婚約破棄 その②
◆◇◆◇◆
メアリは馬車に揺られていた。
ある種の自由を感じていた。
もう戦場に戻る必要はない。
身体を酷使して補助魔法を使う必要はないし、ことあるごとに罵倒される必要もないのだ。
生まれ育ったあの屋敷に戻り、穏やかに暮らそう―――メアリはそう考えていた。
メアリはささやかな希望とともに、停車した馬車から降りた。
そして、見た。
かつてドリッシュ家の小さな屋敷があったはずの場所が、完全な更地になっているのを。
「……嘘」
目の前の光景が信じられず、メアリは土と小石が散らばる更地を歩き回った。
その片隅に、石で作られた何かが転がっているのを見つけた。
駆け寄り、それに触れ、ようやく気付く。
その表面に、母の名前が刻まれているのを。
石造りのそれは、母の墓標の一部だったものなのだ。
全身から力が抜け、メアリはその場に座り込んだ。
もう涙も出てこなかった。
自分の居場所はどこにもないのだ。
「……こんなところで何をされているのです?」
顔を上げると、制服を着た役人がこちらを見下ろしていた。
「ここに……立っていた家はどうなったんですか?」
メアリが尋ねると、役人は世間話をするように答えた。
「ああ、家主が死亡したって届け出があっていた物件なんですよ。今度この辺りに兵士の訓練場が作られることが決まりましてね、それで、家主もいないから取り壊しってことになったんです」
「そう……ですか」
「取り壊しに反対していた老人がいたんですけど、その人も亡くなったみたいで、ようやく取り壊せたんです。軍部の方から土地の用意はまだかって圧力がすごくて大変だったんですよね。いや、一安心です」
「…………」
何も言わないメアリを見て、役人は眉を顰める。
「まさか、この屋敷の関係者の方ですか? 今更権利を主張されても困りますよ。既に手続きは終わってるんです。文句なら軍部に言ってくださいね」
「……軍部、ですか」
ロービスの顔がメアリの頭にチラついた。
それからどうしたのか、メアリは自分でもよく覚えていない。
気が付けば彼女は、重たい鞄を抱えたまま国境の周辺を当てもなく歩いていた。
照りつける太陽がメアリの体力を奪っていく。
質素なドレスの袖で額を拭いながら、それでもメアリは足を止めなかった。
止まってしまうと、自分の身に起こったことを思い出してしまうからだ。
嫌な思い出を振り払うように、メアリは歩き続けた。
しかし、荒れた地面に躓いて地面に倒れこんだとき、ついにメアリの心は折れた。
辺り一面、建物が何もない荒原だった。
不意に、今まで忘れていた疲労が一度に襲ってきた。
もはやメアリに再び立ち上がるだけの力は残っていなかった。
メアリはゆっくり目を瞑った。
自分に婚約破棄を言い渡した時のロービスの表情や、更地になった屋敷の跡が脳裏に浮かんだ。
地面に体を預けるようにして、メアリはついに動けなくなった。
このまま眠って、そして死ぬのならば悪くない―――メアリはそんなことを考えた。
不意に、遠くからこちらに近づいてくる音が聞こえた。
馬の足音だ。
男性の声がする。
「……一体どうしたのですか、お嬢さん」
その言葉が聞こえたのを最後に、メアリの意識は途絶えた。
◆◇◆◇◆
目を覚ますと、メアリはやわらかいベッドの上に居た。
「……?」
身体を起こし、周囲を見渡す。
どうやら寝かされていたのはゲストルームのようで、室内には高級感ある机や椅子が置かれ、広い窓からは爽やかな風が吹き込んでいた。
いつの間にか清潔な寝間着に着がえさせられていて、あれだけ重たかった身体も幾分か軽くなっていた。
と、そのとき、部屋のドアが開き、世話係らしい老婆が部屋に入って来た。
老婆はメアリが起きていることに気付くと、人の良さそうな笑みを浮かべてベッドへ歩み寄って来た。
「お目覚めですか、お嬢様」
「は、はい……。ええと、ここはどこなんですか?」
「ノッドカーヌ国王、ピンファ・ノッドカーヌ様の王宮でございます」
「ノッドカーヌ王国……」
聞き覚えがあった。
シュヴァルツェ王国の隣国で、豊富な資源の貿易によって独立を守っている小国の名だ。
「失礼ながら、お召し物はわたくしが替えさせていただきました。着てあったお召し物とお荷物はそちらに」
老婆が部屋の隅へ顔を向ける。
そこには確かにメアリの荷物と、畳まれた質素なドレスが置かれていた。
「あ、ありがとう、ございます……」
メアリが言うと、老婆は目尻の皺を深くして笑顔を浮かべた。
「とんでもございません。ゆっくりお休みください」
「―――目を覚まされたのか!? ご無事か!?」
老婆の言葉を遮るように部屋へ飛び込んで来たのは、浅黒い肌の快活そうな男性だった。
「ピンファ様! 女性のお部屋ですよ!」
老婆にきつく言われ、男性はバツが悪そうに頭を掻いた。
「す、すまない、婆や。しかし目が覚めたようで安心しました。ではまた!」
そう言って部屋を出ようとする男性を、メアリは思わず呼び止めていた。
「お待ちください! あなたが私を助けて下さった、ピンファ様ですか?」
「あ――ああ、ええ、そうです。私がピンファ・ノッドカーヌ。あなたは……失礼を承知で申し上げるが、シュヴァルツェ王国将軍の婚約者、メアリ様ではありませんか?」
いきなり名前を呼ばれ、メアリは動揺した。
「そ、そうですが、なぜご存じなのですか?」
「隣国の国王としてシュヴァルツェ王国は何度も訪れているのです。そのときに、遠目からではありますが貴方様をお見かけしたことがありましてね。ほら、先日の戦勝パーティのときも」
言われてようやく思い出す。
確かにあのとき、この男性を見た覚えがある。
「……はい、覚えております」
「本当ですか! うれしいなあ。しかし将軍の婚約者ともあろう方が、どうしてあのような辺境でお倒れになっていたのです?」
メアリは答えるのを少しだけ躊躇った。しかし、ピンファの裏表のなさそうな顔を見て、すべてを語る決意をした。
「私はもう、将軍の婚約者ではないのです」