第4章
続きです。
拙い文章で読みにくいでしょうが、どうぞお許しくださいませ。
耳の奥にキーンという音が始まった。
それほどまでにパーンという音は大きかった。
みさは自分のすぐ近くで鳴ったその音の正体を確かめようと、辺りをきょろきょろと見渡した。
けれども、みさの見る限り、激しい音の痕跡などどこにも見当たらなかった。
ほんの数秒、時が止まったような気がした。
「そういえば…」とばかりに、みさは自分の体を見える部分だけ必死によく見た。
どこにも痛みは感じない。
それにどこからも血など出てはいない。
とりあえずどこも怪我をしていないとわかると、今度は心臓が激しく脈打った。
更年期障害の症状であるそれと、今回のどくどく波打つ鼓動は随分種類が違った。
鼓動の激しさが増してくると、次に息が苦しくなってきた。
「過呼吸」にも似た息遣いは、更に悪いものを誘発し始めた。
それは寒さもあってのことなのだろうが、このタイミングで喘息の発作が起きてしまったのだった。
「…はぁはぁ…はぁ…なんで…はぁ…こんな時に…」
自転車からゆっくりと降りると、みさは冷たくなったアスファルトの上で蹲った。
片方の手で胸辺りを押さえ、空いている方の手で自転車のかごに入ったバッグをがさごそすると、念の為持ち歩いていた吸入器を取り出し、すばやく処置にかかった。
「はぁはぁはぁはぁ…はぁ~…苦しかったぁ…」
気管支が広がり呼吸が楽になると、みさは安心してその場にへたり込んでしまった。
しっかりと防寒してきたにも関わらず、アスファルトから直に伝わる冷たさは、みさの体を急激に冷やしていった。
「さっ…寒いけど…よっこい…」
あまりの冷たさに耐え切れず立ち上がろうと試みるも、みさはどうやら腰を抜かしてしまったらしかった。
「…困ったぁ…こんなところで、腰なんか抜かしてる場合じゃないのに…早くしないと、パパ帰ってきちゃうのに…」
みさは今自分が置かれている状況よりも、晩御飯の仕度をしなくてはいけないという緊張感でいっぱいだった。
それと同時に脳内の反対側では、「へ~え、腰抜かすってこんな感じなんだぁ…」などと、妙に感心しているのだった。
ほんの僅かな間自分のことで精一杯だった為、ふと辺りに目をやると先ほどよりも幾分、周り全体が暗くなっていることにようやく気づいた。
みさは、今、自分がどうにも一人ぼっちなのを痛感した。
そうしている間に視界に入ってくる闇の中に、ぽつぽつと外灯が灯り始めてきた瞬間を目撃すると、みさの心は急に淋しさでいっぱいになった。
こんな淋しさは、小学校低学年の頃、友達の家に遊びに行った帰り道の淋しさによく似てると思った。
寒さと切ない気持ちに押されると、みさの目からいつの間にか涙が勝手に流れ出た。
パーン!
「…えっ?今の音…何っ?」
みさの聞こえた破裂音は、お店の中にまで聞こえてきていた。
リヒトはみさが食べた鍋焼きうどんの土鍋や、ココアのカップなどを丁度洗っているところだった。
「なんだ?今の…銃声?まさか…」
店主はみさが使っていたテーブルを拭いている時だった。
「じいちゃん…俺、ちょっくら外見てくるわ…わりぃ、続きよろしくっ!」
そう言うなりリヒトは素早く手を洗うと、出入り口にかけたジャケットを羽織りながら、急いで外に飛び出していった。
「おっ…おう…気をつけてな…なんかあったら、すぐ呼べ…なっ…」
店主はリヒトの背中にそう告げると、格子ガラスのドアからちらっと薄暗い外を見て、リヒトから託された作業の続きを始めた。
リヒトは外に出た途端、あまりの風の強さに一瞬体を縮こませるも、すぐさまとりあえず駆け出した。
きょろきょろと辺りを見回しながら、時折、立ち止まって後ろを振り返ったりもした。
少し行ったところで、道路の真ん中に誰かが座り込んでいるような影が見えた。
音の出所を探しに来たリヒトだったが、今はその座り込んでいる人らしきものが何かを確かめたかった。
「お~い!…じゃないな…え~と…誰かぁ~…ってのは変か…じゃあ…なんだ…そこの人~…ってのもなんだか…え~と、じゃあ…え~と…」
リヒトはこんな時なんて声をかけたらいいのか迷いつつ、ゆっくりと歩きながらそちらに向かった。
もしかするとあの音は銃声で、そして音を発した銃をあそこで座り込んでいる人物が持っているかもしれない。
更にもしかすると、その人物が自分に向けて銃を発砲するかもしれない。
考えれば考えるほど、怖さがどんどんと膨らんでいった。
けれども、それ以上に暗い道路の真ん中にいる人物を知りたい欲求には勝てず、じわじわと接近していくのだった。
腰を抜かして立ち上がれなくなっていたみさは、遠くから聞こえる聞いたことがある声に反応すると、心が少しだけ安堵し、大きな声で返した。
「誰かぁ~!助けてぇ~!助けてくださ~い!」
じわじわと近寄りながら、リヒトは声の主が助けを求めていることを知ると、急に駆け出した。
「はぁはぁはぁ…だっ…だいっ…はぁはぁはぁ…大丈夫っ…です…かっ…はぁはぁはぁはぁ…」
凍えそうな寒さの中、いきなり走り出したリヒトは、みさのところへ到着すると息があがって上手く話せなかった。
そんな若者を目の前にしたみさは、自分よりもむしろこの人の方が大丈夫か心配になった。
「あの…あなたの方が大丈夫かしら?…走って来てくれたのはありがたいんだけど…大丈夫?苦しそうね…」
道路で座り込んでいる人物が、先ほどまで店にいたあのおばさんだとわかると、リヒトは急に疲れてその場にしゃがみこんだ。
「はぁ…はぁ…あの…どしたんですか?こんなとこで…車に引かれちゃいますよ…大丈夫ですか?」
「ああ、ごめんなさい…そうよね…ここ、道路だものね…車が来たら引かれちゃうわよねぇ…」
リヒトはのん気なことを言っているこのおばさんに、若干苛立ちを覚えた。
「何やってんすか?…」
「ああ、そうなの…さっき大きな音が聞こえたでしょ?それで、あたし喘息の発作起きちゃってね…そしたら、なんだか立ち上がれなくなっちゃって…どうやら、腰抜かしちゃったみたいなのよ…だからね、どうしようかなぁって思って…だって、もうすぐ晩御飯の仕度もしなくちゃいけないし、買い物もあるし…ホントに困っちゃったのよ…ねぇ…」
「そうですか…わかりました…じゃあ、僕に掴まって…いいですか?いちにのさんで、立ってみましょうか?じゃあ、いきますよ、いち、にの、さん!」
リヒトに脇から抱え込まれる形でようやく立てたみさだったが、どうにも足の震えが治まらずリヒトの支えなしでは立っていられなくなっていた。
「どっこいしょ…あらぁ~…ごめんなさい…重かったでしょ~…って、あら、やだ…足が…足が…」
みさを支えるのに必死なリヒトは、前方から車のライトが近づいてくるのを見て慌てた。
「わっ!やべぇ…車…」
抱きかかえるように支えているこの人から離れる訳にはいかないし、自転車は道路の真ん中に倒れたまま。
リヒトは絶体絶命だと思った。
だが、不意に後ろから誰かが来たかと思うと、すばやく自転車を起こして自分達と一緒に道路の脇、車の通行の邪魔にならない場所に避難してくれたのだった。
「…はぁはぁ…大丈夫か?…はぁはぁはぁ…」
助けてくれたのは達男だった。
「じいちゃん、サンキュー…はぁ~助かったぁ~…はぁ~…」
リヒトとみさは、達男を命の恩人だと心からそう思った。
だが、次の瞬間、達男がゆっくりと崩れるように蹲ってしまった。
「じいちゃん!じいちゃん!大丈夫かっ!じいちゃんっ!」
みさを支えたまま、リヒトは必死に声をかけた。
「大丈夫ですかぁ?あの…おじいさんっ…おじいさんっ…」
「じいちゃん!じいちゃん!大丈夫かって聞いてんだろっ!じいちゃん!じいちゃん!しっかりしてくれよ~!じいちゃん!」
「そうですよ!おじいさん!おじいさん」
みさとリヒトの必死な声掛けに、ようやく達男は答えてくれた。
「…はぁはぁ…じいちゃん…じいちゃんって…うるせぇなぁ…はぁはぁ…何…ちょっくら発作が起きただけだ…から…少し休めば…」
「じいちゃん!発作って、喘息か?なぁ、じいちゃん、吸入器は?持ってないのか?…だったら、俺、取りに行ってくるから…この人とちょっと待っててくれっ!…寒いけど、ちょっと我慢しててくれっ!…」
みさをゆっくりと達男の傍に降ろすと、リヒトは勢いよく駆け出して行った。
「あっ!待って!…待って!あのっ…おばさん、吸入器持ってるけど!…それなら駄目かしら?ねぇ!ちょっと、あなた!…」
みさの声にリヒトの足は止まった。
けれども、発作を起こしている達男がすかさず、出せるだけの大声を出した。
「…はぁはぁ…駄目だ~!人のじゃ、駄目だから…悪い、取ってきてくれ!すまんなぁ~…はぁはぁはぁ…」
「…あのっ…大丈夫ですか?…あたしの吸入器…よかったら…」
みさがそこまで言いかけると、それを遮る形で発作中の老店主が話し始めた。
「…はぁはぁ…いや…ありがたいですが…奥さんだって…嫌でしょう?…大丈夫…いつものことですから…それに…ほら…だんだん、さっきよりも苦しくない…それより、奥さんの方こそ、大丈夫なんですか?あんなところに座り込んで…まさか、さっきの銃声?…で、怪我でも…」
みさは自分の発作よりも、他人である自分を気遣ってくれる目の前の老店主の優しさに感動してしまった。
「いいえ…あたしは大丈夫です…ちょっと腰が抜けただけみたいです…大きな音にびっくりしちゃって…あっ、そうだ、さっきはありがとうございました…あのまま、誰にも助けてもらえなかったら…きっとあたし…」
涙が邪魔をして言葉が詰まってしまった。
「…まぁまぁ…それはいいじゃないですか…ねっ…こうして無事なんだから…その話はもう…ね…あっ、リヒト!」
少しづつ呼吸が整ってきた老店主は、向こうから駆けて来るリヒトらしき人影に向かって、大きく手を振った。
みさもつられて一緒に手を振った。
目の前にいる人の顔がはっきりと見えなくなるほど、いつの間にか辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
「奥さん、今日のところは自転車を置いてったらいいですよ…リヒト、奥さんを車で送ってあげてくれ…」
喘息の発作がすっかり治まった店主は、カウンターで温かいコーヒーをすすっているみさに、そう声をかけた。
「…えっ…でも…それじゃ…悪いですよ…タクシー呼びますから…あたしは大丈夫ですよ…」
みさは思いがけない店主の優しさに戸惑いながらも、慌てて残りのコーヒーを流し込んだ。
「いやぁ…ここまでタクシー呼ぶなんて、それはかえって面倒ですって…それに、リヒトに買い物を頼むついでですから…奥さんの家、街の方でしょ?」
「ええ、まあ、そうなんですけど…でも、悪いわぁ~…」
「おばさんっ、じいちゃんがそうしろって言ってんだからさ…そうしなよ…自転車はいつでも取りに来ればいいよ…俺、ちゃんと直しておくからさ…なっ!」
笑顔の二人に、みさはそれ以上逆らえなかった。
「そうですかぁ…じゃあ、遠慮なく…すいません…ありがとうございます…」
店主とリヒトに深々と頭を下げると、みさの中に温かいものが込み上げた。
「おじいさんも喘息持ちなのね…」
古いライトバンの助手席で、みさがぽつりと尋ねた。
「ああ、そうなんだぁ…じいちゃん、いっつも死ぬほど苦しいって言ってるから、俺心配で…おばさんもなんだろ?…もう、今は大丈夫なのかい?」
黒い中に一定間隔で、頼りない明かりがぽつりぽつりと見える。
かと思えば、前方からゆっくりと小さかった光が大きくなって通り過ぎてゆく。
外がどれほど寒いのか思い知らされるほど、車の窓は曇った。
助手席のみさは運転しているリヒトがちゃんとサイドミラーを見られるように、内側にびっしりついた細かい水滴を手で拭った。
「ありがとう…え~と…リヒト…君?だっけか…」
「そう…あっ、おばさん、寒くない?」
「ええ、大丈夫よ。」
「そっか…寒いとまた発作起きるだろ?だから、ちょっと気になってさ…」
「ありがとうねぇ…リヒト君、本当に優しいねぇ…おじいさんも優しいけど…」
「…うん…そうなんだ…じいちゃんはすんごく優しいんだ…」
「いいわねぇ…おじいさんも幸せねぇ…こんな優しいお孫さんと一緒で…」
「あっ、俺、じいちゃんのホントの孫じゃないんだ…」
「えっ?」
リヒトの言葉に、みさは一瞬自分の耳を疑った。
そして驚いたまま、運転しているリヒトの横顔を見た。
時折対向車線からの眩しいライトが顔に当たるも、リヒトは至って平常心を保ったままの表情で淡々と運転しているのだった。
「…そう…なんだぁ…」
みさの言葉を最後に、しばらく二人は黙り込んでしまった。
車の中いっぱいに、ラジオから聞こえるDJの男の軽薄そうな声が広がった。
軽すぎる紹介の後に、みさが子供の頃に流行っていた懐かしいディスコの曲が流れた。
その頃には、もうみさの家の近くのスーパーの看板が見えた。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
まだ続きますので、よろしくお願い致します。