「迷惑だったら捨ててください」と書いた恋文を破った日から九年。高嶺の花だった同級生は、駅裏の喫茶店で珈琲を淹れていた
五月の終わりの雨は、降りはじめから本気だった。
駅の改札を出たところで最初の一粒が額に当たり、十歩も行かないうちにアスファルトが黒く光りだす。沖津航平は鞄を頭にかざして走ったが、ワイシャツの肩はすぐ肌に貼りついた。折りたたみ傘は、会社の机の引き出しに入れたままだ。
駅前のロータリーを抜け、ガード下の脇から路地へ入る。目についた軒先に飛びこむと、頭の上で小さな看板が雨に打たれている。
喫茶アンバー。
高校のころ、毎日この前を通っていた。入ったことは一度もない。窓の内側に白髪の店主の背中が見えて、大人の店だと決めつけていたからだ。
軒の幅は狭く、横から吹きこむ雨が膝から下を濡らしていく。航平は少し迷ってから木の扉を押した。
ドアベルが乾いた音を立てる。
「いらっしゃいませ。……あ」
カウンターの奥から聞こえた声が、そこで途切れた。
白いシャツに焦げ茶のエプロンを重ねた女が、ミルのハンドルに手をかけたまま止まっている。肩の上で切りそろえた髪。目尻が少し下がった、大きな目。
知っている目だった。九年前、教室の後ろの席から何度も盗み見た目だ。
「……水野?」
「沖津くん、だよね。三年二組の」
水野葵は、名簿を読み上げるような調子で言った。それから手もとのタオルを一枚つかんで、カウンターの端から差し出した。
「とりあえず拭いて。床、びしゃびしゃになってるから」
「悪い」
受け取ったタオルには乾燥機の熱がまだ残っていて、柔軟剤の甘い匂いがする。航平は顔と首を拭きながら、タオルの縁越しに彼女を見た。
高校のころの葵は、腰まで届く黒髪をしていた。文化祭のポスターのモデルになり、他校の男子が校門で待ち伏せし、教師まで彼女の前では声が半音上がった。学年でいちばん目立つ女子で、航平のような図書委員とは、同じ教室にいても住んでいる階が違った。
いまの葵の髪は短く、爪も短く切ってある。右手の甲に、火傷のあとらしい薄赤い線が一本走っている。きれいなのは変わらない。ただ、きれいさの種類が変わっていた。ショーウィンドウの中から、店のカウンターの内側へ移ってきたきれいさだった。
「ここ、水野の店なのか」
「祖父の店。去年の春から、わたしが一人でやってるの」
葵は言いながら、カウンター席の椅子を一つ引いた。
「座って。雨、あと一時間はやまないって」
店は狭い。カウンターに六席、窓際に二人掛けのテーブルが二つ。飴色に焼けた木の天井から、笠の欠けたランプが下がっている。壁の棚には柄の違うカップが並び、どれも少しずつ色が褪せている。豆を焙じる香ばしい匂いが、湿った背広の匂いを押しのけていく。
「ブレンドでいい? うちの、ちょっと苦いけど」
「それで。……いや、それでお願いします」
「なんで敬語になるの」
葵が笑った。笑うと右の頬にだけえくぼが出る。九年前と同じ場所だ。航平はそれを覚えていた自分に、少しうろたえた。
ミルが回りはじめる。ごり、ごり、と硬い豆が割れていく音が、雨の音の下で規則正しく続いた。
航平はカウンターの木目を見つめた。
高校三年の文化祭。航平は手紙を書いた。三晩かけて書き直し、便箋二枚を一枚に削った。中庭で葵を待ち、彼女が友だちと笑いながら渡り廊下を歩いてくるのを見て、急に足がすくんだ。すぐ後ろで、クラスの誰かが「沖津、まさか水野待ってんの」と笑った。
航平は手紙を四つに破り、植え込みの奥に押しこんで、走って逃げた。
それから九年、航平は誰かに手を伸ばす前に、断られたときの言いわけを先に考える癖がついた。会社の会議でも、手を挙げる前に、挙げなかった理由を三つ用意する。そうやって二十六になった。
「お待たせしました。……って、同級生に言うの変だね」
白い厚手のカップが目の前に置かれた。湯気の向こうで、黒い液面がランプの光を小さく映している。
一口含む。舌の上に苦みが広がり、それが引いたあとに、かすかな甘みと酸味が残った。冷えた胃のあたりが、内側からほどけていく。
「……うまい」
「でしょ。祖父の配合のまま。わたしが淹れると、まだ少しぶれるんだけど」
「ぶれてるのか、これで」
「沖津くんにはわかんないくらいにね」
葵はいたずらっぽく言って、カウンターに両肘をついた。
「沖津くんは? いま何してるの」
「隣の市の食品卸で、営業の補佐。伝票を回して、謝って、また伝票を回してる」
「謝るの?」
「営業が約束した納期を、こっちが守れませんって電話で謝る係」
「何それ。沖津くんが悪くないのに」
「悪くなくても謝る係がいるんだよ。会社には」
口に出してから、航平は自分の言い方の卑屈さに気づいた。葵の前で、こんな話しかできないのが情けなかった。九年たっても、胸を張れることは一つもない。
「水野は、どうして店を? 東京に行ったって聞いてたけど」
カウンターの上で、葵の指が止まった。
ほんの一瞬だった。すぐに彼女は布巾を取り、乾いているカップの縁を拭きはじめた。
「祖父がね、腰を悪くしたの。それで」
嘘ではないのだろう。ただ、それだけでもない声だった。
葵はそれ以上何も言わずに、窓の外へ目をやった。ガラスを流れる雨が、路地の街灯をにじませている。
航平は残りの珈琲を飲み干して、財布を出した。四百五十円。小銭を受け皿に置くと、葵が顔を上げた。
「また来てね。雨の日じゃなくても」
社交辞令だと思った。思おうとした。それでも店を出て、小降りになった雨の中を駅へ戻るあいだ、口の中の苦みは消えなかった。
二度目は、その三日後だった。
雨は降っていない。課長に午後いっぱい詰められ、ネクタイが首を絞めている気がして、気づくと足が路地へ向いていた。
三度目は翌週の月曜で、四度目はその週の木曜だった。
六月に入るころには、カウンターのいちばん奥の席が航平の場所になっていた。葵は彼が座ると、注文を聞かずにブレンドを淹れはじめる。航平は会社の愚痴をこぼし、葵は常連の時計屋の話をした。八十二歳で、毎朝ゆで卵を持ってきて、殻を店のカウンターに置いて帰るのだという。読んだ本の話もした。葵は読むのが遅く、一冊に一か月かかると言って笑った。
話しながら、航平の中にはずっと、小さく尖ったものが引っかかっていた。
同窓会のグループに流れてきた噂を、航平は知っていた。水野さん、東京の会社で倒れたらしいよ。広告の仕事、きつかったんだって。あんなに何でもできたのにね。
最初にそれを読んだとき、航平の胸に浮かんだのは同情ではなかった。
ほっとしたのだ。
あの水野葵が、自分と同じ地面に降りてきた。そう思った瞬間に喉の奥がゆるんだのを、航平ははっきり覚えている。そして、そう思った自分が心底いやだった。
だから航平は、東京のことを一度も聞かなかった。聞けば、自分の底の浅さが声に出る気がした。
六月の第三金曜。閉店の八時を回っても、航平はまだ奥の席にいた。
ほかの客はとうに帰っている。葵は表の札を裏返し、カウンターの中でグラスを拭きはじめた。
「ねえ、沖津くん」
「ん」
「沖津くんってさ、いつも一歩うしろに立ってるよね」
航平はカップを置いた。
「うしろ?」
「優しいし、話もちゃんと聞いてくれる。でも、ここから先は行きませんって線を、自分で引いてる。自分なんか、って」
図星だった。航平は答えに詰まり、カップの取っ手を指でなぞった。
「……そう見えるか」
「見える。わたしには、よく見える」
葵はグラスを置いて、正面から航平を見た。航平は反射的に目をそらしかけ、それをこらえた。
「わたしね、高校のとき、ずっと思ってたんだよ」
「何を」
「沖津くんは、わたしのことがすごく苦手なんだろうなって」
心臓が、肋骨の内側で一つ大きく跳ねた。
「は? なんで、そんな」
「だって、目が合うとすぐそらしたでしょ。廊下ですれ違うときも、わざわざ壁ぎわに寄って」
「それは」
「それに文化祭の日。わたしが中庭に行ったら、走っていなくなっちゃった」
航平の手の中で、カップが受け皿に当たってかちりと鳴った。
見られていたのだ。あの日、彼女は中庭に来ていたのだ。
「……あれは」
言葉が続かなかった。九年かけて蓋をしてきたものが、蓋の内側からせり上がってくる。
「あれは、俺が勝手に怖くなっただけだ」
航平は目を伏せた。
「水野はいつもまぶしくて、俺みたいなのが近くにいたら水野まで笑われると思った。俺が笑われるのも怖かった。……要するに、逃げたんだ」
店の中が静かになった。冷蔵ケースのコンプレッサーが低く唸り、また止んだ。
航平はカップの底に残った黒い輪を見つめて、口の端だけで笑った。かっこ悪い。九年前も、いまも。
葵が、カウンターの跳ね板を上げて外へ出てきた。
航平の隣の椅子を引き、腰を下ろす。エプロンの紐が、彼の肘にかすかに触れる。
「ばかだなあ、沖津くんは」
「……知ってる」
「ちがうよ。そういう意味じゃなくて」
葵は膝の上で両手を組んだ。右手の甲の赤い線を、左の親指が何度もこすっていた。
「怖かったのは、わたしのほうなんだから」
「怖かったって、何が」
航平が聞くと、葵はしばらく自分の指を見ていた。それから、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「高校のとき、わたし、みんなに『完璧な水野さん』にされてたでしょ。成績も、見た目も、ポスターも。あれね、ほんとは息が詰まりそうだったの。誰もわたしの話なんか聞いてなくて、みんなわたしの見た目に話しかけてる感じ」
航平は黙っていた。当時、彼女をいちばん遠くから眺めていた一人が自分だった。
「木曜の放課後だけ、図書室に行ってたの。知ってた?」
「……木曜」
「沖津くんがカウンターにいる日」
航平は息を止めた。
木曜は、航平の貸出当番の日だった。返却日のスタンプを押し、本の背のラベルを直し、誰も来ない時間は窓際で文庫を読んでいた。そういえば木曜には、髪の長い女子がよく本を借りにきた。航平は顔を上げられず、彼女の指先と貸出カードしか見ていなかった。
「沖津くん、わたしが本を出しても、ぜんぜんこっち見ないの。カードだけ見て、『二週間です』って。それがね、すごく楽だった。この人は、わたしの見た目に用がないんだって」
「用がなかったんじゃない。見られなかったんだ」
「うん。いまならわかる」
葵は小さく笑った。
「でも、当時のわたしにはそれがうれしかったの。誰かとちゃんと話したいって思ったの、沖津くんが初めてだった。なのに、話しかけたら、わたしもほかのみんなと同じになる気がして。沖津くんに、うっとうしいって思われるのが怖くて」
同じだった、と航平は思った。
彼が怖れていたものと彼女が怖れていたものは、向きが逆なだけで、まったく同じ形をしていた。
「文化祭の日ね」
葵の声が、少しだけ低くなった。
「今度こそ声をかけようって決めて、中庭に行ったの。そしたら沖津くん、植え込みに何か押しこんでて、わたしを見た瞬間、ものすごい勢いで走っていった」
航平は何も言えなかった。
「それで、沖津くんがいたところを見たら、植え込みの枝に紙が一枚だけ引っかかってて」
航平の背中が冷たくなった。
葵は立ち上がり、カウンターの内側へ戻った。レジの横の引き出しを開け、奥から小さな缶を取り出す。祖父の代からあるのだろう、角の錆びたドロップの缶だ。
蓋を開けると、輪ゴムや古いボタンに混じって、四つ折りの紙片が一枚入っていた。
葵はそれをカウンターに置き、航平のほうへ指で押した。
罫線の入った便箋の、破れた四分の一。そこに、見覚えのある下手な字が並んでいる。
《水野さんへ》
その下の行は途中で破れていて、残っているのは五文字だけだった。
《迷惑だっ》
「わたし、これ読んで、わかったと思ったの」
葵は紙片から目を離さずに言った。
「沖津くんは、わたしのこと迷惑だって書いてたんだって。わたしが毎週木曜に図書室に行くの、ほんとはいやだったんだって」
葵の親指が、紙片の破れた縁をなぞった。
「捨てようとしたの、何回も。でも捨てたら、わたしが負けた気がして。悔しくて、九年もこんな缶に入れてた」
「ちがう」
声がかすれた。航平は咳払いをして、もう一度言った。
「ちがう。そこは、迷惑だったら読まずに捨ててくださいって書いたんだ」
葵の肩が小さく揺れた。
「その後ろに、二年分のことを書いた。木曜に来る女子が水野だって、俺はちゃんと知ってた。借りていった本も全部覚えてた。全部書いて、最後に、好きですって書いた。それを渡せなかった」
喉の奥が熱かった。九年間誰にも言わなかったことが、言葉になったとたん、ひどく安っぽく聞こえた。
「渡せなかったんじゃない。渡さなかったんだ。俺みたいなのが水野に手紙なんか渡したら、笑いものになると思った。後ろで誰かが笑ったのが聞こえて、それで破った」
言ってしまうと、もう止まらなかった。
「それに、俺はずるいんだよ。水野が東京で倒れたって噂を聞いたとき、ほっとした。やっと同じところまで降りてきたって思った。だからここに通えた。昔の水野のままだったら、たぶん二回目は来てない」
しんとした。
コンプレッサーが、また低く唸りはじめる。
航平は膝の上で拳を握った。最低だ。せっかく少しだけ近づいたものを、自分の手で叩き落とした。
くつくつと、小さな音がした。
顔を上げると、葵が両手で口もとを押さえて、肩を震わせていた。
「なんで笑うんだよ」
「だって」
葵は目尻を指でぬぐった。指先が濡れていた。
「それ、言う? ふつう。ほっとしたって。同窓会のみんな、たぶん同じこと思ってるよ。でも本人の前で言ったのは、沖津くんだけ」
「……悪かった」
「謝らないで。わたし、それ聞いてちょっと安心したんだから」
「安心?」
「わたしも同じだもん」
葵はカウンターに頬杖をついて、紙片を指先で裏返した。
「東京で倒れて、こっちに帰ってきて、祖父の店に立って。最初の何か月かはね、高校の知り合いが来るたびに、カウンターの下に隠れたかった。落ちぶれた水野さんを見に来たんだって思って。沖津くんが来た日も、そう思った。この人も見に来たのかなって」
「俺は雨宿りだ」
「知ってる。びしょびしょだったもん」
葵が笑い、航平もつられて笑った。笑いながら、胸の奥でずっと固まっていたものが少しずつ崩れていくのがわかった。
「俺たち、九年も何やってたんだろうな」
「おたがいに怖がって、おたがいに逃げてたんだよ。ばかみたい」
「ばかだな。二人とも」
しばらく、二人とも黙っていた。
柱の時計が八時四十分を指している。窓の外では雨音がいつの間にか細くなり、軒から落ちるしずくの音だけが、ぽつん、ぽつんと間をあけて聞こえていた。
「ねえ、沖津くん」
葵が、カウンター越しに手を伸ばした。航平の手の甲に、指先がそっと乗った。豆を挽く仕事の手は、思っていたより硬く、温かい。
「あのとき渡してもらえなかった手紙。いまからもらうわけには、いかない?」
航平は紙片を見下ろした。《水野さんへ》と《迷惑だっ》。残りの四分の三は、九年前に植え込みの奥で雨に溶けたか、用務員がごみと一緒に燃やしただろう。
あのとき書いた文章は、もう半分も思い出せない。けれど最後の一行だけは、いまでも一字一句言える。
逃げたくなった。断られたときの言いわけを、頭が勝手に三つ並べはじめた。
航平は、その三つをまとめて飲みこんだ。
「手紙は、もうない」
葵の指が、わずかに引きかけた。航平はその手を上から握った。
「でも、言葉なら言える。……ずっと好きだった。木曜の図書室で、カードしか見られなかったころから。いまも、好きだ」
葵の目が大きく見開かれた。
「頼りないのは知ってる。謝る係だし、手を挙げる前に言いわけを考える男だ。でも、もう逃げない。……隣に、いてもいいか」
葵は返事をしなかった。
握った手の中で彼女の指がゆっくり裏返り、航平の指のあいだに一本ずつ入ってきた。
頬を一筋だけ涙が伝った。それをぬぐいもせずに、葵は笑った。右の頬に、えくぼが出ている。
「九年待たせて、それ?」
「……悪い」
「うそ。それが聞きたかったの。ずっと」
葵はもう片方の手で紙片をつまみ、航平のワイシャツの胸ポケットに差しこんだ。
「これ、返すね。もう、わたしが持ってなくていいから」
ポケットの上から、葵の掌が一度だけ軽く押さえた。紙一枚の重さが、心臓の上にはっきりとある。
「それとね」
葵が、ふいに声を低くした。
「これから、木曜は必ず来て。ほかの日も来ていいけど、木曜は絶対」
「なんで木曜」
「図書室の貸し、九年ぶん残ってるもん。返却期限、とっくに過ぎてるんだから」
航平は笑った。笑いながら、泣きそうになっている自分に気づいた。
「延滞料、高そうだな」
「高いよ。毎週ブレンド一杯と、閉店のあとのカップ洗い。ほかの子のとこに通ったら、倍にするからね」
葵は手をほどき、カウンターの内側からスポンジを一つ放ってよこした。航平は慌てて受け止めた。残っていた泡が、指のあいだで冷たくはじけた。
扉の外で、最後のしずくが軒から落ちた。
航平は袖をまくり、シンクの前に立った。隣で葵がドロップの缶の蓋を閉め、表の灯りを一つ落とした。
蛇口をひねる。湯の中で重ねたカップが触れあって、からん、と鳴った。




