第10章
やっとこ書き終えました。
これでお話は終わりです。
リヒトのピアノ演奏会は、当然のことながら中止となった。
どこまでも続く澄み切った青い空に、薄い灰色の煙がゆらゆらと頼りなく一本の筋となって上っていくのが見えた。
風もなく穏やかなその日、眩しいほどのお日様だけがぴかぴかと頭上で光を放っていた。
集まった人々から、すすり泣く声があちこちからあがっていた。
普段着ることのない黒い服のリヒトは、達男にぺったりとくっつくとやはり黒い達男の喪服の上着にしがみついていた。
誰もが皆、言葉もなくただ泣いた。
あの嵐の日、大事な商売道具である漁船と港の様子を見に行った幸也は、そのまま帰らぬ人となった。
享年27歳。
眠っているようにしか見えない幸也の早すぎる死を皆、惜しんだ。
とみおと共に幸也を捜していた仲間の漁船に、沖合い3キロほどの場所で発見されて引き上げられたそうだった。
警察からは事件性はなく、全くの事故だったと知らされた。
達男もリヒトも、とみおと勝代夫婦の計り知れない哀しみを目の当たりにするも、何と声をかけたらよいのかわからなかった。
哀しみしかない生活が数日続いたある日の夕方、店に髪の長い若くて綺麗な女の人が訪ねて来た。
「…あのぉ~…」
「あっ…いらっしゃいませ…お一人ですか?…あの…どうぞ…お好きなところにお座りください…今、注文を聞きに伺いますんで…あの…どうぞ…」
落ち込み沈んでいた達男は見慣れぬ若い女性客の訪問に少し驚くと、慌てていつもの台詞を言いながら、片方の手で店の奥に誘導した。
「…あの…あの…」
「…はい?どうしました?…あっ!…ああ、トイレでしたら、あちらですんで…どうぞ、ご遠慮なく…どうぞどうぞ…」
ぎこちない笑顔で今度はトイレの方に手を向けると、女性は首を左右にぶんぶんと振った。
「…いえ!違うんです。違うんです…私…あの…鏡子です…水野鏡子です…幸也君の幼馴染の…」
女性の言葉に、達男は「あっ!」と驚いた。
「ああ、ああ、鏡子さん?…ああ、そうだ、ピアノ…本当にありがとうございましたぁ…うちのリヒトがまぁ、喜んで喜んで…毎日弾いてはにこにこしてるんですよぉ~…幸也君のおかげでね…その…何て言うか…」
そこまで話すと達男はくるりと後ろを向くと、「ちょっと、すいません…」と言いながら、涙と一緒に出てきた鼻をぶ~んとかんだ。
鏡子は少し動揺しつつも、達男を待った。
「…すいません、突然来ちゃって…今、お客さんの波が途切れたんで…それで…約束してたピアノ…今、駄目でしょうか?幸也君からリヒト君の演奏、とっても上手だって聞いてたから…どうしても聞きたくなちゃって…すいません、ご無理を言ってしまって…」
深々と頭を下げる鏡子に、達男は慌てて頭を上げるように促した。
「…もうちょっとしたら、リヒト、帰ってくるんで…それまで、コーヒーでも飲みませんか?」
「…あっ、ごめんなさい…私、コーヒー駄目なんです…」
「あっ!あっ!そうですかぁ?じゃあ…メニュー表見てもらえば…どうぞ、何でも書いてあるのだったら…」
「…じゃあ…レモンティーお願いします…あっ!それと…ごめんなさい…このニューヨークチーズケーキっていうのも一緒に…あのっ!ちゃんとお金は払いますんで…」
「いやいや、そんなのいいですって…こっちからはお礼も何もしてなかったですもん…ホントにすいません…よろしかったら、そだ、チョコレートケーキも一緒にどうですか?」
「ええっ!いいんですか?」
鏡子は目を輝かせた。
「いいに決まってるじゃないですか…お口に合えばいいんですが…わはははは…」
達男は久しぶりに笑った気がした。
柔らかな趣の優しい鏡子に幸也が惹かれていたのが、何だかわかった。
「ただいまぁ…」
下を向いて元気なく帰宅したリヒトは、達男と一緒にカウンターでにこにこ話している女性に軽く会釈した。
「おかえりぃ~…そうだ、リヒト…ちょっといいか?」
「…どしたの?おじいちゃん…あっ、いらっしゃいませ…」
ランドセルを背負ったまま、リヒトはカウンターにいる女性に挨拶をすると、ちょっぴりダルそうに達男に目を向けた。
「リヒト!この人なぁ…ピアノをくださった鏡子さんだよ!」
「えっ?」
達男の思いがけない発言に、リヒトはシャキッと気が引き締まった。
ピアノを譲ってくれた鏡子の前で、リヒトは緊張を隠しきれなかった。
呼吸が速くなり、心臓の鼓動が耳元で聞こえるほど。
手だけではなく全身に妙な汗をかくと、まずは落ち着こうと大きく深呼吸した。
「よしっ!」
心で自分に発破をかけると、リヒトはズボンの尻で手汗を拭い、練習に練習を重ねた曲「月光」を静かに弾き始めた。
鏡子以外の客がいないしんとした店の中に、リヒトのピアノが美しい旋律を奏でた。
鏡子も達男も目を閉じうっとりと演奏に聞き入っている最中、ドアのベルを鳴らしてとみおと勝代夫婦が店に入ってきた。
「…わりぃわりぃ…」
両手を合わせて拝むようなポーズのまま、小声でそう言いながら入ってきたとみおは、ピアノのすぐ後ろの席に腰掛けている女性に気づいた。
そのままそうっと演奏の邪魔にならないように、夫婦は女性の傍の席に腰掛けた。
音を立てないようにゆっくりといつものコーヒーと、勝代スペシャルを持ってくると、達男も傍の席に静かに腰掛けみんなと一緒にリヒトの演奏に耳を傾けた。
店中に、うっとりするほど優しく柔らかな時間が流れた。
窓際の席に供えた花の辺りで、肉体を失った幸也もリヒトの演奏を優しい眼差しのまま聴いているのだった。
幸也の四十九日が済んだ頃、鏡子は遠い都会に嫁いでいった。
ピアノを弾く手を止めたリヒトはあの日のことを思い出すと、堪らない気持ちになった。
「幸也さん…じいちゃんが…じいちゃんが…」
達男の余命宣告のショックでいたたまれない気持ちのリヒトは、あの頃兄のように慕っていた幸也が今いてくれたらどんなにいいだろうと思った。
がらんと静まり返った店の窓の外に、明るい影がぼんやりと見えた。
「雪…だいぶ積もってきちゃったかぁ…」
ふぅとため息をつくと、今度は「月光」を弾き始めた。
あれから達男は入退院を繰り返した。
その間、リヒトはみさが手伝いに来てくれて、本当に助かると心から思った。
達男の通院の付き添いで度々店をみさに任せることになっても、助っ人として調理師の免許を持っているみさの娘ゆりも手伝いに来てくれているので、休むことなく営業することが出来た。
そうしている間にも季節はゆっくりと移り替わっていった。
2~3ヶ月ほど前になるだろうか?
「仕事辞めちゃった!戻って来ていい?」
そう言って身の回りの物程度の荷物で、ゆりは突然戻ってきた。
みさ達が買ってもたせた一人暮らしに必要な家電や家具、布団などの一式は、全て処分したと笑いながら言っていた。
「まぁ、呆れた…で?その売ったお金は?どうしたの?」
みさの問いに、ゆりは「ごめ~ん!使っちゃった!ホントにごめんなさい。だって…」そこまで言いかけると、すぐさまおどけて「これからちゃんと働いて返しますから。」と両手で拝むような仕草でみさに甘えてきた。
夫の祐二も最初は怒り心頭だったが、戻ってきたゆりの様子を見てそれ以上は何も口うるさく言わなくなっていた。
みさも時折ぼんやりと外を眺めながら涙をぽろりとこぼすゆりの姿に、親に言えないほどの事情があるのだと察すると、「命があるだけまだマシなのかも…」と気持ちを収めた。
「…じゃあ、お母さん行ってくるから…戸締り火の用心お願いね。」
父を見送るとその後母までも家を出て行くことを知ると、ゆりは一人で留守番していることに耐えられなくなった。
「…もう…ひとりぼっちは嫌…」
落ち込むゆりを見かねたみさは、達男とリヒトに了解を得てくれた。
ゆりと同じ年頃のリヒトは、可愛らしくて若いゆりが店を手伝ってくれると、元気が出たのだった。
休憩時間、リヒトとゆりは目の前に広がる海岸に二人で行くようになった。
「…ふ~ん…それで、家に戻って来たのかぁ…辛かったでしょう?」
砂の上で体育座りのリヒトが、隣で足を伸ばして座っているゆりにそう聞いた。
「ううん…それよりも、お父さんとお母さんに迷惑かけちゃったなぁって方がしんどいよ…折角買ってもらった家具とか家電とか売らなきゃならなかったんだもん…」
「…そうかぁ…でもさ、良かったね…みささん達優しいからさ…」
「うん…そうなんだ…なんにも聞かずにいてくれて…本当はちゃんと話さなきゃいけないんだけど…」
「…そうだね…」
「リヒト君もさ、びっくりでしょ?…付き合ってるって思ってた彼氏がだよ!結婚詐欺師だったなんてさぁ…」
「う…まぁ…」
「…それで…借金取りに追われてるからって…少しでも返さなきゃいけないからって…あたし…そんなの信じちゃって…馬鹿だよねぇ…」
「…」
「…なんかさ…必死だったんだよね…どうしてもお金作って彼を助けてあげなくちゃってさぁ…その為なら…お金作るのなんか…全然大丈夫って感じで…」
「…」
「…だけど…家財道具一式売ったお金渡したら…それっきり…連絡もつかないんだもん…どうしようって思ってさ…風俗で働こうかって、真剣に考えたこともあったけど…それか、死んだら楽かなとかって…でも…その前に、パパとママに会いたいって…」
そこまで話すと、ゆりは膝の間に顔を伏せた。
「…会えて…良かったね…俺はさ…もう会えないから…」
リヒトは遠くの水平線をじっと見つめた。
「…なんか…ごめんなさい…」
顔も上げずにゆりは言った。
「…謝ることないよ…それよりさ…店の新メニュー…明日までに考えておいてって、俺言ったの、忘れてないよね…」
リヒトの言葉にゆりの体がびくっと反応した。
「…ホントに…申し訳ないですぅ~…」
「えっ!ゆりちゃん、何で謝ってるのさぁ~!ちょっとぉ~!…今度新しいメニュー導入したらどうですかって言ったのゆりちゃんだよねぇ~!私に任せて下さいって…え~~~い!この~!」
リヒトはゆりの柔らかな薄茶色の髪をくしゃくしゃにした。
「わぁ~!ごめんってば!リヒト君…ごめんなさいって…きゃあ~~!」
「あはははははははは」
「きゃあ~!はははははは…やだぁ~!も~う!」
仲良くじゃれている若い二人を、窓際の席でゆっくりとコーヒーを飲みながらみさと達男は温かく見守っていた。
徐々に弱っていく達男が店に立つことはなくなっていった。
体重は減っていくのに、腹水が溜まった腹は以前よりも膨れてきていた。
足のむくみの他に体温調節ができなくなっていた達男は、やたらに寒がった。
再び救急で入院した冬の季節が巡ってくると、達男は起きていることすらままならなくなり、ベッドで寝たきりのような状態になっていった。
そんな達男の様子が、自分の父の最期までと重なると、みさは言葉で表せないほどの切なさでいっぱいになった。
年が明け、本格的な冬になってくると、達男はとうとう入院を余儀なくされてしまった。
身寄りのない自分を引き取り、ここまで育ててくれた恩でいっぱいのリヒトは、店のことはすっかりみさ達に任せると、達男につきっきりで看病した。
寒さが厳しい1月のある夜、病院のベッドで体中に管をつけられたまま眠る達男は夢を見た。
そこは、懐かしいイタリアの農園の庭。
そして、時は葡萄の摘み取り作業が終わった後行われたパーティーらしい。
自分だけが年を取った姿のまま。
他の全員はあの頃と何一つ変わらぬ様子。
そんな中、こちらにふわりふわりと跳ぶようにやってくる人の影が見えた。
「タツオ~!タツオ~!」
聞き覚えのある可愛らしい声の主は、達男が一生でただ一人だけ愛した女、アーニャだった。
「…アーニャ?…アーニャなのか?」
「うふふふふ…タツオ、やっと会えて嬉しいわぁ…うふふふふふ」
あの頃と何ひとつ変わらない美しい笑顔で、アーニャは達男の手を取った。
その途端、達男はアーニャと一緒にふわりと空へ舞い上がった。
「うわぁ~!…落ちるぅ~!」
慌てて手足をバタつかせる達男の手を、ちゃんとがっちり繋いだアーニャは「大丈夫…大丈夫だから…」
と笑顔で言った。
「…どうなってるんだ?これは…」
自分の身の上に何が起こっているのか把握できなかったけれど、達男は久しぶりにアーニャに会えた喜びを感じると、そんな不安はもうどうでもよくなった。
「…タツオ…私達のミーシャに会えてよかったわねぇ…それにユリにも…」
達男はアーニャの言っている意味がわからなかった。
「えっ?アーニャ…それは…」
そこまで尋ねると、不意に見覚えのある場所の上に浮いていた。
「…ほらっ!あそこ…」
アーニャの指差す方にいたのは、店を手伝ってくれているみさとゆり親子だった。
達男はアーニャの言っている意味がようやく理解できた。
初めてあった時に感じた思いが、こういうことなのかとわかった。
「…みささん…どうりで…君に面影が似ているような気がしたんだよ…そうか…そうだったのか…」
「ええ…そして、あなたと血の繋がった孫のユリも…」
「ゆりちゃん…そうだったのかぁ…」
「よかった…タツオに伝えられて…本当によかった…」
「ありがとう、アーニャ…本当にありがとう…」
「…タツオ…サヨナラ…」
アーニャはゆっくりと達男の手を離し始めた。
「嫌だ!絶対に放さない…もう…君の手を放したくはないんだ…もう…もう…あんな思いはごめんだから…」
「…タツオ…」
眩しいほどキラキラと光っているアーニャは、達男に抱きしめられると幸せだと感じた。
「…一緒に行ってくれる?」
「ああ、何処へでも一緒さ…でも、その前にアーニャ…ひとつお願いがあるんだ。」
「リヒトのことね。」
「ああ、そうなんだ…」
アーニャと共に今度は眠っているリヒトのところに向かった。
達男はアーニャと手を繋いだまま、リヒトの顔の傍にしゃがむと静かに声をかけた。
「…リヒト…今までありがとう…本当にありがとう…」
それだけ言うと、アーニャと達男は抱き合ったまま眩い光の中にゆっくりと消えていった。
同じ夜、みさの母鶴子は懐かしい声で目が覚めた。
「…ツルコサン…アリガトウ…」
布団からハッと起き上がると、押入れの下段、左奥から化粧箱を取り出し、仏壇の引き出しにしまってある小さな鍵でそれを開けた。
「ミーシャ」と書かれた小さな桐の箱を取り出し、へその緒と一緒に入っていた銀製の十字架を手に取るとギュッと握った。
「…まさか…アーニャ…あんた…」
鶴子の心はざわついた。
そして、仏壇の蝋燭に火を灯すと、両手に数珠をかけて祈り始めた。
「…お父さん…アーニャが…あたしの夢枕に立ったのよ…どうしましょう…ああ、アーニャ…あんた…今頃、何処でどうしてるんだい?…」
次の日の朝刊の地域のページに、小さな事故の記事が載った。
みさ達が住んでいるところから駅で2つほど離れた町内で、前日の昼間交通死亡事故があったらしかった。
記事に寄ると、亡くなったのは町内の教会のシスター。
年配のその人はロシア国籍で、糖尿病の治療の為通院していた病院の近くで事故に遭ったとのことだった。
数年前から糖尿のせいで全盲となっていたその人は、吹雪で方向感覚を失ってしまい誤って路外に出てしまったところを、右から来たダンプカーに轢かれ即死だった模様。
鶴子は記事を読み終えると、わなわなと震えが止まらなかった。
「…アーニャ…あんた…こんなに近くにいたんだったら…アーニャ…」
涙のまま仏壇の前に新聞を広げて、父の遺影にその記事を見せた。
病院からの連絡でリヒトとみさ達家族は慌てて病院に向かった。
ベッドで横たわる達男は、何故か幸せそうな笑顔だった。
「…じいちゃん…じいちゃ~ん…」
もう決して動くことのない達男に抱きつき、リヒトは声を出して泣き続けた。
突然の知らせにとみおと勝代も、やり場のない哀しみでいっぱいになった。
達男の葬式は店で親しくしていた仲間だけを呼んで、ささやかに行われた。
喪主となったリヒトは、集まってくれた皆に簡単な挨拶を済ませるとピアノに向かい、達男がよく「弾いてくれないか?」とリクエストしていたあの曲を弾き始めた。
しめやかな場面にはそぐわないとわかっていても、リヒトはどうしてもその曲を弾かねばならなかった。
窓から見える冬の海は、珍しく穏やかな表情を見せていた。
達男の四十九日が過ぎると、リヒトは店を一旦閉めると決めたのだった。
「…俺…イタリアに行こうと思って…」
リヒトの言葉をみさと夫の祐二はじっと聞いた。
「…そう…」
「じいちゃんの知り合いの…ほらっ…ワインの…」
「ジュゼッペさん?だったかしら…」
「…そうそう…ジュゼッペさんのところに行ってみようって思って…若い時のじいちゃんのこととか、聞いて来ようかなって…」
鼻息荒く決心したことを話すリヒトの目は、哀しみを湛えながらもどこかすっきりとした様子だった。
「…そう…リヒト君…そう言えばイタリア語話せるんだもんねぇ…英語もだわよねぇ…確か…」
「うん…少しだけどね…じいちゃんが教えてくれたから…ワインのことで何度か電話で話したことあるから…多分、大丈夫だと思うんだ…こっちの事情を話したら、おいでって…ジュゼッペさんはもうとっくに引退して隠居してるんだけど…そりゃそうか…90いくつだもんねぇ…息子のジョルジュさんが今は農園継いでるんだってさ…」
それだけ言うとリヒトは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「…でね、カーティスさんのところにも行きたいって思ってるんだけど…そっちは…う~ん…まだ、ちゃんとは決めてないんだよね…」
「あっ!カーティスさんって…アメリカに戻って音楽家になった人だよねぇ…」
今度は祐二が返した。
「うん…俺のピアノ、聴いてみたいって…こっちで音楽の勉強してみないかって誘われてるんだけど…挨拶だけ…じいちゃんのことだけ、ちゃんと伝えたら戻って来るつもりだから…それで…それでですね…え~と…その…何て言うか…」
急に伏目がちにもじもじし始め、かしこまった言葉で話すリヒトの様子に業を煮やしたゆりが急に元気よく立ち上がると、続きを話し出した。
「あのさっ!パパ!ママ!…あたしもね、一緒について行こうって決めたんだよね…」
「えっ?」
みさと祐二は驚いて顔を見合わせた。
「あのっ!お父さん!お母さん!」
顔を真っ赤にしたリヒトにいきなりそう呼ばれて、みさも祐二も益々びっくりして声を出すのを忘れてしまった。
「ゆりさんを僕にください!絶対に幸せにしますから!どうかお願いします!」
大声できっぱりとそう言うと、リヒトは二人の前に深々と頭を下げた。
「お願いします!」
つられてゆりも深々と頭を下げた。
二人が仲良くしているのを知っていたみさ達は、若い二人に頭を上げるように促した。
「まぁまぁ…そういうこと…」
ニコニコ顔でみさがそう呟くと、ゆりが「そうなんです!」と被せてきた。
温かな日差しがいいだけ積もった雪を解かし始めていた。
秋と同じくらいの気温にもかかわらず、お日様が眩しいだけでなんだか暖かい気がした。
解けた雪の間から、黄色い福寿草が顔を覗かせている。
そんな中、リヒトとゆりは笑顔でイタリアに飛び立っていった。
みさは月命日の今日、やはり姉の車で実家へ向かった。
待っていた母、鶴子は、姉の千鶴に車でお使いを頼むと、みさと二人だけになった仏壇の部屋で小さな包みをそっと渡した。
「何?これ…」
みさがきょとんとしたまま受け取ったそれの中身を、母に尋ねた。
「…ああ、それ…あんたにあげるよ…」
「えっ?いいの?…でも、何?開けるよ…」
こくんと頷く母が見ている前で、みさは包みをそうっと開けた。
中から小さな銀色の十字架が出てきた。
「…これ…」
「いいから…大事に取って置きなさい…絶対に無くさないんだよ…あっ!このことは千鶴と清には内緒だから…」
優しすぎるほどの母の態度に、みさは「ありがとう。」以上の言葉が出なかった。
後日、みさは母からもらった小さな十字架に合うチェーンを買いに夫と出かけた。
そして、大きな花束を買い求めると、その足で達男が眠る霊園を訪れた。
個人の墓ではなく、合同で埋葬されているそこに花を手向けると、二人は目を閉じて手を合わせた。
「リヒト君とゆりを見守ってくださいね。」
目を開けてふと横の花壇に植えてある綺麗なバラに目を移すと、そこに達男と手を繋いで笑顔で立っている若い外国人の女性の姿を見たような気がした。
その時みさの首にかけた、小さな銀色の十字架がキラリと光った。
最後まで読んでくださって本当に、本当にありがとうございました。
これからも、そして他の作品もどうぞ宜しくお願い致します。




