第2章
続きです。
みさはカウンター辺りの話し声が薄っすら耳に入ってくるも、内容は聞き取れなかった。
ただ「ああ、常連さんいるんだぁ…ふ~ん。」としか思わなかった。
それよりも目の前でひっきりなしに美味しい匂いの湯気を出している、鍋焼きうどんに夢中だった。
まずは箸でかまぼこをつまむも、熱くてなかなか口に入れられず。
「どうしてこんなに」とばかり、必死になって口をすぼめふ~ふ~と冷ました。
そうしている間にメガネは湯気で曇り始め、空いている腹が「早くお腹に入れてくれ!」と言っているかのようにぐ~ぐ~鳴り、よだれが口の中いっぱいにたまるとごくんと飲みこんだ。
ほどよい温かさになると、ようやくひとくちふたくちと鍋焼きうどんがみさの胃の中に収まって入った。
「あふぁあふぁ…お~いひぃ…」
空きっ腹に程よく出汁が利いた。
みさは鍋焼きうどんを食べ進めながら、回想にふけっていた。
「…そう言えば、鍋焼きうどんなんて食べるの、いつぶりだったかしらね…う~ん…」
萎みかけていた体が少しづつうどんで満たされていくと、不意に遠い昔の微かな記憶が脳内で勝手に再生された。
…それはみさが小学校に上がる前、まだ幼稚園に通っていた頃ぐらいだろうか。
極寒の2月のある夜中、酷い喘息の発作を起こし、父に連れられ救急病院に行ったことがあった。
当番のお医者さんはいつもの優しい先生ではなかったのを、薄っすら憶えている。
到着してすぐに点滴の処置をしてもらうと、先ほどまでの死にそうな息苦しさはすっかりどこかへ消えており、安堵した父と二人で病院の近くにある小さなお店で熱々の鍋焼きうどんを一緒に食べた思い出。
大人になった今、改めて思い出してみると、そこは当直の病院関係者などが寄る小料理屋ではなかったのだろうか。
そして、何せ子供だった故に真夜中と思っていたけれど、よくよく冷静に考えてみれば、あんな田舎で真夜中まで開いている店などなかったのではないかと推測すると、おおよそ多分日付を跨いでいない時間帯だったに違いない。
だが、それは今のみさの回想では全くどうでもよく、それよりも「父と二人で他の家族に内緒で食べた。」という特別感の方が重要だった。
カウンター越しの着物姿が綺麗な女性が、父と自分にすっと鍋焼きうどんを出してくれたと思う。
憶えているのは、ニコニコした父の優しい笑顔と「みさ、美味いなぁ。いいか、お母さんとお姉ちゃんには内緒だぞ。」と言うあの台詞、しーと人差し指を口元で立てるあの仕草。
父と二人だけの秘密の味。
あんなに美味しい鍋焼きうどんは、後にも先にもないと思っていた。
だから、幼いながらも舌で味わった記憶を、きちんと脳内に収めているつもりだった。
けれどもどういう訳か、あの時の味は忘れないはずだったにも関わらず、思い出そうとしても今食べている最中のそれにも似ているような気がして仕方がなかった。
そうなるとみさの中で「鍋焼きうどんの味はどこもさほど違いはない。ただただ美味しい。」となった。
一人用の土鍋は食べ終わるまでほんわかと温かかった。
少しだけ冷えた指先を、土鍋の外側で暖めた。
「ふぅ~…」
腹が膨れると大きな息をひとつ吐いた。
「あっ…」
食べてしまってからみさは、家で食べた最後の鍋焼きうどんを思い出した。
「そっか…ゆりの…」
一人娘のゆりが大学受験で夜中まで勉強をしている時、スーパーで銀色のアルミの入れ物に入っている鍋焼きうどんを買って作った。
その際、どういう訳か起きていた自分と夫も一緒にはふはふしながら食べた、あの時が最後だとわかった。
「大丈夫…ゆり!パパとママも一緒に食べてるから、絶対に合格するよ。」
今でもはっきりと憶えている、自分でも訳がわからない理屈の台詞も合わせて思い出すと、ふっと自然に笑いがこぼれ、ついでにうどんの蒸気で温まってゆるくなっていた鼻水もちょっとだけ出てしまった。
「やだっ!」
思い出し笑いを堪えつつみさは、再びぶ~っと威勢良く鼻をかんだ。
その後を思い出してみたけれど、その手のアルミのものを多々見かける機会はあれども、どういう訳か手は出なかった。
かといって、入っている材料を一から買ってきて自分で作る気力もなく、それほど「食べたい!」と思うほどのものじゃなかったと、改めて思った。
けれども、こうして一人海まで自転車をこいでやってきて、体が芯から冷えてしまった今は「こんなに美味しかったんだぁ。」などと、みさの中にある鍋焼きうどんに対する好感度がグッとあがったのは言うまでもなかった。
それと同時に夫や娘にも食べさせてあげたい。
と言うよりも、夫や娘とここまで自転車でやってきて、体をすっかり冷やして疲れさせてから一緒に食べたいと思った。
そんな状態だったら、きっとラーメンだろうが、温かいお蕎麦だろうが、豚汁だろうが、何だっておいしいに決まっているのだけれど、そこはどうしてもこれじゃなきゃいけない気がした。
この窓際の席から見えている、淋しげな海岸もまた鍋焼きうどんが美味しい理由なのだとも感じた。
鉛色の海と鍋焼きうどん。
死んだ父を思い出すと、泣きたくなるような温かい気持ちが溢れた。
カウンターの二人がしんみりしていると、不意に乱暴にお店のドアが開いた。
バーン!
開けたのは若くて華奢な男。
と言うよりも、どちらかと言えば「男の子」と言った方がしっくりくる。
「…ただいま…」
ドアを開けた勢いとは正反対に、男の声は虫の声ほど小さかった。
「おう、おかえり~…なんだ今日は早かったなぁ…それはそうと、お前、もうちょっと静かにドア開けろや…お客さんがびっくりするじゃないかぁ…」
店主は少々困り顔で男をやんわり咎めた。
「…えっ?客?…とみさんだったら、もう客じゃねぇよ…ほとんど毎日来てるじゃんか…」
若い男は若干の苛立ちを隠しきれない様子で、そう答えた。
「違うって…とみちゃんじゃなくって、ちゃんとしたお客さん、来てるから…」
店主の言葉に、若い男は驚いた様子で店の奥をちゃんと見た。
「…あっ…ホントだ…」
「なぁ、じいちゃんの言った通りだろ?…」
「…へぇ~…珍しい、こんな季節に…一人でこんなとこ、来るなんて…」
「ああ、そうなんだけど…きっかけはトイレ借りに来たってのだから…まぁ、でも、ありがたい…こんな季節、とみちゃんぐらいしか来ないからなぁ…」
「ああ、そうだね…とみさんぐらいしか、来ないもんなぁ…」
店主と若い男は、しみじみと常連の「とみちゃん」の顔を何とも言えない表情で見つめた。
「なっ、なんだ、なんだよ、たっちゃんもリヒトも…やだなぁ、俺なんてれっきとしたお客様だよっ!それになんだい、この店は俺が来なかったら、普段だ~れも来やしねぇじゃねぇかよぉ…たま~に、トイレ貸してくれって来るぐらいじゃねぇかよぉ…なんか文句でもあんのかい?えっ!」
常連は店主達の会話のどこかが引っ掛かったようだった。
「いやぁ、文句なんかないよ…それよりもとみちゃんには、ものすごく感謝してるさ…たださ…」
「ただ…なんだい?」
店主の含みのある言い方がどうにも引っ掛かった常連のとみちゃんは、語気を強めて言い寄った。
「…ただ…」
短い言葉をじれったく言いながら、店主は店のドアを指差した。
とみちゃんは店主に促される形でゆっくりと格子ガラスのドアの方を見た。
すると、ドアにへばりつくような形で店内をギロリと見ている、鬼の姿があった。
「ぎゃあ~~~~っ!」
とみちゃんが驚く間もなくドアがゆっくりと開くと、同時にドアベルの綺麗な音が鳴った。
「こらぁ~っ!父ちゃん!また性懲りもなく…」
お店中に響き渡るほどの大声で怒鳴り込んできた鬼は、とみちゃんの妻、勝代だった。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
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