指輪質草
即興小説トレーニングよりお題:私の愛した借金
「どうぞ。お納めください」
こうやって雅代さんに封筒を差し出すのも何度目になるだろうか。
浅く腰掛けたソファから軽く身を乗り出し、テーブルの上を滑らせるようにして対面の女性に封筒を渡す。これが最後と思うと、指先からそっとはなれていく感触もなにやら名残惜しい。
方や彼女はといえば、いつもと変わりない様子に見える。
私と同じく初老にさしかかる齢にも関わらず背筋はしゃんと伸び、結い上げた髪はぴしりと整って一分の隙もない。門外漢にはわからないが、海千山千の古狸が相手の商売をしていればこうもなるのだろう。初めて会った時には、黙って対面しているだけでなにやら気圧されたものだ。
片目を眇めるようにして一瞥をくれられると尻が落ち着かなくなるのは、今も変わらないが。年齢のことを考えたのがバレたわけではないと思いたい。
当時と変わらない堂に入った仕草で、一枚二枚と弾く様にして封筒の中身を数え終えた彼女が呼び鈴を鳴らすと、すっかり顔馴染みとなった事務の女性がノックと共に入室してくる。軽く手を挙げて挨拶をすると、満面の笑顔で丁寧なお辞儀を返してくれる。こんな娘が欲しかったと、切に思う。
「お茶と、預かり物を持ってきてもらえるかい。茶請けはいつものやつだ」
かしこまりました、とはきはきと返事をして退室していく彼女を見送る雅代さんの眼差しも優しい。年若く元気で明るい彼女のことを、雅代さんが娘のように思っていることを私は知っている。
暖かい気持ちで見ていたことが気に食わなかったのか、扉が閉まると共にこちらに向き直った彼女がムッとした表情をするのが少しばかり可笑しい。
鼻を一つ鳴らして、眉間を指でぐりぐりと揉むのは、気持ちを切り替えるときの彼女の癖だ。
姿勢を正す彼女にあわせて、こちらも背筋を伸ばす。
「確かに、ご返済いただきました」
ご利用ありがとうございました、と律儀に頭を下げる彼女は根っからの商売人だ。
いえこちらこそ、と礼を返し、深くソファに身を沈める。
このソファともすっかり馴染みだ。
ソファばかりでなく、この応接室のどれもこれも。仄かに薫る彼女が愛飲する煙草の匂いも。
客として来た私の前で彼女が煙草に火を点けたことは一度も無いけれど。
「もう、三年も経つんだね」
「はい、三年経ちました」
還暦間近ともなれば、それぐらいの年月は瞬く間に過ぎてしまう。
とはいえ、私にとっては待ちわびた日だ。彼女にとっては、どうだろうか。その表情から窺い知ることはできそうに無い。
それきり黙って目を閉じてしまった彼女にならい、私も目をつぶる。
アンティークの時計の針が時を刻む音が耳に心地よい。これも三年前から変わらないものの一つだ。
静まり返った応接室に、扉をノックする音はよく響いた。
机の上には、二人分の湯呑と薄くきった羊羹を載せた皿、そしてもう一つ。
世界で一番有名な青い箱。
一度箱を開いて中身を確認した彼女が、私の方に箱を差し出す。
預けたものかどうか確認しろということだろう。
「確かに。お預けした指輪です」
蓋を開ければ、室内の灯りでも眩いほどに輝くダイヤモンドが美しい指輪が鎮座している。永遠の輝きというフレーズも誇張ではないと思えるほどに、買い求めた日と変わらない美しい指輪だ。
「そりゃそうさ。ウチは質屋だ。質草を粗末に扱ったりなんてするもんか。なんなら、もう一度そいつを質草に貸し付けてもいいよ。長い付き合いだし、モノは一級品だ。ちっとばかり色も付けられる」
口角をにんまりと吊り上げながらそんなことを言う彼女は、本当に意地が悪い。
「ははは。その必要がないことは、よくご存知でしょう」
そう、必要が無い。お金も、この指輪も。私にとっては。
蓋を開けたまま、指輪を彼女の方に向けて差し出す。指先が震えていることが、彼女に気づかれていなければいいのだが。
「今度は、受け取っていただけますか」
すっと表情を消す彼女に向けた私の顔は、穏やかに笑うことができているだろうか。
こんなときぐらい格好をつけたいと思う程度には、まだ私も男だ。
彼女が表情を消したまま指輪を手に取り、左手の薬指に通すのをじっと見守る。
「派手だね」
ぽつりとこぼしたそんな感想があまりにも彼女らしかった。
「よく、似合うよ」。
「こんな因業婆ァを相手に、物好きな男だよ」
そっぽをむいた彼女の耳たぶが真っ赤だった事は、死ぬまでからかってやろうと思う。