差別
現代の「差別」という言葉の使い方に嫌悪感を覚える。
「差別をなくそう」とかいう使われかたをするとハラワタが煮えくり返る。
そんなことをしたら何が起こるか、考えたこともない人間の戯言だろう。
あえて「そんなこと」をすることを私に一任されるのであれば、私はまず工場を作ることになる。
そこに無個性という脳をもった人間らしきものを培養するためである。
「人間らしきもの」というからには、彼らに繁殖機能は存在しない。
なぜなら性別があれば性差があるからである。
なお差を出ださぬために、培養させた人間らしきものは、生年月日を同一とせねばならない。
世界に生れ落ちる瞬間から人間の脳は知識を吸収しはじめるからだ。秒単位の誤差でも、それはのちに大きな差となる。
むろん、場所にも差をつけられぬ。
さらに、生育環境も差をつけることは許されぬ。
と、なれば、差別をつけぬ世の中を作るには。
私が培養した無個性という脳をもった、たったひとつの人間らしきもの、以外に、世の中に人間は必要ない。
人間が滅び、差別がなくなり、それは確かに平和な世の中となることだろう。
そもそも、世の中というものがないのだから。
結局、何がいいたいのかと言えば、人間社会なるものがあれば差別はなくならないということだ。
なぜならば「差をつけて別つ」のは、人間の英知だからである。
人間の脳は、観察対象に必ず差を見出すようにできているのだ。
そうでなければ学問はありえないし、そうでなければ恋も存在しない。
たとえば恋愛をしようとする人間が、恋人のいる人間を好み、ふられ、
「差別だ! 差別なく私も愛せ!」
と、要求したとして、また、その要求が叶えられたとして。
それは差別がなくなって満足か?
つまるところ、構造辞意論的にいえば
「差別をなくそう」
とは、不可能きわまりない不文なのである。
人間は産まれながらにして、差を持っている。
これは「生まれながらにして自由である」と同義で、差と自由とは無くしたふりをしてもできかねる人間の個性の根幹である。
が、一方で、私は「差蔑」という行為に嫌悪を感じる。
「差蔑をなくそう」とするのであれば、私は賞賛するだろう。
閑話休題。
今日、へーベルハウスのCMを見て、明らかに田舎蔑視とする言語活動をきいた。
自称「あげあしとりのなっちゃん」は、これを訴えてやろうかどうか悩んでいる。
田舎暮らしと都会暮らしを対比して「都会には豊かさがある」という文脈は、表面上「田舎には豊かさがない」というように受け止められる。
時代錯誤もはなはだしいと思わなくもない、なにせ「豊かさをもとめて」都会から農村へ移住するひとたちも少なくないというのに。
むしろその田舎の豊かさを都会に実現しようということなのだろうか。
単純に考えて、そこには差別が存在するが、差蔑の介入は許されざるものと考える。
「田舎のねずみ、都会のねずみ」という児童演劇の脚本でも読んで猛省していただきたいものである。