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グラスホッパーマウス(1)

「ありがとう、ございました……」パトリシアが覇気のない声で言った。


 パトリシアは事務所階下のコーヒー豆ショップのカウンターに立っていた。黒いパンツと白のブラウス、茶色のエプロン。どう見てもバイトの高校生といった雰囲気。試飲用のコーヒーを淹れ、豆を量って袋に詰める、そういう仕事。客入りは少なく、その数少ない客もリピーターばかりだった。買う商品ははじめから決まっていて、パトリシアは店長に言われるとおり、豆を計量するだけだった。店に立ち始めてから三時間ほど経つが、焙煎機を眺めている時間のほうが多かった。



「愛想よくしろ、とは言わないけど、男のお客さんを睨みつけるのはやめてほしいな」店長が穏やかな調子で窘めた。


 店長は先日の女性店員だった。名前は蜂須賀(はちすか)凪子(なぎこ)。アップにしたコーヒー色の黒髪、穏やかで清楚な空気を纏っている。人に言えない仕事に就いているとは思えない印象を与える人物だが、「組織」の情報部に所属するエージェントだ。情報収集が主な任務で、パトリシアたちとは役割が異なる。形だけだが、この支部では一番偉い人員でもある。



「……すみません」渋々謝った。


 パトリシアは、服や髪の毛に染みつきつつあるコーヒーの匂いを嗅いだ。嫌いな匂いではないが、一日中浴び続けるのには抵抗がある。率直な話、パトリシアは自分が置かれている状況にいくらか不満を抱いていた。


「あまりこんなことは言いたくないんですけど、こんなことして何の意味があるんですか?」


 パトリシアの疑問は当然ともいえるものだった。書類仕事ならいざ知らず、コーヒーを淹れ、豆を売ることが「組織」の仕事に関係するとは思えない。言葉にこそしないでいたが、失敗の罰ではないか、と考えずにはいられなかった。初仕事の失態もそうだが、つい昨日の仕事でも敵と対峙した際に引き金を引くのを躊躇っただけでなく、効果のある射撃ができなかった。これは誰の目にも明らかな失敗だった。


「意味はないわ」蜂須賀がさらりと言った。


「……え?」気が抜けた。「――もっとこう、社会経験的なことを言われるかと思いました」


「それで納得できるなら、そう言うけれど。自分が思ってもいないことを言って何も知らない新人さんを丸め込むのは、不誠実じゃない?」


「それはそうかもですけど」


 だったらなんで、とパトリシアは口には出さず表情で尋ねた。


「敢えて言えば、あなたを本来の仕事から少し遠ざけて、クールダウンさせたいって気持ちはあるかもしれないわ、彩乃ちゃんはそう考えてる」


「先輩が……」しゅんとする。


「わたしはパトリシアさんみたいな可愛い子にお店に立ってほしかっただけなんだけどね~」のんびりとした調子で言った。


 蜂須賀の言葉に、パトリシアはムスっとした顔で見返した。可愛い、と言われたのは一〇年ぶりくらいで、どう反応していいのかわからなかった。

 そのパトリシアの様子を見て、蜂須賀は目を細くし点頭した。


 パトリシアは戸惑い、照れながらも尋ねた。「……あの、聞きたいことが他にも――」


「なーに?」


「えっと――」一瞬、言葉がつかえる。「……その、凪子さんは人を撃ったことはあるんですか?」


「ないわ」蜂須賀は腹を撫でた。服の下に拳銃を隠し持っている。


「殺したことは?」


「直接は、ないわね」含みのある返答。


「えっと、じゃあ――」


「わたしは元々は警察だったの」パトリシアの言葉を待たずに言った。


「公安とかですか?」


「いえ、普通の地域警察。いわゆるお巡りさん。色々あってここにいるわけ。だから、パトリシアさん、先に断っておくけど、あなたの望むようなアドバイスはできないと思うわ」それでもいいなら、と続けた。


 パトリシアは真面目な顔で頷いた。


「殺すことに、どうやったら慣れますか?」


「人を撃ったことない人にそれを聞きますか?」困ったような顔で小さく首を傾げた。


「なんでもいいから答えがほしいんです」パトリシアは続けて、それに凪子さんは殺せる人だと思うから、と小さく呟いた。


「そういうことなら……。そうね、一般人の意見としては、慣れる必要はない、むしろ慣れてはいけないと思う。でも、その罪を忘れるなとか、重く受け止めろ、背負っていけと言うつもりはないわ。あなたのアルバムを死者の顔で埋めるのは決していいことではなくて、本棚には限りがあるから、いつか溢れて壊れてしまう。仕事にあなたの心を必要以上に割くことはないの。これは、ウェットワークとか関係なくどんな仕事でもそう」


 真剣な面持ちで、パトリシアは蜂須賀の言葉を聞いている。


「結局は最適な距離感を探るしかない。そしてそれはあなたにしかわからない。抽象的で、無責任なことを言ったかもしれないけれど、こればかりはしょうがないわ。……あとは、そうね――、具体的なアドバイスとしては、お仕事を続けていきたいのなら、ストレスの発散方法を一つじゃなくていくつも用意することかしらね」


「なるほど……」


「何が言いたかったかというと、適度に不真面目にってこと」


 パトリシアは、もう一度、なるほど、と呟いた。




――

 コーヒーショップの上階、事務所では、


「下で新しい子に睨まれちゃったよ」バックパックを背負ったスーツ姿の男が楽しそうに言った。


「怪しいからじゃない?」


「あのくらいの年齢の子にしてみれば、父親以外の年齢の離れたおっさんは不審者か――、悲しいが間違ってはいないな」そう言い笑った。


「それで不審者さんは何の用?」


 ああ悪い、と男はバッグから樹脂ケースを取り出し、テーブルへ置いた。


「頼まれていたものだ」


「ありがとう、助かるわ」


 彩乃はケースを開けた。中にはスマートフォンと通帳、運転免許証が入っていた。パトリシアに用意した一般回線で契約した市販の端末。免許証は二枚あり、一枚は実年齢のもので、普通二輪のみの免許。もう一枚は二〇歳になるよう生年月日がずらされ、自動車と二輪が許可されている。住所表記は両方とも彩乃の自宅のものだ。

 活動するうえで必要になるものだった。表向きの身分は自分たちで用意する自由を認められている。裏を返せば、何も用意しないままでは日本国民ですらないということでもある。〝存在しない者〟とはいえ、完全な透明人間というわけにはいかない。


「新人はどうだ? うまくやれそうかな?」


「悪くないわ。むしろ最近じゃかなりいい。腕も、性格も」


「そうか、ならよかった。『学校』での成績だと本部の強襲部隊が適しているとの評価らしいが、コミュニケーションに難があるほどの男嫌いと本人の熱烈な希望を認めてここに配置したのは正解だったか」


「いまのところは」


 猫澄(ねこずみ)がコーヒーを運んできた。男は頷き、カップを口に運んだ。俄かに顔を顰める。彩乃は、砂糖とミルクをこれでもかと投入している。それを横目に猫澄もカップに口をつけ、「まずっ」と呟いた。


「……ところでメールは届いているか?」


「何の?」


「先日の武器取引の件だ」


「いえ」首を振る。「ネコ、届いてる?」


 パソコンのメールフォルダをチェックする猫澄。「ああ、これか。さっき届いたみたいだ」


「詳細は読めばわかるが、ついでだから言っておこう。――先日の武器取引だが、証拠からは元締めを辿れるような目ぼしい情報は得られなかった。捕まえた奴も、本当に何も知らないただの雇われだった。八ヶ月前に退職した家電メーカーの営業マン、二年前に離婚、犯罪歴はなし、まあ普通の男だ。武装していた四人とは当日初めて会ったらしい。チンピラ共の身元は事前情報と差異なく確認できたが、ディーラー側の四人は確定できていない。まだ調査中だが、どこかの国の工作員ではないことはわかっている。いっそ潜入工作員か何かなら、表の奴らにぶん投げられるから多少はラクだったんだが」一息吐く。「ひとまず、男たちの素性は置いておいて、問題はここからだ。取引予定だった武器だが、一箱以外は空だった」


「一箱以外ってことは、わたしが見たのだけが中身入りだったわけか」


「そうだ。証人は中身が銃であることは知らされていたが、空箱で嵩増しした虚偽の取引が行われることまでは知らされていなかった。そして、空箱が最初から空箱だったならそれで終わりなんだが、分析の結果、銃器と弾薬、プラスチック爆薬が入っていた可能性が高いことがわかった」


 2トントラック一台で運べる量の武器が行方知れずになっていることになる。容器や梱包材、緩衝材の類を差し引けば、武器弾薬の量はそれほど大量というわけでもない。しかし、それらが個人に出回るならまだしも、組織的に思想をもって運用されたとしたら惨事は免れない。それに取引は今回の一件だけとは限らない。この前にも後にも「組織」が情報を掴んでいない武器取引などいくらでもあるだろう。


「大変ね、忙しくなる」彩乃は他人事のように言った。「ああ、そうだ。同じ日に潰したヤクの売人とは関係ある?」


「なんとも言えない。やりとりを調べたが共通点は見つかっていない。まあ、アドレスや履歴はやろうと思えばどうにでもできるからな、その辺は情報部に頑張ってもらうとしよう。現状、背後にかなり大きな組織があるのは間違いないだろう。武器の流通を担当するチームが複数存在するような。場合によっては、傭兵紛いの連中が出てくるかもしれない」


「さすがにそこまでいくと、ウチらの仕事じゃないぜ」猫澄が横から言った。


 違いない、と彩乃は同意した。

 戦いは自分たちの本分ではない。するのは殺し合いではなく、殺しだ。


 男が、そういえば、と思い出したように尋ねる。「三日月(みかげ)、一昨日秋葉原に行ったかい?」


「いや。一昨日は渋谷から出てないよ。新人ちゃんの買い物があったから」


「そうか。じゃああれは似た人ってことか、見間違いか」


「世の中にはそっくりな人間が三人かそこらいるって話だしな」猫澄は物知り顔でしみじみと言った。





 川に面したオープンカフェのテラスで、彩乃は少女と二人で午後のティータイムを過ごしている。


 彩乃は、デニムスカートに黒のノースリーブカットソー、オリーブ色のMA‐1、ハイキングシューズ、ラウンドフレームの伊達眼鏡、髪に入った緑色のインナーカラーとメッシュも相まってロッカー風味の装い。

 少女も、スキニージーンズにパステルカラーのオーバーサイズカーディガン、ストリートブランドのキャップ、ドクターマーチン、鳥の羽根を象ったイヤーカフ、落ち着きと背伸び感の同居するカジュアル系。


 一見すると、友人か妹と遊んでいるように見える彩乃だが、実のところは任務中だ。

 同席する少女は「両道(りょうどう)聖会(ひじりかい)」という名の団体、有り体に言えば暴力団の会長の孫娘だった。少女の祖父、つまりは会長が先日亡くなったことで跡取り問題が発生していた。亡くなった会長も、組の有力者も高校生になったばかりの少女が組織を継ぐことを望んでいないが、一部の派閥や二次団体が彼女を旗標に組織を牛耳ろうと画策しているらしく、怪しい動きを見せている。

 そうした謀略から、この少女――塞城光莉(さいじょうひかり)を事が落ち着くまで守る、というのが大まかな任務内容だった。


 当の光莉は、いきなり学校を休めだとか、家には帰るなだとか、この人が護衛だなどと言われて、困惑と鬱陶しさを覚えていた。高校生にもなって周囲の大人に説明もなしに従わされるのが不服だった。目の前の女性に護衛の任がこなせるのかも疑問だった。三日月彩乃と名乗った彼女は自分より年上なのは間違いないが、一〇も離れていないように見える。年齢や外見で判断してはいけないのはわかっているが、光莉が身辺警護人として思い浮かべる人物像からは離れている。向かいに座るこの女は、この前のドラマを観たか、この動画を知っているか、あの曲がよかったとか、あの漫画、あの映画が面白いなど、教室や駅のホーム、ファストフード店で聞くような話を振ってくる。テキトーに返事をして彩乃の顔を見ると、つい心を許してしまいそうになる。こういうとき美人というのは強い武器だな、と光莉は思った。




/

 彩乃と光莉が歓談する様子をパトリシアと猫澄は近くの橋から眺めていた。


 黒セーラーに赤のカラータイツ、チョーカーという装いのパトリシア。ギターケースを背負う姿は傍から見ればバンドを組んでいる女子高校生だが、ケースの中身はギターではなく猫澄のカスタムAR。

 隣の猫澄は、青いトラックジャケットにロングスカート、トラウト柄のキャップ、グレゴリーのデイパック。首から提げたクラシカルなデザインのミラーレスカメラと、足元に置いた三脚バッグがカメラ女子を演出。


 二人も当然ながら仕事中だった。彩乃たちに近すぎず遠すぎずの位置で監視しつつ、周囲に不審な人物がいないかもチェック。

 その最中、パトリシアがふと尋ねた。


「わたしって役立たずですか?」


「どうした?」


「この前も失敗して、今日だってネコ先輩の荷物持ちじゃないですか」


「たしかにウチらの仕事にはミスったら大惨事になるのもあるにはある。だからといって全く失敗が許されないってことにはならない。ミスをカバーするのも仲間の仕事だし、ミスできるときにミスしておくのも経験じゃないかな」


「『学校』では失敗は許されないって教わりました」


「そりゃ、ヤっちゃいけない奴をヤったらダメだし、スイッチを押させたらみんなドカンで手遅れだ。そういう仕事でドジらなきゃいいって話。だいたいそんな仕事、お前にはまだ来ないよ」


 パトリシアの表情が曇る。欄干を掴む手に力が入る。ギリギリと音が鳴った。


「別にパトリシア、お前がどうしようもないお荷物の無能ってわけではないよ」


「そう言ったのと同じです」拗ねる。


「自分の頭を吹き飛ばしたり、錯乱して味方を撃ったりしないだけで超優秀だよ。ゲロくらい可愛いもんだ」声を落として言った。


「可愛くない、です。先輩の前で吐いて倒れるなんて」


「先輩後輩の前で吐くなんざ、この時期の風物詩みたいなもんだろ」


「そういうのと一緒にしないでほしいんですけど。こっちは真面目に悩んでるんです」


「悩んでる~つったって、続ける気満々だろ。倉庫で真剣に相棒を選んでたわけだし」


「それはそうですけど……」


「もっとアドバイスがほしいんなら、彩乃に直接聞けばいい」


「彩乃先輩は、答えてくれない気がします」


「だろうな。それならわたしに聞こうってか? でも――」声量を落として続ける。「わたしはお前や彩乃と違って、組織に入る前から人殺しだったから参考にはならないと思うぜ」


「それって……」


「組織の子たちは、だいたいは孤児だろ? 親が死んだり、親や親族に見放されたり、はたまた身内がどうしようもないクズで離れたほうが幸せだったりするような、不幸で不運な子供たちだ。でも、みんながみんなそういう可哀そうな子ばかりっていうわけじゃあない」


「……」パトリシアは、自分は可哀そうな子じゃない、と反論しかけたが内心に留めておいた。世間から見れば、可哀そうな過去があるのは事実だった。それに、猫澄の言う「可哀そう」は少しニュアンスが違うように思えた。


「悪い意味で、わたしはお前たちとは違うんだよ」


「こうやって隣で同じ仕事をしてるのに、ですか?」


「そうさ。だから、わたしの立場から言えるのは、ウチらの仕事は悪人が悪人をしばくことが許された違法で合法な仕事だってこと。死刑執行のボタンを押すことを刑務作業として与えらえた服役囚。そこに誇りやらやりがいやらがあるかは知らない。わたしにはこの仕事しかないんだ、お前とは違う理由でな」


「そんな――」言いかける。そのとき、


 パトリシアのスカートのポケットに振動があった。携帯端末のバイブレーション。ポケットのファスナーを開けて、端末を取り出した。彩乃からのメッセージだった。


 猫澄へ伝える。「彩乃先輩の後ろのカップルっぽい二人組。いま入ってきた人たちです」


 指示された二人組は、いかにも体育会系な風体の男性と低彩度ファッションの女性。どちらも目立たないようにしたい、地味にしようという意識が漏れ出ている。周囲を気にしながら、スマートフォンや腕時計をしきりに確認している。二人組は、すぐに水を飲み干し、店員を呼んだ。


「ド素人だ、この前のがプロに思えるぜ」


 猫澄はカメラを構えた。二人の顔がはっきりと写るようにフレームに収め、シャッターを切った。撮影データは無線通信で携帯端末に転送され、ITIS(アイティス)で身元照会される。


「――出ました」結果をパトリシアが読み上げる。「男のほうは、城野洪右(きのこうすけ)。関東平成大学経済学部の三年生。不起訴になっていますが、侮辱と脅迫で告発されたことがあるようです。女性のほうは、麻島咲来(あさしまさくら)、帝都大学の四年生、専攻は生物学。個人の犯罪歴はないようですが、所属サークルが情報部の監視リストに入っています」


「面倒なことになりそうだな」風景を撮る素振りをしながら言った。「じゃなきゃウチらに依頼なんて来ないか」


 パトリシアは、照会結果を彩乃へ送った。すぐに返答。「ネコ先輩、厳重警戒だそうです」


「おっけー」


「でも、彩乃先輩を疑うわけじゃないですけど、なんで反社会団体のいざこざに大学生が関わろうとしているんですか? 二人とも関係があるようではないですし」


「さあな。裏社会の人脈だとか、人手がほしいとかじゃね? 女のほうはリストの関係者なんだろ、しかも大学生、何仕出かしてもおかしくはないっしょ。そういう何かデカいことするには使い潰せる兵隊がいたほうがいいだろ。死んだところで誰の心も痛まないような」


 二人は知らなかったが、現在、帝都大学内部にテロ計画疑惑があり、情報部で調査中だった。その監視対象が件の暴力団の構成員と接触したことから、「組織」の介入案件になった経緯がある。

 そうした事前情報がなくとも、この任務がロクでもない仕事だと、パトリシアと猫澄は察していた。ただの子守りで終わるはずがない、という予感があった。それが確信に変わりつつあった。


「もうすぐ五時か。やるならそのタイミングだろうな」建物を見る。不自然に開いた上階の窓や屋上の人影もない。「いまのところスナイパーはいないようだが」


「あの、怪しい人が――」耳打ちする。「左に5メートルのところの男。ずっとわたしたちのこと見てます」


「あー、そいつは敵じゃない、味方でもないが」一瞥して言った。


「え?」


「公安の人だ。凪子さんの奴隷」さらっと言った。


「いまなんて? どういうことですか」


「協力者とか二重スパイみたいなもん。ヒューミントはわからんからこれ以上は聞くな」


 はい、と小声で返事するパトリシア。失敗カウンターが一つ増えた。


「他に怪しい奴は?」


 カフェの対岸に、数分前にはいなかった人影が増えているのをパトリシアは見つけた。その人物を指す。


「あの人は? 双眼鏡と傘持ってる人」


「あからさまに怪しいな。指示と視線誘導の兼役だろう」でかした、と言い添える。「……マジでこんなところで仕掛けるつもりか、キマッてんな」


 傘持ちの男以外にも、通行人の中に不審な人物が交じってきた。光莉を奪取しようとする派閥や二次団体の構成員の顔もある。


「どうします?」


 彩乃たちを見る。二人は席を立ち、カフェを出ようとしていた。


「お前はとりあえず彩乃とお嬢さまと合流して」


 リュックサックとギターケースを交換し、パトリシアはカフェの方へ移動を開始した。


「こっちはジャミングと援護を――」


 そのとき、双眼鏡と傘を持った男が、傘を開いて掲げた。そして銃声が一つ響いた。




――

 数分前、オープンカフェ、テラス。


「ガキのお守りは飽きた?」氷だけになったグラスをストローで掻き混ぜ、言った。


 ついさっきまであれこれ話しかけてきた彩乃が無表情でスマートフォンの画面を見ているのが、光莉には少しイラっときた。


「いいえ光莉ちゃん、わたしの仕事はまだ始まってないのよ」


 光莉は怪訝な面持ちで彩乃を見た。この女のことがまったくわからない。


「どういうことなの――」疑問が零れる。


 さて、と彩乃は光莉の言葉を受け流し、


「お姫さま、そろそろ出ましょうか」立ち上がり言った。


「あ、うん」


 光莉は一瞬ドキリとした。彩乃は出会ってからずっと光莉のことを名前で呼んでいた。それが「お姫さま」呼びになった。顔が熱くなる。

 店を出る支度を光莉がしている隙に、彩乃はスマートフォンを見た。インカメラで背後を確認。例の二人組がこちらをジッと観察している。


「あの、お手洗いに行っても」光莉は恥ずかしげに小声で言った。


「ええ、わたしも」


 そう言い、彩乃は光莉の手を引き、肩に手を回した。


「ちょ、なに。なんでトイレ行くのにこんな近――」


「敵がいる、これから何が起こっても取り乱したり、泣き喚いたりしないで」耳打ち。


 歩き始めてすぐに、背後から、打ち上げ花火に似た破裂音が聞こえた。


「え、何の音?」光莉は尋ねた。自分の置かれている状況から、音は銃か爆弾の音だろうと察しはついていた。


「気にしない」


 そう言い、彩乃は俄かに慌ただしくなったフロアをずいずいと進んでいく。

 店内の端、パーティションと観葉植物の鉢で区切られたスペース。トイレの個室が二つ、女性専用と車椅子利用可の共用個室。

 光莉を個室に押し込み、彩乃はドアの前で待つ。

 そこにパトリシアが現れた。走ってきたのか、少し息が荒くなっている。


「急いでここを離れましょう、攻撃が始まりました――」


「お疲れさま」


「え、あれ? 先輩、お嬢さまは?」


 彩乃は背後のドアを指した。


「リュック頂戴」


「はい」


 リュックサックの中身を確かめる彩乃。


「パトちゃんはお嬢さまを連れてセーフハウスへ。店の外に組の人いるから、車はその人に」この人だと、写真を見せる。


「先輩たちは?」


「ここは俺に任せて先に行けー、なんてね」ウインクしてみせる。


「え?」


「こっちはこっちでやることあるんだ。後ろは任せて」


「わかりました」了解はするも納得はしていないという様子。


 パトリシアの返事を聞き、彩乃はドアをノックした。ノックが返ってくる。すぐに水を流す音がした。ドアを少し開けて、光莉が顔を出す。パトリシアを見て、不審がった。


「お姫さま、あとはこの子がセーフハウスまで案内してくれるから」


「は、なに勝手に」


「じゃ、パトちゃん後はよろしく」


 パトリシアは頷き、光莉の手を取った。「お嬢さま、行きましょう」


「ちょ、ちょっと、力つよ――」


 トイレのあるスペースからパトリシアと光莉は出て、店の出入り口へ歩き出した。

 彩乃はその場に残り、観葉植物の隙間からフロアを窺う。ほとんどの客と店員は、身を屈めながら対岸で起こっている騒ぎの見物をしていた。携帯端末の通信も不調で、それに対する不審や混乱の声も聞こえる。店内の無線ネットワークも不通となっている。そのことの不満を店員に投げている者もいる。そうした低レベルの異常事態の中、パトリシアと光莉を追う人影がいくつかあった。さきに確認した大学生二人組以外にも〝敵〟が潜んでいた。

 彩乃は、不審者軍団最後尾の男から3メートルほど離れて、一団の後を尾け始めた。




――

 パトリシアと光莉がカフェから出ると、待っていたと言わんばかりにスーツ姿の女性が二人の前へ立った。彩乃がパトリシアへ見せた写真の人物。彼女は今回の騒動に際し、光莉の世話係に就けられた構成員だった。

 川向こうの散発的な銃声がビルに反射し、雑踏に振りかかる。

 女は光莉へ頭を下げたあと、パトリシアへ厳しい視線を向けた。状況から彩乃の仲間だろうことは察せられたが、万が一に敵である可能性も捨てきれない。

 女がジャケットのボタンを外した。裾に沿って手が動く。パトリシアも利き足を後ろへ運んだ。


「塩山、この人は三日月の仲間よ」光莉が女へ告げた。


 塩山と呼ばれた女は、パトリシアと光莉とを交互に見やり、小さく頭を下げた。


「……失礼いたしました」


「いえ、こちらこそ」会釈する。「――お嬢さまをセーフハウスへ送ります。車をお願いします」


「承知しました、こちらです」



――

 塩山の先導でコインパーキングへ到着したパトリシアと光莉。パトリシアにはどれが自分たちが乗るべき車両かはわからないため、二人に急ぐよう促した。

 光莉は停めてある日本製のセダンへ近づき、解錠されるのを待っている。パトリシアも光莉の近くへ移動した。しかし、鍵を持っているはずの塩山はパーキングの入り口で立ち止まったままだった。


「塩山?」光莉が問いかけた。


「ああ、お嬢さま、お車はそちらではありませんよ」


「はぁ?」戸惑いと苛立ちを見せる光莉。


 様子がおかしい。

 パトリシアは光莉の肩に手を回し、周囲に視線を走らせた。

 そのとき、パーキング前の道路に、バンが一台停車した。それと同じタイミングで、別の出入り口から拳銃や刃物を持った男たちが現れ、パトリシアと光莉を取り囲んだ。仲間ではないことは一目瞭然だった。

 大人の男を相手にした多対一の格闘戦の訓練をパトリシアは積んでいるが、この状況では分が悪い。光莉を守りながらとなれば、なおのこと。包囲を突破して逃げることなら倒すよりは簡単だろうが、そうなると武装した一団に追われることになる。無関係な人や物を不必要に危険へ晒すことになる。


「塩山、どういうつもり――」


「恐縮ですが、お嬢さま方には行き先を変更していただきます」

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