32話 彼女、気持ちを押し殺さず 尚も決意は揺れず
ひょんなことから始まってしまった遊渡と海雫の結婚非前提の同棲生活。お互い全く踏み込む素振りもなく、ただ盗聴器による盗み聞きがあるため、ある程度結婚を前提にしているようなやり取りをする。
それでも寝室に行けば完全に世界が分かたれる。
遊渡は麗華とメールでやり取りをし、その幸せそうな姿をただただ横で見つめる海雫。
遊渡と海雫は半年間同棲するにあたり、互いを知ることは大切だと考えて互いについて話した。
それで判明したことだが、海雫は他人の恋路をただ傍から見ることが大好きなんだとか。そのため、遊渡は麗華とのやり取りを見られるのを許容しているというわけだ。
半年間の同棲が強制的に始まってしまい、家に帰ることも出来ない遊渡は麗華に半年間帰れないことを説明した。
さすがに同棲と言うのはまずいと考えた遊渡は家の手伝いで半年間いなければならないと伝えた。
もちろん海雫のことは話さず、遊渡と麗華の関係を知っていることも話さない。それを話すことによって麗華の気持ちが乱れることを防ぐためだ。
半年間も傍に居れない状態で麗華が荒れてしまっては収めることができないからだ。
遊渡と海雫の同棲生活が開始したのは9月の中旬。そして月日が流れ、遂に半年が過ぎようとしていた。
同棲生活最終日の昼。遊渡と海雫は軽く身支度を始めた。
「遊渡様、非常に不愉快であったと思いますが、わたくしとの同棲生活を許容していただきありがとうございました」
その言葉に遊渡は首を横に振った。
「いや、不愉快だなんてそんな。あなたのおかげで俺はここにいてもしんどい思いをせずに済みました。本当にあなたのおかげです、この半年間、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる遊渡。それに海雫は戸惑い、遊渡に頭を上げさせる。
「そ、そんな、わたくしになんかに頭を下げるなんておやめ下さい。わたくしも、貴方様のおかげでこの半年間とても楽しく過ごすことができました」
遊渡に笑みを向ける海雫。頭を上げてその笑顔を見る遊渡は、海雫に歩み寄る。
「海雫さん、何度も言ってますが、そんなに自分を卑下しないでください。あなたはそんなに罵られていい人ではありません」
優しく声をかけられる海雫は驚いた表情をするが、すぐに笑みを浮かべ、遊渡に向かって頷いた。
「はい、わかりました。もう少し、自信を持ってみます」
海雫の言葉に遊渡は頷きを返し、荷物を取り、海雫に手を伸ばす。
「海雫さん、半年間お互いに望まぬものではありましたが、こうしてあなたと出会い、日々を過ごせたことを俺はとても嬉しかったです。ありがとうございました」
差し伸べられた手を見て海雫は少し戸惑ったが、すぐに遊渡の目を見て差し伸べられた手を取り、固く握手を交わした。
「わたくしも楽しかったです。ありがとうございました。それと、また貴方様とお会いすることがあれば、その時は海雫と、お友達に話しかけるようにフランクに呼んでいただけるとありがたいです」
その積極的な言葉に遊渡は感心しつつも笑みを浮かべ、頷いた。
「この際、敬語もやめようか。わかったよ海雫」
敬称も敬語も無くなり、かなりフランクに言葉をかける遊渡。それに海雫はほんのり赤色を混ぜ、嬉しそうに頷いた。
「うん!」
そして2人は別荘を出て、遊渡は速攻家に帰るため運転手を探しに、海雫は結婚をどうするかの返事をしに豪邸へと向かった。
豪邸へと向かう途中、ほんのり混ざっていた赤色を更に濃く染め、海雫はため息をついた。
「……こんな気持ち、ダメなのに」
海雫は顔を全力で左右に振り、それから豪邸へと入っていった。
豪邸を練り歩き、海雫はある1つの扉にノックをし、開く。
「失礼します」
扉が開き、見た事のある部屋の奥で男性が扉に背を向け、手を後ろで組んで窓の外を眺めていた。
海雫は扉を閉め、前に歩みを進める。ピタッと足を止め、男性に体を向ける。
「半年間、遊渡様と同棲させていただきました。このような機会を与えていただき、ありがとうございました」
頭を下げる海雫。部屋が静寂に包まれ、その中で海雫は頭を下げ続ける。
その静寂を壊すように男性が海雫に体を向け、口を開いた。
「早速だが、結婚をするかどうか、聞かせてもらおう」
堅苦しくそう口にする男性。それに海雫は頭をゆっくりと上げ、微笑みながら口を開いた。
「遊渡様……とてもお優しい方でした。こんなわたくしにも分け隔てなく接してくれて、いつも気にかけてミスをしても許してくれて。正直、惚れてしまいました」
頬がどんどんと赤くなる。だが、それとは相反し、海雫の笑みは緩み、真剣な顔へと変わっていった。
「……ですが、だからこそ。わたくしはあのお方と結婚は致しません」
男性の目を見る海雫。その眼差しには揺るぎない決意が宿り、ただひたすらに男性へと向けられていた。
男性は少し間を空け、ゆっくりと口を開いた。
「……それは、遊渡があれと一緒にいるからか?」
その言葉に海雫は首を縦にも振らず、横にも降らなかった。ただ少し複雑そうな表情を浮かべた。
「……否定は致しません。ですが、決してそれだけが理由ではありません」
複雑そうな表情はまたすぐに真剣な表情へと切り替わり、一歩前へ強く踏み込んだ。
「わたくしは遊渡様にこんな一方的なやり方はしたくありません。一般的な出会い方をして、一般的なデートを重ね、一般的な告白をして、一般的な結婚の約束をしたい。こんな方法であのお方を捕るなど、こんなやり方であのお方を盗るなど、絶対にしたくありません。わたくしは遊渡様にズルはしたくありません」
真剣な眼差しは今も尚男性に向き、揺れることも逸れることもない。それはまるで、揺るがぬ意志で麗華を愛し続ける遊渡のように。ただ実直に、目線を飛ばした。
「遊渡様に顔向けできないようなことなどできません、恥だと感じることをあのお方にしたくありません、こんなふざけた茶番にこれ以上あのお方を付き合わせたくありません。だからわたくしは結婚をお断りします」
いつもペコペコ頭を下げていた海雫。だが今は違う。頭を下げず、ただ自分の意思を真剣にしっかりと伝えるために目に力を入れ、真っ直ぐと対話相手の目を見た。
男性はただ静かにその目を見返す。揺れることなく向けられる瞳。その奥に宿る意志は決して揺るがぬものであると男性は心の奥底で感じ取った。
男性は目を閉じ、海雫に背を向けた。
「……わかった」
男性の言葉に海雫は嬉しそうに笑みを浮かべた。それから素早く男性に頭を下げ、すぐに頭を上げる。
それから男性に背を向け、扉へと向かう。扉を開き、ただ静かに海雫は部屋を後にした。
男性はため息をつき、窓の外に見える車に目を向けた。
「……ズルはできない、か」
そんな言葉を漏らしながらただ静かに窓の外を眺めていた。
部屋を後にし、家に帰るべく専用の車へと向かう海雫。
車が駐車されている場所へ近づき、専用の車へと歩みを進める。その隣には年寄りの男性がふくよかに笑い、小さくお辞儀をした。
「お久しぶりです、お嬢様。その感じですと、お話の通り、お断りしてきたのですね」
「うん、あいや、えぇ。こんな勝手はよくありませんもの」
「相も変わらず、お嬢様は立派でございますね」
年寄りの男性はそう言いながら後部座席側のドアを開け、海雫に手で促した。
それを確認して海雫は車へ乗り、荷物を隣に置いた。
年寄りの男性はドアを優しく閉め、運転席へと移動し、車へと乗り込む。車にエンジンをかけ、年寄りの男性はバックミラーで海雫を見て微笑んだ。
「それではお嬢様、発進致します」
年寄りの男性がアクセルを踏む。静かなエンジンはゆったりと、それでもスピードよく車を走らせる。
しばらくして豪邸の敷地から出て車は程よいスピードで道路を進む。
そんな中、年寄りの男性が海雫に向かって優しく声をかけた。
「お嬢様、もう我慢しなくても良いのですよ」
「……やっぱり、爺や隠し事は、出来ないみたいね」
海雫は笑みを浮かべてそう口にする。その瞬間、目から1粒の雫が頬を伝う。それを引き金に、雫は目からドッと溢れ出し、海雫はその雫を止めることなく流し続けた。
「お嬢様、今日のお夕食はお嬢様の好物であるシチューに致しましょうか」
その言葉に海雫は頷き、震えた声で答えた。
「……えぇ、お願い、爺や」
窓の外を眺めていた海雫だったが、遂には両手で顔を覆い、声を出して泣き始めた。
年寄りの男性、爺やはそれに全く触れず、静かに車を運転し続けた。
多分これか次で脱線は終わりです
長らく脱線しましたが、〈フィーニス・ウィア〉へと戻ります




