第6章
続きです。
まだまだどうぞ宜しくお願いします。
「じゃあ、頼んだぞ!リヒト、くれぐれも運転に気をつけて…奥さん、自転車は預かるんで、いつでも取りに来て下さい…」
「すいません。ホントに…ありがとうございます。では、今日は失礼します。」
「じゃあ、じいちゃん…ちょっくら行って来るわ!…花は何でもいいかい?」
「ああ、3千円ぐらいで頼んだぞ…」
達男はリヒトとみさを見送ると、すぐさまパンクした自転車を以前はちゃんと車庫だった場所に運んだ。
「…はぁ…こりゃあ…案外手間だなぁ…今日は、遅いから…いいか…明日、やれば…」
本当の銃声を聞いたことはない。
だが、ドラマや映画などでその音を聞いたことは何度もある。
ついさっき聞いたそれがただのパンクした音だとわかると、達男はやれやれという気持ちになった。
店に戻ると、達男はコーヒーを入れなおした。
「…はぁ~…疲れた…それにしても…あの奥さん…」
達男は先ほどまで一緒にいたみさのことを改めて思い出した。
「…アーニャが年を取ったら…あんな感じだろうか?…ああ、いや…もっと老けてるか?…」
みさの中にかつて愛したアーニャの面影を重ねると、達男は目を閉じ出会いからの回想に入っていった。
「…アーニャ…君は覚えているだろうか?…出会ったあの日のことを…」
世界各地で様々なデモや反戦運動が盛んだった時代。
地球上のほとんどの国が巻き込まれ、傷つき涙したあの大戦の爪痕が、人々に愛と平和を歌わせていた。
当時の若者の大半は、そんな潮流に乗っていった。
だから、達男も当然愛と平和に共感し、流行っていたヒッピーのような格好で自分の信じる道を突き進んでいた。
親の言いなりに水産加工会社を継ぐつもりなどまるでなかったので、「社会勉強」と称して親を上手く説得するとふらり軽い気持ちで日本を出たのだった。
そりゃあ少しは親の仕事に役立つ勉強をしておきたいという気持ちもあったけれど、それより何よりあの時代、達男はただ単に自分の目で世界を見ておきたい、自分がどこまで出来るのか試してみたいという勢いに溢れていた。
先のことなどまるで考えもせず、今を生きたいと思っていた。
広い世界で自分の視野を広めたかった。
その中でどんな形にせよ、戦争に全くの正当性はないと確信したかったのだった。
言葉もわからぬ異国の地で、達男は大きなカルチャーショックに見舞われた。
目に映る全てのもの、耳から入ってくる日本とは明らかに違う言葉や音、鼻から吸い込む異国の空気や食べ物などの匂いなど、全身を貫くくらい強烈な衝撃を受ける日々。
だが、言葉も文化も容姿などほとんど全て日本とは違う中でも、達男は人の基本的な部分は変わらないと知った。
各国を放浪する旅の中、人の人情に涙することも多々あったし、命の危険を感じるほどの恐ろしい目にもあった。
日本にいる時は絶対に考えることはなかった、一日一日を無事に過ごせるありがたさ、命があるありがたさを痛感したのも、その旅の中でだった。
達男の中の日本が徐々に薄らいでいくと、頑なだった心も次第にほぐれていった。
だが、反対に日本人である誇りや喜びを感じたのだった。
そして、敗戦国である日本が放浪した諸国に比べると、今はどれだけ豊かかも知った。
訪れるどの国でも身振り手振りで一生懸命話せば、何となく相手に伝わるとわかると、達男は日本を出たばかりの頃よりも徐々に積極的になっていた。
ドイツから鉄道でイタリアに入ると、達男は憧れのアルプスの山々近くの田舎町でしばらく働きながら滞在することにした。
所持金が底をつきそうになったからという訳ではなかった。
ただ、その場に留まり、現地の生活や人々との触れ合いをより深く体験してみたいと思ったからだった。
訪ねた他の国ではそういう気持ちが起きなかったけれど、何故かイタリアではそんな気分になった。
それはイタリア人の豪快な明るさや、食べ物が達男の口にあったからかもしれない。
当時、今ほどではないにしろ、欧州との行き来が徐々に増え始めていたが、あの大戦の傷跡が街や人々の心に根深く残っていることもあり、「東洋人」である達男を見るなり、あからさまな嫌悪感を丸出しにされることも多々あった。
差別的な発言や不当な扱いをされることもしばしば。
だが、そんな中でもちゃんと自分を大切にしてくれる人も、結構いるのも事実だった。
なので、達男は丁度葡萄の収穫期である約一ヶ月間ほど、山の斜面を利用した大きな畑を所有している農家に雇ってもらえることになった。
農家の主人を始めとする家族は、達男が日本人だとわかるととてもフレンドリーに接してくれた。
「同盟国…だったからかな?」
達男は、生まれる前の哀しすぎる戦争が少しか関係しているのだろうかと思った。
納屋を改装した手伝いの男達が寝泊りする小屋で、達男と同様に世界中を旅して回っているという、自分と同じような髪が長く、年齢も近い男達と仲良くなった。
アメリカから来たカーティスとは、特に馬が合った。
作業が終わり皆で夕食を囲んだ後、カーティスとよく地元の酒場に繰り出した。
そんな生活のある日、いつものようにカーティスを含めた数人の仲間で通い慣れた酒場ではなく、新しく出来たという店へ向かった。
そこはでっぷりした女将が仕切る和やかな場所とは違い、若くて美しい女達が接客などをしてくれるキャバレーだった。
仕事ばかりで女に飢えていた若くて活気のある男達は、久しぶりに触れ合える着飾った綺麗な女達の虜となった。
達男はそんな仲間達とは違い、昼間のように賑やかなその場所の隅っこで、一人静かに酒を飲むだけだった。
カーティスや他の仲間たちは、すぐに相手を見つけいい仲になっていた。
薄暗い明かりの中に目の前の相手の声が聞き取れないほどの音楽、そしてタバコの煙と酒の匂い。
日中の作業で少々疲れが溜まっていた達男は、一人だけ浮いて見えるほど静かにちびちび酒を飲んでいた。
「…お客さん…タバコはいかがですか?」
不意に声をかけられ、達男はようやく顔を上げた。
するとそこにはこの場に似つかわしくないほどまっさらな清純さを保った、一人の少女が手にかごを下げて立っていた。
「…あの…お客さん、タバコは?…」
可愛らしい綺麗な声のその娘は、ソビエトから出稼ぎで来ていたアーニャという名の女だった。
達男は後光が差しているかのように見えるアーニャを、ただぼんやりと見つめるだけしかできなかった。
たどたどしいイタリア語で話しかけられると、達男はハッと我に返るなり、やはりたどたどしいイタリア語で「あっ、いや…間に合ってるから…」とだけ答えた。
「タバコはいかがですかぁ~…」
達男に断られたアーニャは、すぐに向こう側へ行ってしまった。
「…おいっ!おい、達男っ!達男って!」
人形のように可愛らしいアーニャの姿を目で追っていた達男に、派手な女をつれて戻ってきたカーティスが声をかけてきた。
「…おい!どうした?金でも盗られたのか?」
肩を揺すられ、ようやくアーニャから目を離した達男は、すぐさまカーティスの女に尋ねた。
「あっ…さっきの…さっきのタバコ売りの子…誰?何て名前?…」
「ああ、あの子?アーニャよ…」
カーティスの女はつまらなそうに、それだけ答えてくれた。
「なっ…なぁ、あの子…どこに住んでるか教えてもらえないか?」
普段はクールな達男が珍しく女の子のことを聞いていると知ると、カーティスはつれの女の肩を抱きながら、ニヤニヤと酒を口にした。
女から知っているだけのアーニャのことを聞いた達男は、カーティスに小さく謝ると一足先に小屋へ戻った。
「…なぁに?あれ?…あの東洋人、あんな冴えない子が気に入ったの?」
女が機嫌悪くそう言うと、カーティスは更にニヤニヤしながら「ああ、そうらしい…珍しいこともあるもんだ…」と答えた。
酒場から徐々に遠ざかると賑やかな音も徐々に聞こえなくなって、今度は草むらの虫の声や通りすがったよそのお宅から漏れる家族の声にテレビやラジオの音が薄っすら聞こえるだけになった。
達男は歩きながら、酔いを醒ますように大きく深呼吸をした。
そして、頭上を仰ぎ見た。
するとそこには満天の星が煌いていた。
達男は日本で見る星空とここで見る星空が同じだと思うだけで、何だか嬉しくなった。
「アーニャか…そうか…アーニャって言うんだぁ…そっかぁ…あはははは…アーニャ!アーニャ!…明日、絶対に君に会いに行くから!…へへへへへ…いやっほ~!」
駆け出して飛び上がり、それから小屋まではスキップで戻った。
それがアーニャとの出会いだった。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。
まだまだお話は続きますので、どうぞ宜しくお願いいたします。