第03話 知りたくなかった世界
視えない。私には何も視みえない!
だからこんな気持ち悪いのは,、夢なんだ。
自分以外に気付かないなんて夢に違いない。
一刻も早くこの悪夢から目を覚ましたい!
頭では、今まであった経験からこれは現実で、おまけに自分にしか視えていないモノだと分かっていた。
ただ、今までは逃げれば良かった。
薄気味悪いモノの側には寄らない。
そうすれば悪いことは決して起こったりはしない。
視えたあとで調べてみるとアレに関わった人は、何らかの不幸に巻き込まれるのを知った。
逃げるが勝ち。それが自分の鉄則だった。
少しでも触れれば自分も恐ろしい何かに関わってしまう。
だから周りに変人扱いされようとも、とにかくそこから逃げれば問題は何もなかった。
例え同級生や家族から腫れ物扱いされるのは、本気で悲しく辛い思いをしてもそれだけは変えれない。
得体のしれないアレから、自分の身を守ることを優先した。
でも寂しかった。とても孤独だった。
――誰かに救って欲しかった。
そんな負の感情を持つこと事態が、あれらを増殖させる。
分かっていても限界だった。
助けてっ!!
自分の心の叫びは、きっと誰にも届かない。
救世主なんてこの世にはいないんだ。
智菊は自覚していなかったが、事故の負担はやはりあった。
入院生活3日間は、発熱したり打撲の痛みがあったりした。
一度は無事を安心した家族がふたたび心配をしたが、智菊はその辛かった日々の記憶はほとんどない。 熱にうかされて記憶はとびとびになっていた。だがそれも峠を越して周りが、ようやくほっとした。
そんな中で智菊を心配した友人や知人たちが、昼間に何人か来るようになった。体がだるいぐらいで負担も感じなくなった智菊は、心配してくれた友人たちに笑顔で無事な姿を見せた。そのお見舞いに応じる以外は、智菊が寝ている間に過ぎていった。
智菊が入院した部屋は、4人部屋だった。
ありがたいことに、この病室は最近ベッドなどの器具を新しくしたそうだ。お陰で過去に入院した人のことを想像しないですむ、と安堵した。
智菊以外のもう一人の女の子は、繭ちゃんといとても可愛い高校1年生だ。弟の瑞貴と同じ年なのに、女の子な分素直で可愛く見える。弟は母親似で女性っぽい整った顔立ちをしているため、繭ちゃんと近くにいるとそれはそれは目に楽しい光景だったりする。
外面が良い弟が、珍しく素で繭ちゃんをいじっている光景を見た。
弟にもついに春か? と母親の気分が沸き立った。表情に出さないようにしていたが、付き合いの長い弟からはすぐに釘を刺された。
「智菊と同室の子だから話したら、智菊と似たとぼけたタイプでからかうのが楽しかっただけだよ。いちいち下世話な考えしてんなよ」
繭ちゃんは事故による骨折で、そろそろ一ヶ月が経過する入院生活だと教えてくれた。
智菊の反対側のベッドには会社員だという男性が、過労が蓄積して病気を悪化させたために入院したとかで、奥さんがとても心配していた。
本人は顔色もそう悪くなく、そろそろ退院が近くなって安心していると笑顔で話してくれた。
「これを充電期間として、また仕事を頑張るよ」
奥さんはそれを聞いて苦笑いしていた。
最後の一人は年配の男性だ。病状については詳しく知らない。なぜなら皆が起きている時に男性は起きていないし、お見舞いする知人や家族の姿もないために、どんな理由での入院かは分からなかった。智菊が入院する前日に入院してきたというが、繭ちゃんたちとも話していないそうだ。
一日中寝ているのが心配だが、特に呼吸器などをしているわけでもなく、ご飯ときになると看護士たちの手で食事もしっかり摂っているようなのでさほど注意して様子をみたりはしていない。おそらくは病状は安定しているのだろう。その食事のときに、ようやく顔を見たら随分陰の薄い男性だった。覇気が全くなくて顔色も悪い。
――本当に病状は安定しているのだろうか?
その男性の方を見るたびに得体のしれない肌寒さがあったが、気のせいだと思った。
智菊は待ちに待った退院が、正式に決まったのが嬉しくて、男性のことはすぐに気にならなくなった。
毎日の病院食に、特にやることのない毎日にさすがに飽きてきていた。卒業を待つだけの身の上だから、勉強はする必要もあまり感じない。学校の試験はあるが、友人がコピーして持ってきてくれたノートの写しで何とかなりそうだ。
智菊は時間の空いているときに、入院ですっかり授業の遅れを痛感している繭ちゃんの勉強を、家庭教師のように教えるのが暇つぶしになっていた。遠慮がちに教えて欲しいと言う繭ちゃんに、「任せて!」と強気で断言した。
だから正直繭ちゃんの学校の教科書が、智菊の学校の教科書と同じなのを見て、顔には出さないようにしたがとても安心した。
授業も智菊の学校とそんなに変わらないのか、弟ほど出来のよろしくない智菊の頭でも何とか教えることができた。2年前の勉強だが、推薦で受験するつもりがなかった智菊は、それなりに勉強していたためによく覚えていた。
どうにか年上の威厳は保てたかな?
その繭ちゃんは、人への気配りができる賢い少女だった。
最初は他人行儀に年上の人扱いをしていたが、思春期特有のニキビに悩まされているのを、同じくニキビで中学時代に苦しんだ智菊が、いろいろアドバイスをしたりして親交を深めていった。女の子特有の悩みや会話がとても楽しかった。
だからこの退院は智菊は嬉しい反面少しの寂しさもある。
智菊の退院が決まった日、繭ちゃんは智菊に二人きりで相談があると言った。
夕食を終えて寝るだけになった智菊は、歩けない繭ちゃんのベッドに行った。
「どうしたの?」
「…………」
「繭ちゃん? 何か言いにくいことなの?」
「…………」
智菊の顔を見つめて、何かを言おうかどうしようかと口を何度も開いたり閉じたりしている。
やがて諦めて「やっぱり何でもない」と首を振ってしまう。
心配した智菊は、何とか話をしようとするが「今日はもういい」と彼女はベッドに横になってしまった。
彼女の常とは違う顔が気にはなったが、どうしようもない。
仕方なく智菊も自分のベッドへ横になった。
――今何時かな?
昼間に退院が決まったり、繭ちゃんの思いつめた顔を見たりで興奮したのか、ふと目が覚めた。
智菊が時計を見たら深夜2時半すぎだった。
変な時間に目が覚めた。ふうっと溜息を吐いた。
水でも飲もうとベッドの横の小棚の上にある何本か置いてあるペットボトルの一つを智菊が、手に取ろうとした時だった。
ゾワッ
前触れなく、急に智菊の全身に鳥肌が立った。
頭の片隅で危険だという自分の声がする。
尋常でない空気が、一瞬にして病室を包みこんだ。じっとりとした気味の悪い感触が肌に伝わる。
室内の温度は病院で常時一定の温度を保っているはずだ。それなのに、あっという間に冷気が室内の温度を下げた。
智菊の吐く息がかすかに白くなった。
これはただごとではないと、智菊はベッドから抜け出そうとした。
ズルッズルッ
何かが這うような音がした。
いや、音がしたような気がしただけかもしれない。
それと一緒に悪臭としか言えない吐き気を催すような臭いが辺りに充満しだした。生ごみを発酵させたような鼻をつまみたくなる臭さに窓を開けたくなる。
だが音は断続的に続いていて薄気味悪い。
慌てて智菊は鼻をつまみながら、音のする方向に目を向けた。
その方向には一人だけ病状のわからない年配の男性が、寝ているベットがあるはずだった。
――やけに暗い。
それなのにベットの一部がやけに黒い。深夜だから暗いのではない。
絵の具で無理やり塗りつぶしたような黒さが目立った。転倒防止で、ほのかな灯りがあるはずなのにまるで存在していないようだった。白いカーテンが黒く見えて、そのカーテンが月や星の明かりも遮っていた。
智菊に異常事態を痛感させる。
自分を落ち着かせようと最初は、暗闇に目が慣れてないからだと思った。
しばらくしても、そのベットの周辺は黒いままだった。病室に充満する臭いも薄まるどころか、一層臭ってきた。
視力が人よりも良い部類の智菊は、暗い中でもよく見えるように目をしっかり開いた。
眠気などすっかりなくなっている。
心臓がドクドクと音を立て、異様に興奮している自分を認識する。
智菊がよくよく観察すると、男性の頭の付近の濃度が特に濃い。更には最初に目をやったときよりも黒い部分が増えている。
どこかに黒いモノが増える原因でもあるのだろうか?
智菊はよくよく目を凝らして特に暗闇の深い場所を視る。
男性の顔が判別できそうにない。身体の位置から頭があるだろうと思われる部分は、黒いモノに覆われていた。
怖いというより気持ちが悪くなり、鼻をつまんでいた手で思わず自分の口を塞いでいた。
臭いもどんどん酷くなっていくようで、気持ち悪さに拍車をかけた。
ゴクッゴクッ
何かを嚥下するような音が、黒い場所から断続的に室内に響いている。
その不気味な音と共に、男性の頭がかすかに動いているように視える。かといって黒いモノは減るわけではなかった。男性の中に飲み込まれれば飲み込まれるほどに増えているようだ。
男性の身体も嚥下するたびに黒く染まっていった。
あの音は、男性が黒いモノを飲み込んでいるから出ているように思えた。
男性の意識はないようなのが救いなのか危険なのかは、分からない。
意識がないのに勝手に口から何かが身体に飲まれていく様はおぞましかった。
頭の中でこれは非常に危険だと、智菊には本能的に察せられる。
だからと言って自分に何ができる?
ナースコールをしても無意味だと感じた。窓側をちらっと視るが、どうにもならないだろう。
黒いモノを視るようになった時点で、智菊たちのいる病室が、隔離された空間に感じるのだ。
常識的には有り得ないと頭では思う。だが身体では隔離されているとしか思えない。
時間だけがどんどん経過していた。
智菊がどうしようか焦っていると、横からこんな場面なのに震えもしないしっかりした声がした。
「智菊さん、起きてる?」
隣りのベットの繭ちゃんだった。智菊の気分転換も兼ねての勉強会でだいぶ仲良しになった二人。
だからこそ、こうして互いに現状の無事を感じ取れて安堵した。
「うん」
彼女の声のお陰で智菊は、多少混乱から抜け出せた。
現状打破にはならないが、自分だけに視えているわけではないのにホッとした。
「あれ、視える?」
「うん。そのまま動かないでいてね」
彼女に小声で伝えたあとの智菊の行動は、とても手慣れていたと後から繭ちゃんに言われた。
もちろん、智菊本人は必死だっただけだ。
自分がどうにかしなくちゃいけないんだ。
それだけが頭の中で何度も思っていた。
不意に、昼間自分の見舞いにと離れて暮らす智菊の祖母からもらった清めの塩を、枕元に置いたの思い出した。
それを右手に、その塩と一緒に渡されたペットボトルの水を左手に持った。
後から考えるとこの時の智菊の姿は、怪しげな霊能力者そのものだっただろう。
よく繭ちゃんも怖がらずにいたものだと思った。
とにかくあの暗闇を何とかしなくては駄目だ。
智菊は決心した。
反対側のもう一人の男性は寝ているのか、物音が全くしない。ある意味大物に思うが、単純に具合が悪いだけかもしれない。あの黒いモノが出現して部屋の室温も下がり、空気も悪臭が漂って気分が悪い。
病気で入院中の人が、その空気で余計に病状を悪化しないか心配にもなった。
そこまで考えて気付いた。
これはあの黒いのが悪いんじゃない? あれさえ何とかすれば元に戻る。
智菊は、繭ちゃんにも自分と同じように黒いモノが視えてはいるようだが、自分より年下に危険なマネをさせられない。目上と目下は大切にするべしというのが智菊の信条だ。
何をどうしても彼女は守らなければいけない。自分だけの問題ではないのだ。
一番危険なのは、あの黒いモノに覆われてしまった男性だ。一刻も早く助けないと生命の危機だ。
塩を見舞いにと少し変わったところのある祖母から、世の中には生身の人間以外のモノがいるというのは聞いていた。
どうしても自分で過去に視た覚えがない智菊は、話半分に聞いていた。こんな事態になって、尊敬する祖母の話なのだからしっかり聞いていなかったことをとても悔やんだ。
日頃の面倒くさがり屋のツケがこんな場面で払うはめになるとは思わなかった。
まさか、こんな風に視えるなんて思わないじゃない!
昼間に顔を見たと思ったら、すぐに自宅に帰っていった祖母を半ば恨めしく思った。
横からの視線を感じて目を向けると、不安そうな顔をした繭ちゃんがいる。
怖いだろうに、気丈に我慢して騒がずに黙っていてくれている。
そうだ、自分は一人じゃない。
思い至ったら凝り固まっていた筋肉が和らいだのを感じる。
やるだけやってみればいい。それで駄目なら別の方法を試してみよう。
とにかく絶望して呆けている暇などない。
智菊は手に持った二つの持ち物に目をやって、ベッドからゆっくりと足をおろした。
繭ちゃんからの視線を感じながら、暗闇にどんどん近づいて行く。
なぜか暗闇のこの黒いモノは男性の周りから動こうとはしない。
つまりはこの男性だけが危険な状態だということだ。
もしかしたら放っておいてもいいのかもしれない。ヘタに関われば、自分だけでなく繭ちゃんにも影響がでるかもしれない。男性は、もしかしたら寿命なのかもしれない。
悩んだのは一瞬だ。すぐにその考えを捨てた。こういったモノは放っておけばどんどん増殖すると過去に祖母が言っていたのを思い出したのだ。
どちらにしろ、ここには自分がいて何とかできるかもしれない物を持っている。
それならやるしかない!
ふうとゆっくり深呼吸をして、今度こそ黒いモノに立ち向かった。
これが智菊の初めての常識ならざるモノとの対面になった。
それが視える世界を認識させる強烈な体験になった。