第08話 土台作り
智菊と弟の瑞貴は、物心つく頃から週に一度は必ずすることがある。
二人が小さい頃に両親は、仕事で海外赴任が決まった。
この両親は今も昔も変わらず仕事人間だったために、よく子供が二人もできたものだと周りを呆れさせていた。
母親は子供たちを保育園に早くから預けて仕事に明け暮れていた。海外赴任が決まり子供たちをどうすべきか。両親は、子供たちを一緒に連れて行くかどうかを悩んだ。
そこへ母方の祖母が「二人を自分が面倒を見るから置いていけ」と言った。
かなり迷った両親だが、連れて行っても他人に任せきりになるのは目に見えていた。元々子供の教育よりも仕事をすることを楽しんできた両親だ。そんな両親が子供たちに何が出来るというのか。
それよりは、祖母の手で愛情いっぱいに育てられる方が子供たちにとって良いだろうと預けることになった。
それは結果的に両親と子供たちそれぞれにとって、とても良かった。
両親にしてみれば、信頼できる人に子供の面倒をみてもらえるし、子供たちにしてみれば愛情をきちんと与えられて育てられた。
田舎の学校は子供たちに良い環境だった。
喘息気味だった弟の瑞貴は、祖母の家で暮らす内に丈夫になった。
気弱だった弟は、成長して身体が丈夫になるにつれて習い事を始めた。いろいろ習ったが最終的に続いたのは剣道だった。
両親が行事などで顔を見せないで祖母が顔を見せることで同級生からはからかわれて不快な思いを何度も経験した。でも子供たちにしてみれば祖母以上に愛情をくれる親はいないと思っている。
そうして何年も経ち、両親がようやく帰国した。
両親の住む家に子供たちを戻すように頼んだが、祖母はなかなか頷かなかった。
押し問答の末に結局は智菊が小学校を卒業するまでの間は、祖母の家から子供たちは学校に通っていた。
これはその祖母からやるように言われ、二人がそれぞれ別々にだか必ず最低週1度は行っている事だ。
「ふわあっ、うーん、眠いなー」
欠伸をしながらいつも通りに着替えを済ます。
智菊の場合は、毎回普段学校に出かける時間より1時間は早めに起きて近所の神社に「散歩」に出かける。
祖母に場所は寺でも神社でも構わないから継続だけはするようにと言われているので、朝練のある弟とは行く場所が違う。あえてどこかはお互いに干渉していない。
やがて神社に着いて参拝をする。その後、そこの神社には飲める湧き水があり必ず口に含む。
そうして背負っていたリュックから空のペットボトルを数本出して、そのペットボトルに水を満タンにしてから帰宅する。
そのペットボトルの水は「散歩」に出かけない日に毎朝飲むようにしている。
見てはいないが、智菊の弟も同じように行っているはずだ。
これが二人の習慣である。
こうした習慣を他には誰もしていないのは、すぐに気付いた。
この「散歩」を周りに話さず、自分たちの間でさえもなぜこうしているのかを話し合いもせずに二人は続けている。
祖母に答えを聞いてもはぐらかされるだろうと思っていたのだ。二人の祖母は基本的にとても無口な人だ。必要なことさえ口に出さないときもあるのはこんな理由があった。
「干渉しすぎると未来が変わる」
そんな祖母の愛情だけは、子供たちは疑った記憶は一度もない。
祖母は住んでいる町で、ある意味有名人だった。
高齢者に非常に人気というかとても尊敬されていた。
子供たちはそれがなぜなのかは分からなかった。
尊敬している人の子供たちにあたる周囲の人々も曖昧に「すごい人なんだってね」というだけで、本当にそう思っているのかは分からない。
そういった周囲の祖母を遠巻きに見る姿勢が、同級生たちが祖母を「魔女」と認識させていた。
智菊たちは、祖母は普通の人とは違うとだけは理解できていた。
そんな祖母からの教えである習慣は、悪事を働いているわけでもないし、気分がしゃきっとするしで一種の「散歩」として智菊は捉えている。
だが智菊は事故に遭った。
結果的にそれまで視た覚えもなかったあの黒いモノを視た。
そうなった以上はどうしてもさまざまなことが気になり出した智菊は、祖母に電話をした。
「お祖母ちゃん、智菊です。教えてもらいたいことがあるの」
病室で黒いモノと対峙した話をまずした。
全てを話したあとで今までは視えなかったのにどうしてあんなモノが、視えたのか。
弟ともどもやっている神社参拝には、何の意味があるのか。
もしかしたら自分は後遺症を起こしたのか。
気持ちが焦るが、早口にならないように途中で深呼吸しながら話した。
「…………」
黙って智菊の質問を聞いていた祖母は、穏やかに口に出した。
「智菊の目が覚めたのよ」
その言葉になぜか納得した。
……そうか。目覚めただけか。
事故の後遺症じゃないんだ。
もう一つ、電話を切る前に祖母の口から出たのは「視える力を養いなさい」だった。
智菊が視えた黒いモノは、実際にはそんなモノではないはずだというのだ。
開眼したばかりの智菊は、視たモノを視たくないという拒絶反応を起こしていた。
それがああいうモノがあると認識だけはしたが、はっきりとした形で捉えるのではなくて黒いモノとして視えた。
少し勘が鋭い人間なら同じように視えただろうと言われて思い出したのは、繭ちゃんのことだった。
事故に遭って視えるようになった智菊とは違って、彼女は物心ついてからずっとああいったモノが視えていたというのだから何か対処はないのかを口に出す。
「繭ちゃんも同じように視えてたみたいなの。彼女はどうすれば……」
「その子が退院したらお前が面倒みてあげなさい。思春期だけ視えるというわけではないようだから、対処方法をきちんと学ぶ必要があるよ。まずは智菊がしている習慣をその子にもさせるんだね。もう少し納得して訓練していけば、形もはっきりするし、声も聞き取れるようになる。お前たちは波長が合うようだから一緒にやるのが一番効率的だろう。でもその子が完治するまではお前は自分で修行をしなさい」
説明されても「分かりました」とは素直に言えない。
もう視えなかった頃には戻れないとはっきり口にされた。
それでもあえてはっきり視えるようになる努力をしたいとは言い切れない。
繭ちゃんの前でも腰を抜かしていたように、あのときのことを思い出すとまだ身体が震える。
事故に遭い、軽症ですんだが思わぬ副産物がついてきた。
祖母は単なるきっかけで必ず同じように視えるようになっていたと言うが、頭を打たなければまだ視ずにすんだかもしれない。
そう思う気持ちも確かにあった。
修行うんぬんはともかくも「散歩」だけは欠かさず行おうとだけ智菊は決めた。
両親にはそうした話は一切しなかった。そんな話をしたら病院に連れて行かれるだろうと思ったからだ。
ただ、弟の瑞貴にだけはしっかり話して理解をもらいたかった。
姉である智菊を敬遠したりはしないだろうが緊張した。
「瑞貴、大事な話があるの」
退院して二人きりになった自宅で弟に自分の体験した話をした。
瑞貴は驚くよりも激怒した。
「なぜそのときに話さなかった?」
どうやら自分が蚊帳の外に置かれていたのが気に食わないようだった。
だが智菊もこの弟には驚かされた。
元々二人がやらされている習慣によって、弟も視えはしないが尋常じゃない気配は感じ取れるようになってきたというのだ。
剣道を続けてきたのは、その気配を自分なりにきちんと捉えるためだと話す瑞貴を尊敬した。
「私なんかもうあんな目に遭いたくないと思ったのに、瑞貴は偉いね」
「俺は意味不明なモノに振り回されて結果的に痛い目に遭いたくないから練習しているだけだ。でも肝心なときに智菊を守れなかった」
瑞貴は智菊たちが病室でああいう事態に巻き込まれた話に、役立てなかったことを悔いていた。
「……結果何事もなかったのは分かる。でも事故のときと同様に俺がいないときに智菊が怖い目に遭ったのが耐えられない。次はちゃんと教えてくれ」
過保護な弟に説得されて何か変だなと感じたらいつでも連絡するようにと約束させられた。
かなり不安気な顔をした弟を見て、素直に頷いた。
それから夕方以降に外出すると、それまでは視えなかったモノが街にはいくつか存在しているのが分かった。
天気の悪い曇りのときも怪しいモノは視えた。自覚するようになり視る力が少しずつ強くなっているようだ。
日増しに視えるモノが明瞭になりつつあることに不安もあるが、智菊は一人ではない。
怖くても向き合わないと行けないのなら、助けてくれる人に支えられてしっかりと視なくちゃいけない。
瑞貴と訓練がてら近所で黒いモノに対して塩と水を持って向かうこともした。
祖母によれば、アレは幽霊のようなものだが意思はないに等しい。
人の絶望や恐怖などの負の感情を糧にしている節がある。
だから一度向き合ったらどんなに絶望的状況下に置かれても自分の感情は抑えるか、負けてたまるかという強気でいるべしと言われた。
ただ元々人であったのだから敬う気持ちは忘れてはいけないとも言われた。
「……敬えって言っても餌に飛び掛る動物みたいに来られたらどうしたってこなくそってなるわよ!」
「智菊っ! しゃべってないでしっかり清めるんだよ」
週一のペースで弟と二人で黒いモノ退治をするようになった。
消しても消してもすぐに同じように現れるのは、人の負の感情を食らって増えるからだというからどうしようもない。
ほとんどのモノは放置していても問題ないが、いくつかは放置していれば後々が問題になるというから、瑞貴と一緒にその問題になる前に対処している。
人の負の感情に当てられ続けると事故や自殺など良くない状況が増えていき、どんどん連鎖する。
祖母は人の多いところではある程度仕方がないのだから、しっかり二人で修行するようにとだけ言った。
訓練を始めてから瑞貴もだんだん智菊ほどではなくても視え出した。
「一緒にこんなことをする必要はないのよ?」
瑞貴を巻き込んでいる自分に嫌悪を感じるが、瑞貴はそんな智菊の不安を一蹴する。
「巻き込まれてるんじゃない。俺が自分で選んだんだ。巻き込んだなんていうのは智菊が馬鹿な証拠だ。二度とそんな馬鹿な発言はするな」
いつだって瑞貴はこうやって智菊を甘やかす。
それにいつまでも甘える自分の情けないことか。
でも大学生になれば一人暮らしが始まり、少しは弟に頼りきりから抜け出せるかもしれない。
それまではもうしばらくはこの優しい環境に身を浸していたかった。
「ありがとう、瑞貴」
後にいろんな経験を通じて、お祖母ちゃんがもう少し詳しく教えてくれてたらと本人に愚痴をこぼしたら笑われた。
「体験しなきゃ、何の面白くもないでしょう」
何があっても変わらないでマイペースで頼りになる、それが智菊達のお祖母ちゃんだ。
こうして智菊は自分の新たな力を伸ばし始めた。