最期の告白
『木下楓様
あなたにこんなものを見せても何の意味もないのかもしれません。
私はあなたの息子から、ある意味勇気をもらい、同じ結論に至りました。
ですから、どうか無責任で無関心なあなたにも見て頂きたいのです。
永山聡一郎』
*
『卒業式が終わったら、学校の屋上で待ってます。絶対に来てください。 真掘千佳』
抑えきれない鼓動を胸に、僕は階段を駆け上った。
真掘千佳。
友人も恋人もいない無味乾燥な、青春とは程遠い味気ない毎日の中で希望の光を与えてくれた存在。
何度も手紙の文字を確認した。見間違いではない。間違いなく彼女の文字だった。
屋上の扉を開く。中学三年、卒業式の終わり。下駄箱に入れられた女子からの手紙。こんな今時青春ドラマでも見ないような嘘みたいな展開が、こんな僕の人生にも訪れたのだ。
開けた屋上の空間に、よく見知った背中があった。音に気付いた彼女がこちらを振り向いた。
しばらく無言のまま、彼女は僕を見据えた。
やがて覚悟を決めたかのように口を開いた。
「木下君」
初めて彼女が僕の名前を呼んだ。
「今後一生、私の世界に関わらないでください」
*
誰かにずっと見られている。
思春期の私の大事な三年間は一人の男子による視線によって穢され続けた。
木下稔。
長い前髪にか弱そうな体躯、休み時間にはラノベを読みふけるお手本のようにオタクで地味な男子。常に端っこで世界を俯瞰し悦に浸っているのか、時折前触れもなくにやける姿は、男子からは嘲笑、女子からは嫌悪の格好の的だった。当然私も同意見で、関わる気など毛頭なかった。
「……りがと」
蚊の鳴くような細い声だった。
ただ落ちたペンを拾っただけ。たったそれだけの、私にとっては親切でも優しさでもない反射的な行動が全ての始まりだった。
どうして人間は他人の視線を察知できてしまうのだろう。霊感や第六感なんて言えば胡散臭く聞こえるのに、ほとんどの人間は他人の視線を感じ取ることができる。
霊なんて見えてもろくな事がないのと同じくらい、自分に備わった感覚をこれほど恨んだことはない。
視、視、視、視、視、視、視、視、視、視。
教室、グラウンド、図書室、体育館。
学校という空間にいる間、常に纏わりつく視線。それが木下のものだと気付くのに時間はかからなかった。なぜなら視線の先を辿れば必ず彼の姿があり、信じられないことに気付かれても私への視線を逸らすこともなかったからだ。視線に気付いた私を見て浮かべた気味の悪い笑顔も何よりの証拠だった。
恐ろしいことに彼は休日にも現れた。出掛けた先で感じたことのある視線に、まさかと思い振り返れば木下の姿があった。
「証拠でもあるのか? 自意識過剰だ。気のせいだろう」
さすがに直談判する気は起きず、私は事の次第を担任である永山に相談したが、面倒な案件を持ってくるなとばかりにあしらわれた。
自分の容姿がもっと良ければ、この男の態度も違ったのだろうか。私みたいな、ぱっとしない陰気な生徒に気を持つ男子なんているわけないとばかりの対応に、悔しさと怒りで赤面した。
ただ見るだけ。それ以上の接近はない。悔しいが永山の言う通り証拠はない。彼の姿を写真にでも収めればとも思ったが、それが私をストーキングしているものとする説得力もない。ほぼ泣き寝入り状態だった。
どうして私の人生の邪魔をするんだ。
ある意味で私はあんたと似た者同士なのかもしれない。でもあんたと違って私は私の世界に認めた者しか入れたくない。たまたま今私の世界に介入できる存在がいないだけで、世界から避けられているお前とは違うのだ。
早く卒業したかった。そうすれば終わる。しかし、私は彼のことを分かっていなかった。
風の噂で、木下の志望校が私と同じ高校である事を知った。
絶望した。木下は私の人生にずっと纏わりつくつもりなのか。
ーー終わらせるしかない。
覚悟を決めた。
卒業式の日、私は木下の靴箱に手紙を入れた。
*
「気持ち悪いのよ。学校でも外でも私のことずっと見てきて。一体どういうつもりなのよ」
足は震え、瞳は潤んだ。奴の顔を見ているだけで吐き気すらした。
こんなにも真正面から人間に怒りをぶつけたことはない。他人に必要以上の感情を使いたくなかった。静かな世界で生きたい私にとって不要なものだ。
「本当はこんなふうに顔を合わせて喋りたくもなかった。でも、あんたも私と同じ高校に行くって知って、卒業したら会わずに済むと思ったのにもう我慢の限界……無理、本当に無理!」
涙を零しながら私は叫んだ。全ては私の世界を守るためだった。
「あんたなんか大っ嫌い! 消えて! 死んでよ! 私の世界に入ってこないで!」
真っすぐ私を見つめていた木下の視線が地面に落ち、わなわなと身体を震わせた。
泣いているのか。怒っているのか。私は木下の答えを待った。
やがて木下が顔を上げた。その瞬間、全身の毛が逆立った。
「ありがとう、真掘さん」
私が忌み嫌う、世界で一番醜い笑顔がそこにあった。
*
「あんたなんか大っ嫌い! 消えて! 死んでよ! 私の世界に入ってこないで!」
ーーおいおい、最高だな。
俺は目の前で巻き起こるあまりに香ばしいやり取りをスマホで写しながら、にやけ顔が止まらなかった。
屋上は俺のお気に入りの場所だった。一人で何にも邪魔されることなく、ただ空を見ながらぼーっと過ごすここでの時間が、数少ない癒しだった。
人生を頑張る意味がどうしても見出せなかった。
頑張って生きた先に一体何があるのか。結婚して、子供ができて、年をとって死んでいく。それの何がいいんだ。誰もが通る当たり前の幸せを得て維持するのに、一体どれだけ頑張らなければいけないのか。
つまらない。くだらない。
本当は何も頑張りたくはないが、頑張らなかったらもっと悲惨で面倒な人生になることも分かっている。だから振り切ることもできず中途半端に生きている。
ーー卒業か。
何一つ感慨もない。全てが憂鬱でしかない。いっそ全てを投げ出す勇気があればと思いながら、屋上をひっそりと楽しんでいた。
しかし、思わぬ邪魔が入った。
突如屋上の扉の音が鳴り響いた。室外機の裏に隠れ覗いてみると、予想外の人物が現れた。
ーー真掘?
一体ここに何をしに来たのか。卒業式終わり、まさか告白だろうか。
古風なことをするものだなと感心しかけたが、あの真掘がという所で思考を止めた。加えてあまりに鬼気迫った表情も気になった。違和感を覚えながらも様子を見ていると、また扉が開き今度は男子が一人入ってきた。
ーーおいおい、何だこの展開は。
木下稔。
そこでふと、随分前に受けた真掘からの相談を思い出した。
まさか本当だったのか。思いながら俺は二人の会話に耳を傾けた。
「今後一生、私の世界に関わらないでください」
結論、どうやら真掘の話は本当だったらしい。が、瑞々しさとは程遠いカースト最下層同士の諍いとなればこれほど聞くに堪えないものはない。共感性羞恥を炙られるようなむずがゆい感覚に襲われながら、酒の肴にはなるかとスマホを二人の方に構えていた。
「ありがとう、真掘さん」
真掘の必死の主張が終わり、惨めな木下がどう出るか見守った。しかし、ここから木下は俺と真掘の想像を容易く超えていった。
「最高だよ。最高に感じてるよ君の気持ちを」
「は? 何言ってんの? あんた私の言ったことちゃんと聞いてた?」
「もちろんさ。大嫌い、死んで、消えて。こんな激情に満ちた言葉を聞き違えたり聞き洩らすわけがない」
「……なんなの、あんた」
「あのね。僕みたいな存在は誰からも好かれず嫌われるしかないんだ。だから周りの言葉なんて何とも思わない。当然のことだから。でもね、僕だって人間なんだ。人に特別な感情を持つこともあれば、特別な感情を持ってもらいたいと思ったりもするんだ」
「意味がわからないわ」
「いいね、嫌悪と困惑が深まる一方って顔だ。好きと嫌いってね、どちらの感情の方が強いと思う? 僕は絶対嫌いだと思う。だってこの世で好きになって人を殺す奴より、人を憎んで殺す奴の方が多いじゃないか。殺人がこの世で一番駄目なことだって知ってるのに、それでも感情が抑えきれず殺すしかないって思うわけだ。こんなに強い感情他にないでしょ?」
「あんた、本当にヤバイね」
「はは、どんどん嫌いになってくれてる? 最高だよ。僕は嫌われ者で、存在しているだけでそんな感情を向けられる。でもさ、その相手ぐらい僕だって選びたいんだよ。この人に心底嫌って欲しいって。これだって立派な恋愛感情だよね」
「それがどうして私なのよ!」
「君は世界を拒絶することで平穏を望んでいる。しっかりとした価値観を持ってルールを守ろうとしている。でもその癖、良い人でもいたいんだ。僕なんかのペンをわざわざ拾ってくれるぐらいに優しいんだから。ね、これって矛盾してない? 関わりたくないならそんな事しなきゃいいし、そもそも学校になんて来なければいいじゃないか。関わりたくない癖に、本当は死ぬ程全てに関わりたいんだ。不安定で脆くてどうしようもない。あ、君なら爆発するなって。この子に負荷をかけ続ければ、たまらない負の爆風を浴びせてくれるかもって。そう思い始めたらもう目が離せなくなっちゃって」
真掘と俺は絶句した。木下の価値観は何一つ理解できない異常思考で、生まれてこのかた一度も行き着いたことのない思考回路だった。
「大好き、愛してるなんかより、僕にとっては最高の言葉だよ」
だから、ありがとう真掘さん。
木下はその場に崩れ落ちた真掘に近付き、屈んで彼女の顔を覗き込んだ。
生徒達に興味はない。彼らの人生がどうなろうと結局全ては自分の責任だ。だから必要最低限のことしか俺はしないと決めている。自分達が疎かにした教育を学校側に押し付ける馬鹿な親達もいるが、そんな奴らを見ると給与明細を眼球に捻じ込んでやろうかと思う。こんな薄給でどうしてそこまでの責任を俺が負わないといけないんだ。
ーーなんだ、この生き物は。
生徒なんて厄介者でしかない。未熟で手のかかる出来損ない共。どうでもいい存在だ。
にしてもこいつは一体何だ。この年齢でここまで捩じれ歪んでしまうものなのか。
そういえば木下の親は三者面談に一度も姿を現さなかった。なんとか繋がった電話では気怠いだみ声の母親から「なんかうまいことやっといて」とだけ言われた。とんでもない親だ。責任を果たせ。
「君は僕の望むものを与えてくれた。だから、僕も君が望むものをあげるよ」
そして木下稔はあっという間に颯爽と屋上から飛び降りた。
咄嗟の出来事で、俺は声も出せなかった。真掘に至っては打ちのめされたショックで動きが緩慢なせいで、彼が飛び降りる瞬間を見てすらいなかった。数秒遅れてゆっくりと首を後ろに回し、突如目の前から消えた木下の姿をきょろきょろと探す始末だった。
“今後一生、私の世界に関わらないでください”
木下は真掘の望みを聞き入れた。だが、今後を考えれば真逆の結果となるだろう。今後一生、彼女は木下という存在に縛られ続ける。
そして俺もだ。
飛び降りる前、隠れていた俺の顔を木下ははっきりと見た。それでいて何も言わず、最初から決まっていたかのように何の躊躇いもなく消えていった。
まるでそれが、全てを投げ出す勇気がなかった自分への皮肉のように思えた。




