ありがとう
推し活を始めてから、初めて「卒業」という別れを経験しました。
思っていた以上に心に堪えて、自分でも驚くほどメンタルに影響が出ました。
これは、その時の気持ちを整理するために書いた、ひとつの置き換えの物語です。
もし、似たような想いを抱えた方がいたら──少しでも寄り添えたら嬉しいです。
それは突然のことだった。
でも、心のどこかでは──ずっとそんな気がしていた。
──
「本日をもって、◯◯は、卒業します」
画面の向こうの彼女は、いつも通りの笑顔だった。
いつも通りでいてくれるのが、どうしようもなく嬉しくて、同時に、どうしようもなくつらかった。
「運営との方向性の違い」
そう言ったとき、僕の中の時間が止まった。
その言葉をきっかけに何かが崩れた。
考える間もなく、気持ちだけが先に落ちていく感覚。呼吸の仕方すら忘れていた。
でも、彼女は続けて話した。
「だから──あまり騒がないでね」
「私は大丈夫だから」
「これ以上でも、これ以下でもないの。そういうことだから」
大丈夫じゃないのは、僕のほうだった。
──
その日、作業は何ひとつ進まなかった。
やるべきことはいくつもあったはずなのに、机に向かっていたことすら忘れるくらい、頭が空っぽになっていた。
モニターはただ光るだけの板になり、音のない部屋に、僕の感情だけが重く沈んでいく。
まるで、恋人にフラれたみたいだ──
そう思ったけど、それはちょっと違った。
だって、僕たちは最初から“付き合って”なんていない。
画面越しに、彼女を見て、応援して、ただそれだけの存在だった。
それだけだったのに、どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。
運営のせいだ──
そう言いたい気持ちが喉まで出かけたけれど、彼女の声が、それを止めた。
「騒がないでね」
「お願いだから」
あの言葉がずっと耳に残っていて、僕は何も言えなくなった。
彼女の願いを、壊したくなかった。
結局、僕はただのファンで、それ以上の何者にもなれないんだと、思い知らされた。
──
卒業ライブの告知が出た日、胸の奥がずきっと痛んだ。
カウントダウンが始まったみたいで、見るのが怖くなって、でも目をそらすこともできなかった。
配信を見るたび、笑ってる彼女を見るたびに、少しずつ心が揺れていった。
でも不思議と、時間が経つほど、ほんの少しずつだけど落ち着いてきた。
「終わる」っていう現実を、少しずつ受け入れられるようになっていった。
彼女のXの投稿を読むたびに、やっぱり苦しくて、それでも少しだけ考えが変わってきた。
たぶん、僕たちはまだ幸せな方なんだと思う。
ちゃんとお別れを言う時間をくれたから。
何も言わずに消えることだって、できたはずなのに。
それでも、最後まで「ありがとう」って言ってくれる道を選んでくれた。
その優しさに、何度も胸が熱くなった。
棚の上には、これまで集めてきたグッズが並んでいる。
再生リストには、お気に入りの配信が何本も入ってる。
思い出の中の言葉や声は、少しも色あせていない。
変わるのは、きっと僕のほうだ。
これから、彼女のいない毎日をどう過ごすか──
それを考えるたびに、胸の中にぽっかりと空いた穴の存在を感じる。
──
卒業ライブ当日、僕は画面の前で正座していた。
部屋のカーテンを閉めて、スマホの通知をすべて切って、余計な音を遮断した。
今日だけは、世界の音なんていらなかった。
彼女は、最後まで笑っていた。
泣かない姿が、余計に切なくて、でもそれが彼女らしくて、何度も何度も胸を締めつけられた。
彼女は、終わりの言葉として、静かに、こう言った。
「ありがとう」
その声を聞いた瞬間、僕は言葉を失った。
──
けれど、涙は流れなかった。
泣かないように我慢していたわけじゃない。
泣けないほど冷めていたわけでもない。
ただ、涙じゃ追いつかない何かが、胸の奥で静かに溢れていた。
この想いを、どこに向ければいいのか分からなかった。
でも、ふと気づいた。
彼女は、僕が今日、正座して画面を見つめていたことなんて、きっと知らない。
気づいてくれるわけでもない。
でも、それでいい。
僕が勝手に救われて、勝手に感謝してるだけなんだ。
それでもいい。
その時間が、確かに僕には必要だった。
あの頃、うまく言葉が出せなかった日々。
何も手につかなくて、ただ時間だけが過ぎていった日々。
そんな僕の背中を、彼女の声が何度も押してくれた。
彼女がいてくれたから、僕は今ここにいる。
それだけは、本当なんだ。
たぶん、これからも何度も思い出すと思う。
そして、そのたびに再生して、また少し笑って、少し泣くのかもしれない。
──ありがとう。
たった一言。
でも今の僕には、それ以上の言葉なんて見つからない。