第1章
結婚して20年以上のごく普通の専業主婦が、ふとしたきっかけで自身の出生に疑念を抱くことから始まるお話です。
折角すやすやと気持ちよく眠っていたのに、自分の喉付近から発せられている「ひゅ~ひゅ~」と鳴る小さな音で目が覚めてしまった。
ようやく頭が冴え気づくと、喉を中心に顔中汗びっしょり。
おまけに呼吸するのがやけにしんどい。
心臓が早鐘を打っているのもわかる。
枕元の目覚まし時計を眠いままの目で見ると、針は3時丁度を差していた。
「あっ!すごい!ぴったり…」
息が苦しくて堪らないくせに、脳内の能天気な部分が3時ちょっきりに目覚めたことをやけに嬉しがっていた。
少しばかりひんやりした部屋は、天井から吊るされている丸い傘の電気の豆電球のオレンジ色でほんのり明るかった。
風が強いのか、カーテンで見えない窓がガタガタと音を立てている。
つい一ヶ月ほど前まで平気で半袖を着ていたけれど、10月後半ともなるとさすがに冬の足音がひたひたと迫って来ている様子。
日中のぽかぽかした暖かさと朝晩のぶるっと背中がぞわぞわ震える寒さの違いが、夏場あたりのそれとは大きく違っている。
だからなのか、温かくして眠りに入っても、こうして気温が劇的に下がってくる夜中あたりから、気管を締め付けるような苦しさが襲ってくるのだった。
それにしても、息が苦しい。
ここ10数年ほどはこんな酷い発作なんてなかったものだから、「喘息」の恐ろしさをすっかり忘れてしまっていた。
普段、自分が呼吸していることなんていちいち気にしない。
大抵の人は無意識に息をしているはずだ。
呼吸を意識するのは、今の自分みたいな喘息の発作の時と後は水中にいる時ぐらいじゃないだろうか?
こんな状態になって初めて、普通に息が出来ることのありがたさを思い知った。
肩がきゅ~と縮こまると、同時に首も亀のように引っ込んだ。
「あたし…このまま死んじゃうのかなぁ…」
あまりの息苦しさに、よからぬ考えが脳を横切った。
まだ、45歳。
怖いもの知らずで悩み多き多感な10代の頃ならいざ知らず、この年齢になるとあちらへ逝くにはまだ惜しい気もした。
喉から掠れるようなひゅ~ひゅ~音を鳴らしながら、池田みさはゆっくりと起き上がってとりあえずベッドに腰掛けた。
本当はすぐにでも立ち上がって台所へ行き、水を一杯飲みたいところだった。
だが、今はそれもままならない。
たかが呼吸、されど呼吸。
今はただ少しでも呼吸を落ち着かせるように、静かな動作しかしちゃいけなかったし、それしかできなかった。
みさの脳内には今、そのことしかなかった。
体のただ一点、呼吸が苦しいだけなのだが、体全体に重い鉛でも埋め込まれているみたいに、自分の体を思うように動かすことが出来なかった。
隣のベッドで大きなイビキをかいている夫、「祐二」に助けを求めようかとも考えたが、仕事で疲れきってよく眠っている夫をわざわざ起こすのも忍びないと思った。
救急車を呼ぶほどでもない。
今はただただ息が苦しいだけ。
しばらくしたら、徐々に苦しみから開放される。
それが喘息なのだと、みさはよくわかっていた。
だから、まずはベッドに腰掛けて動かずにジッとしているのが得策だった。
「…そういえば…」
ふと昔を思い出した。
意識的にではなく「無意識で。」というよりも、今のこの体の状態がどうしたってそれを思い出させてしまう。
まるで条件反射の犬のような感覚。
みさは小学校低学年ぐらいまでの間と、出産して程なくの10数年ほどの間は、今回のような喘息の発作を度々起こしていた。
子供の頃はその度に母がばたばたと起きてきて、背中を摩ってくれたり薬を飲ませてくれたり、酷い時には父の車で街の救急病院に連れて行ってもらうこともあった。
なので、「あの頃は…」なんて振り返ると、みさは好きでそうなっている訳じゃないにも関わらず、自分がいかに家族に迷惑や心配をかけた厄介な事情の子供だったな。と哀しくなった。
父の功もまた酷い喘息持ちだったけれど、幼かったみさは父が夜中に発作を起こして自分と同じようなことをしていたのを全く覚えていないし、知らなかった。
自分以外の人間に目を向けられるほどの余裕は、その時のみさにはどうしてもなかった。
誰が悪い訳でもないけれど、発作の度にみさは何故だかどうしようもないほど申し訳ない気持ちでいっぱいになり、息苦しさの中で涙が勝手に流れた。
みさや父だけではなく、父方の祖父「清太郎」もまた酷い喘息持ちだった。
だからか、母の鶴子も祖母のやいも呪いのように血のつながりの中にいる、誰かしらに必ず受け継がれていく「喘息」を随分恨んでいた。
3つ上の姉「千鶴」も10こ下の弟「清」は、何故か喘息だけはを受け継がなかった。
継いだのはみさだけ。
子供の頃も頭の中に「死」が過ぎるほど苦しかった。
体は当然、苦しいのは苦しい。
死を覚悟するほどの苦しさ。
だがそれを先祖からの「頂き物」もしくは「血の繋がりを示す証」だと考えることで、嫌ななりにも妙な安堵感を伴った気持ちになるのだった。
そんなおかしな心境に陥るには、薄っすら理由があった。
みさは幼い頃から何となくではあるが、両親や兄弟、どちらの祖父母や親戚の誰にも似ていないような気がしていた。
肌が人よりも若干白く、目の色も赤みがかった明るめの色。
髪も両親や姉と弟、どちらの祖父母のように真っ黒くて真っ直ぐな髪質ではなく、細くてうねが多い栗色。
体型も尻が高い位置にあり、一人だけぽっちゃり。
なので、思春期に入ったあたりから、痩せ型の両親や兄弟が羨ましくて堪らなかった。
自分もすらっとした体型になりたかった。
お盆やお正月、結婚式やお葬式などで一族が集まると、自分だけ毛色が違うようにも見えた。
みんなで写した写真の中に、一人だけ場違いのような自分。
出来上がってきた写真を眺めても、自分だけ何故か浮いているように見えると、ちょっぴり淋しい気分になった。
それでも、親戚のおばさんなどに「みさちゃんのそういうところ、お母さんにそっくりよねぇ…」などと、性格や仕草、言葉遣いなどのことを言われると、正直嬉しくはないけれど「やっぱり、お父さんとお母さんの子供だから仕方ないよ。」などと思い、心では説明できない安心感に包まれたのだった。
それでも思春期の頃、一度だけ母に冗談めかしに「あたし…本当にここんちの子供?」などど尋ねたことがある。
「何くだらないこと言ってるの!いい加減にしなさいよ!お前って子は…」
母を酷く怒らせたかと思った次の瞬間、母の右手がみさの頬を思い切りぶった。
バチン!
みさは「とんでもないことを口走ってしまったのではないか?」と気づくと、すぐさま「ごめんなさい。ごめんなさい」と何度も何度も泣いては下に手とおでこを擦りつけるほどついて謝った。
普段は割と穏やかな母のあんな鬼のような形相を見たのは、後にも先にもあの時だけだった。
謝りながらも、不意の隙に母の顔を見た時、両目にキラリと光るものが見えたことが、みさには何とも説明できないほどの罪悪感を募らせた。
「あんな風に真剣に叱るって事は、あたしがちゃんとお母さんとお父さんの子供だってことなんだ。変なこと聞いちゃったな…馬鹿だ、あたし…」
自分の発した言動を激しく後悔し反省すると共に、何故か心の反対側では妙に温かい安心感に包まれたのだった。
発作がある程度収まると、みさはゆっくりと立ち上がり絞まって苦しい胸を片手で押さえながら、途中でばったりと倒れないように、空いているもう片方の手をあちこちに添えてリビングまで来た。
ファックスが置いてある棚の下の薬箱を出すと、そこから市販の喘息の薬を取り出した。
漢方薬の粉薬は大人になった今でも苦手だった。
丸いプラスチックケースに入ったオブラートに薬をそっと包んでから口に入れると、そのまま口の中で溶けてしまわないうちに急いで台所に向かった。
洗ってそのまま自然乾燥させてある食器かごの中からコップを取り出すと、乱暴に扱った訳でもないのに重なった食器がガシャンと音を立てた。
割れるほどではないものの、静まり返った部屋の中にその音は響いた。
まだ喉をひゅ~ひゅ~させながらも、口にオブラートを入れたままのみさは一瞬どきっとした。
「あちゃあ~…大丈夫だよねぇ…割れたりしてないしてないよねぇ…」
心でそれだけ言うと、ようやく多めの水で薬を流し込んだ。
以前、オブラートをケチって1枚だけで包んだことがある。
その時、唾液がすぐさまオブラートを溶かすものだから、みさの口いっぱいにす~っとした苦さがじんわり広がった。
苦さのあまり、顔をくしゃくしゃに縮こまらせたまさに文字通りの「苦い記憶」。
それがあったので、今回は慎重にまずは1枚で綺麗に包んでから、もう1枚で更に包み飲みやすい状況を作った。
みさは「慌てて飲まないでよかった。」と思った。
昨日の夕食後、夫が粉の胃薬を飲むのに失敗し、おかしなところに入ってしまった薬でゲフゲフ、苦しそうな咽ていたのを思い出した。
「パパの二の舞になるところだった。」
無事に2枚重ねのオブラートで薬をのんだはいいけれど、ただそれが胃で溶けて利きだすまで時間がかかるのがちょっとの難点だった。
だが、よくよく落ち着いて考えてみると、大人になったって苦い薬の味が得意になる訳はなかった。
たまに「大人なんだから、それぐらい我慢できるでしょ?」と言う人がいるけれど、苦手なものはやっぱり苦手。
みさはいい歳だからと我慢する必要もないとも思うのだった。
無理をするとその後ろくなことにならないのは目に見えていたから。
だから、今回はオブラートの味と舌の上で粘つくような感触だけが口の中に広がっても、きちんと薬を体内に取り込めたのだから良しとした。
あの漢方薬独特の匂いも味もしなかった。
喉が少し潤うと、みさは食卓の自分の席の背にかけてあった家用のパーカーを羽織った。
薬を飲んだのだから、もうベッドに戻ってもいいのだけれど、みさはあえてそうしなかった。
というよりも、まだ若干の息苦しさが残っていたので、戻るにも戻れないと言った方が正確な気がする。
横になるとまたさっきの息苦しさが戻ってくるから、薬が効いてくるまで大人しくその場にいることを選んだ。
ひんやりと静まり返った部屋ながらも、全く何も音が聞こえない訳ではなかった。
10年前にこの家を購入した際、一緒に買った両開きの冷蔵庫の音。
お風呂場の換気扇の音。
外の強い風が家中の窓をがたがた鳴らす音。
壁にかけている時計の針が動く音。
そして、自分が発している喉のひゅ~ひゅ~音と心臓のどくどく打つ音。
それらが聞こえる中、みさは食卓テーブルの上の電気だけつけ、椅子に腰掛けた。
前かがみでテーブルに両肘をつくと、天井に向かってガーベラの花みたいに開いた手のひらに自分の顎を乗っけた。
ふぅ~。
ひとつ大きなため息をつくと、部屋の電気をつけていない側の青っぽい明るさの中に飾ってある父の写真に目を移した。
写真の中の父は優しそうな笑顔でこちらを見ている。
昨年、肺がんで逝ってしまった父を思い出すと、みさの目に涙の玉がぷっくりと膨れ上がってきた。
「やだなぁ、お父さん…あたし、また喘息始まっちゃったみたいだよ…」
脳内ではなく、今度はちゃんと小さく声に出して言うと、利き手の右手の人差し指だけで両目の涙を拭った。
涙の玉はみさが思っていたよりも随分と大きかったらしく、人差し指を伝って手首まで水の線が流れた。
こちらよりも暗かったはずのカーテン越しの外が、薄っすら明るくなってきているのがわかる。
そういえばいつの間にかあんなにうるさかった窓も、ガタガタと音を立てていない。
時計を見ると、もう5時半だった。
体が幾分楽になると、みさはベッドには戻らず、そのまま着替えて毎度の朝の支度を始めた。
「はぁ~…もうちょっとゆっくり寝たかったな。」
エプロンの紐を後ろ手に結ぶと、ため息をひとつついた。
新しい一日が始まったところだった。
普段と何も変わらないような何気ない朝。
高校卒業と同時に一人暮らしをしていたみさは、21歳の時職場仲間の結婚式で知り合ったのをきっかけに交際し結婚した5歳年上の夫祐二との朝が、両親や兄弟と暮らしていた期間よりもずっと長いのだと最近になってふとしみじみするのだった。
「おはよう…今朝は寒いねぇ…」
何気ない会話をやりとりしながら、やけに広く感じる食卓テーブルで夫と二人、朝食をとるのもだいぶ慣れた。
ほぼ毎日、大学の卒業を機に一人暮らしを始めた娘が、きちんと朝ご飯を食べているのか気にかかるのは、決まって大体この時間だった。
今は二人きりの食卓。
朝も晩も、夫と二人。
夫が休みの時は日に三度食卓で顔を付き合わせるのだけれど、最近はふらりと出かけた買い物ついでに外食することが増えた。
「ゆりも一人立ちしたんだから、たまにはこうやってママと外で美味いもんでも食いたいさ。」
さり気ない夫の優しさが、なんだかくすぐったいほど嬉しい。
娘のゆりがいた頃にもたまには外食をしていたけれど、そういう家族の外食も勿論楽しいに決まっているけれど、そうではなく毎週ではないにしろ、休日の夫とのデートと呼べるほどではないかもしれないちょっとした外食が、今のみさには何だかくすぐったいほど心が躍るイベントだった。
お盆とお正月、それにゴールデンウィークぐらいしか帰って来られない娘が、毎日いない寂しさに慣れるまで結構時間がかかったことも、夫との外での時間が楽しく感じられる要因でもあった。
「はい、コーヒー入ったわよぉ。」
「ああ、ありがとう。」
コーヒーの湯気越しに見る夫の姿も、よくよく見ると随分変わった。
親や兄弟よりも長いこと見続けている顔。
結婚した当時はまるでなかった白髪もだいぶ増え、ふさふさだった頭髪もやや薄くなっている。
若干膨らんだ腹に、ごつごつした甲に血管が浮き出た手。
顔に刻まれた深い皺は、自分と娘を養う為に一生懸命働いた証なのだと思うと、数年前まで何度か冷めて沈みかけたこの人に対する感情も、新婚当時を思わせるくらいの熱視線となっていつしかゆっくりと浮上してくるのだった。
「…そういえば…夜中、随分ぜぇぜぇしてたけど、病院行かなくて大丈夫か?今日は家事はいいから、ゆっくり体休めて…眠れなかったみたいだから…」
テレビから目を逸らした夫が何気なくそう言った。
「…ありがと、大丈夫よ…それより、うるさかったでしょ?ごめんね…」
みさは自分の心配よりも、自分の発作のせいで夫の眠りが妨げられたのではないかという方が心配だった。
「なぁにそんなのは…それより、ママの方が心配だから…ホントに大丈夫かぁ?また発作になったら困るからさ、昼間のうちに病院に行って薬とかもらってきておいたらいい…なっ?そうしなって…その後、ゆっくり休んで…なんだったら、今日の晩御飯、なんか適当に見繕って買ってこようか?その方がママ、楽できるだろう?」
見慣れすぎている夫の優しさに「…うん、そだね…そうするかな…じゃあ、パパ、今日は甘えさせてもらうね。ちょっと待ってて…今、お金持ってくるから…」とみさは、案外素っ気無く答えた。
本当は新婚時代のように「ありがとう、大好き!」ぐらいの台詞を言いたかった。
抱きついて、キスぐらいしたかった。
けれども、結婚して25年。
いい歳をして今更、そんな台詞も恥ずかしいと思った。
お互いを誰よりも知っている。
「ごめんね」や「ありがとう」はしょっちゅう口に出すけれど、「好き」とか「愛してる」はもう言わなくなって久しい。
一緒に出かけても、手なんか繋がない。
夫婦としての体の関係も、ご無沙汰している。
だからといってみさも祐二も、愛が冷めてしまった訳ではない。
「長く連れ添うということは、そういうものだ。」と、こうして夫と長く一緒に暮らしてみてようやくわかった気がするのだった。
若い時のような情熱的な愛情から、穏やかな凪の海のような深くて静かな愛情に移り変わっただけ。
「好き」だの、「愛してる」を言わなくたって十分に通じ合っている。
わざわざいちいち確認する必要なんてどこにもないのだと、胸を張って言える愛。
夫との愛が年輪のようなものだと、ようやくわかってきた気がする。
「愛情も時の流れと共に、ゆっくりと形を変えていくのです。」と、みさは最近になって新聞の新刊の広告に出ていたどこかのシスターの本の一説を読んで、「そう、そう、そうなのよぉ~。良い事書いてるわぁ。」と膝を打つのだった。
夫を見送り風呂掃除をしている最中、リビングのテーブルに置いたままにしてあった携帯が鳴ったらしい。
換気扇の音とシャワーで風呂の壁につけた洗剤の泡を流している音の中にいるみさは、すぐにはそれに気づかなかった。
ズボンの裾を膝まで、両袖も肘までまくり上げ、風呂掃除のシャワーの蒸気でかけているメガネが曇ったまま濡れた手をエプロンで拭きながら戻ってくると、ようやく携帯に何かしらのアクションがあったことに気づいた。
「あれっ?なんだろ?」
風呂掃除の余韻が残るほかほかした湿っぽい手で携帯を見ると、姉の千鶴からの着信だった。
すぐさま折り返すと、慌てたような声の姉が大声でまくしたてるように喋ってきた。
「あ~、みさぁ~?今、そっちに向かってるからぁ~…後10分ぐらいかなぁ…今ね、丁度ガソリン入れてるところだからぁ…あ、そうそう、仏壇のお花はあたしが用意しておいたからさぁ…」
姉の一方的な形の話に、みさは何のことかちょっとの間わからなかった。
「うん、わかったぁ…は~い、運転気をつけてねぇ~…待ってま~す。」
とりあえず話に合わせた返事をすると、みさは急いで姉を迎える仕度に取り掛かった。
「お姉ちゃん、来るって言ってたっけかぁ?」
姉の突然とも思える電話に若干イラついたまま、みさはリビングの壁にかけてある書き込み式のカレンダーに目をやった。
10月23日の四角い欄に自分の書いた字で、「お姉ちゃんと実家へゴー!」とあった。
「あれっ?そっかぁ…今日…お父さんの月命日だったっけ…」
みさは急に今日が何の日か思い出すと、思い出す前よりも一層慌てて出かける仕度に取り掛かった。
明け方の喘息の発作にすっかり気をとられて、今日が父の月命日だったことをすっかり忘れてしまっていた。
それと同時に先月の月命日の時、姉とやはり連れ立って実家へ出向き、一人になった母と共にお経をあげに来てくださった住職を迎えて、その後女3人で街へ繰り出し、ホテルのビュッフェバイキングを堪能したのを思い出した。
みさはあの時「今度はパパと食べに来たい。後、ゆりが帰った時にはみんなで来たい。」と思うと同時に、「自分だけこんなおいしいもの食べて…なんか申し訳ないなぁ。」とも思ったのだった。
父の月命日は、平日にあたることが多かったので女性陣だけになっても仕方がなかった。
弟の清も仕事があるので、休みの土日に重なった時しか来られなかったから。
なので、月命日が土日の時はみさや姉の千鶴、弟の清も大体は家族を連れてくるので、そういう時実家は賑やかになった。
母は「疲れるわぁ。」とぼやきつつも、家族が揃う賑やかな日は嬉しそうにしているのだった。
父が逝ってしまうと、母は急激に痩せ細り別人のように老け込んだ。
今まで何十年と苦楽を共にしてきた父が、ある日突然いなくなったのだから、その哀しみはみさ達がいくら理解しようと思ったところで計り知れないものだった。
「あたしが食べるだけ作るのも、面倒でね…」
ほぼ毎日二人分作っていたご飯も、今ではすっかり作る気力さえも奪われた様子。
哀しみが生きる為に欠かせない「食べる」欲求を、母から全て吸い取ってしまったらしかった。
心配したみさ達兄弟がそれぞれ都合のいい時母の様子を見に実家を訪れる度、冷凍庫にそれぞれの家で作ってきたおかずを置いていくのだが、母一人になった今、それもなかなか減らず、溜まっていく一方になっていた。
「あんた達が心配してくれるのは本当にありがたいんだけど…お母さん一人だもの…そんなに食べられないわよ…お父さんがいたらあれだけど…」
父の死後一層小さくなった母が、淋しげに呟くのが切なかった。
呟きと同時に、下を向いた母の手の甲にポトンと丸い涙の粒が落ちるのを見ると、誰ももうそれ以上は声をかけられなかった。
なので、もったいないのはさておき、古い物から処分するなり持って帰るなりして、母には出来るだけ新しい物を置いていった。
いくら最近は売っているお惣菜が美味しくてヘルシーだろうと、母にはやっぱり少しでも手のかかったものを食べてもらいたかった。
父が逝ってしまう前の、今よりも幾分ふっくらしていた姿に戻って欲しかった。
そして何より、母にはまだ父のところへ旅立ってはもらいたくなかった。
だが、それだけでは結局状況は何も変わらなかった。
父がいなくなった家で、母が一人でそれらをちょっとづつ温めて食べるのだから。
「どんなに凄いご馳走だって、ひとりぼっちだと美味しくないもの…」
母の言葉がみさだけじゃなく、残された兄弟やその家族の心にも深く突き刺さった。
そんな訳もあって兄弟の誰が提案した訳でもないけれど、母を元気づける為にも、実家を訪れた際はなるべく外へ連れ出してあげようという運びとなったのだった。
家に閉じこもって仏壇の父の遺影と話すだけの一日ではなく、父が大好きだった元気な母に少しでも戻ってもらいたいと願ってのことだった。
そして、美味しくて栄養があるものを子供である自分達と一緒に食べてもらいたいとも思ったから。
たまにはそういう気分転換も必要だと、みさ達兄弟は痛切に感じたからの行動だった。
本当は誰かの家で母が一緒に暮らしたらいいのだけれど、姉のところも弟のところも母が入る余地が今はまだなかった。
今すぐにでもそれが可能なのは、みさのところだけ。
なので、「お母さん、家に来ない?こっちの家売るか、貸すかしてさ…あたし達と一緒に暮らそうよ!」との申し出をするも、母は何故かやんわり断ってきた。
「ありがとうね…だけど、まだあたしも動けるから大丈夫。それにここはお父さんが建てた家だもの…手放すのは…」
最近は流行の終活に乗っかって、少しづつ荷物を減らしにかかっている母。
けれども、思い出がいっぱい詰まった家を手放すには、もう少し時間がかかりそうだった。
「それなら…」とみさを始めとしたみんなで、「母を無理せずにできるサポートをしていこう」という形に収まったのだった。
月命日のお出かけは、その一環でもあった。
父が逝ってしまうまでは、それぞれの事情で実家を訪れる機会も少なかった。
「お父さんがみんなを集まらせてるんじゃない?」
誰かがそんなことを言っていた。
みさは「本当にそうかもしれない。」と感じた。
ピンポーン。
聞き覚えのある車の音の後、玄関のチャイムが鳴った。
「はいはい…今、開けるねぇ…」
みさは急いで玄関のドアを開けようとしたせいで、つっかけに足を乗せるのに失敗し、靴下のまま土間を踏んでしまった。
折角姉と実家に行くからと、風呂掃除の後新しい靴下に履き替えたばかりだったので、思わずやってしまった自分の失敗が悔やまれてならなかった。
「おはよう!みさ…って…あんた…あ~あ~…靴下汚れちゃったでしょ?あははは…あんたのそういうとこ、お父さんにそっくりだよねぇ…あはははははは…」
「…そう?」
「うん、そっくりじゃない?お父さん、慌ててよくやってたっけねぇ。あんただって、一瞬そう思ったんじゃない?あはははは。」
「…まあ…そう…かなぁ…あはははは…それはそうと、まずは入って入って!あたし仕度まだできてないのよ…ごめんね…出発、ちょっと遅れるけど…」
「いいっていいって…大丈夫だって…まずは、お邪魔しま~す!そだ、みさ!トイレ貸して!行く前にジャーって出してくるわ…」
「どうぞ、どうぞ…って、だけど、お姉ちゃん、ジャーって…ジャーはないでしょ?」
玄関の傍にあるトイレ越しで姉にそう言うと、洋服のがさごその後、言った通りに「ジャー」と音がした。
「やだぁ~、もう…あたし、こっちで用意するからぁ…」
呆れながらトイレの中にいる姉に声をかけると、ドア越しの曇った声で「は~い!」と返ってきた。
まゆげまで進んでいた化粧の続きにとりかかると、姉の千鶴はズボンのファスナーを上げながらリビングにやってきた。
「トイレ、ありがとう…おかげですっきりしちゃった。」
笑顔の姉に、みさも笑顔で「お姉ちゃんも、そうやってトイレから出てくる時、お母さんとそっくり。」と返した。
「そう?…あははははは…よそでやったら大変だよねぇ…あはははは」
姉の千鶴はやけに明るかった。
5分後、二人はにこにこと実家へ向かった。
みさと千鶴の家は車でおおよそ20分の距離。
街の名前こそ違ってもお隣同士の街なので用があってもなくっても、時折姉妹で会ってカフェ巡り。
そうしてはお互いの家族の話や愚痴、実家の話などで長々と話しこむ。
女同士だし、たかだか3つしか違わない姉妹ということもあり、弟を抜いて二人で会う方が多かった。
みさにとっても、千鶴にとっても、それは愉しみな時間だった。
お互い子供が手を離れたことで、出来た心の空洞を埋めるには丁度いい塩梅。
実家へ向かう時以外でも、そういう時間をあえて作った。
普段仲良くしている友人には話せないようなことも、姉になら話せる。
幼い頃は喧嘩ばかりしていたのに、どういう訳か大人になってからかなり仲良くなったような気がする。
それは「姉妹」という繋がりもさることながら、「同年代」という意味でも息が合った。
同じ時代に同じような年頃だった。
だからかみさは、10も歳が離れた弟に会うよりも、歳が近い同性の姉に会う方が嬉しいと感じた。
自分の方が姉よりも少しだけ、結婚も出産も子育ても早かった。
だけど、やっぱり「お姉ちゃんはお姉ちゃん。」
今まで何度となく夫や子供やPTA、体の変化などの悩みを打ち明けたり、相談にも乗ってもらった。
夫にも母にも友人にもない、特別な存在。
そんな心の拠り所としているお姉ちゃんと何気ないことを話すだけでも、みさの気持ちは随分落ち着き、すっきりとなった。
仕事をしていないにも関わらず車で勢力的に動き回る姉は、運転できないみさにとってありがたい存在でもあった。
みさの家から実家まで、車だとおよそ40分ほどなのだが、バスや電車を乗り継ぐとそれの倍以上の時間とやらしい話、お金もかかる。
別にケチな訳でもないけれど、そんなお金と労力を使うぐらいなら、車を出せる人に乗せてもらうのが一番いい。
なので、気心が知れた姉の送迎で実家へ行けるのが、みさには一石二鳥だった。
今日も実家までのドライブ中、どちらともなく会話が始まった。
「…あっ、そうそう…なんかね、今日お寺さんね、お昼頃来るらしいよ。お母さんからメールあったわ。だから、ゆっくり来てってメール来てたわ。」
「そっかぁ…」
姉からの情報にぼんやりと相づちを打ちながら、みさは助手席の窓から外を眺めていた。
みさが住んでいる街から母の住んでいる街へ入る道中、視界に映る紅葉した山の美しさに惹かれた。
姉とのおしゃべりなドライブは、あっという間に過ぎていった。
実家に着くと、家の前の花壇で母が作業をしていた。
「あら、やっと来た。」
車から降りるなり、母にそう言われた。
「来たよぉ~!あれっ?お母さん、何やってんのぉ?」
「ああ、これ?冬になるからちょっと片付けておこうかと思って…」
土で汚れた軍手のまま花壇の枯れた花を握り、腰を気にしながら重心を後ろ気味にした立ち方で、母はふぅ~と大きく息を吐いた。
その一連の動作を横から見ていたみさは、目の前の母が自分の知っている母ではなく、どこかの知らない老婆に見えた。
「お母さん…老けたなぁ…」
みさの心の呟きが顔の表情にすっかり表れていたらしい。
「お母さん、老けたねぇ…こんなおばあさんだったっけ?」
車を停め終わった姉がいつの間にか横に来ており、たった今みさが心で呟いた台詞を全く同じトーンで声に出してきた。
一瞬「あれっ?」と思うも、しみじみ「そうだねぇ。」としか返せなかった。
「何、二人して…親の悪口かい…ちゃんと聞こえてるんだよ!はぁ~、やれやれ…どっこいしょっと。」
枯れ花を堆肥にしようと畑の端に掘った大きめの穴に放り込みながら、母はみさ達姉妹に大きな声でそう告げた。
動作や立ち姿はすっかり歳を取ってしまっていても、耳の聞こえだけは衰えない母だった。
「あ~…ごめん、ごめん…悪口じゃないのさ…そういうつもりで言ったんじゃな…」
姉の千鶴がそこまで言いかけているのを遮って、母が「いいから、中に入んなさい。」と言ってきた。
みさと千鶴はすかさず、「あ~、はいはい、わかりましたよ。」とはもる形で返した。
「やだっ、ぴったり合っちゃった。」
こんな時、みさはつくづく姉と姉妹だなぁと感じたのだった。
ハンサムな寺の若住職が来たのは、みさ達が到着してから約1時間ほど経った頃。
それまでの間、みさは姉と二人、仏壇の前で車の中の話の続きをしていた。
母は畑仕事ですっかり汚れてしまった為、早々にシャワーを浴びに風呂場へ直行していた。
薄っすらとシャワーのザーザーいう音が聞こえる中、話が途切れたのをきっかけに手持ち無沙汰になった姉の千鶴は、何気なく仏壇の引き出しを開けて中を覗いた。
するとそこに母の数珠やらと一緒に日記帳が入っていた。
「あっ、これ…もしかして…」
人の日記を見るのは駄目だとみさが止めに入る前に、千鶴はさっさとそれを手にして開いてしまった。
どうやらそれは父が生前に書いていた日記。
千鶴がパラパラとページをめくり真っ白いところに来ると、今度はゆっくりとページを戻した。
日記の中ほどまで戻ると、そこが父の最期のページだった。
震えた弱々しい字で父が最後に日記を書いたのは、死の10日前。
よほどしんどかったとわかるその字が書き込んでいたのは、「鶴子、今までありがとう。」だった。
「…お父さん…」
「…お父さん…」
みさも千鶴も父の最期の言葉にそれ以上何も言えなくなり、ただ黙ってそれだけを見つめた。
鼻をグズグズ言わせてちょっと出た涙を拭うと、千鶴は気を取り直して日記をしまおうとした。
その瞬間、日記のカバーの後ろ側から古い写真がひらりと落ちた。
「…?これ…なんの写真だろう?ねぇ、お姉ちゃん、これ…」
拾い上げた写真を手に、みさは千鶴にも見せた。
「あっ…これ…お父さんとお母さんの若かりし時じゃない…ぶ~…あはははは…昔は二人ともこんなに可愛かったんだねぇ…あははははは…笑っちゃうよねぇ…あはははは…」
笑う姉につられ、みさも写真の中の若い父と母を見て笑ってしまった。
「ホントだ…今のあたし達よりもずっと若いんじゃない?…あっ、お父さんのズボン掴んでるふくれっつら…このちびちゃん、お姉ちゃんじゃない?これ、そうだよねぇ…可愛い~…あははははは。」
「ええっ?どれどれ…あ~、そうだねぇ…これ、あたしだわ…あはははは…3歳ぐらいじゃないかなぁ?多分…そういえば違う写真でもこのコート着てたわ…これしか持ってなかったのかなぁ?…それとも当時のお気に入りだったんだろうか?…薄っすらだけど、憶えあるわ…うん…確かね、これピンクだったと思うよ…あんたもお下がりで着てたはずだよ。あたし、それは覚えてるんだ。」
「ふ~ん…そうなんだぁ…」
セピア色に染まった白黒写真では、小さな姉が着ていたコートの色まではわからなかった。
「ところで…これさ…どっか、病院の前?っぽくない?…この白衣の人は絶対にお医者さんで、こっちのワンピースの人達は看護士さんじゃない?昔の看護士さんの制服っての?可愛いねぇ…今のなんかよりも、ずっとおしゃれってのかさぁ…あっ、でも、昔は看護士じゃなくて、看護婦さんって呼んでたっけか…」
「そうそう、そうだったわ、そんでさ、看護婦帽っての?あれかぶってたよねぇ…可愛いよねぇ…今、どこもかぶんないでしょ?なんか色々あるんでしょ?確かさ…ところで、お姉ちゃん…この外人さん誰だろうね…」
「…ああ、ホントだ…可愛い…随分若く見えるけど…赤ちゃん抱っこしてるから、そうでもないのかねぇ…」
みさは写真をよくよく眺めてみた。
「あっ、ねぇ…お姉ちゃん…この赤ちゃんさ…なんか、あたしの赤ちゃんの時と似てない?何となくだけど…」
「え~っ!どれどれぇ~…」
老眼が始まっている千鶴は、写真を手前から少し離した形でじっくりと見始めた。
「…う~ん…悪いけど…似てない…かなぁ…」
「…そう?でも、あたしの小さい頃の写真とそっくりじゃない?」
「え~っ…あたしは…似てないと思うけどなぁ…よくある赤ちゃんの顔って感じじゃない?」
千鶴の返答に納得がいかないみさは、写真の裏を見ることにした。
「…なんか書いてあるかも…え~と…」
紅茶で染めたような薄い茶色の写真の裏側には、写真を撮った日と思われる日付と写っている面々の名前が書かれてあった。
「…あっ…これ…あたしが生まれた年に撮ったんだぁ…で、荒川功に鶴子、千鶴でしょ…後は中川先生?に木村さん、石田さん、松島さんに…あっ、この外人さん、アーニャとミーシャだってさ…どっちがアーニャで、どっちがミーシャなんだろう?ねっ、お姉ちゃん…」
みさが写真から姉の方に目線を向けると、姉はとっくに隣のリビングに行ってしまっていた。
「あれっ?お姉ちゃん?お姉ちゃんってば…」
ガバッと立ち上がり姉がいるところへ行くと、風呂から上がった母と二人で冷たい野菜ジュースを台所で立ったまま飲んでいた。
「ん?何?みさ…あんたも飲む?」
紙パックの野菜ジュースを片手で持ち上げた姉が、きょとんとした表情でそう言った。
「えっ?じゃあ、飲む…って、それはいいけど…そだ、お母さん、お父さんの日記にこの写真挟まってたよ…ねぇ、この外人さん誰?お母さんの知り合い?」
みさの問いかけに、母は一瞬ぎょっとした表情を見せると、飲みかけていたジュースで咽てしまった。
「げほげほげほげほっ…」
「あっ、ごめん…大丈夫?お母さん…急に聞いてごめんね…ホント、大丈夫?」
慌てて駆け寄り母の背中をさすると、すかさず千鶴がちょっぴり怒ったような態度でみさを叱った。
「ちょっと、みさ…あんた、急に聞くから…お母さん、咽ちゃったじゃないのさぁ…」
「…ごめん…そんなにびっくりすると思わなかったから…」
若干喧嘩みたいになった姉妹の間に入ると、母は「まぁまぁ…」と咽た涙目で二人それぞれのお腹の辺りを手のひらで静止した。
「…ごほんっ…もう、大丈夫…大丈夫だから…で、さっきの話だけど…その外人さんかい?…その子はアーニャって子で、お母さんがお産で入院してた時、その子も一緒に入院してたの…まだ、20歳だったかな?確か…ソ連からこっちに来てたんだわ…親御さんの仕事の関係だったかな?…確か、そう…」
落ち着いた様子で真っ直ぐみさを見つめて話す母が、いつもよりも気のせいなのか、真面目に見えた。
「ふ~ん…そう…あっ…それはわかったけど…この抱っこされてる赤ちゃんさ、あたしの赤ちゃんの時に似てない?さっき、お姉ちゃんにも聞いたんだけど…似てないって言うから…」
思い出したようにみさは母に尋ねた。
すると、眉間に皺を寄せた母は、テーブルに置いてある老眼鏡を持ってきて写真の赤ん坊をマジマジと見つめた。
「…う~ん…どうだろうねぇ…全然似てないと思うけど…」
「ほらっ、言ったとおりじゃん…」
母の返事を神妙な顔つきで待っていた千鶴は、鬼の首でも取ったかのように急に態度を大きくした。
「…そっかぁ…お姉ちゃんとお母さんが似てないって言うんなら…そうなんだねぇ…そっか、わかったよ…じゃあ、これ元のところに返しておくね…」
納得がいかないまま、みさはとりあえず仏壇のある部屋に写真をしまいに行った。
リビングの時計の針は、もうすぐ1時になろうとしていた。
「あ~、お腹空いたぁ…なんかご飯食べに出かけよっか…」
千鶴の号令で、遅めのランチとばかりに出かけたのだった。
実家からの帰り、再び姉の運転での車中、みさはもやもやしていたあの写真の話をぶり返した。
「…ねぇ、お姉ちゃん…やっぱりね、あの赤ちゃん…あたしに似てると思うんだぁ…それに、名前もミーシャだったじゃない…みさとミーシャでしょ?…やっぱり…」
みさがそこまで言いかけると、運転している千鶴がイライラ全開の口調できっぱりと言った。
「あのさぁ、あんたしつこいよ…全然似てないってお母さんも言ってたじゃない…みさとミーシャだから、何?…名前が似てるってか?あの外人の赤ちゃんがあんたで、あんたはもらわれっこだとでも言うつもり?ホントの母親はお母さんじゃなくって、あのアーニャって人だってか?そんな訳ないじゃん!漫画じゃあるまいし…あんたはずっとうちの子で、ずっとあたしの妹だよ…もうおかしなこと言うのこれっきりにしなよ!いい!わかった?」
「ごめんね…お姉ちゃん…」
噛み付くような姉の態度に、みさはそれ以上何も言えなくなった。
妙な空気が続く中、カーラジオから午後のゆるい笑いが聞こえてきた。
車中から見える空は、いつの間にか茜色になっていた。
「日が暮れるの早くなったね…」
ムスッとした表情だった姉が、重い沈黙を打ち破った。
「…そだね…あのさ…お姉ちゃん…さっきは…」
「もう、いいって…そんなのどうでも…それより、あんたさ、買い物とかあるんだったら、寄るけど?」
「あっ、ありがと…じゃあ、お言葉に甘えるかなぁ…帰り道にあるスーパーなら、どこでもいいから寄ってもらえる?今日、火曜日だからどこも売り出しなんだよねぇ…めんどくさいから、今日はお惣菜で済ませちゃおうかなぁ…」
「そうだったそうだった…あたしも晩のおかず、買ってこうっと…」
こんな風に重い空気もすぐに明るく戻ることが出来る。
みさは姉と姉妹で良かったとつくづく思った。
「ねぇ、お母さん…昼間の話だけど…」
千鶴は真剣な口調で、電話の向こう側の母に尋ねた。
「…ああ、あの写真の…」
「…うん…ごめんね…それで…その…なんだ…ホントのところはどうなんだろうって…」
電話口の向こうの母が、話し出すまで若干時間がかかった。
「…千鶴、あんた、それ聞いてどうすんの?」
「えっ?」
「だから、それを聞いてどうするんだって話。」
母からの返しに、どう答えたらよいものか、千鶴は声が出せなかった。
「…」
「あのね…それを知ったら、もう知る前には戻れないんだよ…それぐらいわかるよね千鶴…」
「…そっ…そうだね…そうだよね…もしも…もしも、あの時みさが言った通り、もしもあの赤ちゃんがみさだったからって、だからどうしたって話だよね…ごめんごめん…あの子はあたしの妹で家族なのは変わりないんだものね…そんなのどうだっていいのにね…ごめんね…お母さん、変なこと聞いちゃってさ…ホントごめんなさい。」
「…いいさ…そんなに謝ることないさね…みさは、あたしとお父さんの娘…あんたの妹、清のお姉ちゃん…それは変わらないんだもの…」
「…そだね…ただ、あの子が傷ついてるんじゃないかって…それとホントのところを知りたいって思うんじゃないかって…」
「ホントのこと?あんた、何言ってんのさ…ホントも何も、みさはうちの子…ただ、それだけじゃないか…」
「そだね、ホントにそだね…もうさ、この話はなし…清にもしないどこうね…ごめんね、じゃね、お母さんさ、体無理しないでね…したらね、また、近いうちにそっちに行くから…あっ、行く時連絡入れるね…おやすみぃ~…」
「ああ、もういいから…あんたも無理しないんだよ…太一も受験で大変だろうから、風邪引かせないようにね…ああ、それと、美鈴ちゃんと幸彦さんに宜しくね、はい、おやすみ。」
電話を切ると、千鶴は大きく深呼吸をした。
「よしっ!っと!」
気合を入れると、部屋で勉強に励んでいる受験生の太一の為の夜食を作りに、台所に向かった。
母、鶴子は電話の後、すぐに父の仏壇の前に座った。
「…お父さん…千鶴だけには、ホントのことを話しておいた方がよかったですか?…あたしは、あのことは墓場まで持って行くつもりだったんですけどねぇ…どうしたもんですかねぇ…ねぇ、お父さん…何か言って下さいよ…お願いしますよ…そうじゃないと…あたしだって…あたしだって…ううううう…」
金色に光る仏壇の中の父の笑顔が、幾分哀しそうな表情に見えた。
しわしわの両手で顔を覆ったまま、母はしばらくその場から動けなかった。
薄暗い仏間の外から、しとしとと雨が降っている音が聞こえてきた。
涙が収まると母はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと仏壇の横にある襖を開けた。
押入れの下段、左奥から取っ手がついた化粧箱を出すと、仏壇の引き出しにしまってある小さな鍵で開けた。
深底の化粧箱の一番下に手を突っ込むと、母はそこから二つの小さな桐の箱と赤い絹に蝶々と可愛らしい花の刺繍に包まれた壷を取り出した。
桐の箱の裏には「ミーシャ」と書かれてあり、中には薄い油紙に包まれたへその緒と小さな銀製の十字架が一つ入っていた。
もう一つには、「清子」と書かれてあった。
母はそれを眺めると、今度は小さな赤い絹に包まれた方に目をやった。
「…ごめんね…清子…」
絹にぽとんと涙が落ちた。
「…ホントにごめんね…清子…折角、産んであげたのに…ごめんね…ごめんね…」
絹の中身は小さな骨壷だった。
涙のまま鼻をすすり、母は化粧箱の中から古い日記を取り出した。
「…今日、無事に退院した。アーニャが最後にもう一度だけミーシャを抱かせて欲しいと言うので、そうしてあげた。写真も撮った。アーニャから銀の十字架も預かった。いつかミーシャに渡してあげようと思う。あたしの赤ちゃんは駄目だったけど、ミーシャはちゃんとあたし達の子供として立派に育てるからと約束した。中川先生達も事情を酌んでミーシャはあたしが産んだということにしてくれた。生まれたばかりのあの子、ちゃんと清子って名前までつけてあげたけど…今は哀しくて涙が止まらない。それでも、清子の代わりと思って、このミーシャを元気に育てようと思う…アーニャはあの後ちゃんとソ連に戻ったんだろうか?まだ18だと聞いた。ミーシャの父親は日本人だとも。お腹が大きくなる頃、突然アーニャを置いていなくなったとも聞いた。あの子もこれからいっぱい幸せになって欲しい。幸せにならなきゃ駄目だ。貰い受けたこの子の為にも、死んだ清子の為にも…」
読み返したあの日の記述に、母の中にある古い記憶が急速な勢いで押し寄せてきた。
「…そう…だったわねぇ…あたし、あの頃、こんなこと書いてたんだ…アーニャ…今、どこでどうしてるかしらねぇ…元気だったらいいんだけど…あなたのミーシャはすっかりいい大人になりましたよ…アーニャ…」
ガランと広く感じる部屋の中で、母はいっそう小さくなった。
そして、まだ涙が残るまま、赤い絹に包まれた骨壷と二つの桐の箱を抱え込むように抱きしめた。
さっきまでしとしとと降っていた雨の音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
代わりにザーと強い風が通り抜ける音が聞こえた。
姉に家まで送ってきてもらった時までは元気にしていたみさだが、夫の帰りを待つ間に様々なことが脳内で勝手に巡って、どうにも収集できないでいた。
ただ黙って明け方と同じように食卓の自分の席に腰掛けたまま、頬杖をついて夏とは違いあっという間に暗くなっていく窓の外をぼんやり眺めていた。
たまたま見つけてしまったたった一枚の古い写真にこうまで振り回されるものかと、悩みながらもどこか冷静な部分が自分を客観的に見ているのだった。
「…お姉ちゃんはお母さんから一文字もらって千鶴でしょ…清はお父さんの方のおじいちゃんから一文字もらって清だものね…小さい頃からずっと疑問だったっけ…あたしの名前がみさっていうの…生まれた当時に大流行だった女の子向けのアニメからとっただの、当時絶大な人気を博してた女優さんからもらっただのって言ってたけど…やっぱり、あたし…ミーシャなんじゃ…」
顎に手をかけると、う~んと唸った。
「…だとして、どうして?どういう経緯でアーニャのところから?…でも、戸籍はちゃんとお父さんとお母さんの次女ってなってるけど…もし、もらわれっこだったら、そこは養子となるはずだから…」
今のみさの中にあるだけの知識や想像力だけでは、どうにもすっきり解決はしないままだった。
あれこれ考えがぐるぐると駆け巡ると、時間があっという間に過ぎていくのもわからない。
見る見るうちに外の明るさが消えていくのと同時に、電気をつけない部屋も暗くなっていくことに、普段ならすぐに気づくものの今日のところはなかなか気づかなかった。
ぼんやりといつまでもあの写真のことを考えていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。
初めのピンポンは聞き逃したけれど、何度か続けて鳴るピンポンにはさすがに気づいて慌てて出た。
「は~い。どちら様ですか?」
「ただいまぁ~。ママ、俺だよ、俺…」
ガチャ。
鍵とチェーンを外しドアを開けると、そこに見慣れた夫が立っていた。
「…ああ、パパ…おかえりなさい…」
「ただいま…ママ、どした?具合でも悪かったのか?」
カバンを置きながら、祐二は元気がない様子のみさを心配した。
「なんだ、電気もつけないで…お母さんになんかあったのか?…」
こっちは何か嫌なことでもあったのかと心配しているのに、その相手がぼんやりしてろくに返事もしないでいるのが気に食わなかった。
「…ママ!どした?何かあったのか?大丈夫か?…」
不意に両肩をがっちり掴まれると、みさは夢から覚めたばかりのような反応を示した。
「…あっ、ごめんなさい…大丈夫…大丈夫だから…お母さんもお姉ちゃんもすごく元気だったよ…そうそう、パパがお弁当だってのに、ごめんなさい。あたし達、お姉ちゃんがネットで調べた評判のイタリアンで美味しいものいっぱい食べてきちゃった…ホントにごめんね…抜け駆けしちゃって…たまにの話だし、お勘定はお母さんが持ってくれちゃったから…」
みさは慌ててその場を取り繕った。
ちょっとでも祐二に悟られてはいけないような気がしたからだった。
「…ん?なんだ、そんな話か…いいじゃないか、たまのことなんだし…それぐらいのこと気にする必要はないよ…普段、一人で家にいるばっかりなんだから…そんなことよりもぜんそくは出なかったかい?そっちの方が心配だよ。今朝のは結構酷かったみたいだから…」
優しい笑顔で自分を心配してくれる夫に、自分の中にあるもやもやを相談したいと思うも、どう切り出したらいいのだろうと迷いが生じた。
だが、反対側では「どんな話し始めだとしたっていいじゃないか?長年連れ添ってお互いの性分を十分知り尽くしているのだから…」という思いもあった。
「話す」「話さない」
たったそれだけの違いで、こうまで苦しい気持ちに陥るのだろうか?
みさの中にある冷静な部分が、やけに冷めた目で静観しているのだった。
出来合いの惣菜が並ぶ夕食。
いつもなら先に切り出すのはみさだった。
ところがどういう訳か、今日は普段のような明るい表情もなくどこも見ていない顔のまま、みさは目の前にあるおかずをただぱくぱくと口へ運ぶだけ。
みさの様子がどこかおかしいと気づいた祐二もまた、あえて無理をしてまでみさに話しかけることもなく、やっぱりただ黙々とご飯を食べた。
静かな二人の時間に場違いな地元のニュースが流れているだけだった。
特に哀しげといった雰囲気もなく、無表情で一見すると何も考えていないようにも見えるみさを、探るような眼差しで夕食後の熱い緑茶をすすりながら見つめつつ、祐二は夕刊を大きく開いた。
みさは一瞬「あっ…」とした顔をすると、「そうだった」と言わんばかりに使った食器類を洗い始めた。
スポンジに多めに洗剤を取ったせいでぬるぬるして、使った食器を掴むのが案外しんどいにも関わらず、みさは普段となんら変わりない慣れた手つきでどんどんと食器類の汚れを取り除いていった。
すすぎに入った途端、みさの手からガラスのコップが滑り落ちた。
ガチャーン!
はっと我に返ったようにコップを割ったことを認識すると、みさは急に慌ててしゃがみこみ破片を拾い始めた。
「おいおい、大丈夫か?」
新聞を放ると、祐二は慌ててみさの元に駆け寄った。
出しっぱなしの温いお湯を止めると、すぐさまみさの横に一緒にしゃがみこんだ。
「怪我は?大丈夫か?…ママ?…」
俯いてコップの破片を拾っていたみさの指先が、祐二に声をかけられたことで切れてしまった。
「っつぅ…」
一瞬の痛みに顔をゆがめると、祐二がすかさずみさの怪我をした側の手を掴んだ。
「大丈夫か?切った?…あ~…破片は…どれどれ…入って…ない…かな…ここは俺が片付けるから、ママは傷口の手当てしなさい。あっ!それと掃除機…持ってきて…」
「…あっ、うん…ごめんなさい…」
祐二のテキパキとした動作と指示に従い、みさは掃除機を取りに納戸まで小走りした。
そのほんの僅かな時間、みさは「しゃんとしないと!」と自分自身によく言い聞かせた。
「パパ、ごめんなさい…はい、掃除機持ってきたから…あっ、ちょっと待って、今コンセントに差すから…」
繋げた掃除機を祐二に渡すとみさはその場を離れ、ファクスの棚にしまってある薬箱を取り出すと早速切った傷口の手当てを始めた。
みさがそうしている間に、祐二は掃除機でとっととコップの破片を吸い取り、ついでに洗いかけの食器も全て綺麗にすすいでかごに重ねていってくれた。
もたもたと傷の処理をしているうちに、祐二の方の仕事はすっかり済んでしまったようだった。
「…ママ、大丈夫か?どした?ぼんやりして…俺が帰ってから、ずっとそんな感じだけど…なんかあったのか?それとも、向こうでなんか言われた…とか?」
まだ絆創膏を貼るところまでいっていなかったみさの傍まで来ると、祐二はさり気なく絆創膏の続きをしながら、みさの表情を窺った。
「…ああ、ごめんなさい…あのね、別に何か言われたりはしてないのよ…普通…お姉ちゃんもお母さんもいつもと同じよ…二人とも元気だった…あのね…何から話したらいいのかしら…」
これ以上祐二に黙っている訳にはいかない。
自分の犯した失敗の後始末までやってもらったのだから。
それに「夫婦」だもの。
隠して一人でぼんやり悩んでたって、何の解決にもならない。
それよりも自分ひとりだけで、どこにもぶつけられないもやもやを抱え込んでいるのも苦しすぎる。
そして、それによって夫にも既に迷惑をかけたばかりじゃないか。
様々な葛藤がどんどんと膨らむと、みさは堰を切ったようにたどたどしく語り始めた。
「…それでね、お父さんの日記から一枚の古い写真が出てきてね…それで…」
真っ直ぐとみさの目を見つめて静かに事の全容を聞いた祐二は、腕を組んで口を真一文字に結び、眉間に深い皺を刻んで黙り込んだ。
「…~~~ん…」
みさは両指を組んで祈るように、祐二の口から発せられる言葉をじっと待った。
「…そっかぁ…そんな写真が…ん~…それで?ママは、自分が写真のミーシャじゃないかと…アーニャの娘なんじゃないかと…そう、思ったんだ…ねぇ…そっかぁ…」
「…そうなの…だけどね、だけど…受験の時も結婚する時も戸籍見る機会あったけど…あたし…ちゃんと、お父さんとお母さんの次女ってことになってるでしょ?…だから…そこが…何とも言えないんだけどね…でも、よくよくあたしなりに考えてみたんだけどね…お姉ちゃんはお母さんから一文字もらって千鶴でしょ?清はお爺ちゃんの清太郎からもらって清だけど…あたしだけ、ひらがなだし、みさって、ミーシャに似てるってのか…その…なんて言うのかしら…だから…」
まだ両指を組んで祈るポーズのまま、みさは今にも泣き出しそうな顔で真っ直ぐ祐二を見つめた。
「ん~…」
腕組みしたまま目を閉じていた祐二は、急にガッと目を見開くと同時にみさをギュッと強く抱きしめた。
「…ママ…ママはママだよ…これまでもこれからも…ママはママ…お父さんとお母さんの娘じゃないか…お姉さんも清君も兄弟じゃないか…もしかしたら…もしかしたら…真実はママが考えてることかもしれないけど…だから、どうしたって感じだよ…ママ、アーニャって人に会ってみたいとか、そういうこと?」
「ううん…そうじゃないの…そうじゃないんだけど…」
みさは抱きしめられたまま、首を横に振った。
「…じゃあ、何?」
祐二は抱きしめていた腕を少し緩めた。
祐二と体の距離が離れると、みさは顔を見られたくないと思い俯いた。
まだみさの腰に腕を回したままで、祐二は子供にかけるような優しい声でゆっくりとみさに話しかけた。
「ママさ、びっくりしちゃっただけなんじゃない?」
みさは俯いたままこくんと頷いた。
「…そりゃそうか…そりゃそうだよねぇ…」
こくん。
「…もし…俺がママの立場だったら…ん~…やっぱり、びっくりし過ぎてどうしたもんかって悩むと思うな…」
こくん。
「…でも…でもさ…そうだとしても…お父さんとお母さんが立派に育ててくれたことに変わりはないよね?それに喧嘩もしただろうけど…お姉さんだって、清君だって、やっぱり兄弟には変わりないじゃないか…血が繋がらない親子だってさ…仲良くいい関係を築いてる人、いっぱいいるだろう?逆に、血が繋がってたって、酷く仲が悪い家族もいてさ…酷すぎて殺人事件にまで発展したりしてさ…」
「…」
「…だけど…みさは親や兄弟とはそんな荒んだ関係じゃないじゃない…そこまで、仲悪いってのか、憎みあったりしてる訳じゃないじゃない…だったら…だったら…今のままでいいんじゃない?なんか上手く言えないけど…俺はママのこと愛してるし、ゆりのことも愛してる…お母さんやお姉さん達のことも好きだよ…」
「…そうね…そうなのよ…そうなのよ…そうなんだけど…でも…何て言ったらいいのか…」
涙が伝う顔のまま、みさは少し考え込んだ。
「…え~とね…その…知らなきゃよかったのかなぁって…思ったの…」
「…」
「あたしもね、あたしはあたし…みんなとは今まで通りってちゃんとわかってるのよ…だけどね、ふとね、自分はもしかしたらミーシャなんじゃないかって思ったらね…血の繋がりがないんだと思ったらね…ちょっぴり…何て言うか…その…淋しいような感覚になったの…今朝のぜんそくの発作もさ、すんごく苦しくて嫌なんだけど…でも、それは先祖代々から続いてるもんだからって、諦めてるような、ちょっと安心するようなおかしな感覚だったんだけど…でも、それまでも違うんだって思ったら…なんか…今、暫くはそのことばっかり考えちゃいそうで…考えたからって、何もないんだけどさ…でも…」
みさは自分の口から次から次へと飛び出る言葉と同じ勢いで、声のトーンも徐々に大きくなっていった。
祐二は抑えきれない感情で涙が溢れて止まらないらしいみさの頭を、優しくポンポンした。
「…ママ…大丈夫だから…ママ、ゆっくり休んだらいいよ…今日はまだ興奮状態だろうからさ…さて、風呂でも入ろうか…そうだ、今日は久々に一緒に入るか!なっ!そうしよう、そうしよう…」
祐二に手を引かれ、みさはよろよろと立ち上がると、二人で風呂場へ向かった。
みさは「この人と結婚して良かった。」と強く思った。
もくもくと上がる湯気の中、みさは綺麗に涙を洗い流した。
次の朝、夫を見送るとみさはしっかりと防寒し、自転車で出かけた。
夏とは違い寒風が自転車をこぐ体に沁みた。
はめた手袋と着ている服の僅かな隙間から冷たい風が吹き込むと、そこから全身に寒さが行き渡った。
10分もこいでいると段々に体がほかほかし始め、つけているマスクから漏れる温かい息のせいで、かけているメガネの内側が徐々に曇った。
そうなると、みさの中に妙なわくわく感が溢れてきた。
子供の頃のように、自転車をこぐことがこれほどまでに楽しいとは思ってもみなかった。
昨晩降った雨の爪痕が、そこかしこに大きな水溜りとなって存在していた。
どうしても避けられない水溜りの中を自転車が通り過ぎる時、みさは子供のようにペダルにかけていた足を引っ込め小さく「ひゃあ!」と叫んだ。
まだ濃いグレーのもこもこした雲の軍団が薄っすら見える空の隙間から、まるで舞台のスポットライトのようなお日様の眩しさが覗いている。
みさの視界の上半分にそんな光景が映ると、自転車をこぎながらも心の中で神様の存在が本当のような気がした。
自宅を出ておおよそ30分ほど経つと、目指していた海水浴場が遠くに見えてきた。
夏場には青々としていたらしい人の背丈ほどの名も知らない雑草群の中を通る、くねくねと曲がりくねった細いアスファルトの道をひたすら前に進む。
街を抜けると見えてくる途中の埠頭までは、大きなコンテナを積んだ大きなトラックやダンプの姿もちらほらだったけれど、ここまで来るとさすがに誰の姿も見えなかった。
真夏には海岸線に沿って長く続く駐車場も満車で、このくねった道路にまで駐車待ちの車で溢れていたなんて、今の季節にはとても想像がつかない。
色あせた淋しい景色の中、みさはただただ自転車をこいだ。
ようやく到着した海岸は、鉛が混ざったような曇った深い青。
それを縁取るように、生成り色のレースみたいな波。
強い寒風で耳にはぼぼぼぼという音しかほぼ聞こえない。
こんな死にたくなるほどの淋しい景色の中、それでも真っ白い腹をしたかもめ達はたくましく空を飛んでいる。
かもめは風を読んでいるのだと、みさは思った。
もしかしたら自分は両親の本当の子供ではないかもしれない。
そうわかってしまったあの時から、みさは無性に海が見たくて堪らない気持ちになっていた。
だから、わざわざ自宅から遠い海水浴場まで足を運んだのだ。
「死のう」と思って来た訳じゃない。
むしろこれからどういう心持で生きたらいいのかを問いに、ここまで来たのだった。
海は何も教えてくれない。
けれども、激しく打ち返す波や遠くに薄っすら見える水平線を眺めることで、何か自分自身の心が満たされるのではないかと、みさなりに漠然と思ったのだった。
自転車をこいで体がほかほかと湯気を出し、かけていたマスクやつけている帽子や手袋、服の中は若干の汗をかいているほど。
すっかり冷え切っている砂に足をとられながらも、ゆっくりと水際まで歩いた。
すると後ろでガシャーンと自転車が倒れる音が聞こえた。
「あ~あ…」
これほど強い風ならば、自転車が倒れても仕方がないなぁとみさは思った。
一瞬、自転車に気をとられたことでみさの中にあった重く暗い気持ちが、ちょっとだけ軽くなったような気がした。
横から吹いてくる風は、ただ冷たいだけではなく少し湿った砂も混じっていた。
水の傍にある大きな流木を見つけると、みさはすかさずそこに腰掛けた。
こぎ疲れた下半身は、風で冷えてくると段々重くなった。
「…はぁ~…」
耳の後ろ側が痛くなり始めたので、マスクを外すと汗ばんでいた頬が一気に冷たくなった。
真っ直ぐ海に向き合うと、みさはようやく落ち着いた。
もう自分が何処の誰だっていい。
みさの中でそこの部分はもう既に決着がついていた。
それよりも産みの母であるだろうアーニャのことを考えていた。
この目の前に広がる海の向こうから、わざわざ言葉もろくに通じないこの国にやってきたアーニャ。
そこで自分を身ごもり、どんな思いで産んだのだろう。
写真からアーニャがとても若そうだったので、自分では育てられないと思ったのだろうというのはわかった。
かといって、どこかに棄てたり、ましてや殺すなんてこともせずに自分を両親に託してくれた。
お腹にいる間だって、自分を大事に大事にしてくれた。
そう考えると、みさは自分が生かされたことをありがたいと感じた。
「この人達だったら、きっと幸せに育ててくれるだろう。」
身を引き裂かれる思いだっただろうけれど、自分を両親にもらってもらった。
その決断、自分だったらできただろうか?
アーニャのことを出来る限りの想像力で考えてみると、みさは堪らない気持ちになった。
冷たい強い風のせいでなのか、心がざわめいたからなのか。
どちらともとれる涙が、いつの間にかみさの頬を伝った。
「…お父さん…あたし…あたし…」
死んだ父の優しかった笑顔を思い出した。
何故か目の前でざわざわとうごめく、鉛色の海が父に似ているような気がした。
父と母、それに姉と弟、更には両方の祖父母と親戚達。
みんな、みんな、みさを受け入れて愛してくれている。
それに夫と娘、友人達。
みんな、みんな、みさを包んでくれている。
自分は満たされるだけ満たされた愛情の中で育った。
それは十分、痛いほどよく承知している事実。
けれども、自分を産んでくれたアーニャは?
この世に自分の種ができた時、そこは愛で満たされた場所だったんだろうか?
ふと顔を上げると、厚く垂れ込めた暗い雲の隙間から、再びお日様のしっぽが見えた。
アイボリーのキラキラ輝く光の線が、波立つ海の真ん中辺りを照らしているようだった。
みさはただ黙って海を見つめた。
そうしていると、いつの間にかざわついていた脳内が静かな凪となっていた。
「あたしは…あたし…それでいいじゃない…何が不満だって言うのよ…不満なんて…何処にもあるはずない…例えあたしが愛されて産まれてきた訳じゃないとしたって…望まれて産まれた子じゃなくたって…そんなの…そんなの…大丈夫…だって…だって…お父さんもお母さんもお姉ちゃんも清も…パパもゆりも…みんないっぱい…いっぱい愛してくれてるんだもの…そうだよ…今までだって、今だって、これからだって…みんな…いっぱい優しくて…愛してくれてるんだもの…それでいいじゃない…それで十分じゃない…」
ぶつぶつと独り言を言っても、それらは全てこの冷たくて強い風がかき消した。
もうどれぐらい経っただろう。
みさは不意に立ち上がると、周りをきょろきょろと見渡した。
誰もいないことを確認すると、両手を口元に当て海に向かって叫んだ。
「ありがと~~~~!」
特定の誰かにという訳でもなく、みさは生きていること、生かされていることに対してそういう言葉が飛び出たのだった。
大声で海に向かって叫ぶと、そのまま口元に添えていた両手を空に向かって大きく伸ばした。
体全体をすっかり伸ばすと、みさの心の黒雲がすーっと何処かへ去って行った。
「さてと…っくしゅん!」
海を背に停めてある自転車目指して歩き出すと、前触れもなくくしゃみが出た。
それと同時にどろっとした透明な鼻水も出てしまった。
「やだっ…きったない…あははははははは」
みさは今の自分を客観的に見た時、「恥ずかしい」と感じた。
そして、鼻水を垂らしたいい大人の自分が、妙に滑稽に思えて楽しくなった。
立ち止まりぶ~んと大きく鼻をかむと、今度は尿意が襲ってきた。
砂に足をとられながらも小走りで自転車まで戻ると、来る時には見えなかった建物を見つけた。
「トイレ借りよう。」
自転車で疲れてしまった体に鞭打つように、みさは急いで見えている建物に向かって自転車をこいだ。
海岸沿いの駐車場から見えたそこは、海に向かって大きな窓とテラスがある洋風の建物だった。
ただの民家かもしれない。
それでもみさは誰もいないからとて、その辺りの草の陰で用を足すつもりはなかった。
そういう行動に出ようと思うのは、今以上によほど危機迫った状態の時。
みさにはまだ若干の余裕があった。
なので、向かい風に負けることなくしっかりとペダルを踏み込むと、ゆっくりではあるけれどその建物に照準をあわせて、確実に前に進んだ。
以前外国の映画だか、ドラマだかで見たようなおしゃれな建物は、ところどころペンキが剥げている部分があるものの全体的には白い家だった。
海側とは反対の側に入り口を見つけると、みさは車が3~4台停められるほどの広さの場所に自転車を置いてドアに向かった。
背の高い草の陰に申し訳程度の看板があった。
そして、その陰には一台の使い込まれたライトバンが停まっていた。
軋む木材の階段を数段上ると、格子ガラスのドアに英語で「オープン」と書かれたプレートがさがっていた。
だが、お店の名前がどこに書いてあるのかまでは、わからなかった。
それを見つけ出すほどの余裕を、今のみさは持ち合わせていなかった。
「ここ…お店なんだぁ…そっか、よかった。」
安心してドアを開けつつ、みさは小声で「お邪魔しま~す。」と声をかけた。
ドアの開閉の僅かな揺れにあわせて、内側に取り付けてあるベルが綺麗な音を立てた。
「ああ、お客さん…いらっしゃい…」
季節外れの淋しい海岸に、夏場のようにひょいひょいとお客が来るとは思えなかったらしい店主が、カウンターの奥から入って来たみさに声をかけた。
「あの~…すいませ~ん…あの…おトイレを…貸していただけないでしょうか?ホントにすいませんです…」
深々と頭を下げつつ曇ったメガネを鼻にずらすと、上目遣いで恐る恐る店主を見つめた。
「どうぞどうぞ…トイレはそっちの奥のドアのところですから…」と、優しい笑顔の店主は入って左側の奥にあるドアを指差し誘導してくれた。
みさは曇ったメガネを外し目を細めたまま、薄っすら見えた店主の指差す方向を見つめた。
「あっ…ありがとうございます…すいませ~ん…」
トイレの場所がわかると、みさは小走りで向かった。
「…アーニ…いや、まさか…そんなはずは…」
白い髭に白髪で覆いつくされた髪、外国の漁師が編む象牙色のフィッシャーマンズセーターを着こなす老人は、季節にそぐわぬ日焼けした顔にいくつもの味のある深い皺がに刻まれていた。
慌てた様子でメガネを外しトイレに向かったみさをチラッと見た途端、老人は驚きのあまり思わず声が出てしまったのだった。
バタン。
わざとではないのだが荒っぽい閉め方になったドアから、水の流れるジャーという音と共にみさがこちら側へ戻って来た。
「はぁ~…間に合った…あの~…トイレ、ありがとうございました…」
「はっはっはっは…いえいえ…それよりも間に合って良かったですねぇ…はっはっはっは…」
おしゃれな老人に笑われてしまうと、みさは急に恥ずかしくなった。
「ホントにありがとうございました。命の恩人です。助かりました…ところで…あの…ここは?カフェ?ですか?」
トイレから話題を変えようという気持ちと、ここがどういう場所なのか知りたいという気持ちから、みさはすかさず途切れ途切れに尋ねた。
「ああ…ええ…カフェ…ってほどおしゃれではないですが…どっちかって言うと喫茶店…ですかね…まぁ、どっちでもいいんですがね…わっはっはっは…」
「そうですかぁ…」
相づちを打った途端、みさの腹の虫が容赦なくぐ~と大きな音を出した。
夫を送り出してからこの海岸まで結構な時間、自転車をこいで来た。
普段はこんなに疲れることはないけれど、今日に限ってはいつも以上の運動をしたおかげでいい塩梅に腹が減っていた。
「あっ!やだぁ~、恥ずかしい…そだ、えっと…なんか食べようかなぁ…トイレもお借りしちゃったし…いいですか?すいませ~ん。」
冷え切った体が店内の暖かさでほぐれていくと、今度は全身に汗をかいてきた。
そうなると、メガネは違う形で更に曇った。
慌ててバッグからタオルハンカチを取り出すと、顔の汗を拭うついでにメガネも外して丁寧に拭いた。
店主はみさの一連の動作を、時が止まっているかのように固まったままジッと眺めてしまった。
「…あっ…すいません、お客さん…夏場みたいに人が来るって訳じゃないもんだから、メニュー表にあるもの全部作れる訳でもないんですよ…ホントにすいませんねぇ…」
ハッと我に返ったような老店主は、動揺を隠せない態度でそう答えた。
「あっ、そうですかぁ…え~と…じゃあ…」
「…ああ、そうだ…飲み物はほぼ大丈夫…食べ物は…パスタか…鍋焼きうどんか…ホットサンド…ぐらい…なんですけども…ホントにすいません…」
「あ、そうですかぁ…う~ん…じゃあ…鍋焼きうどんと…それと、先にココア…お願いします…すいませ~ん…すっかり冷えちゃったもんだから。」
「ああ、いえいえ…悪いのはこっちの方だから…それより…どうぞ、お好きな席にどうぞ…今、お客さんはお客さんだけだから…」
「はい…じゃあ…遠慮なく…」
出入り口で立ち話していた形から、店主はカウンター奥のキッチンへ、みさは外の明るさがわかる店の奥へ進んだ。
全て板張りで独特の軋む音の奥は、海が見える席。
大きなベランダのようなガラス窓の向こうは、ウッドデッキになっていた。
夏の名残の丸いテーブルといくつかの椅子、それに畳んだパラソルが寒くて強い海風を浴びながらそこに置いてあった。
みさは「さすがにこんな寒い中、外の席は…」と思った。
それでも、やっぱり「海が見たい」気持ちが高まると、窓側の席に腰掛けた。
先ほどまでの外の強い風の音など一切聞こえない店内には、懐かしい洋楽がうるさくならない程度の音量で流れていた。
「ふぅ~…」
着ていた上着を椅子の背にかけると、みさは大きく息を吐いた。
徐々に体温が通常通りに収まると、ポケットティッシュで拭いたメガネをきちんとかけ直した。
そこへガラスのコップやおしぼりなどを乗せた銀色のお盆を持って、老店主がやってきた。
「まずはお水とおしぼりです…ちょっと待っててくださいね…すぐにココアと鍋焼きうどん用意しますんで…」
年を重ねた笑顔が素敵な老店主の顔を今度は近くで見ることが出来た。
みさは「あっ、ありがとうございます~…あの…急がなくっても大丈夫ですからぁ~…」と返しつつ、心の中では「このおじいちゃん、昔はきっと大そうなハンサムだっただろうなぁ…」と思っていた。
体はすっかり冷え切っているのにも関わらず、出された冷たいお水が妙に美味しく感じられた。
「ふぅ~…」と大きなため息を一つつくと、ほかほかと温かいおしぼりで丁寧に手を拭いてからカバンの一番下にまで隠れてしまっていた携帯電話を取り出した。
まだガラケーと呼ばれる古い折りたたみ型のそれを開けると、メールが1件。
それに気づいたのと同時に画面に表示されている時間を見て、みさはびっくりしてしまった。
「えっ?うわっ!もう1時半~?…家を出たのが8時半だから…え~と…う~んと…ええっ!そんなに長いこと外にいたんだぁ~あたし…どうりで寒かったはずだわ…あ~…風邪でも引いちゃったらめんどくさいなぁ~…また、喘息でるだろうし…あっ、だけどそういえば…自転車乗ってる時も、海にいた時も…喘息でなかったなぁ…はぁ~、良かったぁ~…でも、まだ油断しちゃ駄目だよなぁ…帰りも結構あるからなぁ~…はぁ~…ここまで来るのは全然平気だったけど…なんか疲れちゃったなぁ~…だけど、またこがなきゃ家に帰れないし…いっそ、ここに自転車預かってもらって、後でパパに車で取りに来てもらおうかなぁ…って…それはずるいか…それやったら、絶対に怒られるよねぇ…はぁ~…しゃあない…おうどん食べて、ゆっくり帰るかぁ…」
脳内でひとしきり独り言をしゃべりつつ、動作はしっかりとメールをチェックした。
「あっ!パパ…」
それは夫からのメールだった。
「ママ、大丈夫かい?喘息の発作は起きてない?やっぱりちょっと心配で…あのことはあんまり気にしないようにって言っても、きっと気にするだろうから…帰る時また連絡入れますよ。無理しないように。」
夫からのメールを目で読みきると、みさは涙で鼻がつーんとなった。
「…パパ…心配かけちゃって…ありがとう…」
みさの心はほかほかと温かくなった。
いつまでも涙を流しているのも恥ずかしいので、鼻水が流れ出る前に思い切り鼻をかんだ。
そして、窓の外の景色に目を移した。
肉眼で直に見るよりも、こうして窓ガラス越しに見る海は色合いが少し濃いような気がした。
ただぼんやりと海を眺めていることしか、今のみさにはできなかった。
「お待たせしました。まずはココアです。熱いですから、気をつけてくださいね…鍋焼きうどんはもうちょっと待っててくださいね。」
「…あっ…はいっ…」
ぼんやりし過ぎて若干眠気がさしてきていたみさは、テーブルの上の温かいココアの匂いで急に生き返ったようにしゃっきりと目が覚めた。
甘く優しい香りがそこいら中に漂うと、みさは静かにすするように飲んだ。
本当はごくごくと飲みたいところだったが、それができるほどココアは温くなかった。
再びぼんやりと海を眺めて、アーニャのことを考えた。
自分も「ゆり」という可愛い可愛い娘を産んだ。
だから、母親の心理は痛いほどよく理解できる。
なので、アーニャがどんな思いで自分を手放したかを想像すると、やはり涙しか出なかった。
それと同時に「もしも自分だったら…」とアーニャの立場に自分を置き換えて考えてみると、余計に切なさが溢れ行き場のない悲しみだけがじんわりと広がった。
何度も何度も同じことを繰り返し考えては、同じ答えに行き着く。
それでも、今のみさはどうしてもそれを考えるしかできなかった。
考えなくちゃならないことは、目の前のことにしても、将来のことにしても沢山あるのだけれど、今みさの心はアーニャのことしか受け入れないのだった。
不意にお店のドアが綺麗なベルの音と共に聞こえると、すぐさま今度は大きな声が聞こえてきた。
どうやら声の主は、ここの常連さんのようだった。
「また来たよ!暇かい?」
「ああ、いらっしゃい…」
「マスター、たっちゃんコーヒー。」
「はいよ…ちょっと待っててくれや。今、先にお客さんの鍋焼きうどん作ってるから…」
「ああ、ああ、じゃあ、いいよ…自分で入れるからさ…そっちやって。」
「悪いなぁ…」
「なぁにいいってことよ。俺とたっちゃんの仲じゃねえか…あはははは。」
つなぎの作業着の上にもこもこの着慣れたジャンバー、足元は長靴の常連さんは、背が低く頭のてっぺんが淋しい年配の男性。
窓の外を眺めてばっかりだったみさは、軽い興味でカウンターの方をチラッと見た。
すると、タイミングがいいのか、悪いのか、その人とばっちり目が会ってしまった。
そうなると、全く知りもしないくせにみさも常連さんも、同時に軽く会釈しあった。
「…おう…たっちゃん…たっちゃんって…」
「あっ?何?どした?」
折角小声で声をかけたのに、店主が大声で返してきたので、常連は少々慌ててしまった。
「しーっ!しーっ!声、でけぇって…」
「はぁ?何?なんでそんな声ちっちゃくして…」
「…なぁ、あの女さ…」
「ああ、お客さん?」
「だ~から、声でっけぇって…」
「ああ、すまん、すまん…」
「なぁ、まさかよ…まさか…自殺…する気じゃねぇよなぁ…」
「えっ?」
「だってよ、おかしいじゃねぇか…こんな季節にこんなとこまで一人で来るなんてよ…外の自転車、あのお客んだろっ?…わざわざこのくそ寒い中、自転車でこんな場所まで来るわきゃないだろって…」
「…ん~…」
「絶対、おかしいって…あんな年増で…しかも、外人か?ハーフみたいな顔してんじゃねぇか…って、そりゃ関係ないか…」
「…」
「年増がこんな季節にこんな場所に来るって…う~ん…旦那が不倫してたとか…介護に疲れたとか…そんなとこじゃねぇか?多分…あんな疲れた顔してよ…生気がないし…そうじゃ…ねぇかなぁ…」
常連が手で顎を触りながら、こちら側からみさを眺めつつ勝手にあれこれ推理した。
店主は少々困った顔で鍋焼きうどんの仕上げをしながら、みさをちらっと見た。
「う~ん…とみちゃん…それはぁ~…違うと思うなぁ…」
「なんで?たっちゃん、そんなのわかんの?」
「…ん~…だって、店に来た時、トイレ貸してくれって…それに、これから死のうって人が、ココアや鍋焼きうどんなんて食べるかなぁ…」
「さっ、最後の晩餐…じゃないのぉ?」
「ん~…俺だったら…こんな知らない店の鍋焼きうどんなんて…まぁ、食わないかなぁ…」
「…そうかぁ?」
「…ん~…さてと、出来たからちょっくら持ってくさ。」
常連に明るい笑顔を見せると、店主はお盆に乗せた熱々の鍋焼きうどんをみさの元へ運んだ。
「お待ちどおさまでした…熱いので気をつけてどうぞ…では、ごゆっくり…」
「あっ、どうも…わっ、美味しそう…うふふふふ。」
みさはできたて熱々の鍋焼きうどんの美味しい匂いを嗅ぐと、いっそう腹が減ってしまった。
店主とみさの一部始終を見ていた常連は、自分の推理が間違っているように思えてきた。
「…ごめん…たっちゃんよ…ありゃ、自殺じゃねぇみてぇだなぁ…ただ、来ただけって感じに見えるな…」
「なんも、とみちゃん、そんなことでいちいち謝りなさんなって…」
「…だってよぉ…」
「とみちゃん」は体を丸めると、少し冷めたコーヒーをずずずとすすった。
「それよりっ…それより、とみちゃん、今日は?どんな理由さ…」
「ああ…そうだった…あのさ、俺は悪くないって思うんだけどよ…なんせ、かかあが矢継ぎ早にぎゃーぎゃー騒いで怒るからよぉ~…」
常連のとみちゃんは、両方の人差し指を腹の前でつんつんと突付きながら、叱られた子供のようにじっとりと続けた。
「…台所によ、鮭の短冊あったからよ…み~こと俺でちょっとつまんだらよ…かかあが晩のおかずの刺身、勝手に食ってって…そんで、み~こにもあげたことも駄目だって…すんげぇ剣幕で…なんも、あんなべっちょのことで、あんなにも怒らなくたっていいじゃねぇかよなぁ…」
「ん~…猫にもあげちゃったんだぁ…だけど、勝代さん、そんなことだけで怒るかなぁ?…ホントはとみちゃん、他にもなんかやっちゃったんじゃないのぉ?違う?」
店主に確信をつかれたと感じたらしいとみちゃんは、更に叱られた子供のように体をより小さく丸めて泣き出しそうな顔をした。
「…それとさ…その…テーブルに置いてあった町内会費をさ…ちょっくら失敬して…パチンコに…」
「はぁ~…とみちゃん…それはさぁ…はぁ~…」
とみちゃんの呆れた行動の告白に、店主は「はぁ~…」とため息をつくと同時におでこに手のひらをパチンと当てた。
「…やっちゃったかぁ…で?勝代さんにちゃんと謝ったのかい?」
そう聞くと、とみちゃんは黙ったまま首を左右に激しく振った。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
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