プロローグ
闇に包まれる森の木々の間を、男―カルカは全力で駆ける。もっとも、夜の森になど好んで入りたくはない。
だが、標的がそこに逃げた以上はカルカもそれを追うしかなかった。
カルカは長く伸びた下生えに埋め尽くされた地面を掻き分けながら進みつつ、雇い主から聞いた標的に関する情報を思い出す。
曰く、それは姿を変える。
曰く、それは魔法を使う。
曰く、それは極めて強い。
曰く、それは人間である。
そしてこれを殺してほしい、と。
それを聞いたとき、カルカも最初は戸惑った。なんだそれは、と。長年傭兵をやってきたカルカでさえ、そんな訳の分からない依頼をされたのは初めてだ。とはいえ、大金貨100枚という異常に高額な報酬金を提示されれば、それを断る手はなかった。
もしそんな金があれば、50年は遊んで暮らしていける。今年35になるカルカからしたら、ほとんど一生遊べるようなものだ。その輝かしい未来に目がくらまなかったと言えば噓になるだろう。しかしカルカは今、その選択が間違っていたことを痛感していた。
―標的は想像以上に強かった。
カルカは20年以上戦闘経験を積んだ熟練の傭兵だ。それこそ、そこら辺の若者冒険者グループを複数雇うよりは、カルカ一人を雇った方が費用対効果が良いほどだ。
そんなカルカは、今までの傭兵生活で分かったことがある。
戦いを知っている者とそうでない者とでは、危険度を測るものさしが異なるのだ。
そして今回の雇い主は戦闘経験者ではない。今までもそういった人物からの依頼を受けてきたが、彼らの言う依頼の難易度は、カルカからしてみれば誇張されていると言わざるを得なかった。
だからこそ、今回も結局何とかなるだろうと思っていた。
だがそれは大きな間違いだった。
雇い主の言っていたことは全て正しかったのだ。熟練の傭兵たるカルカからしてもそれは明らかだった。
ここに来るまで、実際に戦ってみて分かった。標的のポテンシャルは非常に高い。結果、標的が森に逃げることを許してしまったわけだ。
上手く立ち回れなかった過去の自分に心の中で悪態をつきつつ、カルカは前方を走る標的を見据える。
といっても、その姿を明確にとらえているわけではない。理由は一つ。
標的は、腰の高さまで伸びている草々に身を隠しながら進んでいるのだ。
背をかがめて走っているのか。はたまたしゃがみながら走っているのか。真実は分からないが、もし後者だった場合はむしろその脚力に感心するほかない。
いずれにせよ、どこに隠れているのかが分からなければ何も始まらないのだが、如何にしてそれを見つけるのか。
答えは単純だ。
ガサガサと草が動いている場所を探せばいい。標的が通った所は必ず草同士がぶつかり合い、音が鳴る。そして何かが草を分けていくような不自然な動きも生まれる。そういった所を探せば、標的の隠れ進んでいる位置など特定できるのだ。もちろん、その正体は標的ではなく何か別の動物かもしれない。だがカルカは標的が草むらに入ったその瞬間からその姿を追っていたので、別のものと見間違えるということはまず起こり得ない。
カルカは視線を動く草影一点に集中させつつ、左手で背に携えていた弓を取る。ここまで、カルカの剣撃は全ていなされてしまっているが、飛び道具による攻撃はまだ行っていない。もしかしたら当たるのでは、という淡い期待による攻撃だ。
カルカは残る右手で矢筒から一本の矢を取り出す。これはただの矢ではない。大型の魔獣でさえ、食らえば少しの間動けなくなるような神経毒の塗られた毒矢だ。人間が食らえば確実に死ぬ。
カルカは左足を前に出して急ブレーキをかけつつ、弓を構え矢をつがえる。一方、標的は逃げる足を止めない。ここで矢を外せば逃げ切られてしまうかもしれない。だが、当たれば勝利は決定的なものとなる。
ちなみに、雇い主からは失敗したら殺すなどと言われているので失敗は許されない。
とんだ大博打だが、やると決めてしまった以上はやるしかない。
カルカは深呼吸をして呼吸を整え、目を細めて狙いを絞る。そして使うことのできる数少ない魔法のうちの一つを使う。
「風より速く」
毒矢が青白く輝きだした。強化魔法の発現を確認したカルカは、毒矢を全力で引き絞り―放つ。
(頼む、当たってくれ…!)
超速の矢は白い軌跡を残しながら一直線に飛んでいき―標的に直撃した。直後、悲鳴が森中に響き渡った。
「よし! やったか!!」
カルカは喜びのあまり思わず声を上げる。それもそのはず、姿を見せていない相手に、計算と予測から矢を命中させたのだから。
前方では放った矢が何かに刺さった形で草の先から姿を現している。何に刺さっているかといえば、それはもちろん、標的にだ。
カルカは勝利を確信し、薄ら笑いを浮かべながら標的の元へと近づく。ゆったりとした足取りで、それでいて力強く、勝利を一歩一歩噛みしめながら進む。
(やはり剣よりも速い矢までは防げなかったか。最初は焦ったが、結局この程度か。)
矢が刺さる所に着いた。しかし標的が襲ってくる様子はない。それもそのはず、あの毒を体内に取り込んだのだ。反撃する気力はおろか、呼吸する力すら残っていまい。
死んでいるに決まっている。
それを確認しようとカルカは草を掻き分け—異常事態に直面する。
矢が浮かんでいるのだ。
浮かぶといっても、フワフワと空中に留まっているのではない。目に見えない何かに突き刺さっているかのように、斜めの角度で空中に制止しているのだ。
その空間だけ時が止まっているかのような現実離れした光景に、カルカ目を見開く。
(…どういうことだ?)
理解が追い付かない。
確かにカルカの矢は命中したはずだ。標的の悲鳴も聞こえた。である以上、毒の作用で標的はその場で倒れているはずだ。いや、そうでなくてはならない。
しかし現実は非情だ。そこに標的の姿はなく、あるのは空中の矢のみ。
ますます訳が分からない、と混乱していくカルカの目に、あるものが映った。
血だ。
よく見ると、矢先に血がついている。やはり矢は当たっていたのだ。となると、余計に標的がこの場にいない理由が分からなくなってくるが、それは一旦割り切る。今はどこかに逃げた標的を見つけるのが最優先だ。手負いである以上、そう遠くに逃げられるはずもない。だがここは長く伸びた草に埋め尽くされている。その場に留まって隠れられると、近くにいるとはいえ探すのは一苦労だ。
「ちっ、面倒くせぇ真似しやがって。」
カルカはぶつぶつと文句を言いながら剣を抜く。そして草に向かって剣を振った。
この場合、手当たり次第に草を斬り飛ばしながら標的を探すのが一番手っ取り早い。カルカはどんどん斬り進めていく。
剣を振り始めて少ししたときだった。カルカの背に、ぞくりと悪寒が走る。同時に、肌もピリピリとした痛みに襲われた。この感じをカルカは知っている。
殺気だ。
明らかな、そして力強い殺気をカルカは向けられている。
カルカは剣を正面で構え直し、周囲を見渡す。
しかし、標的の姿は見つからない。
若干の焦りを感じ始めたとき―
「さっきはよくもやってくたじゃないか。絶対に殺す。」
そんな声がいきなり聞こえてきた。上だ。声はカルカより上から聞こえてくる。つまり標的はどうやってか木の上に移動したわけだ。通りで草むらを探しても見つかるはずもない。
カルカは木の上を探し―発見した。標的だ。少し距離があるのではっきりは分からないが、状況からして合っているはずだ。
「おー、怖い怖い。でもよ、そこにいたら攻撃できねえだろ? 降りて来いよ。」
数秒後、機嫌の悪そうな返事が返ってくる。
「……ふん、良いだろう。乗ってやる。」
標的はそう言うと、身軽に木から飛び降りた。そしてカルカの方へと近づいてきて―
(…!? どういうことだ?)
カルカは驚愕する。標的の姿が先ほどまでのと違うのだ。森に入る直前の、白いローブを纏った白髪の若い男の面影は何一つとして残っていない。黒いローブに灰色の髪、禍々しい模様の仮面、そして大きな鎌。そんなものを身に着けた男が目の前に立っていた。
どう考えても別人だ。だが―。
カルカは恐る恐る、一つの質問を投げかける。
「…お前、さっき俺の矢を食らったよな?」
「ああ。あれは不覚だった。貴様にあんな芸当が出来たとはな。」
(やはり、か。……そういえば雇い主も“姿を変える”とか言ってたしな。だが、あれはどう見てもヤバいだろ…。)
姿が変わっていることについては、そういうものなんだ、ということにしておいた。それは別として、何よりもその鎌に目がいってしまう。上手く扱うには不便そうな長い柄に、自分まで切ってしまいそうな大きな三日月型の刃。そしてその刃はどう考えても放ってはいけなそうな赤黒いオーラを、バチバチと放っている。
絶対に当たってはいけない。直感がそう言ってくる。
カルカは恐怖を隠すように笑顔を取り繕いながら、剣を構え直して標的と距離をとる。
その様子を見てか、標的は無駄に大きい声で話してきた。
「やる気か? かかって来るがよい。返り討ちにしてやろう。」
「言ってろ。その口、二度と聞けなくしてやる!」
カルカも威勢よく言葉を返すが、実際のところ、少し焦っていた。
ここに至るまで、標的とは何度か剣を交わしている。一撃こそ入れられていないが、剣戟から標的の剣はある程度見切ることができたのだ。だが、ここにきて標的は武器を変えた。剣から鎌だ。今まで見てきたものなどほとんど意味を成さない。一方カルカは同じ剣を使ったまま。
相手にだけ自分の情報を知られているこの状況。控えめに言ってもピンチだ。
だがもう、後には引けない。
カルカは覚悟を決める。
「行くぞ!」
雄叫びを上げながら突撃する。一方、標的は何もせずに立っているままだ。あっという間に距離は詰まり、カルカの剣が振り上げられる。肩を狙った上段からの一撃だ。
その瞬間ですら標的は何もしない。避けもせず、鎌で防ぐこともせず…。
その態度にカルカはおぞましささえ感じるが、その思いを払拭するように全力で剣を振り下ろし―弾かれる。
(なに!?)
おかしい。今の攻撃は鎌で弾かれたのではない。鎌の刃は、最初から地面の方にある。では、何に弾かれたのか。
肩に弾かれたのだ。
標的は鎧を身に着けていない。つまり、これは標的の肉体自体が異常な硬度を持っていることを意味する。
正直信じられないが、攻撃の手を緩めることはできない。攻撃が通るところもあるはずだ。
カルカは弾かれた反動をそのまま利用し、横腹に向けて剣を走らせる。
標的は棒立ちのまま。
何にも邪魔されることなくカルカの剣は横腹に斬りつけられ―弾かれる。
脚に―弾かれる。腕に―弾かれる。首に―弾かれる。
「どうだ、分かっただろう? お前の攻撃など、私には効かぬのだよ。」
「な、ならよ、なんでさっきは俺と剣を交わしたんだ?」
「何を言う。あれはただの準備運動だ。いかに私といえど、いきなり体を動かすのは良くないからな。」
「準備、運動……。」
カルカはその言葉を反芻しながら、ふぅっ、とため息を吐いた。
見当違いも甚だしい。一度でもこれに勝てると思ってしまったのが間違いだったのだ。一体全体、この硬さは何だというのか。どこを斬っても弾かれる。皮膚が露になっている首ですら剣が通らない始末だ。
こんな意味不明な存在に、どのようにして攻撃を通せばいいのだろうか。先程のように矢を撃つ余裕はない。
——目の前の男は、殺せない。
カルカはおとなしく剣をおろした。
「降参か? 先程までの威勢はどうした?」
「……俺の負けだ。」
「ふん。まあ最初から決まっていたことだ。すぐに殺してやる。」
微動だにしなかった標的が、今になってようやく動き出した。鎌の切っ先をカルカに向け、一歩一歩近づいてくる。カルカはそれを見て確信した。
俺は死ぬのか、と。
だがこれは理不尽な死ではない。自分の選択次第で回避できた死だ。
もしこの依頼を受けていなければ、カルカの死はまだ訪れなかったかもしれない。
もし雇い主から標的の情報をもっと聞き出せていたならば、状況は変わっていたかもしれない。
しかし、こういった選択をしなかったのは他ならぬカルカ自身。他者を恨むのは筋違いだ。ならば潔く自分の死は認めなければならない。
標的がカルカの元へ着く。
「油断したとはいえ、私に一撃入れたのだ。最後に言い残す言葉くらい聞いてやる。」
「…しがない傭兵に、言い残すことなんかねえよ。」
「そうか。なら、死ね。」
赤黒いオーラを纏った鎌は振り上げられ、一つの命を刈り取った。
初めまして。読んでいただきありがとうございます。パソコンでの投稿ですので、スマホの方は少し読みづらいかもしれません。今後はスマホでの投稿に変わるかもしれません。
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