワインの仕込み作業を手伝う人など、それぞれがそれぞれの思いを胸にこの場で大いに飲み、そして食べた。
庭の木々に渡してあった電球がほんのり灯ると、パーティーはますます賑やかになっていった。
誰かがギターやアコーディオン、笛にサックスの演奏を始めると、テーブルから離れた芝生の広場に自然と大きな輪が出来た。
街一番の歌い手ジャンが大きな声で歌いだすと、集まったみんなはほろ酔いで手を繋ぎ、音楽に合わせて楽しく踊り始めた。
達男は端っこで棒つきの大きな飴を舐めていたアーニャを見つけると、持っていたワインを少々乱暴にテーブルに置いて駆け出した。
息が荒いまま、アーニャの前で膝まづくとすかさず片手を出してこう言った。
「お姫様、どうぞ私と踊っていただけますか?」
するとアーニャは顔を赤らめ、棒つきキャンディーを傍にいた小さな男の子に手渡すと、すぐさま「はい。」と答え、達男の手の上に自分の手を重ねた。
昼間街の小さな仕立て屋に勤めているアーニャは、達男が今まで見たこともない可愛らしいドレス姿だった。
今月アーニャは夜の「タバコ売り」の仕事を一生懸命頑張ったので、実家への仕送り分を抜かしても少しだけ自分の自由になるお金の余裕があった。
達男と仲良くなっていくと、アーニャの中にいつも同じ服ばかりでいることがとても恥ずかしいと感じるようになっていた。
なので、仕立て屋の気のいい女主人に縫いやすくて割と綺麗な生地を安く譲ってもらうと、夜の仕事までの僅かな間店のミシンを借りて今日の日の為に、達男には内緒でこのドレスをこしらえていたのだった。
「アーニャ…綺麗だ…」
「まぁ、タツオったら…うふふふふふ。」
二人は手を取り合うと、小走りで踊りの輪の中に入っていった。
ほんのり明るい電球の明かりの下で、達男とアーニャは夢のような素敵な時間を過ごした。
「アーニャ…どうした?」
「ああ、タツオ…ちょっと疲れちゃったみたい。」
楽しそうなみんなの輪から離れテーブル席に戻ると、達男は椅子に腰掛けたアーニャの髪にテーブルに飾ってあった小さなバラの花を挿して上げた。
「本当にお姫様みたいだ…綺麗だよ、アーニャ。」
「まぁ…タツオも王子様みたいよ…うふふふふ。」
くしゃくしゃのシャツにズボン、その裾を長いブーツに押し込んだ格好の達男は、自分の姿をまじまじと見てから笑って「そうかい?」と答えた。
見つめ合う二人を、周りのみんなは心から温かく見守ってくれた。
だが、そんな幸せな時間を引き裂くように、でっぷりとしたお腹を弾ませて年配のお手伝いのラウラさんが慌てて達男のところまで駆けて来た。
「…えっ?日本から電報?…私に?」
うんうんと頷くラウラさんにバッと手渡された電報を受け取ると、達男はすぐに誰から来たのかを確認した。
「…えっ?実家?…なんだろ?」
ちょっぴり嫌な予感がした。
「チチ、キトク。スグカエラレタシ。」
両手で紙を持ったまま、達男はその場で崩れ落ちるように座り込んだ。
わなわなと全身を震わせたまま芝生にぺたんと座り込んでいる達男の様子を心配したアーニャは、すかさず傍に駆け寄った。
「タツオ?どうしたの?何かあったの?」
事情を知らないアーニャがあどけない表情で達男の顔を覗きこむと、堰を切ったように達男の目から涙がこぼれた。
「まぁ、タツオ!しっかりして!どうしたの?何があったのか教えてちょうだい!」
アーニャの声に賑やかだった周りが、急に動きを止めた。
「…アーニャ…僕は…僕は…すぐにでも、日本に戻らなければならなくなった…ああ、アーニャ…アーニャ…」
人の目を気にする余裕もないまま、達男はその場でただただ泣いた。
大の男が人目も憚らず涙する様子に、アーニャは堪らず抱きついた。
「タツオ!タツオ!しっかりして…大丈夫!あたしがついているわ…だから、タツオ…何があったのか教えてちょうだい!どうか…お願い…」
辺りがざわめき立つのもわからないまま、達男はアーニャに抱きしめられるまま放心状態で佇んだ。
次の朝早く達男はお世話になった農場を後にし、日本へ旅立った。
「…あっ!達男はあれに乗ってるのかなぁ?」
農場で旅の仕度を終えたカーティスはバス停でバスを待ちながら、頭上を轟音で飛んでいく飛行機を眺めながらそう呟いた。
窓際のミシンで仲良くしているキャバレーのお姉さん達が注文していった新しいドレスを縫っていたアーニャも、飛行機の轟音が聞こえてくると、作業の手を止めて窓から空を見上げた。
「タツオ…愛してるわ…タツオ…あたしの愛しいタツオ…どうか無事に…」
達男にお揃いで買ってもらった小さな銀の十字架のペンダントを、胸の前で祈るようにギュッと握ると、アーニャは神様にお祈りを捧げた。
イタリアからずっと落ち着かないままだった達男が血相を変えて戻って来る手前辺りで、家の前に車がやたらに停まっているのが見えた。
徐々に家に近づいていくと、中から真っ黒い服を着た父の弟が目を真っ赤にし、鼻をすすりながら、玄関前で呆然と立ち尽くす達男に近づき優しく声をかけた。
「ああ…達男…待ってたけどな…なぁ…一足遅かった…なぁ…でもな、お前が無事に戻って来てくれて…兄さんもきっと喜んでるに違いないよ…」
「…嘘だろっ?…なぁ、叔父さん…嘘だよなぁ?…嘘だって言ってくれよ…」
達男の問いかけに、叔父は震えながら小さく首を振るしか出来なかった。
その日の夕方、達男の父の通夜がしめやかに執り行われた。
今までさんざんわがままを言って、自分の自由を許してくれていた父の死に衝撃を受けた達男は、それから酷く塞ぎこみ眠れない日々を過ごしていた。
「…親父…ごめんな…ごめんな…間に合わなくって…本当にごめんな…そして、ありがとう…俺は…何にも親孝行もしないで…」
自分の勝手な行動が親の死に目に会えなかった原因だと、達男は自分を責めた。
あれほど継ぐのを嫌がった父の会社をあっさりと継いだ達男は、イタリアに残してきたアーニャの存在をすっかり忘れてしまっていた。
アーニャよりも今は会社のことだけに集中していた。
仕事仕事に追われた忙しい中、地元の仲間でもある同じ水産加工会社の社長令嬢との見合いの話が持ち上がった。
それぞれの会社で競争するよりも、いっそのこと合併して大きくした方が寂れていく一方の街の発展や雇用に繋がると考えたあちらの社長からの、たっての希望らしかった。
気の進まない見合いだったが、会社を手伝ってくれている叔父の顔をつぶす訳にもいかなかった為、達男はやむを得ず承諾したのだった。
「一度会えばあちらの気も済むだろう。どうせ断るのだから。」
そう軽い気持ちで見合いの席に臨んだ達男だったが、後日知らぬところでいつの間にか「婚約」というところまで勝手に話が進んでしまっていた。
見合いの席でほとんど会話もしなかったツンと澄ました冷たそうな女性は、何故か達男を気に入ると、一方的な策略ともとれる形で強引に婚約という形にもっていったのだった。
弱った達男だったが、毎日のように差し入れの弁当を持参してくるこの女性「新木幸恵」の心を、どうにも邪険に扱うことができなかった。
よく知りもしない自分に結婚前からこれほど尽くしてくれる女性を、ぴしゃりとシャットアウトできるほど達男は冷たい男ではなかったし、会社の対面上そういう行為に及ぶ訳にもいかなかったのである。
父の一周忌が終わってから幸恵と正式に結婚式を執り行う手はずが、達男の気持ちも関係無しにどんどんと決まっていってしまっていた。
ある日、いつものように弁当を作って持ってきた婚約者の幸恵が車でやってくると、会社の前に見知らぬ若い外国人の女性の姿を見つけた。
ぽっこりとお腹が膨れた女性は、その場でどうしようか迷っているように見えた。
「…あの…何か?」
幸恵が優しく声をかけると、その女性は片言の日本語で必死に何か言い始めた。
「…タツオ…ココ二…イマスカ?」
「えっ?タツオ?…」
目の前にいるお腹を大きくしている若い外国の女が達男のかつての恋人だと、幸恵はすぐにピンときた。
見知らぬ大きなお腹の外国人女性がいるとの報告を受けた達男は、驚きと共に慌ててその場まで急いでやってきた。
「タツオ!…タツオ!…」
愛を誓い合った男がこちらに駆けて来る姿に嬉しくなったアーニャは、幸恵のことなぞお構い無しにバッと達男に抱きついた。
「アーニャ?…アーニャなのか?…ええっ?どうしてここに?どうやってここまで?ああ、それにしても嬉しいなぁ…まさかこんな場所で君にまた会えるなんて…」
忘れかけていた最愛の人に思いがけず再会できた喜びでいっぱいの達男は、しばらく話していなかったイタリア語でアーニャに話しかけた。
「…私、タツオに会いに来ました…あれから手紙もなかったから…とても淋しかった…会いたかった…タツオ…私、あれから一生懸命お金貯めました…そして、あなたに教えてもらった住所を頼りにここまでやってきました…」
「ええっ!そうだったのかぁ…アーニャ、すまなかったね…元気だったかい?僕も君に会えて嬉しいよ…こんなに嬉しいことがあるなんて…」
二人の再会をきょとんと見ていた幸恵はイライラが募ると、強引に会話に日本語で割って入ってきた。
「あのっ!達男さんっ!この方はどなたですの?…わたくしに紹介してくださいませんこと?」
「…あっ…ああ、そうでした…この子はアーニャ…僕がイタリアに滞在してた頃の…」
達男がそこまで嬉しそうに説明を始めると、苛立っていた幸恵はすぐさまそれを遮るように、今度は強い口調と人差し指でつつくような仕草でアーニャに詰め寄った。
「アーニャ…さん?…わざわざイタリアから来たそうですけど…達男さんはわたくしと結婚するんですの!今は婚約してるんですの!…ですから、折角わざわざ遠いところからお出でくださったみたいですけど…どうぞ、そのままお引取りくださいませっ!」
怒鳴るようにそう言いながら、幸恵は達男の腕を引っ張るようにして無理矢理腕をがっしりと組んだ。
鬼の形相の幸恵が何を言っているのかはわからなかったけれど、何か激しく怒っているのはアーニャにもわかった。
「ちっ…違うって…アーニャ…この人とは何もないから…誤解しないでくれっ…」
慌てる達男の腕をぐいぐい引っ張っている幸恵の様子を見たアーニャは、涙ぐみながら来た道を駆け出した。
「サヨナラ…タツオ…サヨナラ…」
「あっ、ちょっと…待って!アーニャ…ちょっと…待って…ちょっと…幸恵さん、離して下さい!離して!いいから離してください!」
「嫌です!絶対に離しません!だって…だって、達男さんはわたくしのお婿さんになる人じゃありませんかっ!…」
「いやっ…お願いですから…離して下さいっ…あっ…アーニャ!待ってくれぇ~!そのお腹は…もしかして…僕の…アーニャ~~~!…」
「達男さんっ!絶対に行かせないっ!…達男さんはわたくしの…だから…あんな言葉も通じない外国人の小娘なんかに…渡しませんからっ…絶対に渡しませんからっ…ちょっと!誰かっ!誰か来てちょうだい!達男さんを取り押さえてちょうだいっ!」
幸恵と従業員の男衆に取り押さえられた達男が一度も振り返らず駆けて行ったアーニャの姿を見たのは、それっきりだった。
そんな出来事の後、達男はすぐに社長の職を退いて、叔父に全てを譲った。
それと同時に幸恵との婚約を解消すると、ほどなく再び家を出た。
当てもなく臨月ほどの大きなお腹のアーニャを捜し歩くも、どこも一足遅かった。
「もしかして…」と思い、会社を譲った叔父に頼み込んで金を借りると、達男はアーニャと過ごしたイタリアやソビエトにある彼女の実家も訪ねた。
だが、彼女の姿はどこにもなかった。
日本に戻って流れ着いたのが、この海岸沿いの店だった。
ボロボロだったここを達男は一人でじっくりと改装していった。
海と風の音だけを聞きながら、達男は大工作業に没頭した。
ようやく形になった頃、達男はここで店を始めたのだった。
恩しかない叔父に久しぶりに連絡をすると、かつて婚約していた幸恵が海に身投げしたと知らされた。
「…えっ?…嘘だろ?…そんな…」
それは達男が街を出てほどなくのことだったそうだった。
愛し合う二人を引き裂いた後悔の念に苛まれた末の、衝動的な自殺らしかった。
幸恵の部屋の机の上に、「ごめんなさい。」とだけ書かれた遺書が置いてあったと聞いた。
「…俺は…俺はこの先…どうすれば…」
達男はこの時「絶望」という言葉の意味を知った気がした。
目に映る世界が灰色にしか見えなくなった。
何もする気が起きないまま、眠れず、食べることも出来ずに達男を、たまたまふらりと立ち寄ったとみおが助けてくれた。
とみおに命を救われてから、達男はようやく生きることに再び目覚めた。
それからの達男は、自分のことよりも誰かの役に立つのならという精神で、一生懸命仕事をするようになった。
だが、その前に自分が食べていかなくては、何も始まらなかった。
喫茶店の経営だけではどうにも上手くいかなかったこともあって、達男はイタリアでお世話になったジュゼッペさんのところから本場のワインを仕入れて酒屋やレストランに卸す仕事も始めた。
イタリアとの繋がりを持つことで、アーニャの消息もつかめるかもしれないという希望があったからだった。
そうして年月が経ち、あの日、気分転換とばかりにふらり一人で夜釣りに出かけた埠頭で、リヒトを助けた。
達男は児童養護施設しか行き場のないリヒトを引き取ることが、神様が与えた自分への罪を償うチャンスだと思った。
「じいちゃん、ただいまぁ~…あ~、寒かったぁ…花、買ってきたけどこれでよかったかな?…あ~、それにしても腹減ったぁ~…なんか食うもんない~?」
帰るなり大声で話すリヒトに、達男はハッと現実に戻ってきた。
「どしたの?じいちゃん…ぼ~っとして…熱でもあんの?」
「ああ、何でもない…大丈夫、大丈夫…ちょっと疲れただけさ…そだ、リヒト、お前ラーメンでいいか?インスタントだけど…」
「ああ、いい…」
「そうか、じゃあ、ちょっと待ってな…すぐに作るから…」
「は~い…」
リヒトとの他愛のない会話で、達男の心は少しだけ温まった。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
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