第18話 自分に出来ること
「うわっ、くらすぎる」
重い足を引きずるように智菊が庭に赴いて行くと想像していた通りに酷い状態だった。
まだ昼前なのにさきほどの場所よりも遥かにじめっとした空気が蔓延して黒いモノも色濃く存在を主張している。
冬で乾燥しているはずなのにこの湿気は余計に気分を悪くさせる。
臭気も混じっていてこんな所に長々といたくないという気持ちを智菊に抱かせる。
「……ここがそうなのかな」
事故死した次男が頭を打ち付けたとされる大きな石が目についた。
だがそこには禍々しい気配はかすかにしかない。
何度視てもさほど黒いモノの存在は、薄いために智菊は半目になって頭を抱えた。
「これは思った以上にやばそう。単なる事故って雰囲気じゃないもんなー。どうしよう?」
今までの数少ない修行の成果で、智菊は一般的に呼称される幽霊という存在は死亡する原因になった人や物にくっついている場合が多いのを学んだ。
今回実際に話を聞いた石に頭を打ち付けてというのなら、この石にも怨みを抱いてもよさそうなものだ。
でもそこには人が亡くなったことでの不浄な気配はあっても怨みという負の感情はない。
亡くなることになったのは確かにこの石なのだろうが、石の側に負の感情がない以上はどうにも人が絡んでいるとしか思えない。
とは言っても人の感情とも言い切れない得体の知れなさも同時に秘められているように感じる。
どうにもいつも視ているようなモノよりも存在が違う気がする。
少ししか知識のない智菊がない知恵を使おうにも元がないのだから無理がある。
こうなるとやはり最初に考えたように祖母に相談するしか智菊にできそうなことはない。
証拠などは雨で多少流されたとはいえ皆無ではないはずだったから、警察も最終的に事故死に落ち着いたのだろう。
次男がどういう経緯を辿って石に頭をぶつけて亡くなったかは知らないが、放置していては周辺の人間にも悪影響が出るのは間違いない。
次男が亡くなってこの黒いモノが集まっているのは否定はできないのだから。
――それともこの黒いモノが集まったから次男が亡くなったのか。
考えようによってはいくらでも可能性はある。
半人前の智菊ができるのは、せいぜい中田さんにあまりここの家には関わらないようにするようにお願いすることしか無理だ。
あれだけ生き生きとした中田さんでもこの家に来るのは躊躇うくらい状況は悪化している。
まだ姿を確認していない噂の奥さんは、おそらく智菊には助けられない。
「……まいったな。一緒に来るだけで良いって言われたけど、とりあえず多少の祓いはしてみようか」
背負っていたリュックから袋に入れていた塩を庭の特に黒いモノが濃密な場所を重点的に撒いてみる。
ジュー
塩が撒かれた箇所から黒いモノが消える。
嫌な臭気が薄くなっただけマシになったようだが、それほど改善はされていない。
夜にはまた同じ状況になっている可能性が高い。
あるだけ塩を撒いてもあまり変化はなさそうだ。
首を後ろに傾けて空を眺めても解決策は浮かばない。
目に映るのは曇り空だけ。
「……どうしたらいいのやら」
思わず途方に暮れるが感傷に浸っていても何にもならない。
単なる女子高生にどうこうできる問題ではないのが分かったので、とりあえず中田さんに言われたように庭から見える目の前の窓から家の中を覗こうと足を動かす。
「すみません! どなたかいますか?」
返事がないだろうとは思いつつも不審者扱いは困るので比較的大声を出してみる。
「……怪しい人間じゃありませんよっと」
智菊は口に出しながらも自身が怪しい人間にしか見えないことに苦笑する。
だがそれも窓から家の中の様子を見るまでだった。
「……これは本気でまずいかも」
そこはこの豪邸の台所と思えるが、無残な有様だった。
床にはゴミ袋がたくさんつまれたまま放置されている。
一人しか住んでいないが宅配サービスで頼んだようなご飯のゴミがあった。
中田さんが臭いに敏感になったのもこれでは仕方ない惨状だ。
これがこの台所だけなのか他の部屋もなのか判断できないが、状況のひどさはここだけ確認できただけでも十分だった。
噂の奥さんは一人でうまく生活できていないのがこれで分かる。
こんな状態では家の中の臭いはかなり悪いだろう。
不衛生で病気になっていなかったら逆に奇跡だ。
一先ず窓から覗き込んだ範囲に住人である奥さんの姿はない。
「これって泥棒みたいで嫌な気分だな」
少し自分のやっている行動にげんなりする。
「中田さんに家族にどうにか連絡つけて病院に連れて行くように言おうかな」
再度周囲に人の気配のないことを確認して智菊は玄関の方に戻ることにした。
ガチャ
音がしてお勝手口が開いてふらりと人が姿を見せる。
「……あ、勝手に入ってすみません。ここの奥さんですか?」
刺激しないように平坦な声を作って現れた人に声をかけた。
「……」
その人はかなりひどい状態だった。
パーマがとれかかってゆるくウェーブがかった髪は背中に垂れ流していて何日も洗っていないのかフケと思われる物が髪にくっついている。
服は全く着替えた様子のないパジャマと思われる所々に食べ物などの汚れがあちこちについたままの状態のトレーナーにズボンを着ている。
顔は血の気もなく病的なほどに痩せていて素足で外に出てきた。
こんな姿を見れば誰でもこの女性が精神的に弱っているのが分かるはずだ。
「……すみません、勝手にお邪魔しています。ご近所の中田さんが玄関で待ってるんですけど、一緒に行きませんか?」
悲鳴をどうにか抑えられたのは、祖母の家での経験にあった。
比較的田舎な祖母の住む場所は、高齢者が多い。
若者はどうしても利便性の良い地域に引っ越してしまいがちになってしまう。
高齢者がたくさんいるということは、それだけいろいろな問題も出てくる。
その一つが認知症だ。
徘徊する老人を何人も見たし、毎日のように防災無線で「80歳になる男性の方がいなくなって探しています」というようなアナウンスが流れていた。
同級生の祖父母が行方不明だの、夜中に怒鳴って眠れない、介護が大変だという言葉を多く耳にした。
認知症で清潔にしようとか毎日ご飯を食べようなどという当たり前になっている生活を忘れてしまう人も数多い。
「年を重ねるとどうしても忘れたくなくても忘れるもの。家族の手に負えない状態なら周囲にも頼むしかない」
いろんな家庭の状況から智菊は自然とそう思うようになった。
この奥さんの場合は認知症ではない。
でも同じように周囲に対して興味を持たなくなって今はただただ生きているだけになっている。
精神的に弱くなっている人を治すのは時間がかかる。
専門の人に任せる以外に道はないだろう。
「……あの子、どこ?」
細い声を耳にしてさきほどの智菊の問いは全く聞こえていなかったのが分かった。
智菊はゆっくりと口を開く。
「奥さん。あの子って誰です?」
「あの子は私の子」
「奥さんの? もしかして寮生活をしているという長男さんですか?」
「……違う。あの子は私の子」
「あの子って次男さんですか?」
「……あの子はどこ?」
「……とりあえず一度一緒に家から出ましょうか」
どうにか奥さんの痩せ衰えた細い肩に手を伸ばすが突然その智菊の手を弾かれる。
「奥さん?」
ガサッと音がして智菊の来た方向から中田さんが姿を見せた。
「あ! 石川さん! どうしたの?」
「中田さん。病院に電話かけてもらえませんか?」
「病院? 救急車ってこと?」
「ええ。そこでこういう状態の人がいて一度容態を確認して欲しいって言ってくれますか? 栄養不足もありそうですし」
「そ、そうね。ちょっと待っててね」
中田さんがごそごそと鞄の中から携帯電話を取り出して電話をかける。
その間に智菊は石川さんと呼ばれた奥さんを視た。
――これはやばいかも。
病室で黒いモノに襲われていた加藤さんとは違った状況だが、かなり良くないと言える。
石川さんの腰にはぎゅうとしがみついて離れない黒いモノがいる。
智菊が塩を撒いてみるとどうにか消えた。
「……はあ」
安堵して息を整えて石川さんの様子を窺う。
石川さんはもうしゃべろうとはせず自分の殻に入り込んでしまっている。
智菊が手を引いて玄関の方向に誘導してもさっきのように反抗はせずにそのまま大人しく歩く。
そこでようやく石川さんが靴を履いてないのを思い出した智菊は、石川さんを電話が終わった中田さんに靴のことを話す。
「裏から出てきたならそっちから玄関に出てくるわ」
緊急事態ということで中田さんは、急いで石川さんの家の中に姿を消した。
二人で玄関に向かうとその玄関から中田さんがドアの鍵を開けて出て来た。
玄関に置かれていたらしい石川さんの家の鍵で再度玄関を施錠する。
「お待たせ。さあ石川さん。このサンダル履いて」
玄関に置かれていたサンバルに足を入れて履かせていると救急車が豪邸の前に到着した。
救急隊員に奥さんの状況の説明をしてしばらくすると奥さんを乗せた救急車が出発した。
残された智菊と中田さんは車で近所の中田さんの家に落ち着いてしばらくしてから二人でお昼ご飯を食べている。
「……智菊ちゃん。今日は本当にごめんなさいね」
「とんでもない! 全然役に立てなくて申し訳ないです。ご家族には知らせるんですか?」
「石川さんの? それならさっき電話したわ。とりあえずここの家の鍵は私が責任を持って預かるって言っておいたから大丈夫でしょ」
「ご主人病院に来るでんすか?」
「……分からない」
お手上げと両手をあげて石川家の状況を伝える。
「何でもあの家のご主人は単身赴任先で不倫しているらしくてね。離婚もするかもしれないって聞いたらそんな状況で奥さんの様子を見に来るかは分からない」
「……もう一人の息子さんは?」
「次男が亡くなって知ったんだけど長男はあの奥さんの子供じゃないらしいわよ」
「息子じゃない?」
中田さんは食べ終えた昼食を片付けて智菊にお茶を入れてくれる。
「そうなの。ご主人は今の奥さんの前にも一度結婚していてその人の息子が長男で、その人と離婚して今の奥さんと再婚して生まれたのが次男。だから長男とはあまり仲が良くないみたい」
「よくご存知ですね」
顔を多少引き攣らせながら智菊は言った。
――でもこれでなぜ奥さんが長男のことを否定したのか分かった。
血のつながりだけが親子ではないと思うが他人には分からないこともあるからどうこう言えない。
どれだけ一緒に暮らしたのか分からないが長男と奥さんは「親子」と言い切れるほどの関係が築けなかったのだろう。
中田さんは智菊の様子に頓着せずに自分の知っている話をする。
「これくらい近所の人は皆知ってるわよ。でも亡くなってからしばらくはどうにかやってこれたのに何で急にあんな状態になったのかしらね?」
「葬儀なんかのときはどうにか大丈夫だったんですか?」
「ええ。そりゃひどく弱っていたけど自分が息子を見送るんだって意思が伝わってきたもの。それが49日も終えて落ち着いてきたかと思ったら……」
「どなたか他の親戚の方とかは様子を見には来なかったんですか?」
智菊の問いに中田さんがポンと手を軽く叩いた。
「ああ、そういえば来ていたわよ。あの奥さんのお母さんがしっかりした人でね。たまに来ては奥さんに活を入れてたの。それが病気になったらしくて入院したそうよ。……だからね奥さんがあんな風になるのは仕方ないのかもしれないわ。頼りにしていた母親が倒れてしまったんだもの」
そんな話を終えてそろそろと智菊は暇を告げる。
「すみません。私はそろそろ……」
「今日は本当にありがとうね。工場に自転車あるんでしょ? 送っていくわよ」
「いえ。自転車は家に戻しておいたので大丈夫です。ちょっと寄り道しながら帰るので送らなくて大丈夫です」
「でもわざわざ来てもらって送らないなんて……」
しぶる中田さんをどうにかなだめて智菊は一人で寄り道をする。
行き先はもちろん石川邸だ。
「家の周辺でももう少し視て確認してみよう」
中田さんの家から歩いて2分くらいで着く石川邸はさきほどの救急車騒ぎで一時周辺住民が野次馬になっていたが、今はまた誰もいない状態になっている。
門はきっちりと閉ざされているが見たところ鍵はしていないでただ閉じているだけのようだ。
中に入る気のない智菊は、それだけ確認すると興味を失くして石川邸の裏手に歩を進める。
すぐに庭のある裏側に到着する。
智菊は塀に囲まれた石川邸でなくその後ろにある林に目を向ける。
「……あんな所に神社?」
智菊の前にあるのは手入れのされていない荒れ果てた小さな神社だった。




