9 【三日前】思い知る現実
一人になって静寂を味わっていると、耳が鋭敏になる。
外から近づいてくる足音に、フェリータはショールを被って柱の陰に潜んだ。
ほどなくして、木の扉が開かれる。
入ってきた足音は二人分。外の光でちらりと暗い色の仮面が見えて、グィードがフランチェスカを連れて自分を探しているのかと思ったが、もう片方の人影が見覚えのない蝶の羽を模した仮面をつけていたので他人だと気が付いた。
きっと観光客だ、最後まで運河に張り付いていればいいのにと、母直伝の舌打ちが出かけて。
「どういうことだオルテンシア」
むせかけ、こらえ、息ができなくて死にかけた。
(お、オルテンシア様と、ロレンツィオ!?)
「どういうことって何かしら」
動揺するフェリータに気が付かず、二人はそれぞれ仮面を外した。優雅な手つきの女とは裏腹に、男はいささか乱暴に濃紺の仮面を剥ぎ取った。
「祖父の魔術師認定が覆るかもしれないって聞いた。あの人の魔術は生贄術だって、本気で思っているのか? バディーノ家はそんな人間を庇護し支援していたと認めるのか!?」
「大きな声を出さないでロレンツィオ。そんなこと、このオルテンシアが知るわけないでしょう」
何か揉めているらしい。ロレンツィオの声からは押し殺した怒りがにじみ出ていたが、対するオルテンシアは飄々としていた。
バディーノ家は、王妃の実家だ。
「バディーノ家のことはおじい様の管轄だし、魔術師認定は十人委員会の管轄。どちらでもない一王女に、一体なんて言ってほしいの?」
「話が違うと言ってる。リカルドを呼び出して、王太子を説得したのは爵位を俺の代で必ず与えるって話だったからなんだが? 授爵の条件は、最低三代に渡ってある程度力のある魔術師が国に貢献していること。なんで今さら、このタイミングで故人の魔術師認定に疑義がかかってる」
「さあ、あたくしには何とも。だいたい疑う矛先は本当にあたくしでよくって? カヴァリエリの栄達を阻止したがっている人間なら、この都には掃いて捨てるほどいるじゃない」
「……ぺルラ伯爵の差し金か」
フェリータは身を固くした。
彼らがほとんど奥に来ないのを神の助けだと思い、柱にぴったりくっついて、自分は木材だと己に言い聞かせた。
「娘の件、ずいぶんあっさり引き下がったと思ったら。ヴィットリオ様と取引したな」
「そうね。もしくは、伯爵に恨まれたくないエルロマーニ公爵がお兄様に働きかけたかもしれない。お兄様だってぺルラ伯爵に恨まれたくないでしょうし」
思いもかけない言葉だった。
確かに父はロレンツィオを目の敵にしていたが、だからといってそんなことがまかり通るのか?
――そんなことが、自分に黙って通されたのか。
「でもロレンツィオ」続いた王女の声は、相変わらず落ち着き払っていた。
「後ろ暗いところがないなら心配する必要もないでしょう。一時保留されたって、最終的に条件が整えば爵位は与えられるし、もしあなたの代がだめでも、その子どもが優秀な魔術師になれば目的は果たされるのだから。逆に、あなた以降三代に渡って魔術師が生まれなければ、せっかくの爵位も返上しなくちゃいけないのだし」
「……海の件で口利きしてもらった礼も兼ねて頼みを聞けば、かえって大損か。リカルドを呼び出してヴィットリオ様を説得してと、身を粉にして働いたらこの様だ」
「身を粉に? リカルドは学院の後輩でしょ、懐かれてたみたいだし、呼び出すのに苦労なんてしてないくせに」
「別に懐かれてない。無駄な嫉妬をするな」
「するわ、不愉快だもの。だいたい、お兄様を説得したのもずいぶん雑だった。あたくしの離婚とその後の態度に貞淑さが見られないと、あの大司教が教皇様に告げ口したですって? それで教会が睨んできてるから、さっさと有力貴族と再婚させろなんて、ひどい言いよう。宣戦布告かと思ったわ」
「自分の態度を省みろ、俺は事実しか言ってない。大司教がグィナに手紙を出した情報は王家にも伝わってたみたいだし、何より効果てきめんだったじゃないか。ヴィットリオ様もさすがにあなたのせいでグィナまで行かされたのが堪えたんだろうな」
「ええそうね、でも仕方ないでしょう。はるばる海を渡って事情説明に来たのがあなたのような一介の騎士じゃ、教皇様も納得してくれないだろうから」
地獄のような口論は止む気配がない。神父が来たらどうしよう。
可能な限り縮こまっていたフェリータだが、運悪く体に巻き付けていたショールがずり落ちそうになっていた。
仕方なく、細心の注意を払って布を手繰り寄せた。
「心配なら、あなたも早く身を固めなさい。優秀な跡取りがあたくしよりもよほど必要みたいだもの。……でも、少し意外。あなたそんなに地位に固執する人間だった?」
「うるさい、関係ないだろう」
幸い、ショールは彼らの視界に入らなかったようだ。安堵して、首から肩にかけて羽織り直す。
と。
「……まて、今、なにか」
ロレンツィオの険しい声が、絶望となってフェリータを襲った。
だがそのとき、教会の扉が再び開いた。外から響いてきた声は天からの助けであると同時に、フェリータにとってずっと聞き慣れたものだった。
「ここにいたのですか、殿下、ロレンツィオ。じきに閉会式の時間です」
リカルドに促され、王女はさっさと外に出た。
「ロレンツィオも。遅れるとまずい」
「ああ、わかってる。……なあ、なんか匂わないか」
「乳香だね、嫌い?」
「いや、それじゃなくて」
「窓の近くの木が花をつけてるからそれでしょ。それがどうかした?」
ロレンツィオが「いや、何でも」と言いながら、出ていく足音が聞こえた。
扉の閉じる音がした一拍後、フェリータはようやく息を吐き、柱から離れることができた。
――助かった。
と思ったのに、閉じた扉の前にたたずむ男と目が合って思いっきり飛び上がってしまった。
「リ、リ、リカルド、どうしてっ」
「香り、暑い季節は量を調節して。あの人感覚が鋭いからすぐバレるよ」
苦笑いして、男は自分の首を指さした。香水か。そんなに濃く付けたつもりはなかったのに。
「どうしたの、こんなところに一人で。開幕の魔術演技で疲れた?」
「あ、大丈夫ですわ、ええ、その」
気遣うような眼差しに思わず手を横に振ると、リカルドは微笑んで教会を出ようとした。本当に香りのことを忠告するためだけに残ったらしい。
その背を前に、フェリータはハッとした。
(……今が、チャンスかもしれない)
王太子は説得された。父は策を巡らせて取引した。
ではリカルドは、どうしてこの婚約を承知したのか。どうしてフェリータを捨てたのか。
あの日から謎のまま、答えをもらう機会を得られなかった問いを胸に、フェリータは「ねぇ!」と声をかけた。
「リカ――」
「リカルド、どうかして?」
前触れもなく扉を開いて顔を突っ込んできたのはよりにもよってオルテンシアだった。咄嗟に、フェリータは弾かれた小石のように並ぶベンチの隙間に身を滑り込ませ身を隠した。
「いいえ、なんでもありませんよ」
腹這いになって息をひそめていると、リカルドが何ごともなかったように嘘を吐く。
ホッとして、このままオルテンシアをやり過ごそうとヒヤヒヤするフェリータの耳に、扉が閉まる音が聞こえた。
そのまま、三人分の足音が遠ざかる。
三人分、だ。
静寂が戻った教会で、フェリータはひとり、床に手をついて起き上がった。
その目に並々ならぬ決意を宿して。




