第19話 元凶は神社?
澱んだ空気を発しているのが、この神社なことに智菊は愕然となった。
くたびれた鳥居を潜って境内に一歩足を進めるたびに身体に悪い空気が纏わりついてくるのは錯覚だと思いたい。
まさかこの付近を覆う黒いモノがここから現れているなんて信じたくはないが、否定しきれない現状が智菊の目にはしっかりと視えている。
「まさかこの神社が原因なの?」
まだ二月で肌寒いはずなのに智菊の頬を一筋の汗が伝う。
吐いている息は白いのに身体は熱を発し続けている。
こんなに禍々しい空気を持つ神社など智菊は知らない。
祖母の家のある神社はいつだって清潔で身が引き締まる思いで邪な考えなど持ちようにない所だ。
毎週行っている散歩先の神社だって祖母の所ほどではないにしろ、神聖な気配が満ちる穏やかな空気がある所で居心地が良い。
神社とういうのは神域のはずだ。
それがこの神社はどうか。
よく視なくても神聖な神様などいないというのがよく分かる。
――怨霊とはこういうのを言うのだろうか。
歴史や宗教に疎い智菊にはここに蔓延る黒いモノが、幽霊などといった元は人間だった意志よりももっと大きな存在が変化してしまったからここまで巨大にになっているようにしか思えない。
病院での体験も祖母によれば異質だったようだが、ここは場所全体がおかしくなっている。
ちょっと見ただけで荒れた状態の境内が目につく。
誰も掃除やお供えもしなかったのか、地面の至る所に雑草が生えていて社も柱や屋根など目につく場所が損傷している。雨漏りもしている箇所があるかもしれない。
人の出入りがほとんどないせいか、良くない環境になったようだ。
どんな場所でも人が建てた物は、人が利用しなくなったら悪くなるだけだ。
人が住まなくなった家が単なる廃屋になるように、この神社も人が参拝しなくなって何年以上も放置されているからこうなったはずだ。
「……ふうっ。こんなに空気の悪い場所なんて初めてかも」
思わず予備用にしまっていたマスクを取り出して口を隠した。
それが意味のない行為だと分かっていても、直接ここの空気をこれ以上吸いたくなかった。
口を隠して参拝するなんて礼儀にもよくないのは重々承知の上だが、智菊は自分の精神を守ることだけを考えた。
どうにも居心地の悪さが拭えずあまり長居したくなかった智菊は、目にした以上は神社に挨拶だけはしようと参拝すませて、拾えるゴミは拾ってから神社から離れた。
「早くここから出よう」
振り返ったら何か恐ろしい目に合う気がした智菊は、神社の鳥居から一歩離れた時点でそちらに目を向けないように早足で歩く。
来た道を戻って行く間にも神社の淀んだ空気が智菊の身体に纏わりつく。
何度も何度も自身の身体に家から持ってきた塩をかけたり水を飲んだりして短い距離を歩いた。
いつも以上に神経質になっている自分を内心で笑うが、落ち着けないのは変わらない。
手足が震えるようなことはないが、それでも身が竦みそうになる。
どこにも異変はないのにも関わらず、すぐ近くで智菊を見つめているような感覚だけがするのだ。
智菊はさきほどの奥さんの状況を思い出す。
こんな状態なら近くに住む人に精神的にも悪影響を及ぼしているかもしれない。
事故死した次男の経緯も気になる。
果たしてどちらが先だったのか。事故死が先か神社の穢れが先か。
「……中田さんに詳しく教えてもらおうかな」
立派な作りの神社なのになぜこうも放置されたのか疑問に思った智菊は、少し前に出たばかりの中田さんの家を再訪問する。
中田さんの家は上空を黒いモノが覆っているにも関わらずさほど邪気がない。
おそらくは何か神聖なモノが中田家を守っているのだろう。
智菊は修行の成果で集中しない限りは視えないようになったために、こうしてお邪魔している家などは失礼になると思って視ないようにしている。
インターフォンを押すとすぐに扉を開けて中田さんが顔を出す。
ちょっと前に帰ったはずの智菊の顔を見て慌ててドアを開けてくれる。
「あら、智菊ちゃん。忘れ物か何かあったの?」
心配させてしまって少しバツが悪く感じながらも疑問を解消したい智菊は、平静を装って自分の行動を説明する。
「いえ。少し散歩がてら歩いてたら立派な神社があったので、行って来たばかりなんです」
「……神社? ああ、あそこね。でも、あそこがどうかした?」
「歴史がありそうな立派な神社なのに随分長い間放置されているようなので……。少し気になったんです。大学に入ったら神社とか歴史とか勉強したいなと思ってたので、何かご存知じゃありませんか?」
大学で実際に学ぶかはともかく、智菊はどうにか言い訳をこさえた。
中田さんはさして気に留めずに智菊の疑問に答える。
「元々はあの石川さんの前に住んでいた人がこの辺りでは有名な地主さんだったの」
再度智菊は立ち話するようなことでもないからと、家の中に案内される。
もう一度お茶を入れてもらって頭を下げる智菊に、大したことないと笑ってから中田さんは当時の状況を説明し始める。
「私もここに住んでもう二十年になるけど、それでも比較的この地域では新参者なの。近所じゃ三十年以上の家なんてたくさんあるのよ。新築の家なんてさっきの石川さんをいれても数えられる程度しかいないのよ。新規で入る人にはちょっと面倒くさい場所かしらね。でも、木造建築の古い家ばかりで歴史的価値なんて何もないけどね」
中田さんは自分で淹れたお茶を一口啜る。
「それはともかく、あそこの土地には百年以上はずっと同じ一族が代々住んでいたって聞いたわ。前の地主さんの親戚も何家族かは少し離れた場所に住んでいるって聞いたしね」
そこで教えてもらった中田さんの話を簡単にまとめるとこうなる。
今は石川さんが住んでいる家は、以前はその土地に長い間住んでいてかなりの土地所有者が代々受け継いできていた。
石川さんの前の地主がしっかりと管理していた頃は、神社も手入れが行き届いていて綺麗だったそうだ。
「あの神社はその地主さんの一族が住んでから建てられたんですか?」
「うーん。確かそれよりも前だったって聞いたわよ。でも戦争で一度焼けてしまったのを昔の人が建て直して今の神社になったって話」
ところが前の地主であったご主人が病で亡くなったら一人息子が後を継いだ。
その段階で既におかしくなった。
「……亡くなった地主の息子さんが、どうしようもないろくでもない息子だったのよ。お金持ちの家にありがちの一人はいる厄介者が跡継ぎだったから困ったものよね」
大きな溜息を吐いて中田さんが過去を教えてくれる。
近所のおばちゃんの情報網には智菊もただただ驚くしかない。
「とにかくお金をあるだけ使い切ってしまってね。当然そんな状態だからそれまでしっかり守っていた神社のことも放置して好き勝手に暮らしてた。お母さんも最初は見ない振りして好きにさせてたんだそうよ。一人息子が可愛かったのね。だけど、財産が残り僅かになったと知らされてこれはまずいとようやく息子を止めようとしたけど、既に遅かった。どうにか親族にお願いして止めた頃には財産はほぼ無い状態。借金こそなかったけど土地は勝手に馬鹿息子が売ってしまっていてね。結局はその馬鹿息子は他にもいろいろ悪いことをしていたようで今は塀の中。心労からかお母さんもすぐに亡くなったそうよ。それでその馬鹿息子が売った土地がいつの間にか石川さんの家になってたのよ」
「いつの間にか? すぐにじゃないんですか」
智菊は首を傾げて尋ねた。
中田さんはうんうんと首を縦に動かしながら話を続ける。
「あそこは昔からあの一族以外が住むと縁起が良くないって言われてる土地なの。土地神様の影響とか何とか年寄りは言ってたけどね。私はそんな祟りだの縁起だのは気にはしないけど、そんなに高い土地値でもないのに中々売れなかったとは聞いたわ。不況が原因でしょうけどね」
「それでどうして石川さんが?」
智菊は話を頭の中に整理しようとこめかみに指を置いて話に集中する。
「石川さんは前の家の人とは遠縁らしいのよ。全然交流はなかったようだけど、引越し先を探してた石川さんと馬鹿息子の知り合いが知り合いでって話よ」
「……神社があの荒れた状態になったのは、前のご主人が亡くなってからですか?」
智菊が様子を見た限り、放置されて何年にもなるだろう。
中田さんが深刻そうな表情でこくりと頷く。
「石川さんはあまり神社とかに関心がないようなの。自分の家が綺麗なんだからその近くの神社がどうでも関係なかったみたい。あの神社は神主も元々不在の場所だから近所で持ち周りにしてなるべく掃除はしてるんだけどね。なかなか手が回らなくて気がついたらあんな状態になったの」
「たった数年でですか?」
「そうなの。お参りする人がいないと簡単に寂れてしまうものなのよね。以前は大晦日に神社に集まってお雑煮とかを自治会で振舞ってたんだけど、気がついたらやらなくなってたわ」
大体の話が分かった智菊はこれ以上お邪魔するのも気が引けた。
椅子から立ち上がって丁寧にお辞儀をする。
「……わざわざ立ち入った話まで教えて下さってありがとうございます」
「いいのよ。今日は石川さんの件で智菊ちゃんには迷惑かけたんだもの。詳しく事情を知りたくなってもしょうがないわ」
智菊は中田さんにお礼を言って今度は素直に帰宅の途についた。
石川さんの家の不幸が神社のせいだとは思いたくはないが、あれだけおかしな状況にあったら祟りというのもないとは言い切れない。
黒いモノは人の負の感情を増幅させる働きがある。
石川さんが精神的に弱った原因もあの黒いモノが関係しているだろう。
智菊の考えたように神社の穢れが先でそこから石川さんの家で不幸があった。
「とにかく、これ以上何も起こらないと良いけど……」
家に帰る前に普段散歩する神社に参拝してようやく身体からおかしな空気がなくなったのを確認して帰宅した智菊は、すぐに祖母に電話をした。
詳細を話していく間、祖母は何も言わないで聞くだけだった。
「……私にはどうしようもないんだよね」
「そこの住所とその神社の名前は?」
祖母の質問に答えると「智菊はもう関わらない方が良い」と諭された。
直接視てはいないから現時点で確証はないが、石川さんの家の状況は神社の穢れと無関係とは言い切れないというのだ。
「……その近所の中田さんは大丈夫かな? 近所だしあれだけ空気が淀んでいたらおかしくなったりはしないか不安なの」
「人によっては不快な気持ちを抑えきれなくなって不安定な精神状態になる可能性がある。ただすぐにどうこうとはならないはずだから現状を維持しなさい。智菊が不安を抱いてかの土地にまた足を踏み入れたら余計に悪化させる。今は修行を怠らずにこなすことだけしていなさい」
「……分かった」
電話を切る前に神社は簡単に狂気をはらんだ状態に落ちるのか聞いてみた。
それまでがきちんとされていた神社が、代が替わってあっという間に悪い場所になるというのはよくある話だと教えてくれた。
元からもう関わろうとは考えていなかったが、祖母に言われるというのはやはり危ないのだと分かった。
「……知り合いにお祓いができる子がいるからその子らにあとは任せることにするよ。智菊はくれぐれもそこには近づかないでいなさい」
「何かあってもし近付くようなことになったら?」
「……私の御札といつも持っている物を肌身離さず持っていなさい」
祖母の忠告には素直に従ってあの家には近寄らないでいようと智菊は思った。
溜息を吐かないように大きく深呼吸した智菊は、猫たちのいる部屋を訪れる。
「ただいまー。ご飯食べたの?」
祖母の家の近所で見つけて飼い始めた猫たちは、今ではすっかり飼い猫らしく丸々と日々成長中だ。
弟の瑞樹が甘やかしてほっそりした体型の猫好きな智菊は、猫たちが将来どう大きくなるのか戦々恐々だ。
寄ってきた今はまだ小さな二匹の猫を撫でてやっても考えるのは、昼間の黒いモノのことだ。
すっかり汚くなってしまった猫たちのトイレを綺麗に掃除してあげたあとも、自分にはどうにもできないがあの神社の存在を忘れられない。
「でも私にできることはないんだから、お祖母ちゃんの知り合いの人が頑張ってくれるのを祈るだけよね」
綺麗にしたばかりのトイレで用を足す猫たちを見て苦笑しつつ智菊は、自分からは関わらないと改めて決めた。
だが、自分ではそう思っていても周りがそれを許してくれない状況になるのだから人生は厄介だ。




