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第06話 踏み込んだ世界

 ゴクッと唾を飲み込む。


 智菊が感じているのは、あの頃みたいにあやふやな怖さではない。

 何もしなければ恐ろしいことが必ず起こる、そんな恐怖があった。

 まだどこか現実とは信じられない気持ちはある。

 実際に目にしていても、疑いたくなるような状況に陥っているのだ。

 だが何もしないこの時間に黒いモノは男性を少しずつ侵食していった。

 手に持っているのを再度確認した。

 自らが手にしているわずかな塩と水のみの頼りないもので不安だ。

 でもこれは何事にも動じない祖母からの智菊への見舞いの品だった。

 それはこうなると見通したから渡したに違いない。祖母は予知視っぽいことができる人なのだ。

 ……だから大丈夫。祖母は無意味なことはしない人なのだから。

 これが役に立つと思わなければ、決して持って来たりはしなかっただろう。

 何度も自分にそう言い聞かせるが、やはり心の葛藤は続いた。


 本気で逃げ出したい。これで効かなかったらどうしよう?


 そんな智菊の心とは裏腹に、手は塩を黒いモノに向かって躊躇なく投げられた。


「なくなってっ!」


 強く願いながら手から放たれた塩は、黒いモノにうまいことかかった。

 

 ジュワッ

 

 何かが溶けるような嫌な音とともに智菊の願い通りに黒いモノが霧散した。

 それと同時にあのおぞましい臭いも薄れてきた。

 黒いモノの勢いは止まり、周囲がはっきり視えるようになった。


「……どうかな?」


 誰に言うでもなく呟いた言葉は、ひどくかすれていた。

 全て綺麗になくなっていたら良かったのだが、黒いモノはまだ残っていた。

 その残っていたいくつかが小さく分裂を始める。

 分裂した一部が標的を智菊に狙いを定めて襲ってきた。


「……っ!」


 目を閉じたら終わりだという予感があった。

 智菊はどうすることも出来ずに黒いモノの様子を視た。


「智菊さんっ!!」


 バチャッ


 繭ちゃんの声がしたと同時に、何かを床にぶちまけたような音がした。

 彼女の手にはペットボトルが握られていたのを智菊は目にした。

 ペットボトルから出された水に黒いモノが一瞬怯んだように動きを止めた。


「ありがとう、繭ちゃん!」


 その隙にそれまでの恐怖心は脇にやり、やるべきことをてきぱきと始める。

 再度自分に向かって来た黒いモノに残っている塩を勢い良く振り撒いた。


 ジュー


 周囲が焼けるような音がしたが実際は黒いモノが消えただけだ。

 塩が効いて黒いモノが薄れるのを確認してから智菊は、すかさず男性の口にペットボトルの水を飲ませた。


「しっかり飲んでっ!」


 意識がはっきりしない男性に向かって水を飲ませようと身体を抱き起こす。

 目が開いているのが分かるが、意識はまだ朦朧としている。

 なかなか水を飲んでくれなくて智菊は焦るが男性から手を離すことはしない。

 ベッドに飲み込めなかった水が少しずつこぼれ出した。

 智菊はそんな瑣末なことには一切構わなかった。


「頑張って飲んでっ! 苦しくても飲んでください」


 とにかく頭を無理やりに固定して口に含ませ続けた。

 声をかけ続けていると飲ませるのにどうにか成功した。

 

 ゴポッゴポッ

 

 妙な咳を男性がしたら、口から黒いモノが溢れてきた。


「うわっ、また出た!」


 その男性の口から出てきた黒いモノは、一斉に智菊の周りに纏わりついてきた。

 男性を抱えているために逃げる暇もなかったが、さっきと同じように豪快な音がした。


 バシャッ


 今度はすぐに繭ちゃんが動いてくれたのだと分かった。

 智菊の身体に少し水がかかったがそれに対して嬉しかった。

 自分には繭ちゃんという仲間がいると思うと智菊は落ち着いた。


「いい加減にしつこいっ! さっさと消えろっ!!」


 慌てずに手に残って持っていた塩を全て撒いたら、あっという間にそれらは霧散した。

 周囲をキョロキョロと見回す。

 気付けばそこは、薄暗いただの病室になった。


「「……」」


 繭ちゃんとお互いに顔を見合わせる。

 隔離されていると思った感覚も消えて、転倒防止の灯りもいつの間にか点いていた。

 なぜか、もうあの黒いモノは視えないだろうと確信した。

 

「助かったんだ」

 

 繭ちゃんの声がやけに耳に残った。

 ――助かった、か。

 その言葉に緊張が解け、安心したら腕がぷるぷる震えだす。

 目線が下に下がったのに慌てて自分の身体を見ると、腰が抜けていた。

 無意識の内に床にべったり尻餅をついていた。足は小刻みに腕同様震えている。

 男性の頭を支えていたが、無意識の内に止めていたようだ。


「……はあーっ、しんどっかった」

「平気? 智菊さん?」

「平気、平気。ちょっと力が抜けただけ。すぐに元に戻るよ」


 たははっと笑って智菊は気力を取り戻そうとした。

 こんな状態では年上の威厳も何もあったものじゃない。

 まだ身体は素直に動いてくれない。

 全体の震えはおさまってきたが、自由のきかない状態のままだ。

 ちらっとさきほど無理やり水を飲ませた男性を視る。


「……げほっげほっ……うげっ」


 黒いモノはすっかり消え去ったのが分かるので安堵したが、男性は相変わらずむせ続けていてとても気の毒になってきた。

 病状も心配だから、そろそろちゃんと誰かを呼ばないといけない。

 すー、はーと何度か深呼吸を繰り返した。

 完全に震えがなくなったのを確かめてから、繭ちゃんにナースコールをしてもらった。


「智菊さん、本当にもう人呼んで大丈夫?」

「うん。説明が思いつかないけど、どうにかなるでしょう」

「分かった」


 そのあとの出来事はそれまでの時間の濃密さと比べれば実にあっけないものだった。


 バタバタッ


 何人かが慌てて歩いてくる音がしたら病室のドアが開いた。

 病室を訪れた看護士さんは、智菊が床にいるの姿を見て不思議そうにしていた。


「どうかしたの? 具合が悪くなった?」


 その看護士さんに、繭ちゃんがフォローしてくれる。

 

「……智菊さん、お水飲んでたらおじさんの様子がおかしくなったんでびっくりしたみたいです。慌てて様子見にベッドまで近付いたら突然大きな咳をしたんで、智菊さんは足を滑らせたようですよ。私もおじさんの大きな咳にびっくりして手に持っていたお水を盛大にぶち撒けてしまいましたからね」

「そ、そうなんです! ベッドで寝てるのしんどくなってちょっと室内を歩いていたら急にその男性の容態がおかしくなったみたいで……。私、あまりこういう事態のに慣れていないので粗相をしてしまったようです。かなり慌てて男性のベッドにまで水がかかってしまったみたいで本当に申し訳ないです。……迷惑かけてごめんなさい」

 

 足には力が入らないが上半身は身動きできた。精一杯丁寧に深くお辞儀をした。

 それが功を奏したのか、看護士さんは咳が治まらない男性の様子を見た。


「げほっげほっ……げほっ」

「大変っ! 大丈夫ですか?」


 何人かの医師や看護士が出たり入ったりしていた。

 しばらくすると男性は投薬の効果が現れたのか、咳もやんで寝始めたようだ。

 もう一人の男性はこんな騒ぎの中で、一度も起きることもなかった。

 そのことに不思議に思い、看護士さんに尋ねた。


「あちらの男性は大丈夫なんですか? こんなに騒いでいたのに一度も目を覚まさないようですし……」

「ああ! あの人は不眠症の症状もあったから睡眠薬を飲んでらっしゃるのよ」

「だから起きないんですね」


 智菊たちが濡らしたり汚した床は、文句を言うでもなく看護士さんがしっかり掃除してくれた。


「次は気をつけて下さいね」


 床を掃除した看護士さんは苦笑して注意をしてきた。それに二人は大人しく頷いた。

 その看護士さんは、腰が抜けた智菊を丁寧にベッドに下ろしてくれた。


「おじさんはもう大丈夫だから」


 幼い子供に言い聞かせるように看護士さんは口にして、病室を後にした。

 智菊達もその言葉にようやく安心した。


「「おやすみなさい」」


 お互いに疲れに身を任せてすぐに眠りについたのだった。

 

 



「昨日のは何だったの?」

 

 繭ちゃんがハーブティーを飲みながら聞いてきた。

 ベッドからまだ動けない繭ちゃんの側に智菊が寄って行き、繭ちゃんが自分で作ったというハーブティーを分けてもらった。

 ゆっくりとそれを味わいつつ深夜の騒ぎを思い出す。

 無事に済んだ今はあのせっぱつまった恐怖はもうない。

 だが突然の黒いモノの襲来は、智菊にこれまで知らなかった世界があるのを体験させた。

 目にしていないから知りませんとはいかなくなるだろうと何となく思った。

 そう考えるとあの怖さを思い出して身震いしてしまう。

 首をぶんぶんと振ってリラックスをしようとする。 


「繭ちゃんはアレが視えたんだよね?」

「うん。前からああいうのは視えてた」

「だから冷静だったんだ」

「まさか! それは智菊さんでしょ。私はああいうのを視たら全速で逃げるか、神社とかに駆け込むくらいしかしたことなかった。だからああして智菊が塩と水を使って何とかなるなんて考えたことすらないよ」

 

 首を大きく振って否定する繭ちゃんを見つめて、智菊は今までよく我慢してきたなと改めて彼女の芯の強さに感嘆した。

 繭ちゃんは物心ついた頃からああいうモノをたまに視ていた。

 視えるからといって何かを出来るわけではない。

 両親や周りの知人には自分と同じモノが視れていないのは、すぐに分かった。

 元々親子仲があまり良くなかったからか、初めてあんなモノが視えるようになっても相談しようとは思わなかったそうだ。

 それでも自分だけ視えているのは怖くて仕方なくなり、一度だけ友達に話したら気味悪がられてしまった。

 

「繭ちゃんのうそつき!」


 友達には否定され、翌日からは無視されるようになった。

 ただ、救いなのはその友達は他の子にはその話をしようとはしなかったことだ。


「気味悪がってたのに、親にも誰にも私のこと言わなかったんですよ。それで周りは単なる仲違いして友達じゃなくなったんだって思ったらしくて、何とかいじめも受けずにすみました」


 その点だけは黙ってくれた彼女にとても感謝していると言った。

 それでもこうした経験から、自分の視えるモノの話は誰にも話せないと一切を周りには黙っていたようだ。そうして今まで秘密を抱えてきた。

 友達と一緒にいる時にああいうモノを視ると、どうにかしてそれが視えない位置に移動するようにしてきた。

 何度かそんなことをする内に、どうしても不自然になってしまう繭の行動を見た友人には「変な子」と遠巻きにされる場合もあるというが、あんなモノの側に寄るよりはマシだと思っていた。

 必然的に一人で過ごす日が多くなっていったそうだ。

 相談というのはこのことだったそうだ。

 智菊があの男性の方を向くと無意識に腕をさすっている姿を見て、もしかしたら自分と同じように視えるのではないか? そんな風に考えた。

 だが話す踏ん切りがどうしてもつかなかった。

 朝になってまだ男性の容態も変わらなかったら信じてもらえるか分からないけど、今度こそ話すだけはしよう。

 不貞寝して目が覚めたら、深夜の突然の異変に恐怖と絶望に心が支配されそうだった。


「……怖くて怖くて、逃げたいのに足はケガしてるし周囲の空間にも違和感あるしでこれは逃げれないなって思ってたの。誰かに助けて欲しくてでもどうせ無理なんだし、私には何もできないんだから、あの黒いモノに気付かれないようにしなくちゃってそんなズルイことしか考えなかった! それを智菊が助けてくれた。本当に助かったのを実感したら、今度はあんな風に考えた私って最低だって! ……っく、ごめんなさい! 私、何もしようとしないで、逃げてごめっ……」



 まさか深夜にああなるとは思いも寄らなかったようで、落ち着いているように見えたがやはり混乱していたそうだ。

 だが結局は、怖いよりも「一人じゃない」と、その気持ちが大きかったそうだ。

 

「……あの塩と水は市販のじゃないからね。祖母が昔からああいう存在を知ってたみたいで、昨日お見舞いに来てくれた時にお守りと一緒にくれたんだよね」

 

 智菊の祖母は同じ県内に住んでいながら一人暮らしをして、田舎生活を送っている。

 何度も母が歳を気にして同居を勧めたが山から下りるつもりはないと聞き入れない。

 そんな祖母が入院したとはいえ、比較的軽傷ですんだ孫にわざわざ会いに来たのがおかしかった。

 不安がっていた弟を電話で心配無用を言い切ったのだから尚更だ。

 もちろん祖母は母親代わりに智菊たちを育てたのだからとても大事にしている。

 ただすんだことに対していちいち行動を起こしたりはしない人だった。

 それが実際には智菊の見舞いに訪れた。

 でもその時はそれ以上考えるのを止めていた。

 

「でもおじさんも元気になって良かった!」

 

 満面の笑みの繭ちゃんに頷く。確かにそうだ。

 今朝になって男性は、検査をして問題なしと判断されこの日退院して行った。

 起きているまともな男性を見るのは初めてだったが、あんなモノを飲み込んでいたとは思えない健康的な人だった。智菊がやったことを何となく分かっていたようだ。


「ありがとう! お嬢さんのお陰で助かったっ!! 本当に感謝してるよ!」


 両手で智菊の手をしっかりと握りしめてきた。

 その手はかすかに震えていたが、お互い深夜のことについては話題にはしなかった。

 実際に体験した智菊がいまだに信じきれないのだ。男性だって同じだろうと思って何も聞かなかった。

 今まで連絡のつかなかった男性の家族も退院時には病室に来て挨拶をしていた。

 おそらくはあの黒いモノが、男性の容態を悪くさせていたのだろう。

 昨夜の看護士さんに後で聞いたら、男性はとっくに退院している患者さんだった。

 それがここ数日の内に容態が少しずつ悪くなっていった。

 医師も原因が分からずに首をひねっていたらしい。

 どうしてあの黒いモノが現れたのか、場所的な原因もあるだろう。

 何といっても、ここは病院なのだから。

 智菊は念のために弟が祖母から電話で用意するように言われて持って来た昨日と同じ塩を、ベッドの横にある棚の中の引き出しの隅に、見つからないように置いておいた。

 棚の中の掃除は智菊のいる間はしないだろうから、気休め程度にと置いておいた。

 繭ちゃんにも水と塩を気持ち程度渡したら笑顔で感謝された。

 

 この時は、ああいう黒いモノをこれからも視るようになり、更なる体験をするとは考えもしなかった。

 

 ただただ、繭ちゃんと互いの無事と自分の近くなった退院を喜んでいた。

 繭ちゃんという年下の女の子と友達になれたのを喜び、お互いの連絡先を交換した。

 純粋に二人で会いたい気持ちで教えたのだが、やがてそれは思わぬ事態へと導いていくこととなる。

 こうして智菊の初めての不可思議な体験は幕を下ろした。

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