不吉な予兆 その①
◆◇◆◇◆
朦朧とする意識の中、メアリの脳裏に浮かんでいたのはパーティに現れた少女―――アレサンドラの青い瞳だった。
なぜだろうか、とメアリは自問する。
仮にも自分の婚約者であるロービスを誑かそうとする少女に対する反感?
いや――違う。
メアリにとって気掛かりなのは、アレサンドラの眼差しの中に時折混じっていた――獲物を品定めするかのような狡猾さだった。
あの眼の奥になにか謀略を抱えているような、そんな予感があった。
ただの勘違い、あるいは思い過ごしであればいいが――。
「行け、突撃せよ!」
「……!」
遠方から聞こえてくる兵士たちの怒号により、メアリの意識は戦場へと引き戻された。
ここはシュヴァルツェ王国陣営の本陣。
横には悠々とした態度で戦況を眺めるロービスの姿もある。
戦場へ戻ってきたのはつい昨日のことだった。
パーティが終わってすぐ、まだ日も登らないうちに王都を出発したのだった。
ヤークト帝国との国境付近で、攻め滅ぼしたはずの諸国の残党たちが一斉に反乱を起こしたという情報が入り、早急に前線へ向かう必要があったのだ。
「メアリ、敵が釘付けになっている今が好機だ。南方に配置した部隊を動かし挟撃する。そちらにも魔法を使え」
反乱は大規模だった。
ロービスは兵力を分散させ対処にあたっていたが、敵の決死の勢いに押され、未だ決定機を見いだせずにいた。
それゆえ、メアリはいたずらに魔力を浪費させることになっていた。
いくらメアリが無尽蔵の魔力を持っているとはいえ、複数の目標に対し一度に補助魔法を発動するという行為は負担が大きすぎた。
おそらく今まで、メアリほど大規模に補助魔法を発動した者はいないだろう。
ロービスの命令通りに補助魔法を使おうとして、メアリは鼻腔の奥から生暖かいものが零れてくるのを感じた。
鼻血だった。
同時に激しい眩暈に襲われ、メアリは思わず声を上げていた。
「む―――無理です」
「何?」
「これ以上、魔法の範囲を広げるのは無理です……」
直後、頬に激しい痛みを覚え、メアリは地面に倒れこんだ。
ロービスに殴られたのだ。
倒れるメアリを見下ろしながらロービスは言う。
「私は『できるか?』と尋ねたのではない。『やれ』と命令したのだ」
「わかっています。ですが、もう……」
「お前と婚約したのは何のためだと思っている? 先日もお前のような醜い女をパーティへ連れて行ってやったばかりだろう。多少の恩は返してもらわねば困る。この戦場が唯一、お前が私の隣に立つに値する場なのだぞ。何より、前線で戦う兵士は命を懸けているのだ。甘えたことを言うな」
「……分かりました」
食い下がることを諦め、メアリは鼻血を拭い立ち上がった。
度重なる戦いでの消耗が回復していない中で、さらに無理を重ねる覚悟を決めた。
そうだ、私の居場所は、私の存在価値は、ここにしかないのだから──と。
それに―――今ここで死んでしまっても構わないのだ。
誰も悲しむ者はいない。
むしろそちらの方が―――幸せかもしれない。
メアリは口の中で補助魔法の呪文を唱えた。
「エディアカラ──シルル──ネクトカリス」
ロービスは不機嫌そうに鼻を鳴らし、部下に命令を下す。
「予定より少々遅れたが、作戦は続行中だ。南方の部隊に進軍の命令を出せ」
「はっ!」
続けてロービスは近衛兵にいくつか命令を出したが、メアリの耳には届いていなかった。
視界が霞んでいく中、メアリはただひたすら補助魔法を維持し続けた。
どのくらいそうしていただろうか。
「ハァ……ハァ……」
メアリの額から流れる汗が頬を伝い――足元の乾いた土を濡らしていく。
その身体は既に限界を迎えていた。
身体だけではない。
もはやその精神さえも、限界だったのかもしれない
メアリはもう何も感じなかった。
灼いた鉄の棒を押し当てられているかのような激しい頭痛も、引きちぎれるような全身の痛みも、心を蝕む絶望も、何も。
不意に母の声が聞こえた気がした。
それを合図にしたかのように、メアリは膝から崩れ落ちた。
「……もう少しでヤークト帝国に攻め入ることができるという時に……情けない女め」
倒れた彼女に触れようともしないロービスの代わりに、近衛兵がメアリの元へ駆け寄る。
「どうされますか。気を失われているだけのようですが」
「もういい、後方に下がらせろ。どちらにせよヤークト帝国への侵攻は延期せねばならん。予想外に規模の大きい反乱だった」
「作戦はどうされますか? メアリ様がお倒れになったのであれば、一度前線の部隊を退かせて様子を見られますか?」
兵の言葉に、ロービスは前線へ顔を向けた。
「……必要ない。既に敵は崩れている。あとは追撃するだけだ。補助魔法がなくとも反乱は根絶やしに出来よう。各部隊へは動揺するな、任務を全うしろと伝えろ」
「はっ。では、そのように」
「戦とはお互いに血を流してこそであろう? こんな醜い女の補助が無ければ勝利を収められぬなどということがあってはならぬ。シュヴァルツェの精鋭と、このロービスの指揮こそが我が軍の勝因なのだからな。フッフッフ」
優勢である自軍の戦いを眺めながら、ロービスは勝ち誇ったように笑う。
しかし、メアリを抱えた近衛兵が傍を離れて数十分が経過した後、順調だった戦局が揺らぎ始めた。
前線での犠牲者が増え始めたのだ。
次回の更新は16:00頃です!
お楽しみに!