逃げ水
どんなホラーよりも怖い話(ある意味)。
これは誰にでも起こりうる日常の恐怖体験。
誤字報告ありがとうございます。
確かにこの手にあったはずなのに。するりと遠のいて、まるで私を嘲笑うかのように、恐怖の中に置き去りにしていく。それはまるで。
「都会の蜃気楼、いや、逃げ水のようだと思ったのよ」
ようやく辿り着いた待ち合わせの店で、アイスコーヒーを渇いた喉に流し込む。いつもは入れないシロップの甘さが疲れた身体に沁み込むようだ。
「いい度胸だ。逃げ水を遅刻の言い訳にするとか」
ただし、目の前の友人はご立腹。それも仕方ないと思う。全部、私が悪い。
「遅刻は、まじ、すまんかった。ただ、取り戻さないことには、私の明日はなかったから、そのあたり、ご理解を」
「洒落にならん事態になりそうだったから待ったんだよ。あんた、昔っから抜けてるとは思ってたけど、ここまでとはね」
長年の付き合いだから、彼女の言葉には遠慮がない。
「全部、暑さが悪いんや」
「それ、冤罪だから。暑さは今日のあんたに責任ないから」
結局、夕飯を奢らされることになった。それで二時間待ちをちゃらにしてくれた友人の懐のでかさに感謝すべきだろう。しかし、奢りだからって、かっぱか飲みやがって。明日っから清貧生活だよ。
もっとも、そんなことを愚痴れるだけ、心底良かったと思うしかない。何故なら遅れた二時間。私はどんなホラーよりも恐ろしい心境に陥っていたのだから。
友人との待ち合わせは駅近くのコーヒーショップ。自宅から駅まではそう遠くはないが、何せこの猛暑、いや酷暑。駅に着いた時には私は全身汗だくだった。実の所、この友人へのサプライズ・プレゼントを買うべく、余裕を持って家を出てはいたのだ。だが、汗で髪も化粧もボロボロ。買い物よりも先に、まず化粧直しが必要だろうと思った。
駅ビルの地下には、旅行者が利用できるようにか、かなり広いトイレがある。ここは結構穴場で。並ばず使えるのが嬉しい。個室でボディシートを使用し、さっぱりしてから化粧も直して。そのまま買い物に向かう。いざ会計という時になって、私は財布を入れているショルダーバッグを持っていないことに気が付いたのだ。化粧ポーチの入ったサブバッグとずっと手にしていたスマホだけを持って。
全身から血の気が引く。
お店の人に謝って、とにかく、急いで使用したトイレに戻った。時間にして三十分も経っていない。
しかし、そこに私のバッグはもうなかった。
誰かが持ち去ったのかもしれない。しかし、善意の人だって、決して少なくはないのが我が国の良い所。そこに賭けるしかない。
通路を清掃している人に尋ねるが、その時間のトイレ清掃の担当ではないと、駅ビルの防災センターを教えてもらう。しかし、駆け込んだそこには届いていない。地上階にある交番にも聞きなさいと勧められて移動するも、交番にも届いていない。遺失届の作成に時間を食う。念のため、駅の改札にも尋ねるが、そこにも届いていない。駅の忘れ物センターを教えられ、次はそこへ。しかし、またもや空振り。なんで、こんな近距離で、取扱いが違うとかあるんだと、半泣きで駆け回る。
ショルダーバッグには。財布、通帳、銀行カードにクレジットカード。小銭入れに交通系ICカード(兼定期)。身分証に家の鍵。ある意味、私のすべてが入っているのだ。必死になるのも当然だろう。一円の現金もなく、そのままでは家にも入れないのだから。
悪意のある人の手に渡っていたら、身の破滅しかない。身分証とカード類の差し止めと再発行に再交付。それで終われば良い方だ。
スマホだけはあって良かった。友人に支離滅裂な電話をしてしまったが、私にとって深刻な事態であったことをご理解いただけたらと、切に願う。
オチとしては物足らないかもしれないが、結果としてショルダーバッグは中身ごと無事に返って来た。
何度も尋ねた場所をぐるぐると逃げ水を追うように回って。清掃の人が最初の防災センターに届けてくれていたのだと知らされたときは、安堵のあまり膝をつきそうになった。半分泣いていた。ただし、届けてくれたのは発見してすぐではない。時間差。担当場所の清掃が終わってから。……そうだね。途中で切り上げたりできないよね。ちゃんと拾って届けてくれただけでも感謝しなければいけないのに、少し恨みかけて、慌てて撤回する。いや本当にありがとうございます。お菓子とか、後日差し入れするべきだろう。
空調の効いている場所ばかりでも。走り回っていれば喉も乾く。緊張と不安も喉の渇きを呼ぶ。ああ、しかし。手元にバッグが戻って来るまで、飲み物すら買えなかったから、ようやくありついたアイスコーヒーはまさに甘露であった。人体の三分の一は水でできている。汗で失った分も水分補給は忘れずに。
情けは人の為ならず。貴重品を拾ったら、面倒がらずにきちんと届けようと、この日、私は深く誓ったのである。
その前に。待たせた友人との飲食代の支払いがあるのだが。財布の中身もまた、逃げ水のようであった。
なにが怖いかって、これ、ほぼノンフィクションなんだぜ?
今日(もう昨日)、そのすべての入ったショルダーバッグをトイレに忘れました。普通、忘れません。見つかるまでの恐怖といったら無かった。ちなみに一部、以前スマホを落とした時の経験も入っています。忘れ物、落とし物、めっちゃ多いんだ……。この一年内で、スマホ、IC定期、財布を忘れたり落としたりしています。幸い、どれも手元には返ってきておりますが。皆さまの善意に感謝を。
とりあえずネタにして恐怖の昇華を。