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森の狼

作者: 花菱うるふ

 重く深い遠吠えが、夜の森に響く。満ちた月が、夜の影をより一層深くしている。

――もう寝なさい。早く寝ないと狼が来るわよ。

 寝ようとしない子どもに語る静かな声が聞こえる。

――いい? 森へ行ってはダメよ。狼がいるからね。

 遊びに行くんだ、とはしゃぐ子どもへの忠告の声はいつもの事。

――悪い子は、森へ捨ててしまうよ。

 腕白な子への叱責の声、それに怯える子ども達。

「狼」それはこの森の近くで、大人が子どもを窘める時の常套句。「居る筈がない」と反発する子どもはいない。それもそのはず、夜のしじまを破る狼の遠吠えがその存在を知らしめているのだから。

 遠吠えが、夜の森に響いた。丸い月は厚い雲にその身を隠し始めた。


 荒く、短い獣の息遣いが響く。地を踏む音は軽快で、重さを感じさせない。

「俺が何したっていうんだ」

 ぐるる、と喉が鳴る。灰色の毛並みの狼は、閑散とした森を一人駆け抜ける。ポキリと枝の折れる音が鳴るが、狼は気にも留めない。

「俺は人なんざ襲わねえよ」

 イライラするとでも言いたげな狼は、不快感を押し殺して夜の森を駆けた。不意に鋭い牙を覗かせて、吠える。動くたびに跳ねるしなやかな体躯は静かに影と踊る。ちらり、ちらりと覗く月は儚く揺れている。静かな森には狼の発する音以外はなかった。それから一刻ほど経った頃だろうか。狼は渇きを訴える喉を潤すために湖へ足を向けた。ふと、嗅ぎ慣れぬ匂いを狼は捉えた。視線を彷徨わせれば夜の森に似つかわしくない‘何か’が落ちていることに気が付いた。湖のすぐ近く、開けたそこに深い緑の中には存在しえない‘白’があった。森が大きく口を開けているそこには、凪いだ湖だけが佇んでいるはずだった。しかし目の前に有るのは凪いだ湖と‘白い何か’だ。

「何だ、これ」

 この森の生き物は総じて狼を恐れて近付かない。狼の行動範囲に他の生き物がいるはずがないのだ。不思議に思い、足音を殺して慎重に近づけば、白い‘それ’がもぞりと動いた。狼は‘それ’から1メートルほど離れたところで足を止めた。警戒をしながら眺めていれば。ピンと立てた耳に、ぐるるという音が聞こえた。どうやら無意識のうちに喉が鳴ったらしい。次いで、自分のものではない息を飲む音が聞こえた。先程まで蹲っていた‘それ’は怯えた様子でこちらを見ている。急に吹いた強い風が互いの横を通り過ぎていく。狼にとっては追い風だったため、風に煽られた‘それ’の輪郭が露わになる。湖の近くに落ちている‘それ’は不健康なぐらい白い、一人の幼い人間だった。

「人間……?」

 ふと、確認のための言葉が零れ落ちる。一歩近付けばひっという声が聞こえる。幼い人間は無力だと知っていたので、無遠慮に近づけば‘それ’は小さく震えていた。見下ろした小さなそれは、どこか諦めに似た表情を浮かべていた。

「お前、この近くの人間ではないな」

 森近くに住む人間ならば、決して森の奥には来ない。狼は確認のために声を掛けた。声を掛けられた‘それ’は、ぎゅっと目を瞑りカタカタと小さな体を震わせている。‘それ’がただ迷い込んだだけならば、今迄通り森の外へ出してやるつもりだった。しかし、‘それ’はこの付近に住む人間ではないようだ。視線を彷徨わせれば‘それ’の首と右足に黒いものが有ることに気が付いた。黒いものが有るという事は、それは他の人間からいじめられていたのであろう。‘それ’と同じように黒いものを着けている人間は、着けていない人間に仕事を押し付けられたり叩かれたりしていた。ならば、人間の元に返さないほうが良いだろう。それはあまりに細く、今迄見てきた黒いものを着けている人間と同じことをされていたら、死んでしまうだろう。震える‘それ’を鼻先で突けばびくりと肩を跳ねさせる。顔を寄せ、涙に濡れた顔を舐めてやる。

「俺がお前の世話をしてやろう」

 吹けば折れてしまいそうな体だ、食事を十分に摂っていなかったのだろう。まずは食事を与えなければならない、そう考えた狼はまず水を与える事にした。‘それ’の横を通り、湖に口を浸けて水を飲む。先に飲めば、飲めると分かるだろうとの判断だ。狼は水に口を浸けた事で、自分が喉を潤すために湖に来た事を思い出した。水を飲む音と水が跳ねた音だけが響いた。跳ねた水が顔を覗かせた月を揺らす。ちらりと横を見ればきょとんとした‘それ’が居た。水を飲まないのだろうか、顔を上げて‘それ’を見つめれば、怯えを孕んだ瞳と視線が交わる。こくりと小さく喉が動いたのが見えた。やはり、喉が渇いているのだろう。そう結論付け、濡れた鼻先を水面から離しそれの背を押す。黙って見ていれば、それは戸惑うように二三度こちらに顔を寄越すが動かない狼を見、静かに水面へと顔を寄せた。冷たいであろう水に手を浸け、一口。持ち上げられた水が零れ落ち、月を揺らす。それは途中から手を浸けて飲むのをまどろっこしいと思ったのか、湖に直接口をつけて水を啜った。

「あ、おい。落ちるぞ」

 狼が声を掛けるのが早かったか、‘それ’が湖に落ちるのが早かったか。ともかくそれは飛沫を上げて湖に落ちた。どうやら飲み終わった後、体を起こそうとしてバランスを崩したらしい。水面でもがく‘それ’を助ける為、狼も湖へ飛び込む。ばしゃりと先程よりも大きな飛沫が上がった。狼は素早くそれの背後に回ると首元の布を優しく銜えた。狼が近くにいるということを思い出したらしい‘それ’は、体を硬くした。狼はそれすらも気にせず無遠慮に陸へそれを放る。濡れた毛皮をうっとおしく思いながら陸に上がれば、咳き込む‘それ’がうずくまっていた。水気を少しでも掃おうと、ぶるりと身を震わせる。これはすぐに乾くだろうか、何にせよ巣穴に向かわなければならない。未だ四つ這いのままでいる‘それ’を力任せに放り、背へ乗せれば ‘それ’は反射的に背中を掴んだ。

「落ちるなよ」

 拾うのは面倒だ、などと考えながら狼は‘それ’を背に乗せ深い森へと飛び込んだ。誰もいなくなった湖畔は酷く静かだった。凪いだ湖は夜のしじまに身を任せ、浮かんだ月は薄く笑っていた。

 不意に甘い匂いが鼻腔を占める。‘それ’は巣穴近くでの事だった。食べ頃の木の実が放つ甘い匂いで、‘それ’に食事を与えるつもりだった事を思い出す。藪に引っ掛けないよう慎重に進めば力なく‘それ’が掴まっている感触が伝わる。

「ほら、食え」

 姿勢だけ低くして、‘それ’に降りるよう促す。この木の実は人間も食べていたはずだ。食べていなくとも、森の動物達は皆、この木の実を食べている。毒はないだろう。嗅覚が鈍い人間でも、この距離で甘い匂いがすれば近寄るだろう。‘それ’は、ふらふらと幽鬼のような足取りで茂みへ近付き、一心に木の実を頬張る。手や顔を汁で汚しながらの食事は下品といえばそうだが、狼は美味しそうに食事をするそれを静かに見ていた。ふと、狼も‘それ’の横で木の実を食する事にした。何て事はないただの気紛れだ。腹が膨れたのか、‘それ’は顔を上げ、それから肩を揺らした。先程まで警戒していた相手が自分の横で同じように食事にありついていたら誰だって驚くだろう。

「もう十分なのか」

 あまりに滑稽な‘それ’の姿に笑いを噛み殺しながら告げれば、‘それ’の瞳が揺らいだ。無遠慮に顔を舐め上げてやれば短い悲鳴が耳朶を打つ。

「そうだな、お前の事は‘アミ’と呼ぼうか。‘友’という意味の言葉だ。……俺の友であれ、アミ」

 調子良く吠えれば‘それ’――アミが身を竦ませる。軽く頬を寄せれば戸惑ったような瞳が揺れていた。ゆらりゆらりと揺れる深い青の瞳は、先程の水面のようだった。食事を終えたと判断した狼は、先程と同じようにアミを背に乗せて巣穴へ向かい駆ける。巣穴についた頃には濡れた体は乾き、疲れからかぐったりとしたアミを寝床へ放り、すぐ横で伏せる。狼は今まで一度たりとも感じた覚えのない温かみを愛しく思いながら、眠りへと誘われていった。一人きりの狼と一人ぼっちのアミ。二人寄り添う姿は風のない静かな夜に浮かんだ月だけが見ていた。満ちた円は次第に姿を歪ませ、その姿を隠した。


 あの夜から、一月が過ぎた。すっかり狼に慣れたアミは、狼と共に緩やかな時間を過ごしていた。

「アミ、遅くなったな」

 昼過ぎの湖畔に狼の低い声が響く。あの夜と同じ湖にアミはいた。水に浸けた手を持ち上げ、狼に向かってぱしゃり、と水滴を飛ばす。狩りで付いた血が水に溶けてぽたぽたと地を濡らす。ぱしゃり、ぱしゃりとしなやかな指先に弄ばれた水はその姿を移ろわせ宙を踊る。苦笑しながら近付けば、アミの元から一羽の鳥が飛び立つ。それは、数日前怪我をしていたところをアミが助けた鳥だった。アミが助けて以来、よく傍にいるのを見かける。青い空を見上げれば、どんっと何かがぶつかる感触がした。アミが甘えて抱きついてきたらしい。

「あれは、飛べるようになったんだな」

 小さく漏らせばアミが抱きついたまま首を傾げた。大抵の動物は狼を恐れて近付かない例外といえばアミと先程の鳥ぐらいだろうか。独りに慣れているとは言え、温かさを知った今では少しだけ寂しく感じる。どこまでも広がる青空に一羽の鳥の影。一陣の風が静かな水面に波紋を残していった。波紋は次第に消え、凪いだ湖に戻る。湖を見ていると、何故かえも言われぬ不安が背筋を這い上がる感覚がした。揺蕩う空は青く澄み渡っていた。だが、不安が去る事はなかった。

「アミ、帰ろうか」

 ぞわぞわと足を這う悪寒から、どこかに行く気にもなれず湖畔ではしゃぐアミに声をかける。首を傾げるアミを鼻先で急かし巣穴へ帰る。前よりも物が増えた巣穴にアミを押し込んだ狼は、不安を振り切る為に森を一人駆け抜けた。

 それから数日経った。それは平和といっても過言ではない数日間だった。だが言いようのない不安はじわじわと募るばかり。そして、その不安は見事に的中したのだった。

「アミ?」

 いつものように狩りをして、いつものようにアミを迎えに来た狼。だが、いるはずの場所にアミはいなかった。気のせいだと心の奥底に追いやった不安が急にぶり返してきた。幸せに浸かり、鈍くなったと自覚のある感覚を呼び覚ます。探せ、探せ。狼は感覚を研ぎ澄まし大切なものを探すことに注力する。ふと、鳥の声が聞こえた。この森で狼に近付く物好きと言えばアミの助けたあの鳥だけだ。空を仰げば一羽の鳥が弧を描いていた。狼が自身の存在に気がついたと認識したらしい鳥は、ある方向へ飛ぶ。きっとそこにアミはいるだろう。ぐるる、自然と溢れた声は唸り声。そして一拍置いて叫ぶ。重く深い叫び声をあげた狼は自慢の体躯でその地を踏み荒らす。ただただ、アミを探して。鳥の後を追って、走り、駆けた。そして遂に狼の耳にアミの声が届いた。

「アミっ!」

 目の前には逃げ、怯えるアミ。そして見知らぬ人間達。双方の間に飛び込めば人間達の動揺が伝わる。人間の内、誰かが耳障りな声を上げる。アミはその声にびくりと肩を揺らして後ずさった。しばらく見ていなかった怯えるアミの姿、狼はふと、アミに付けられた黒い輪の事を思い出した。

「アミ、巣穴までの道はわかるな? たどり着けなくていい、行け。」

 もう、我慢の限界だったのだ。大切なものを傷つけられて平静でいられる訳が無い。アミが走り出したのと、狼が人間に飛び掛かるのは同時だった。狙いは急所、目的は時間稼ぎ。綺麗に舞った赤色が緑を犯した。飛びかかられた人間は、カエルが潰れたような声を出したきり動かなくなった。口腔に血肉の味が広がる。狼は足元の障害物には気にも留めず高らかに吠えた。その声にはっとなった人間達は逃げる者と向かってくる者に別れた。情けない悲鳴を上げて逃げる者と無意味に叫び散らして得物を振りかざす者。どちらも恐怖の末の行動とは言え、なんと醜いことか。狼は人間達と絶妙な距離を保ちながら少しずつ人里の方へと向かうことにした。適度に追い立てれば帰るだろうとの判断だ。やむを得ない場合は、その命を奪うことも考えた末の判断だった。だが、狼は自身のその判断が甘かったと思った。人里に向かって駆け出し数刻。思うように人間が動かず、挙句捨て身の行動を取る者が増えたのだ。巣穴に向かった人間は噛み殺してしまったがなるべくアミと同じ形の人間に手を出したくはない。手加減すればきっとやられるのは此方だろう。どうしたものか、と焦りの中で考える。ふと、鈍い音が鳴った。遅れて来る痛み。先程から小さな傷は負っていたが、大きいものではなかった。ではこの衝撃はなんだろうか。後ろをちらと見やれば、先程仕留めたと思った人間が得物を振りかぶったらしい姿が見える。血を流しすぎている人間は、そのまま崩れ落ちた。

「ッチ、やっかいな事をしてくれる」

 先程よりも大きな傷を負ってしまったせいか動きが鈍くなってきた感覚がある。このまま追い立てるのを続ければ、今度こそ取り返しのつかないミスを犯すだろう。そう判断した狼は少しずつ人間達から距離をとり巣穴へと戻った。高かった日はオレンジの海に沈んでいく所だった。アミもきっと心配しているだろう。どこかだるい体に鞭打ち、狼は駆けた。

「アミ、アミ……」

 巣穴には、小さなアミが居た。無事だった事に安堵した瞬間、視界が揺れた。どうやら気づかないうちに血を流しすぎてしまっていたらしい。慌てた様子のアミが走ってくる。顔は涙でぐしゃぐしゃだ。

(あぁ、大丈夫だ。心配はないぞ……)

 ただ、眠るだけ。その言葉はアミに届いただろうか? 狼はゆっくりと沈む意識に体を委ね、安堵の中休息を取ることにしたのだった。


 狼はいつものように差し込む光で目が覚めた。酷く喉が渇いている気がする。体を起こせばアミが擦り寄ってきた。外へ目をやればもうすぐ日が登りきるだろう頃合だった。

「なぁアミ。どうしようか」

 ふと、隣の小さな熱に問いかける。狼が起きたと同時に起きたらしいアミは静かに身を寄せてきた。直にこの辺りにも人間が来るだろう。ならば、もっと奥へ。深い深い森の奥へ行く必要がある。

「共に行こうか」

 ふらつきながらも立ち上がればアミがその小さな体躯で支えようとしてくれる。それを嬉しく思いながら二人、森の奥へ歩いていく。


 遠くで、狼の遠吠えが響いている。魔女と狼が、この森にいるらしい。否、いるのだ。

――もう寝なさい。魔女が来るわよ

 寝ようとしない子どもに語る静かな声が聞こえる。

――森の奥へ入ってはいけないわよ。狼の餌にされてしまうんだから

 遊びに行くんだ、とはしゃぐ子どもへの忠告の声はいつもの事。

――悪い子は、森へ捨ててしまうよ。

 腕白な子への叱責の声に怯える子ども達。

 親達が口々に子どもへと告げる。「魔女」と「狼」この二つは子ども達を大人しくさせる魔法の言葉。「嘘だ、居るわけない」そんな事を言う子どもは居ない。夜半、重く深く響く遠吠えと、時折目撃されるその姿が全てを雄弁に語っているのだから。

 森の奥深く、静かな湖畔。今宵も美しい満月が、仲睦まじい二人の姿をそっと照らしていた。

作品をご覧いただきありがとうございます。

この作品は狼を主人公に、少女アミとの出会い、そして人間の山狩りそれから二人の生活をちょっとダイジェストにした感じの作品です←

後日談のようなものや、アミ視点も書きたいですねw

ちなみに、狼は動物なのでアミ(人間)は言葉は伝わってません。一方的に狼が話しかけて(うなって)いるだけです。

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