第02話 出会いは全ての始まり
智菊は、病院に入院していた。
自分では実感が湧かないが、車にぶつかり軽傷ですんだものの、頭を強く打っていたので後遺症を心配されての配慮だ。事故のあとに酷い耳鳴りと頭痛があったのをかすかに覚えていた。
だから客観的に考えれば、重篤な障害が出ていてもおかしくはなかった。
軽傷ですんだのは奇跡だと医師からもあの事故を目の前で見た母親からも伝えられた。
家族が心配するのは理解できた。
けれど弟がいるのは当然としても、両親揃って自分を見下ろしているのを見ると、非常に申し訳ないと思ってしまう。両親は非常事態には当然だと言うが、普段の智菊たちの両親は、仕事人間なので家族が一同に揃うのは年末年始くらいだ。普段から子供たちは両親の不在に慣れている。そうした環境にある子供など周囲には何人もいたし、比較的裕福な暮らしができるのは、この両親のお陰だと強く祖母からも言われてきた。それがこういう状況とはいえ、自分たちの近くにいるのを見ると妙な違和感を覚えた。
その両親の姿よりも智菊にとって身近で大事な弟が、涙を我慢している。
その姿を智菊は思わず、可愛いなと思ってしまう。口に出したらまた怖いお仕置き毒舌トークが出てきてしまうから、どうにか口を閉じる。
祖母に育てられた智菊たちだが、両親の帰国後は二人で支え合って生きてきた。祖母には弟が小学校を卒業するまでは週末には会いに行った。だがどうしても距離ができてしまった。本当に大事な相談があれば祖母を頼りにするが、普段のささいな出来事は姉と弟の間で解決してきた。
だから両親よりも先に弟の心配をしてしまう。当然両親と話すよりも先に弟と話すのを優先する。
智菊は、自他共に認めるブラコンだった。異性に興味を抱くよりも弟の心配をすることが、何よりも大事だと思ってきた。弟以上に素敵な異性が周囲にいなかったというのが本音だが。
その可愛い弟が、泣きそうになっている。
それも自分のせいで、と考える智菊もだんだん泣きそうになってくる。
「普段はトロいくせに、何張り切ってんだよ」
「ごめんね、瑞貴。もう心配いらないよ。お姉ちゃん頑丈なんだからさ!」
「……このバカっ。心配したんだからな!」
やはり我慢しきれなかったのか、泣き出してしまった。横になって寝ている智菊の腕に、しがみついてきた弟の頭を撫でてやりながら、両親に手を振ってドアから出て行ってくれるように合図する。
これでしばらくは、病室から離れていてくれるだろう。
両親も二人の仲良し具合には慣れている。この年にもなってまだ弟優先はどうなのか。
たまに友人に尋ねられるが、逆に智菊は聞きたい。
弟よりも優先したい気持ちって何?
「着替えを取ってくるわね」
それだけ言って両親は、病室から出てくれた。智菊が入院なんてことになってひどく動揺したのだろう。
弟は両親にいつもの卒のない対応をする余裕などなかった。
しばらくして落ち着いたのか赤い目をこすりながらも、智菊の様子を見て安心したのか、普段の弟らしく強気に言ってくる。
「智菊にしちゃ、よく子供を守ったよな」
久しぶりに姉の前で泣いたのを照れたのか、照れ隠しが褒めてるのかけなしているのか分からない言葉をくれた。落ち着いた弟が、事故を聞いて学校を早退したときの状況を説明してくれる。
「部活の朝練が終わって、自分の教室で部活仲間とくだらない話をしてたんだ」
まだ朝のHRが始まるまで時間が多少あり、教室にいるのも同じように朝練が終わった友人たち数人しかいなかった。
「今日、部活終わったら皆で何か食べてこうぜ」
仲間の一人がそんな誘いを口にしたときだった。
ガラッと教室の扉が勢いよく開けられた。
開いた隙間から瑞貴の担任の男性教師が、顔に汗を流しながら教室に入って来た。
普段はのんびりと穏やかな雰囲気を崩さない担任が、とても慌てていた。
最初に担任を見たときには自分に関係のあることだとは思わなかった瑞貴だが、慌てている様子から不幸があったのだとすぐに気付いた。
担任は教室をキョロキョロと周囲を忙しなく眺めていた。落ち着きなく視線を動かしていたがやがて瑞貴と視線が合った。
その瞬間の言いようのない不気味さに瑞貴は、酷い吐き気がした。
「栗谷! ご家族が事故に遭われたそうだ。タクシー呼んだから早く病院に行きなさい」
「家族? それってもしかして……」
「お姉さんだそうだ。今職員室に知らせが入ったんだ」
担任の言葉で鞄を持ってすぐに駆けつけた弟は、病院で泣いている母親を見て説明を求めた。
「……何があったんだよ? 智菊はどうしたんだよ? 泣いてないでさっさと説明しろ!」
母親をゆさぶり怒鳴りつける瑞貴に、はらはらと涙を流し続ける母親。全くといっていいほど反応を見せない母親の姿に、普段は母親に対して丁寧な言葉遣いしかしない瑞貴が、その余裕もないほど焦りを滲ませていた。そのせいで周囲の空気は張り詰めていた。
いくらか時間が経過して、母親がどうにも説明できない状態だと分かった瑞貴は、ナースステーションで事故についてようやく詳し状況を教えてもらった。そして姉である智菊がかなり危険だというのも認識した。
それから時間がどのくらい経過したのか。
――智菊がなぜこんな目に遭わなくちゃならないんだ? もし無事じゃなかったら犯人をどうしてやろうか。
椅子に母親と並んで座って瑞貴が考えていたのが、そんなことばかりだった。
「智菊は無事か!?」
しばらくして父親も血相変えて病院に乗り込んできた。
その頃になってようやく医師から智菊の身体の状況の説明を受けた。
内臓に損傷もなく、身体自体には特に酷い負傷はない。けれど車にぶつかった際に、頭を強く打っていうためいまだ意識不明であるということ、それが2、3日しても意識が回復するかが重要だという話を聞かされた。
瑞貴は何度か深呼吸を繰り返して、家族で病室に移った智菊の顔を見るために中に入る。
穏やかな顔で眠っている智菊は、声をかけた家族に反応を返すことはなかった。
「……祖母ちゃんに知らせてやんないと」
瑞貴が自分にとっての大事な育ての親である祖母に電話をかけたのは、事故の日の夜だった。
事故からかなりの時間が経過しているのをこのときようやく実感した。
母方の祖母への電話は瑞貴に任せて、両親は親戚や仕事関係に連絡をかけに病院から外へ出て行った。
電話に出た祖母は、瑞貴の話を黙って聞いていた。
両親に対しては、瑞貴は姉の智菊以上に距離を置いている。
どうしても姉や祖母を普段から頼りにしていしまう。生活をさせてもらっているのはよく分かっているが、瑞貴には両親をあまり家族と思えなかった。
話を聞き終えた祖母は落ち着いた声で瑞貴を諭した。
「……あの子はまだ大丈夫よ。亡くなったりはしない」
「本当に?」
「祖母ちゃんの言うことを信用なさい。あの子は長生きできるよ」
「……うん」
祖母の言葉にそれまでの焦りが、自分の気持ちから消えるのを瑞貴は感じた。
どこか浮世離れしている祖母の言葉は、これまでのさまざまな経験から素直に信じられた。
姉の智菊は大丈夫だ。今は自分がしっかりしなければいけない。
電話を切った瑞貴は、病院に戻ってきた母親にさきほどの非礼を詫びて普段通りの空気を作った。
母親もその頃にはさきほどの放心状態からも立ち直っていて、息子の激昂など気にしていないと笑ってみせる余裕が生まれていた。
それが智菊が目覚めるまでに起こった話だと教えてくれた。
そうして落ち着いたのか、話すこともなくなり無言ながらも穏やかな空気が二人を包む。
どのくらい時間が経過したのか、智菊がうつらうつらしていると、両親が病室に戻って来た。
医師の説明を聞いてきたらしく、打撲ですんだものの一応頭を打った後遺症の確認も含めて二週間は入院すると伝えられた。
皆に非常に心配をかけたし、後は卒業を待つだけで出席日数も問題ない智菊は素直に頷く。
やがて智菊はこの入院中にこれまでの自分の知らない世界があるのを、身をもって体験するはめになる。その前にとても重要な出会いが、智菊を待っていた。
智菊が入院して落ち着いた頃、見知らぬ3人家族がお見舞いに来てくれた。
入院してしばらくは友人たちには遠慮してもらい、家族だけしか見舞いには訪れなかった。
智菊の具合がよくなってきたのを感じた両親が、最初に智菊に面会させたのがこの家族だ。
人の顔と名前を覚えるのが苦手な智菊は、はじめ父方の親戚かと思った。
すぐに一緒にいた母が相好を崩して出迎えたため、親戚案は消去した。
母と父方の親戚一同とははっきり言って仲が悪い。
お中元とお歳暮のよりとりはするものの、お互い電話でやりとりするのも最小限にしている。
どうしてそんなに仲が悪いのか、一度尋ねたが決して教えてはくれない。
単に性格が合わないんだろうと言う祖母の言葉を信じて放っておいている。
――誰だろう?
ふと智菊が目線を下げると、涙目の小学生の男の子が立っていた。
子供って苦手なんだよなと内心面倒くさいと思っていると、子供特有の甲高い声で尋ねられる。
「お姉ちゃん、痛い?」
体調は快方に向かっているとはいえ、まだまだ辛くて動くのも億劫な現状だった。
しかし泣かれては困ると必死になって身体を無理やり動かし、元気だと伝えた。
その無理がたたったのかどうかわからないが、夜には症状がぶり返してしまい家族にこっぴどく叱られたのは余談だ。
丁寧に智菊にお辞儀をしたご両親と息子さんに内心首を傾げた。
高校生の智菊は、この家族とは初対面のはずだ。それなのにこんなに丁寧に挨拶をされるのはおかしい。
不思議そうな智菊の様子を見た母親が、智菊に説明してくれる。
その3人家族は事故の時に智菊がかばった、あの列の最後にいた男の子だった。
男の子の名前は橋本さつき君と言って小学1年生だ。
何回か道路で石けりをしている自分の息子に、危ないからやめるようにと彼の母親は叱っていたが、さつき君の中で石けりが、はやっていたため止めれなかった。周りの友達もやってるのに自分がやめるのはカッコ悪いと考えていたそうだ。
何回連続して学校まで同じ石を蹴って来れるか。
大人が呆れるような遊びがクラスでははやっていたそうだ。
あの日は、とても調子が良くてさつき君は、このまま同じ石で学校まで行けると思っていた。だから注意力が普段以上になかったそうだ。
石けりをしていたら突然知らない女の人が目の前にいて、仰天する間もなくあっという間に田んぼに押し出された。何が起こったのか理解できなかったが、周りの様子から大変な事件が起こったんだとさつき君にも分かった。自分の洋服が泥だらけになったのも恐怖を煽ったらしい。
「洋服よごして、お母さんにしかられるって思ったらこわかった」
自分が悪いのかと怖くて堪らなかった。続けてそう言ったさつき君は、結局泣き出した。
そのさつき君の手をしっかり握った彼のお母さんとで、そんな風にあの時の状況を教えてくれた。
時間が経って泣き止んださつき君の小さな手から、お礼にと手書きの「お守り」と書かれた小さなポチ袋を智菊に渡してくれた。中には一言だけ一生懸命書いた字があった。
「はやく元気になってね」
智菊としては、たまたま動いただけの行動だった。
何かに急かされるようにして行動したのは自分の意思だ。
結果的にはさつき君を助ける形になりはした。だが絶対に助けようと意識的にしたわけでもない。
それなのに、憧れのヒーローのを見るようにキラキラ光線を出されるのは困惑した。
すぐに退院するのでこれ以上のお見舞いは断わったものの、さつき君になぜか好かれたようでまた会いたいと言われた。
事故の時のことを思い出して会うのは良くないのではないか、と智菊はやんわりと断ろうとした。
それをなんとなく感じ取ったのか、「会ってくれないなら約束してくれるまでここにいる!」という脅迫じみたお願いをされた。
とりあえず直接会うのは時間をかけ、お互いに落ち着くまではさつき君とは文通友達になる約束をした。
子供だからすぐに飽きてしまうだうと楽観した考えは、桜の花が散る頃には諦めの境地になる。
まだ小学生だからいくらでも興味を持つ対象はあるだろうと思った智菊に、さつき君のお母さんは「息子はまだ小さいわりに一度興味を持つとなかなか飽きない」と言った。
ヒーローというのは生身になると厄介なものだ、というのが智菊の実感である。
こうして予想外に、智菊は実弟以外にとても可愛い弟分が一人増えた。
そしてこの可愛い小さな少年との出会いによって、智菊は日常を崩壊させることとなる。