第04話 芽生え
――これで一人じゃなくなった。
ベッドから動けないでいた繭は、目覚めてからの絶望を、今は振り払えると思った。
救世主なんて現れるわけない。
そう思っていたのに、智菊さんが自分と同じモノを視えた。
それが分かってどれだけ嬉しかったか。
「…………っ」
思わず涙がこぼれてきて慌ててそれを拭った。
今は泣いてるときじゃない。集中している智菊さんの邪魔は絶対してはいけない。
智菊さんの様子から、アレを視るのは今回が初めてだと分かった。
繭は何度も視たことあるのに、行動しようとは思わなかった。
目が覚めたらあんなモノが視えたのに、臆せずに行動してくれた。
目の前で緊張した顔つきでゆっくりと歩み出した姿を見ながら思うのは、希望だった。
助かるとかよりも、自分だけに視えているわけではないというのが、とてもありがたかった。
何が起こるか分からないのに、自分の身の危機よりも私たちを助けようと動いてくれる。
こんな人もいるんだ。
その凛とした姿を見て、繭は落ち込んだ。
繭は、男性が入院して同室になったときから違和感を覚えていた。
最初は気のせいかとうやむやに思っていた。
だが夜中にふと目覚めて男性に視線をやると、黒いモノが纏わりついているのが視えた。
どうしようか? でも自分にはどうにもできない。
昼間は小康状態でも、夜になると少しずつ面積が増していくアレを視ない振りしかできない。
最初はサッカーボールくらいの球体だったのに、どんどん面積を増やしていくアレに戦慄した。
でも、周囲は男性の異常さには決して気付かない。
「……あのおじさん、具合がかなり悪いんじゃないですか?」
繭は、一度勇気を出して看護士に疑問を口に出した。
「手術して身体が休息を求めているだけだから、心配無用よ。すぐに退院するわよ。繭ちゃんはもうしばらくは我慢しようね」
断言されてしまっては、それ以上何も言えなかった。
そんな繭にはどうしようもないときだった。
初対面なのに、緊張を解けさせてしまう不思議な空気感の持ち主だった。
「これからしばらくは入院仲間として仲良くしてね」
微笑んで挨拶をしてくれたのは、数日前に事故に遭ったという繭よりも2つ年上の少女だった。
彼女の周りはとても空気が澄んでいた。
「繭ちゃんて言うんだ? 私は智菊って呼んでね。弟の瑞貴と同じ年だし、こんな所で出会ったのも縁だから仲良くしてね」
瑞貴と呼んだ繭と同じ年の少年は、姉の前だからかとても丁寧にお辞儀してくれた。
彼もお姉さんと同じくとても居心地の良い空気を纏っているように視えた。
智菊さんは、周囲に信頼できる友人のいない繭を、自然と打ち解けさせてくれた。
一緒に過ごす短い間に、とても彼女を信頼している自分に気付いた。
それでも夜は毎日やって来る。毎夜悪夢の時間は皆が就寝した頃に訪れる。
毎朝、男性の容態が急変していないかを確認するのが日課になった。
智菊さんとは自分でも思った以上に仲良くなって驚いている。
瑞貴君とも仲良くなってきて、この姉弟がいかに仲良しかを毎度実感していた。
ここまで整った顔立ちの少年は、見たことがなかった。
繭の通っているのは共学の高校だが、あまり他人と接触をしない繭が男子と話すのは久しぶりになる。 その繭が、緊張しないですむように軽口を叩いてくれて、気楽な関係になった。
異性の友人などいないが、こういうものかもしれない、と嬉しく思った。
繭はこの姉弟に会うまで、特に人の顔の美醜にこだわりはなかったが、彼らはそんな繭にも意識せざるをえない美形姉弟だ。
智菊さんは、自分が普通だと思っているようだが、そんなことはない。
とても空気がふんわりと柔らかい印象を与える人で、一見地味な洋服に隠れがちだが、とても綺麗な人だから本当はもてるだろう。一度遠回しにそのようなことをほのめかして聞いてみた。
「まさか! 私がもてたことなんてないよ。そんな物好きいないって瑞貴もよく言ってるしね」
弟がもてるのはよく分かっているが、自分が一度も告白もされていないからもてないと言い張っていた。
……おそらく弟の瑞貴君が何か妨害をしてきのだろうと思うが、智菊さんには言えない。
仲良くなってみると分かるが、彼はかなりの曲者だった。
万人受けしそうな雰囲気を持っているのに、本当はとても排他的な人だ。
たまに繭が姉に余計なことを言わないか監視しているような目線を送ってくる。実際、繭が智菊さんがとても綺麗だと正直に述べてみた。
「智菊は褒められると調子に乗るから、そういうことは言わないように」
笑顔なのにとても怖い思いをした繭は、智菊さんの意識改革は早々に諦めた。
過保護すぎるところもあるため、この姉弟の依存度の高さが分かる。
でもそれがおかしいとも思えない。
もしかしたらそんな風に思う繭自身が、少しおかしいのかもしれない。
自分も誰かにそこまで大事に思ってもらいたい、なんていう考えを繭は抱いてしまう。
この二人は顔はあまり似ていないが、持つ雰囲気はそっくりだ。
弱い者を引き寄せ守ってくれるのではないか、と希望を抱かせる不思議な空気を持つ人たち。
――彼女なら自分をおかしな目で見ないのではないだろうか?
そう思った矢先だった。
「退院するのが決まったの」
嬉しそうに微笑む智菊さんに、このときの繭は、きちんとおめでとうと伝えられただろうか。
彼女がいなくなれば繭を助けてくれそうな人は現れないだろう。
相談して、もし気味が悪いというような目で見られたら、繭は自分が正気を保てるか不安だった。
でも相談せずとも彼女は退院したら、会う機会などそうはない。
どうする?
「……智菊さん、相談があるの」
震えないように気をつけてどうにか勇気を出してその言葉だけ伝える。
智菊さんは、一瞬不思議そうな表情を浮かべるが、すぐに笑顔で「もちろん」と承諾してくれた。
だが、時間が経つにつれてその勇気は消えてしまった。
――相談したからって何ができる? お互い単なる学生じゃないか。
そんな自虐的な考えが頭を支配してしまった。
臆病者の自分を罵りながら、不貞寝したその日だった。
「……?」
――何か音がした?
繭は上半身を持ち上げて周囲をきょろきょろと見るが暗くてよく見えない。
繭は周囲の違和感に首を傾げる。
夜中とはいえ何でこんなに暗いの?
ズルッ
「……っ!?」
暗闇の中でそこだけが異常だった。
繭が様子を確認していた男性のベッドから異常な音を確認した。
音の正体はこれだったのか、と分かった途端に繭の身体が一瞬にして強張る。
――もっと早くに智菊さんには相談しておくべきだった。
繭だけにしか分からないというのは、繭にこそ何かができるということなのだから。
反省しても事態は何も変わらない。
分かっていても何も出来ない繭ができるのは、現実逃避だった。
こうなっては誰にも何もできないだろう。
おそらく、あの病人の男性はかなり重篤な状態になる。
あんなモノを身体に飲み込んで平常でいられるわけがない。
繭は他人事のように考えていた。
もしかしたらあの男性だけが犠牲になるかもしれない。でも繭たちは助かる可能性があった。
手元にあった携帯電話を開いて、その一部分だけがほのかに光る。
通話は当然圏外だった。
ナースコールをしてもおそらくは誰も反応しないだろう。
空間が遮断されたような不思議な感覚があった。
今までみたいに逃げるのは不可能だろうと経験から分かった。
関わりあいにならなければいい。そうすれば平気かもしれない。
男性が黒いモノを全て飲み込めば空間は元に戻り、繭たちは平常通りになるかもしれない。
繭は足を固定されて動けないのだから、この事態が収束するのを静観するしかなかった。
そう思いこもうとした。
でも身体は全身が緊張による震えが治まらない。
目の前で人が死ぬかもしれない。
それを本当は繭なら何とかできるのではないか?
でも恐ろしくてとても行動に移せない。
絶望の中、いもせぬ何かに助けを求めてしまう。
すがるものを探したくて周囲を見回す。横を目を凝らして見ると、ぼんやりとした人の姿が見えた。
暗さに慣れて見たそこには、智菊さんが口に手を当てている姿が目に映った。
――もしかして自分と同じように視えているのだろうか?
繭は、藁にもすがる思いで言葉を発した。
「……智菊さん、視えてる?」
身体が震えているのに、しっかりした声を出せたことに繭は安堵した。
「うん」
答える智菊さんの声も力強かった。
暗闇の中、異様な状態にある病室で自分を見失わずにあの黒いモノを視る智菊さんは、輝いて見えた。
実際は単なる気のせいだろう。自分の都合の良いように脳が働いているに違いない。
暗闇に目が慣れたとはいえ、病室全体が異様な暗さだ。
ぼんやりとそこに人がいるのを確認するのが精一杯だ。
だが、その姿はまるで物語の中の救世主のようだった。
智菊さんは、黒いモノをしっかりと見据えていた。
対処の方法を必死で考えているのが、離れた場所にいる繭にも自然と伝わった。
それくらい強い意志を秘めた力を智菊さんから感じ取れた。
非常時に脅えるだけの無様な自分とは違う。
智菊さんの逃げずに立ち向かおうとする姿勢を見て、繭はこれで助かると確信を抱いた。
自分を救ってくれる何かが現実に現れるなんて思いもしなかった。
いつもすがっている近所の神様だって結局は繭を助けてなどくれなかった。
不可思議なモノは自分が逃げて追ってこないのを願うだけしかしなかった。
そんな対処方法を繭は自分でもよくないと思っていたが、これ以上周囲におかしな目で見られたくなどなかった。だから消極的な対応だった。
血の繋がりのある家族とは、ただでさえ希薄な関係だ。
お金さえ渡していれば良いという考えの父親、そのお金を浪費することしか頭にない母親。
二人とも繭には問題を起こさないならいいとばかりに、高校に入学してから一人暮らしをさせている。
幼少の頃に、視えていることは言わなかったが、アレを避けようと行動する姿が二人には奇異に映ったようだ。必要以外に娘に干渉しようとはしなかった。
父親は跡継ぎになる息子が欲しかったのに、いるのは娘一人で生まれたときから可愛がりもしなかった。母親は父親と結婚して贅沢に暮らしをしたかったから繭を生んだ。それで自分の役目は済んだとばかりに、育児はお金を払って人任せで、自身が遊びたいために繭の養育には一切関わらなかった。
元々子供に関心の薄い夫婦だった二人は、中学卒業と同時にマンション暮らしをするように言い渡してきた。
両親を信頼できない繭は、一緒に暮らすよりは一人の暮らしの方が安心できたためにそれ自体は良かった。
ただ、そんな繭でも入院して一度も見舞いに訪れない両親に悲しみは持つ。
連絡したが、そっけない言葉しかもらえず、後日病院に入院費用を振り込んだという事務的な連絡がされただけだ。
自分では両親の愛情を欲してないと思っていた。
だが、こういう事態になっていかに自分は両親の愛情を欲していたのかを実感した。
お見舞いに顔を見せに来てくれるのではないか、と期待したのをあっさり裏切られた。
だから、あの黒いモノに纏わり憑かれて家族も見舞いにこない男性に、自分と同じ孤独を感じた。
この男性の姿は自分の未来の姿だ。
勝手に思い込んで、大したこともせずに傍観してやり過ごそうした繭は、恥ずかしかった。
自分とそう年も違わない、それも自分みたいにいつも視ているわけではないのに、立ち向かおうとしている人がいる。
――自分もこのままではいけない。
何か少しでも智菊さんの役に立ちたい。
この最悪の状況から何とか無事に抜け出したい。
繭の中で初めて、行動しようという積極的な気持ちが芽生えた瞬間だった。