第17話 噂の豪邸
いつもより残酷な表現があります。ご注意下さい。
智菊に今ではすっかり懐いているさつき君には、お母さんである実姫さんの弟にあたる叔父さんが2人いる。
さつき君からの手紙にこの叔父さんたちの話がよく出てくるので、智菊は会ったことが一度もないのに何だか知っている人に思えてくるから不思議だ。
お母さんの実姫さんが一番上の長女になる。
3人兄弟で、たまに時間のあるときに唯一の甥であるさつき君と遊んでくれているらしい。
さつき君にとっては優しくてカッコ良い素敵な叔父ちゃんたちだ。
二人を呼ぶときはあだ名である「かずくん、ようくん」と呼んでいるという。
もう少しさつき君が小さな頃に「おじちゃん」と言ったら、全力で長男に「かずくんて言いなさい」と大人気なく言い直していたというのを聞いた智菊は笑った。
色々と忙しいらしい二人と翌日に会えるというときは、さつき君は前日に興奮してご両親が相手をするのが大変だと苦労されているようだ。
遊んだ日の夜は疲れてすぐに眠ってしまうからそのときは楽だと笑って実姫さんは言っていた。
智菊宛の手紙にも「今日はかずくんとようくんがあそんでくれました」という内容がよくあった。
まだまだ寒い平日のある日。
学校の保健室のお化け騒動が鎮静化した頃に智菊は、橋本家に招かれた。
その前日に実姫さんから智菊の家に電話があった。
「手紙や毎朝の挨拶だけじゃなくてもっとお話したいって言ってきかないのよ。申し訳ないけど明日あたり夕食にでも家に来てくれない?」
「夕食、ですか? ご迷惑じゃないですか?」
「ううん。さつきの父親が仕事で遅くなるから夕食が二人だけで寂しかった所なの。ぜひ来てちょうだい」
そんな誘いがあってたまたま智菊の弟も翌日は部活でかなり遅くなるというから一人で夕食を食べるよりはと橋本家にお邪魔することにした。
その朝にさつき君から強烈に一緒に遊ぼうコールもあったことから、断ってもいずれ行くのは間違いないので折角の機会とばかりに汚れても目立たない色の服を着て歩いて向かった。
比較的新しく建てられた橋本家は、いつ見てもまだ綺麗なお家だ。
近所の家が放し飼いで猫を数匹飼っていて、たまにこの家にも遊びに来て庭を荒らすのが困ると言っていた。
猫自体は嫌いではないが新築の家は綺麗好きな猫にとっては居心地が良いのだろう。
智菊の祖母の家でも放し飼いだったがそういう苦情は聞いたことがなかったので、少し田舎と住宅街では違いがあるのだなとつくづく大変だと思った。
インターフォンを鳴らすとすぐに橋本親子が玄関から登場する。
「こんな時間にごめんなさいね。どうぞ、遠慮しないで入って」
「お邪魔します」
「いらっしゃい」
「ちあきちゃん! こっちだよ」
智菊は、手紙じゃなくて直接遊びたいというさつき君の要望に応じて平日の夕方に智菊は橋本家にお邪魔している。
弟の瑞貴の分の夕飯の用意だけは準備してある。
お邪魔した智菊の分も含めた夕飯の準備に忙しそうな実姫さんのお手伝いをしようとしたらやんわりと断られた。
「夕飯は私だけで大丈夫よ。それよりも悪いんだけど、そこのワガママ坊主と遊んでやってくれる? 智菊ちゃんと久しぶりに会えるってうるさくてしょうがなかったの」
「分かりました」
野菜を刻みながら実姫さんは自分の息子に視線をやる。
さつき君はお客として智菊の分のお箸やらお皿などの準備を率先してお手伝いしている。
あとは料理が終わるのを待つだけとなったので、実姫さんの邪魔にならないようにさつき君の部屋を見せてもらうことになった。
「さつき君のお部屋に案内してくれる?」
「こっちだよ」
智菊の手を小さな手でしっかりと握って階段を上がるさつき君。
ほっこりする気持ちを持ちながら案内された部屋に入る。
いかにも小学生の男の子という雰囲気の部屋だった。
8畳ほどのそこそこ広い部屋は物が溢れ返っているようなこともなかった。
壁にはさつき君が好きだと言う戦隊ヒーローもののポスターが堂々と貼られているのが目につく。
シンプルな勉強机は思ったよりもきちんと整理整頓されてあった。
「綺麗に使ってるのね。まだ1年生なのに偉いね」
「えへへっ」
照れ笑いを浮かべるさつき君だが、普段はあまり掃除はしないらしい。
実姫さんが一度あまりに片付けしないさつき君に怒ってわざと片付いていないおもちゃなどを足で踏んだり蹴ったりして壊して片付けしないとこうなるという手本を見せてようやくすようになったそうだ。
智菊が来ると聞いて慌てて頑張って綺麗にしたそうだ。
「この机でいつもお手紙書いてくれてるの?」
「うん! ちあきちゃんからの手紙は宝物にして隠してあるから誰にも見せないの」
「そ、そうなんだ」
あまり綺麗な字とも言えないのでご両親に見せないでくれるのはありがたい。
でも宝物としてもし何年も残されたりしたら少し恥しい。
さつき君はクリスマスにサンタさんからもらった戦隊ヒーローの変身ベルトを棚から出してくれた。
それをお腹に固定して変身ポーズを何度も決めて見せてくれる。
どういう設定なのかをさつき君なりに解釈して智菊にも分かるように説明する姿がこれまた可愛い。
「へーんーしーん!」
じゃーんと決まったポーズをして見せるさつき君は自信満々だ。
それを見て智菊も笑顔で拍手する。
「わーかっこいい!!」
「えへへへっ」
何度も変身ポーズを見せられてすっかり変身の仕方が智菊の頭に入った頃、下の台所で料理をしている実姫さんの声がする。
「二人ともー! ご飯できたわよー」
「はーい!」
「今下におります」
さつき君に手を引かれて居間に戻ると美味しそうな匂いが智菊の鼻を刺激する。
「ハンバーグだ!」
つないでいた手を離したさつき君は、普段座っているらしいテーブル席の椅子を引いていそいそ座ろうとする。
ゴン!
素晴らしく痛そうな音がさつき君の頭からした。
実姫さんが拳骨で軽くごつんとしたらしく、さつき君は痛い箇所を撫でている。
「座る前に手を洗ってらっしゃい! 智菊ちゃんを案内してあげなさい」
「ううっ。わかった。いこっ、ちあきちゃん」
おでこをさすりながら智菊を洗面所に案内して、石鹸でしっかり手を洗う。
手を綺麗にした二人は今度は実姫さんに怒られずに席に座る。
見た目が鮮やかに盛られた料理はどれも食欲をそそる。
「どうぞめしあがれ」
「いただきます」
「いただきます!」
テーブルに3人仲良く座ってあれこそ話した時間は家庭の団欒という雰囲気で智菊は少しだけ切なくなった。
やがて話題はよく噂される叔父さん二人についてだった。
「……長男については諦めてるの。一応お金は稼いでいるから何しようと干渉しようとは思わないわ。もうすぐ30になるんだしね。しっかりした恋人もいてくれてるからどうにでもなるでしょ。でも次男は長男と仲が良くても真似はして欲しくないの。せっかく頭はいいんだから!」
長男は飲食店を経営して、次男は智菊には到底無理な国立大学の2年になる。
この次男は、既にスキップで外国の大学を卒業している。
今通う日本の大学は趣味だというのだから驚きだ。
卒業するかどうかはその時の気分次第だというから、お姉さんである実姫さんでなくても溜息を吐いてしまう。
ただ甥であるさつき君にはいい伯父さんたちであるのに間違いはない。
たまにしか会えなくても会ったときは嫌な顔をせず、しっかりとさつき君の面倒をみてくれる。
智菊にとってこの伯父さんたちはあくまでさつき君たちの話に出てくる人たちだった。
実姫さんとは弟2人に対する軽い愚痴と子供であるさつき君との手紙のやりとりなどを話せる部分だけ話してから帰宅した。
玄関付近は防犯対策で人を感知すると自動的に明かりがつく仕組みになっている。
その玄関の鍵は中に人がいてもかけるようにしているので、智菊は自分の鍵を使って玄関のドアを開けて帰宅した。
「ただいま。瑞貴、いないの?」
すると待っていたかのように滅多にならない自宅の電話の音が居間から聞こえてきた。
弟はまだ部活から帰宅していないようだった。
一度は留守電に任せようとしたが、留守電にメッセージを残している女性の声に聞き覚えがあった。
慌てて靴を脱いで居間でまだ切れていなかった受話器を耳に当てた。
「も、もしもし?」
「あ、智菊ちゃん? こんな時間にごめんなさいね」
その受話器からは智菊の考えていたなじみのある女性の声がした。
「いえ、大丈夫です。それより家に電話なんて珍しいですね。明日会うのに……」
「その明日のことでお願いがあって電話したの」
「お願い?」
電話の女性は明日どうしても時間を作って欲しいと智菊に懇願してきた。
普段からお世話になっている女性からの頼みを詳しくきかずに断るわけにはいかない。
智菊は嫌な予感に目を細めながら明日会うことは了承して電話を切った。
それが智菊に新たな波紋を広げることになる。
「本当にごめんなさいね。こんな怪しげな話に巻き込んで……」
「いえ、それよりもう少し詳しく教えてもらえますか?」
智菊にすまなそうに頭を下げていたのは、3月まで続けるバイト先の仲間であるパートの中田さんだ。
智菊と同時期に同じ職場に勤めだした頃からの付き合いで3年近い年数になる。
土日の早朝のみしか働かない智菊たちみたいなのは数少ないために余計に仲良くなりやすかった。
四十代には見えない若々しいおばちゃんで、面倒見も良くて仕事も早いために周りからの信頼も厚い人だ。
今日は土曜の朝だった。
バイト先である工場に自転車で乗り付けていつもと同じように全身を工場指定の白い作業着に着替えた智菊は、バイト先であるお弁当工場で中田さんと二人で野菜の山を切りながら話している。
元々早起きは苦にならない性質のためこの早朝バイトも目覚めは爽やかだ。
だが、バイトに雇用されて軽くDVDで工場の仕事内容などを見たあとで、実際に最初に山となっている段ボール箱とその中にぎっしり詰まった野菜を見たときは愕然とした。
「これ、短時間で本当に終わらせるの?」
「無理でしょ」
同じように初めてその光景を目の当たりにしたおばちゃんたちも口々に無理だと言い張っていた。
それが慣れとは恐ろしいもので短時間で段ボール箱は次々と開いて中身を切り刻まれて、野菜のないダンボール箱は次々潰されていくようになった。
重い野菜の入った段ボール箱を動かすことで腱鞘炎になりそうになったのも何度もある。
同じパートの人は腱鞘炎とはお友達状態にまでなっている。
そんな状態で二人は息を乱すこともなく動きながら話している。
「……私の近所にそりゃもう豪邸って言える立派なお家があるの。その家は四人家族だったんだけど、下の子の弟が亡くなったの」
数年前にずっと空き地だった土地に立派な豪邸を建てて引越ししてきた家族。
周囲は住宅街とはいえ、古くからある家ばかりで新しく越ししてきたこの一家に興味深々だった。
商社で働いているらしいご主人と専業主婦で若くて美人な奥さん。私立の高校の寮生活をしている長男に大人しいが賢いと噂の次男の理想的な家族と言われた。
それが脆いものだと知れたのは半年前の雨の日だった。
「……回覧板をね、届けに行ったの」
中田さんは鎮痛な表情でその状況を話す。
その日は雨とはいっても小雨で傘がいらないくらいだったので届けるのを忘れていた回覧板を届けに向かった。
豪邸の門のポストに投函して引き返そうとしたときに辺りに女性の悲鳴が響き渡った。
「あああああっ! きゃあーーーー!!」
どう考えても中田さんの目の前にある家の庭辺りからの声に、門に躊躇なく手をかけた。
たまたまなのか、門には鍵がされておらず閉めているだけだったのですぐに女性の声のした方向に向かった。
周囲の家の人々も何人かが外に出てきたようだった。
「どうしたの? 奥さん? 何があった、の」
庭にその家の奥さんがあらん限りの声を出して叫び続けている。
奥さんの見ている方向に目を向けて、中田さんは衝撃に身体が硬直した。
「……な、なんてこと」
固まってがくがく震える中田さんの後ろから近所の旦那さんたちが数人姿を見せる。
「中田さん? さっきから響いてる声はあんたか?」
「どうした?」
「何があったんですか? うわっ! 人が倒れてる!」
庭には顔を上に向けて目は見開いたままの少年の姿があった。
頭の付近には飛び散った血と思われる液体が散り散りに撒かれていた。
すぐに警察と救急車が呼ばれて周辺は一時かなり騒然となった。
「……最初は不審死とも思われたようだけど、奥さんの様子や事故以外の証拠もなかったようですぐに事故死になったの。小雨とはいえ朝から降ったりやんだりの繰り返しで庭はかなり滑りやすくなってたってことで、次男が足を滑らせて庭の大石に頭を打ち付けて当たり所が悪くて……ってね」
暗い話なのに明るい工場の中で話しているせいか、さほど陰鬱にはならない。
中田さん自身も目の前で少年が亡くなっているのを見てショックを受けただろうに、それを感じさせずに仕事をきっちりこなして、近所の人の心配までしている。
いつの間にか次の工程に移った二人は、次々とスーパーのカゴのような物の中に切った野菜を入れていく。
その二人の側には人はいない。
廊下にあたる部分で忙しなく作業に没頭して気兼ねなく話をしている。
「子供が亡くなるなんて親にしてみれば、やり切れないわよね。私だって自分の子がって考えたくもないもの。でね! 近所では専業主婦の奥さんが家から出ないような生活を送らないように気をつけてたのよ。こういうことから鬱になったりするって言うじゃない? 長男は私立の寮生活で元々家にいないし、旦那は単身赴任で滅多に家にいないしで、元々二人暮らしをしていたような生活なのに、その次男が亡くなるのは酷いショックでしょう? 半年くらいして、奥さんも前と変わらない生活を送ってるから皆で安心してたのよ。でもそれもここ数週間で一転してね。奥さん引きこもるようになったの」
智菊は、よいしょとカゴをカートに移動して空のカゴをまた同じ位置に置いて切った野菜を入れていく。
「引きこもり?」
「そうよ! それまでマメに近所で買い物をしていたのに今じゃ宅配サービス中心で家から全然出ないの。私の家が隣だから、何度か玄関のベル押して呼び出したんだけど、インターフォンで『息子は渡さない』とか何とかわけ分からないことを言い出したので皆で心配してるの」
「原因か何かあったんですかね?」
「さあねー。本当に突然だったのよ」
結局そこまで話したまでで野菜切りの仕事は終わり、それぞれ別の仕事を始めたため、それ以上詳しい話は出来なかった。
智菊は大雑把に聞いた話の内容で非常に嫌な予感がしていた。
「お待たせ」
中田さんの仕事が終わる1時間で、智菊は自宅での着替えと清め塩と水などの入ったリュックサックを持って工場まで戻った。
すぐに工場から中田さんが出て来たので二人で中田さんの車にに乗り込んだ。
時刻にして11時すぎだった。
「中田さん。電話では一緒に来て欲しいって話でしたが……」
智菊の昨日の電話は、この中田さんから仕事が終わったら一緒にある家に訪問したいというものだった。
さきほど話の家に行くのは分かるが、なぜ智菊が行く必要があるのかが分からない。
「だって私、あの家苦手なんだもの」
「……は?」
「前はそんな風には思わなかったの。最初はあんな大きな豪邸に住めるなんて、嫉妬とか羨ましい気持ちとかあったんだけど。……最近かしらね。子供を亡くして家庭的にも円満じゃないし家だけ豪華でも住むのが自分だけってなると、陰鬱に感じるようになったわ。いつ見ても暗い雰囲気が漂ってて近寄りたくない家なのよ」
中田さんは昨日、智菊に電話する前に件の家を訪ねた。
「近寄りたくなくても奥さんのことは心配してるから、昨日の夕飯前に何とか会えないかと思ってね。たまたま開いてた門から玄関のドアを直接叩こうとしたの。そしたら裏の方から奥さんが出てきたんで話しかけたのよ」
中田さんは奥さんがすっかり痩せて化粧もしていない姿にびっくりした。
「奥さん! 大丈夫なの? 最近外にも出て来ないから心配してるのよ」
「……はい」
あまりに生気のない声に中田さんは背筋が寒くなったが、それよりも臭いがどうしても不快で耐え切れずにそれ以上何も言わずに踵を返して自宅に帰宅した。
車の運転で真っ直ぐ前を見つめながら昨日の状況を説明した中田さんの顔は暗い。
「……今から考えても、あの奥さんは異常だった。何か腐臭っていうか何日もお風呂に入ってないだけじゃなくて家自体からも漂ってくるような。……警察に連絡しようかとも思ったけど、何て言ったらいいのか分からないからやめちゃったの。巻き込んで悪いとは思うんだけど、私の家族もあの家には近寄りたくないっていうし、私も一人であの家に行くのは怖い。近所の人も皆逃げ腰になってしまったしね。そこで智菊ちゃんなら一緒について来てくれるかもと思ったの」
「私ですか? でも何もできませんけど?」
「……ちょっと前になるけど、一緒にご飯食べるので車でドライブしたの覚えてる? あのとき智菊ちゃんがあの店に入りたくないっていうから隣の店にしたじゃない?」
「ああ、確かにありましたね」
一年くらい前に同じ工場で働く人たち何人かで一緒にお昼を食べることになった。
予定していたお店を見た智菊は、店に入る前に隣の店で食べたいとかなり強引に皆を誘導した覚えがあった。
幸い隣のお店の料理がかなり美味しくて皆の顰蹙を買わずにすんだ経験があった。
中田さんはそのことを覚えていたのだろう。
なぜあの店が嫌だったのか。
生理的にどうしても空気が受け付けなかった。
自分では気付いていなかっただけでやはり昔から力の片鱗があったのかもしれない。
「……あの店、過去に何度も食中毒事件を起こしたの。私たちが行かなかったあとでまた食中毒になった、ならないで営業停止になってたのよ。智菊ちゃんがやめようって言わなかったら私たちも危なかったかもしれないじゃない」
「いや、あの日はうどんが食べたかったからお隣にしたんですよ」
「何でもいいわよ。ただ、もし何かあれば智菊ちゃんなら分かると思ったの」
根拠も何もない無茶ぶりだが、それが余計に智菊の不安を煽った。
中田さんは普段は一人で何でもこなしてしまうタイプの人だ。
迷信じみた発言も言わない、しっかりした考えの持ち主でもある。
そんな人がこのように言うからには、その家は普通ではないということだ。
智菊は途中の自動販売機の前に車を止めてもらってお水を購入してゴクゴクと飲んだ。
緊張や恐怖もあって喉が渇いて仕方なかった。
落ち着いてからまた乗り込んだ車で走ること十数分。
――悪意の塊。
そうとしか言えない黒いモノがこの豪邸を覆っている。
お昼前なのにこんなにはっきり視える。
智菊が修行して以前よりもはっきり視えるようになったとはいえ、これは少し感覚の鋭い人なら不快以上に逃げ出したくなるようなほどのモノだ。
逃げ出したい気持ちと必死で戦った。
……病院で視たモノより遥かに大きなモノ。
雲が出ていて太陽が隠れているからといっても夕方にもならないこの時間。
中田さんの言うように、見た目は立派な建物なのにこんな家で暮らしたいなどとは決して思えない。
――これは自分にどうにかできる問題ではない。
智菊は早々と心の中で白旗をあげた。
お祖母ちゃんに急いで相談してみよう。
目の前には立派な豪邸と確かに呼ばれでもおかしくはない大きな家があった。
「ここなの。さあ行きましょう」
中田さんの声に促されて、智菊は背負ってたリュックサックを肩からはずし、ペットボトルと塩の入ったポーチを取り出していつでも出せるようにした。
車のドアを開けて外に出た途端、思った通りの気持ち悪い空気が体に纏わりついてくる。
中田さんは智菊にかまわず、門の横にあるインターフォンを押しているが反応はない。
この家周辺がおかしな空気に支配されていつ病室のときのように空間が断絶されたように思えても不思議じゃない。
何度もピンポーンという音が響くが人が動く様子も何の物音もしない。
内心の恐怖を押し殺して無表情で中田さんに言う。
「返事ありませんね」
「やっぱりね」
中田さんは手で「こっち」と智菊を促している方向を見れば、少しだけ門が開いている。
昨日からその状態だったらしいその門の中から玄関に二人は向かう。
「玄関のドアは鍵かかってますよね?」
「あら。本当だわ。ということは家にいるのは間違いないわね」
智菊は周囲を警戒して視ていると家の庭と思われる場所が気になった。
豪邸を覆っている黒いモノの密度が庭に集中している。
避けているよりもさっさと原因を見つけ出す方が良いと思って中田さんに尋ねる。
「あっちは庭ですか?」
中田さんは智菊の手の向けられた方向に首を動かしてから肯定する。
「そうよ。……昨日奥さんが現れたのがあっちだったし話をした次男が倒れていたのもそうだった」
やはりと頷くだけにとどめる。
どうにもここまで暗い豪邸を視ていると、亡くなった次男の事故死というのは正直信じられなくなっている。
事故にしては周囲を覆う黒いモノがあまりに巨大だ。
人が不慮の事故で亡くなった場所には黒いモノ(幽霊のようなモノ)が集まりやすい。
だが、ほとんどは智菊と弟の瑞貴程度の修行など大してしていない若者がどうにかできるほどの弱い状態だ。
智菊の同級生や猫のように存在を明確に視せる幽霊もいれば、周囲の悪意に染まって誰かを憎いとか同じようにしたいなどとマイナスの意思だけを持っている黒いモノとして集まっていたりする。
それがここまで大きく存在を示しているのが解せない。
「分かりました。勝手にちょっと覗くのはまずいですよね?」
断ってくれないかなという智菊の願いはすぐに裏切られる。
「大丈夫じゃない? ちょうどいいからあっちの窓から家の中見て。もしかしたら倒れてたとかだったら大変だから。私はこっちからもう少し声をかけてみるから」
「……確認してきます」
がくりと頭を一度下げて中田さんとそこで一旦離れることにした。
庭に行きたくはなかったが、深呼吸をしてゆっくりと他人の家の裏庭に足を進めた。




