蜜月を阻むもの 前
R15方面な小ネタです。
(ただしR15と言うにはぬるいです)
王宮を背に船着き場に出たフェリータは、背筋を駆け抜ける冷気に身震いした。
季節が進んでいる。空は遠く、日差しに力もない。
パトロールで運河に漕ぎ出す同僚たちは年もあって、防寒対策に余念がないようだ。
先に乗ったグィードがゴンドラから差し出す手を取る直前、フェリータもケープの襟を立てて、「では、わたくしもいきますわね」と、後ろを振り返った。
「あなたは今日、陛下のおそばに付くのでしょう」
「ああ、王宮はあったかくて何よりだよ」
そう言うと、夫は青い目を得意そうに細めて小柄なフェリータの顔を見下ろした。
「軟弱ね。わざわざ見送りに来なくてもよろしいのに」
「寒い中、鼻も頬も真っ赤にして震えながら外に行く苺ちゃんを見てからだと、当番を割り振った殿下への忠誠心が増すもので」
フェリータは顔をしかめたが、無駄話をしていていい状況でもない。尖ったつま先で脛を小突くに留める。
「足癖悪いな」
「持ち場を離れている身で偉そうに。……今日はこのまま宿直でしたかしら」
「ああ、会うのは明日の御前会議だ」
頷いて、ロレンツィオは低い位置にある妻の顔を覗き込むように顔を寄せ。
「気をつけろよ」
そう囁いて、妻の頬に軽く口づけ、白い手袋に覆われた小さな手を取ってオレンジ色の火の玉を握らせた。皮膚を焼きもせず、心地よい暖気を周囲に伝える暖かな炎だ。
「……だ、黙って優しくできないのかしらっ、子どもっぽい人!」
男はすぐに姿勢を正し、いけしゃあしゃあと手を振っている。フェリータは悪態をつきながら、寒さとは異なる理由で頬を赤らめて、ゴンドラに乗り込んだ。
「……会えるのは、明日の朝ですのね」
手の中の温もりを撫でながらの独り言が、冷たい運河に沈んでいく。
*
翌日も、フェリータはゴンドラを待つ列の最後尾に立っていた。
「今日はそっちが宿直か」
話しかけるロレンツィオは、不寝番を終えて家路につくところだ。
「ええ」
フェリータは背伸びして腕を伸ばし、男の襟を引っ張った。下りてきた相手の顔の、乾いた頬と、冷たくなった鼻先に軽く口づけてやる。
「ご苦労様。帰ってよくおやすみになっ――」
離れようとしたときに顎を取られて、今度は向こうから口づけられる。照れながら離れかけたフェリータの背中を、ロレンツィオの空いた腕が抱き寄せた。
「こら、きりがありませんでしょ。あなたは退勤済みでも、わたくしはこれからが本番なの」
「わかってる。居眠りすんなよ」
指先が顎を撫でて、背中の腕が名残惜しげに離れていく。
「じゃあまた、明日の朝にな」
*
眠いのを圧して急ぎ帰宅すれば、早足で向かってくるロレンツィオと玄関で鉢合わせした。
「ただい……、あら、お出かけ?」
執事のパウロから外套を受け取る姿を見て問いかける。ロレンツィオは腕にそれをかけたまま、「ああ」と慌ただしげに答えた。
「知り合いの騎士団長から、大聖堂の門前に呪詛の形跡があると連絡が来た。万が一に備えて警備に加わる」
「まぁ、ならわたくしも」
「宿直明けだろ。あんたに二徹は無理だ、呼ばれるまで寝てろ」
フェリータはわずかに目を見開いた。
男の言うことはもっともだった。必要があれば王宮からフェリータ個人へ向けて召集がかかるのだから、それがない限り体を休ませた方がいいというのが道理だ。
だから、言われた内容自体に不満はない。
ないが。
「……夜はもう冷え込むから、暖かくなさいね」
「わかってる」
男が大股でフェリータの横を通り過ぎて行った。
けれど、使用人が開けた扉を通る直前、見送る視線に気がついたように振り返り。
「……じゃあ、明日な」
「……ええ」
*
「あら、ロレンツィオ」
「フェリータ」
屋敷の二階に上がったところで、先に帰ってきていた夫と目があった。
ただいまを言うより早く、手を取られて廊下を早足で歩かされる。たどり着いた寝室には、早くなった西日がカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
「ちょ、ちょっとあなたね、」
意図に抗議しようとした口を塞がれる。舌を絡め取られたまま体を抱え上げられて、一直線に向かった寝台に二人一緒に倒れ込む。
「ダメよ、どきなさい」
押し倒されたフェリータが目元を険しくして見上げると、予想以上に真剣な表情のロレンツィオと目が合った。
「嫌か」
「や、やじゃないけど」
切なげな問いかけに思わずそう答えれば、『よし合意得た』とばかりに男の唇が鎖骨の薄い皮膚に吸い付く。
「ちょっと、だから、やではないけど、でも……あの……」
だんだん力をなくす声と小さな手が、のしかかる男の勝手を阻止しにかかる。
しかし、ロレンツィオはそんな抵抗をものともせず、前身頃についたボタンを素早く外した。あらわになった胸元にフェリータの意識が引っ張られている間に、節くれだった指がスカートをたくし上げようとする。
と。
「……本っ当にダメなんですったら! これから王妃様がお泊まりで温泉に向かわれるから、支度して護衛につくよう言われているの!」
わーっと吐き出された言葉に、男の指が凍りついたように動きを止めた。
「…………気を付けて行ってこいよ」
「………………はい」
立ち上がると、ずり上げられたスカートの裾がぱさりと元の場所に戻った。
*
しばらくして、久しぶりに、二人揃って過ごす夜がきた。
「……さ、寒いわね」
寝台の上、頬を染め、自らにじり寄って来る妻を、ロレンツィオも熱い手のひらで迎えた。
腰を抱き寄せ、鍛え上げた己の体の上に、柔らかな肢体を抱え上げる。フェリータも男の強引さに困ったように眉を寄せ、それでいて何かを待ち焦がれるような顔で見つめる。
相変わらず、ちょっと卑怯な態度を崩さない妻だったが、その夜は夫もそれを指摘しなかった。頬を撫でてやり、薄く開いた苺色の唇へ己のそれを寄せ――。
「総員出動! 複数の場所で呪獣発生!! 宮廷付きは総員出動せよ!!!」
窓を通り抜けて飛び込んできた鳩型使い魔の無機質な声に、二人は一秒見つめあい、次の瞬間には着替えを被って部屋を飛び出していた。
*
「というわけで殿下、少しお時間をいただきとうございます」
「そんな理由で休職するバカがおるかボケ」
言って、ヴィットリオは休職届を折って真ん中にナイフを入れた。
大事な話がある、と言って執務室に入ってきたフェリータから一枚の書状を差し出されたときには本当に肝を冷やしたのだ。もしや嵐の夜の気絶からまだ回復しきっていなかったかと、人払いして理由を問うてみれば。
「ゆゆしき事態だとおわかりになりませんの!? 新婚だというのに、もう何夜一人で寝ているとお思いで!? 一緒に使うはずのベッドが完全に交代で使うベッドになってますのよ、真ん中で寝てもなーんにも支障がない! だって文句言う人なんて屋敷にいないんですもの!!! 新婚なのに!!!!」
「やかましいわ。私に言うな、そんなこと」
「では誰にお聞かせすれば!? 陛下へ!?」
「欲求不満を他人にあけすけに語るなという意味だ!!」
「だって今日も……!」
涙目で食らいついてくる臣下を、王太子が頑然と顎を上げて睨みつける。
その顔に浮かぶ隈を見て、フェリータもはたと落ち着きを取り戻した。閉じた扇を口元に当て、スカートをつまんで腰を折る。
「……申し訳ございません、誰よりもお忙しい殿下に無礼なことを」
痛ましい顔で俯く女に、王太子も息を吐き、声を和らげて「許す」と応じた。
「そなたらの働きは、そのまま国の安寧につながる。一個人で騎士大隊一個隊に匹敵するそなたらは、代えが利かないのだ。“金鯨家”の姫として育ったなら、わかるであろう」
滔々と諭されて、フェリータも両手で扇をいじりながら従順に頷いた。
「もちろん存じております。我々は国の守護者、王家の第一の兵。……そこに私事を挟むことなど許されないということも、心得ております」
目線は床を向いているが、そこに一欠片の反抗心も不満も浮かんでいない。
「……お見苦しいところをお見せしました」
このとき、かつて天敵とやり合って王太子の胃を荒らした烈女の面影はどこにもなかった。
フェリータは肩を落とし、重い足取りで御前を辞した。
静かになった部屋に、続きの間へ出されていた侍従が戻ってくる。
ヴィットリオは机の引き出しから『割り振り表』と記された書類を出し、眉を寄せて紙面に目を走らせたあと、小さく口を開いた。
「……宮廷付き魔術師のアロンソをこれへ」




