ボーダーライン(5)
パトリシアが、階段を駆け下り、スチールドアを蹴破る。交通事故かのような衝突と破砕の音が響く。ドアごと男が一人弾き飛ばされた。
そんな破壊の光景を作った張本人のパトリシアは、スタッ――とダンスでジャンプしたあとのように軽やかに着地した。
さっと、ドアの先の空間を見回す。
扉の先は三〇帖あるかないかくらいの広さの部屋。
黒を基調とした内装、バーカウンター、ガラス天板のローテーブルにカウチソファ、一部のエリアはマットフロアになっている。天井にはミラーボールとスポット照明やシャンデリア風ライト、劇場のような両開き扉の他にカーテンで仕切られた通路や部屋が見える。中央には円形のステージがある。パトリシアの侵入したドアはスタッフ用の出入り口のようだった。扉の表裏で仕上げが異なる。
フロアにいるのは、男が二人に女が二人。いずれも武装している。スマートコンタクトに表示されるエリアスキャン情報には、奥の部屋の人質と思われる人物以外には視界外の人間は映っていない。
視線がパトリシアに降りかかる。
パトリシアは立ち上がりながら、銃口を上げた。同時に、サイドレールのフラッシュライトを点灯させる。
ライトが照射され、ようやくフロアの武装者たちは自動小銃を構えはじめた。
突然の出来事に反応が遅れている。襲撃者を待ち構えてはいたが、ドアを文字どおり蹴り飛ばしてくるのは想定していなかっただろう。
一番にパトリシアへと反応した男をパトリシアは撃った。数発が二の腕と肩を抉り、男は自動小銃の構えを崩した。さらにパトリシアは、胴へと撃ち込みながら肉薄し、足を払い投げ落とす。そのあと、防弾プレートのある胸に数発追撃。
次のターゲットに狙いを移す。フラッシュライトに照らされた先が銃口の向いている方向。
照らされた女が目を瞑りながら、引き金を引いた。サプレッサーを通した超音速弾の銃声が悲鳴のように響く。
パトリシアはソファの陰に伏せ、身を隠した。
銃声に釣られるように残りの二人も引き金を引いたが、そのうち一人の銃からは弾は発射されなかった。初弾すら装填できていなかった。ワンテンポ遅れ、銃撃が続く。
乱射された弾丸が壁や床に穴を開けていく。
弾を撃ち切れば、弾倉を交換し、撃つ。彼らはパトリシアを見失ってしまっていた。一人の恐慌が伝染したかのように、三人の構成員は撃ちまくり、室内で嵐を起こしている。
しばらくし、それも止んだ。
パトリシアは床に転がったまま顔を出し、手持ちの弾倉を撃ち切ったままの銃を振り回す女の膝から下を撃った。絶叫をあげて倒れる女に、他の戦闘員が気を取られる。その隙に、もう二人の胴を撃ち、陰から跳び出す。
跳躍するパトリシアに気付いた男に蹴りを放つ。男はとっさに小銃を盾にしようとしたが、パトリシアは銃ごと男を蹴り倒した。
残ったのは、足を撃たれ泣き叫ぶ女と彼女に駆け寄り同じように叫んでいる女。
パトリシアは、二人に近づくと容赦なく殴って昏倒させた。それから、ケーブルタイで全員を拘束した。
フロアを制圧し終えたパトリシアは、カーテンで仕切られた通路へと目を向けた。その先に最後の一人、人質「鈴江葵」がいるはずだった。
ターゲットはすぐそこだが、パトリシアの気は重かった。
内心は、この先へ進みたくないが、機械の足と使命感は、自分のちょっとした嫌な心情などは気にも留めず歩を進める。
ターゲットのいる部屋へと近づき、ドアノブに手をかける。その瞬間、パトリシアは固まってしまった。
嫌な臭いがした。パトリシアにとって、本当に嫌な記憶と結びついた臭いと空気感が、ドアの向こうから漏れ出している。
しかし、ある意味では安心した。ドアの向こうにいるのが、一人だけでよかった。
パトリシアは、決心し、ドアノブを捻ろうとした。
そのとき――、
何者かがパトリシアの肩に触れた。反射的に翻り、拳銃を引き抜きざまに、背後の人物へ突きつける。
銃口の先にいた人物は彩乃だった。
「お疲れ」両手を顔の横へ上げる。
「あ……す、す、すいませんっ」
パトリシアは跳び上がるように彩乃から離れた。頭を下げ、謝り続ける。
いいって、と彩乃は手をひらひらさせる。
彩乃はパトリシアの横をすり抜け、ドアを開けた。
「あー、うん。ちょっと見張ってて」
もう動ける敵などいないが、パトリシアは従った。彩乃が扉の先をパトリシアに見せたくないと思っていることは簡単に察せられた。銃を向けてしまった負い目もあるし、この場は従うしかない。形だけの警戒をしながら、耳を小部屋へと向ける。
そのパトリシアに声が投げられた。
「パトリシア、ちょっとお願いがあるんだけど」
「――、あ、はい」
彩乃は、いつものように「パトちゃん」と呼ばなかった。違和感を抱きながらも、返事するパトリシア。
「そこら辺から敵の銃、弾もね。一つでいいから持ってきてくれる?」
「敵の銃、ですか。どうするつも――」
パトリシアは、ハッとドアのほうを振り向き、ドアを潜った。
血肉の臭いが一気に濃くなった。シャワールームのような場所に、血で汚れたボロボロのマットレス、医療器具や工具の載せられたワゴン、部屋の隅にはカーバッテリーやウォーターサーバーのタンクが置かれている。鉄錆とアンモニア臭、カビ臭に、消毒液の臭いが微かに混じる。それらが、換気扇で作られた弱い風の流れに掻き混ぜられ、肌と鼻粘膜、口腔粘膜を気持ち悪い手つきで撫でる。
その部屋の中央付近、パイプ椅子に座っている全裸の女性がパトリシアの目に入った。やつれていて、痣もあるが、鈴江葵であることは判別できた。
両手首、両足首に錠がかけられ、その錠を介して椅子にケーブルタイで固定されている。手足には注射痕と思しき痣が点々とし、首や胸にも痣と出血痕がある。右手の指には包帯が巻かれている。
パトリシアは、吐きそうになるのをぐっと堪えた。顔を顰めてしまわないように、無表情を保つ。
彩乃は鈴江葵の横に置かれたワゴンを探っていたが、パトリシアに気付き、視線を向けた。
「ああ、来ちゃダメだって」冷たい口調。
パトリシアは背筋に冷たいものを感じた。彩乃が優れた殺人者であることを思い出した。死神のように見えた。
声を絞り出す。「……ぁ、あの……あ、彩乃先輩……その人殺すん、ですか」
「うん」
「……敵の銃を持ってこさせようとしたのは敵の仕業だと思わせるため、なんですか?」
「ええ、処刑されたように見せかけようと思って。一応、ポーズとしてね」
「で、でも……生きてるじゃないですか。治療すれば、助かるかも……」
そのとき、パトリシアと鈴江葵の目が合った。鈴江葵は視線に気付いたのか、濁った目でパトリシアを見た。にへらと笑う。その口には歯はほとんど残っておらず、口の端からは涎が零れた。
手錠をはめられた手首と足首に傷があるが、すでに塞がりかけていた。いま着けられている手錠もさほど汚れてはおらず、直近ではろくに抵抗していないことが窺える。
「これが助かるふうに見える?」
「そ、それは……」
「多分、両手足の腱は切られてる。パトリシアが使ってる義肢の技術を使えば手足は戻るだろうね。でも……頭は無理」
言葉を選ばずに表現するなら、鈴江葵は「廃人」になってしまっていた。
「極度のストレスと投薬。それで、心も体も壊れてしまっている。いまはクスリで夢を見ているから落ち着いているかもしれないけど、それがなくなれば癒えることのない傷に苦しみ続けることになる。あんまりこういう言い方はしたくないけど、あなたならわかるよね?」
「……それは……」
それはそうだ。
パトリシアには、鈴江葵の被った痛みのことが幾分か理解できる。手足を機械に置き換える原因になった体験のことだ。過去の傷は、完全には癒えていない。
鈴江葵の姿が、己と重なった。無責任にも、重なって見えてしまった。
だからこそ――。
「……なら、わたしがやります」
この人の幕引きは自分がするべきなのではないか。
パトリシアは自分の拳銃を抜いた。
ぼうっとパトリシアを見る鈴江葵に銃を向ける。鈴江はふにゃと笑い、口を開いた。吐息とも声ともつかぬ音が零れた。
これから自分はこの人を殺す。処刑といっても差し支えない。
しかし、不思議と抵抗感や嫌悪感は湧いてこなかった。むしろ、霧が晴れるような気分だ。いまだかつてないほどに、心が穏やかで研ぎ澄まされているようにさえ感じる。
この人は自分だ。だから、自分にしか彼女を終わらせることはできない――そう思えた。この機会を逃せば、自分はこの部屋に囚われ続け、悪い夢のレパートリーに今日のことが追加されるだろう。
そうならないための、自分に足りなかった最後の一欠片であり、解毒薬。
鈴江葵を殺すのは、彼女を憐れんでのことでない。自分のためだ。自分が縛めから逃れるための儀式だ。それだけは詫びておこう。
「ごめんなさい」
眉間をしっかりと狙って、引き金を引いた。
放たれた弾丸は、銅の花となって鈴江葵の意識を引き裂いた。着弾の衝撃で、仰け反り、天を仰ぐ。背後の壁面に血飛沫が散り、銅の花がタイルを割っている。鈴江葵の後頭部からは、夥しい血液が流れ落ち、排水溝に飲み込まれていった。額から零れた血が涙のように眼に溜まり、頬を伝っている。
その様子をパトリシアは微動だにせず、見つめていた。人の死を意識して目の当たりにするのは、人生で二回目のことだった。
鈴江葵の心臓の動きが止まったところで、パトリシアはグローブを外し、遺体の目蓋を閉じた。
■
パトリシアが倒した戦闘員たちの大多数が骨折や内臓損傷などの重傷。一名が内臓破裂で搬送後に死亡、二名が脊椎骨折と脳挫傷で死亡。二名が出血で死亡。意識不明も複数。
結局、交戦時にその場で絶命させていないだけで、大怪我を負わせるか、その後に死亡している。
終わってみれば、なぜ、自分は殺しが怖いと思ったのだろうか。なぜ、初任務のゴロツキたちを撃ち殺したときにはストレスを感じたのか。疑問に思えてきた。
それについての確かな答えは出ない気がする。やはり、初の実戦で緊張していたのが一番大きな要因だろうか。
とはいえ、鈴江葵に手を下して平気だったのは、慣れというわけでもない。
自分がやらなければ――、
変わるチャンスに違いないから逃すことはできない――、と義務感のような気持ちに突き動かされた。
その結果、味方を「処刑」した。
しかし、清々しいというと語弊があるが、後ろ暗い気持ちはなかった。色々と吹っ切れたように思える。
これが、彩乃や猫澄、蜂須賀相手だったら、自分はその場で後を追っていたかもしれない。鈴江葵と過ごした期間のほうが渋谷支部の人たちよりも長いが、自分にとって鈴江葵は「過去の人」だった。そうした意識が、いくらか精神の平穏を保つ要因にもなっていたようにも思う。
割り切る、というのは、こういうことなのか、自分なりに理解できた気がする。
ようやく己の中で、仕事への姿勢のようなものが定まったように思える。やっとスタート地点に立てた。
■
都内、古いラブホテル。
白い仮面を被った女性が、ソファに座っている。その横には大柄な日本人男性が立っている。
「ヘルズゲート」にはいなかった鴻巣と、運よく現場から離れていたおかげで逃走できた「ヘルズゲート」メンバー熊谷の二人が、女性の対面に座っている。二人の背後には、仮面の女性の部下が二人立ち、監視している。部下は、両者ともに軍人かそれに類する職業の人物と思われる体格と姿勢で、東欧系の風貌だった。
「――こっちも部下を喪失しているの。正直、無能側の人間だったけど部下は部下。あなたたちの無謀に付き合って死んだ。それはわかる? だからね、埋め合わせはしてもらいます」
「う、埋め合わせ?」
仮面の女は、熊谷を指差して、告げた。
「男のほう、その女を殺しなさい」
「え?」
「ま、待ってください。わたしは、まだ役に立てます。あなたの部下になります、だから――」慌てる鴻巣。
「あなた、自分の組織を裏切って、連中についたんでしょ。それで、今度はわたしのところに来るつもり? それで、また危なくなったら、別の奴らに尻尾を振るのかしら」
「そ、そんなこと――」
「あなたは自分が役に立つ側の人間だと思っているようだけど、あなたには『組織』の戦術端末の提供者以上の役目はないわ。もう用済み」
「そんな……」
拳銃を手渡された熊谷は、仮面の女性と自分の背後に立つ護衛、そして怯える鴻巣を見た。
スライドを引いて、鴻巣へと銃を向ける。
悪いな、恨むなよ――、と内心で呟いて、引き金を引いた。
銃弾は、鴻巣の胸に命中した。心臓を射抜き、入射口から夥しい血が流れ出る。鴻巣の胸元、腹、下腹を赤く染めていく。
「おめでとう。ぱちぱちぱち~」わざとらしい明るい声音で言った。「じゃあ、三人でソイツの処理お願いね」
そう言い残し、仮面の女は護衛の日本人を連れて、部屋を出ていった。
残された熊谷に、護衛兼監視の男の片方が話しかけた。
「あんた、名前は?」
「く、熊谷……」
「そうか、クマガイ。まぁ、しばらくは酒でも飲んで休んどけ」
冷蔵庫の缶ビールを差し出した。ソファに座り、テレビの電源をオンにした。ザッピングし、「これでいいか」と、深夜アニメでチャンネルが固定された。
もう一人の男は、鴻巣の遺体をベッドへ移し、服を脱がせている。
たしかに、酒でも飲まないとやっていられないかもしれないな、と熊谷は思った。




