第3章
続きです。
まだ続きます。
すいません。
「すまんっ!すまん!すまん!すんません!…ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさいって…かっ、勝代ちゃん…ホント、この通り、謝るから…ねっ、ねっ…だから、許してっ!ねっ、かっちゃん…」
常連のとみちゃんはカウンターの椅子から転げ落ちるように床に這い蹲ると、慣れた動作で見本のような土下座をし始めた。
磨かれた床にぺったりとおでこをつけ、自分の前で仁王立ちしている妻勝代に向けて、これまた言い慣れた台詞をぼんすか繰り出した。
「…勝代さん…あの…ですね…本当にこの度は…申し訳ありませんでした…って…今日もまた一段とお美しく…」
傍にいる店主とリヒトが切なくなるほど、とみちゃんは人の目も憚らず怒り心頭の勝代に謝り続けた。
「…はぁ~…全く…しょうがないねぇ…父ちゃん、もう顔上げなって…」
「…でも…」
勝代に促されるも、とみちゃんは泣き出しそうな顔で戸惑った。
「いいからっ!…あ~、恥ずかしいったらありゃしない…ごめんなさいね、達男さんもリヒト君も…あ~、ホント、情けない…」
心の底から呆れたらしい勝代は利き手の右手で顔を撫でると、指の間からまだ目の前の床で正座しているとみおを見つめた。
「もうっ!いつまでそこで正座してるのさっ!さっさと立って、こっちに腰掛なよ!」
苛立ちを隠せないまま、勝代はとみおの脇を掴んだ。
だが、何故かとみおはその場で正座したまま、立ち上がろうとはしなかった。
「…ううん、いい…俺、ここで反省してるから…」
叱られた子供のような表情でとみおはその場での正座を決め込んだ。
「…はぁ~…あっそ…じゃあ、そうしてなね…そだ、達男さん、コーヒーもらえる?」
二人の一連のやりとりを静かに見守っていた店主は、勝代の注文にハッと我に返ったようになった。
「…ああ、はいはい…勝代さん、いつものでいいかい?」
「ええ、お願い…」
店の奥で一人まったりと海を見ながら過ごしていたみさは、カウンター付近で繰り広げられているコントのような展開を、じーっと見てはいけないと思いつつも、ちらちらと気になってやっぱり見ていた。
「…なんか…すごい…ドラマみたい…」
「…そうですよねぇ…こんなの、ほぼ毎日なんですよ…」
思わずこぼれた独り言に、聞きなれない若い男の声で返事をされると、みさはいつの間にか傍に立っていた「リヒト」と呼ばれていた男にびっくりしてしまった。
「わっ!…はぁ~、びっくりしたぁ…」
「すいません…驚かせちゃって…結構、音立ててこっちに来たんだけど…ホント、すいません…」
「あああ、いやっ、こっちこそ、ごめんなさい…あちらのことばっかり見ちゃってたもんだから…全然気がつかなかったあたしが悪いから…」
「ホント、すいません…折角、うちでくつろいでいただいてるのに…がちゃがちゃしちゃって…」
「ああ、大丈夫、大丈夫…あたしのことは気になさらないでね…」
「どうぞ、ごゆっくり…」
「ああ、はい…」
男がゆっくりとカウンターに戻っていく後ろ姿越しに、みさはあちらの様子をちらちらと伺った。
本当はもう会計を済ませて、とっとと家に帰ろうかと思っていた矢先の出来事だった。
なので、みさは時間を気にしつつも、あそこを通り抜けるのが何だかいけないような気がして、さわさわと落ち着かなくなった。
それと反対に、まだまだここであの夫婦のやりとりを、最後どう締めるのか見届けたい気持ちも膨らんでいた。
「人の不幸は蜜の味。」ではないけれど、自分が当事者ではないという無責任さと野次馬心が騒ぎ出すと、みさの悪い気持ちに拍車がかかって余計そこから動けなくなってしまった。
そうなると脳内では「どうなるんだろう?どうなるんだろう?」なんて無意識にわくわくしながらも、「早く謝っちゃいなさいよ。」ととみおと勝代の一刻も早い仲直りを密かに望んでいるのだった。
店主は「勝代スペシャル」と名づけた、生クリームがくるくるっと温かいコーヒーの上で小さな山を作っているそれを、眉間に皺を寄せたままの勝代の前に静かに差し出すと、鼻から良い香りが入ってきた勝代は表情を和らげた。
「あ~、良い匂い…達男さん、ありがとうね…じゃあ、早速いただきま~す。」
カウンターの席に腰掛けた勝代は、後ろでまだ正座をしているとみおのことなぞ、まるで忘れてしまったかのように、店主が入れたコーヒーに口をつけた。
「さあさあ、とみさんも一緒に…ねっ…」
みさのところから戻ったリヒトは、うな垂れたとみおを抱きかかえるように立たせると、美味しそうにコーヒーをすする勝代の隣に腰掛けるよう促した。
こくんと頷いたとみおは、恐る恐る勝代の隣に腰掛けるも、俯いたまま膝の上にがっちりと握った拳骨を乗せたまま、何も言えない様子だった。
店主が新しいコーヒーをとみおの目の前に差し出すも、まだ手を出そうとはしなかった。
「…はぁ~…」
勝代は大きくため息をつくと、とみおの拳骨の上に優しく自分の手を乗せ、ポンポンとした。
「…うん…うん…」
ポンポンに合わせてとみおは頷くと、ようやくコーヒーを飲み始めた。
温かいコーヒーの美味しい香りが店の中いっぱいに広がると、店主とリヒトはカウンターを離れ、みさがいるこちら側に自分達のカップを持って移って来た。
どれぐらい経ったのだろう?
コーヒーを飲み終えた勝代ととみおは、店主の傍までやってくると「帰るわ、達男さん、スペシャルごちそうさまでした。」とお勘定を置いて店を出ようとした。
「ああ、はい…また、いつでもどうぞ…あっ、そだ…ちょっと待ってて…」
店主は慌ててカウンターに戻ると、奥から二人に小さな紙袋を渡した。
「いっつもありがとう…また、来るね…ごめんね、お客さんいるのに、騒いじゃって…ほらっ!あんたもっ…」
勝代に強く促されると、バツが悪そうな顔でとみおは「たっちゃん、すまんね…また、来るから…クッキーありがと…」と言うと、ドアを開けて勝代を丁寧にエスコートして出て行った。
まだまだぎこちない笑顔のとみおと勝代夫婦を見送ると、店主とリヒトはやれやれといった感じで二人の仲直りの後片付けを始めた。
「…あのぅ…」
テキパキと片付けている店主とリヒトに、みさは声をかけるのが申し訳ないような気分になった。
「ああ、はい?」
みさに気づいた店主が少し驚いた様子で返すと、みさはおもむろに「あの、おいくらですか?」と尋ねた。
「ああ、はい…え~と…」
ココアと鍋焼きうどんは合わせて1080円だった。
みさは店主からおつり20円を受け取ると同時に、先ほどの夫婦ももらっていた小さな紙袋をいただいた。
「…あの…これ…」
みさは戸惑いながら店主に尋ねた。
すると、店主は優しい笑顔のまま、「ああ、これ…うちの手作りクッキーなんですよ…よかったら、どうぞ…」と答えてくれた。
「…ええ?クッキー?…いいんですか?…あの…」
「ええ、どうぞどうぞ…普段は売り物なんですけど…今日は特別…ってのか…まぁ、迷惑もかけちゃったから…」
「えっ?迷惑っ?」
みさは店主が言う「迷惑」の意味が理解できなかった。
むしろ、自分の方がトイレを借りたのだから、迷惑なのではないだろうか?
そう思った。
「ええ…さっきの…その…あれ…ですよ…あれ…」
店主は常連夫婦の喧嘩をどう説明したらよいのか、すぐには思いつかなかった。
「えっ?」
いつまでも理解しないみさと、説明下手な店主にイラついたリヒトは、二人の会話に割って入る形で「さっきの!夫婦喧嘩ですってば…」と声を発した。
「ああ…」
みさは、「あのことかぁ」と思った。
だが、正直なところ、あの夫婦の突然の出来事は迷惑どころか、むしろ言葉は悪いが「余興」のように感じていたからだった。
なので、ほぼ毎日らしいそれを店主達が「迷惑をかけた。」と考えていたことに驚いた。
「あっ、いいえ…あの、ごちそうさまでした…ココアもうどんも美味しかったです。あの…仲直りできて良かったですし…」
みさはそれだけ言うと、そそくさと店を出て行った。
「…あの客…まさかこれから自殺…」
リヒトはみさの後ろ姿に怪訝な表情を浮かべた。
「いやいや…絶対にしないって…大丈夫、大丈夫…さっ、リヒト、片付け手伝ってくれっ…なっ。」
店主はリヒトを諭すと、再びテキパキと片付けの続きを始めた。
店の外は入った時以上に寒くて、風が強まっていた。
すっかり全身温まっていたみさには、そんな外の寒さが随分堪えた。
「ひゃあ~~!寒~~い!」
大声で叫びながらも、これから家まで薄暗くなってきたこの寒空の中、自転車をこいで行かなくてはならないことにゲンナリしていた。
けれども、どうゲンナリしようが、自力でどうにか戻らなくてはならない。
炊飯器を仕掛けてくるのを忘れてしまった。
それだけではない。
帰りには晩御飯の材料を少し仕入れようと、甘く考えていたのだった。
自分で撒いた種は自分で。
みさはそんな試練を課せられたような気持ちの中、ふと手で持っていた紙袋に気づくと嬉しさがちょっとづつ溢れてくるのだった。
「さぁて…頑張らなくっちゃ!」
ここへ来た時の重苦しい気持ちがどこかへ消えてしまっていることに、今のみさは気づかなかった。
それよりもまずは向かい風の中、自転車をこがねばならないことだけに気持ちを集中させた。
かごにカバンといただいた紙袋を入れると、颯爽と自転車に跨った。
「よしっ!」
みさは自分に気合を入れて自転車をこぎ出すと、すぐさまパーン!と大きな音が鳴った。
「えっ?えっ?銃声?」
自分の身に何が起こったかわからないまま、みさはその場から動けなくなった。
ただ耳には強い風がぼぼぼぼと容赦なく入ってくるだけ。
遠くには微かに海の音が聞こえるだけだった。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
この続きもどうぞよろしくお願い致します。